https://twitter.com/mkt5126/b  https://twitter.com/mkt5126/c  http://twilog.org/mkt5126      TweetsWind                   TweetsWind                   TweetsWind


2011年11月15日

【FCやPSの黄金期を知る世代が愛してきた「“コンピューターなる道具”のゲーム」の時代】 の死

https://twitter.com/deisyuou/status/135804180358103040
綿井健陽のチクチクPRESS: Twitterまとめ投稿 2011/11/12
http://watai.blog.so-net.ne.jp/2011-11-12

メディアの原発事故現場視察についてのツイッター

https://twitter.com/wataitakeharu/status/131204031082278912
福島第一原発敷地内の報道陣公開、結局また「記者クラブ」オンリーなの?
昨日の政府・東電会見でも何度も質問出ているのに回答・発表しないところが理解できん。抗議しませう。
http://www.asahi.com/national/update/1101/TKY201111010146.html

https://twitter.com/wataitakeharu/status/131250922876715008
福島第一原発敷地内の公開ですが、
こうした場合に「希望者全員」といかないのは十分理解します。
が、これまでの政府・東電会見の場での質問や要請では何も進展・経過を伝えずに、
細野会見の方で急に発表して、しかも選別・枠組みまで決めているということに抗議。
この一回の公開で終わらしたら許さん!

https://twitter.com/wataitakeharu/status/135116689229611008
【1】徹夜明けの今日(12日)は朝から関西方面に移動。
つい半年前までお世話になった方の「お別れ会」や、毎日放送の皆さんと企画打ち合わせ等で2泊3日の予定。
一応気になっているのが、今日(12日)の福島第一原発の公開、
というよりも単に「細野の原発視察の同行取材」というべきかな

https://twitter.com/wataitakeharu/status/135117235575472128
【2】当日福島第一に入るメディアへの通達事項を見ると、何やら制約だらけ。
「核物質防護上、発電所構内及びその際の移動においては、
 スチールカメラ又はテレビカメラの代表カメラ1台のみでの撮影とさせていただきます」
と書いてあるから、当日夕方ごろから出てくる映像や写真は…

https://twitter.com/wataitakeharu/status/135117843095224321
【3】…それぞれ一人の写真カメラマンとテレビカメラマンの撮った
「代表撮影映像・写真」だけということか?
記者は各社それぞれいるとしても、
一人が撮った同じ映像・写真ばかりがテレビ・新聞に並ぶ
というのは考えてみると、奇妙かつ恐ろしい。

https://twitter.com/wataitakeharu/status/135119255032184832
【4】…発電所内を回る時はバスでぐるっと1時間ほど回って降りられないようだし、
後は免震棟の中だけというから、これは事故前の「一般見学」以下かも。
こんな制約の中、実際の現場でメディア側はどれだけ抵抗できるだろうか。
誰か暴れるだろうか?
こっそり抵抗する人が出てくるか?少し期待している

https://twitter.com/KOJIHARADA/status/135126879005966336
どこの社が入るにしても、配信作業は通信社お任せ。
だったら、最初から通信社が入れば良いのだが、、、、。

https://twitter.com/wataitakeharu/status/135137741875843073
今日の代表撮影はA社でしたっけ?

https://twitter.com/wataitakeharu/status/135144223560310785
唐突だが、
「コンプライアンス」なる単語を言う記者・カメラマン・ディレクター・プロデューサーがいたら、
その場でしばき倒せ!張り倒せ!笑い倒せ!

https://twitter.com/wataitakeharu/status/135735000476823552
例の福島第一原発敷地内の「代表撮影写真」が各紙に掲載されてたが、
12日午前11時3分に撮られたこの写真、朝日新聞は自社カメラマンのクレジット。
しかし他紙では(代表撮影)のクレジット。
自社が代表撮影担当だとちょっと得?http://www.asahi.com/special/10005/TKY201111120447.html

https://twitter.com/wataitakeharu/status/135738788461809666
福島第一原発の同じ場所・時間でも、
ペン記者は各社それぞれ違った自筆原稿を発信できるのに、
写真・映像は(代表撮影)は納得いかん。
(代表記事)って、他でも無いし。
映像・写真撮影専用のバス一台増やすぐらいできるでしょ。
撮影は制限ありで、原稿は無しというのも何だかのう。
文字が常に優先か?

https://twitter.com/wataitakeharu/status/135748231358455808
社会にとって重大な問題・事件・事故の写真や映像が、
全て同じもので埋め尽くされることは気持ち悪いものだ。
たとえそれが代表撮影で会っても、あるいは日本的なメディアスクラムであっても。
「バラエティ」とは本来、「多様な、多様性」という意味だが、
日本では「娯楽・お笑い」の方で使われているね
北朝鮮や中国を嘲笑するような国粋主義的民族主義者の如き連中は
 それ以下の日本のマスコミ新聞テレビ大手メディアの根本には 如何なる連中の存在が在るのか?
という観点へは絶対に突っ込まないよねw

宗教右翼カルトと核テロリストとユダヤ米帝シオニスト の関連性を口に出来ないままに
現状の政治状況やフクシマ核テロ事件やTPP などなどを語るのは説得力に欠けるよねw

マスコミ新聞テレビ大手メディアからの情報だけを得ていても
自分は馬鹿ではないので嘘デマ扇動を見抜けるし 物事を透徹して洞察する事が出来る、
とか そういう生き方で生き延びてきたという成功体験に溺れる者達
 と
Yahoo! JAPAN や 個人とされるニュースサイトなどなどを見届け続けていて
自分は馬鹿ではないので嘘デマ扇動を見抜けるし 物事を透徹して洞察する事が出来る、
とか そういう生き方で生き延びてきたという成功体験に溺れる者達
 と
深遠な真理に通じる宗教的教義に深く通じているし
自分は馬鹿ではないので嘘デマ扇動を見抜けるし 物事を透徹して洞察する事が出来る、
とか そういう生き方で生き延びてきたという成功体験に溺れるカルト信者な者達
は 何処に違いがあるのだろう?



https://twitter.com/youarescrewed/status/136108597187854337
中川をはめたぜーリック率いる世界銀行の国際投資紛争仲裁センターで、
1回だけ密室審理。
異議は唱えられない。
恣意的に進められるのは目に見えている。
国内法より優位。無茶苦茶だ。
RT @fjswkts #TPP に参加すれば、他国を訴えることができるのでしょうか?

https://twitter.com/japan2020/status/136082949123751936
野田首相がAPECに飛び立つ前日の国会にて佐藤ゆかり議員からISD条項の質問に対し、
野田首相はISD条項を知らなかった事が話題です。
ISD条項でTPP推進派は日本も訴える事が出来るとは鼻息荒いですが認識不足です。
米企業が他国を訴え勝利した率は86勝22敗です。逆は0勝15敗です。



https://twitter.com/kurararan/status/136094458033876992
TPPによって、国民健康保険制度が崩壊するかも知れないといわれ、
また、こうしたガンなどの先進医療は保険適用外となっている。
「金のない人間は、治療を受けずに勝手に死ね!」
という、まさに「フランダースの犬」の世界が日本に訪れる。http://satehate.exblog.jp/17093654/

https://twitter.com/kurararan/status/136094769704222720
それでもまだ危険性は一寸だけ低いヨウ素やセシウム(引用注:セシウムも心臓には十分危険です)
しか出ていないような情報ばかりに終始し、
最も危険なプルトニウムの情報を国民に知らせないのか?なぜ経済や医療制度が破壊されているのか?
なぜ復興は進まないのか
http://satehate.exblog.jp/17093654/

https://twitter.com/kurararan/status/136091495584382977
なぜ大塚キャスターが白血病にかかったということについて各テレビ局は追求報道しないのか?
申し訳ないが、
福島にたった一度行っただけ 福島産の野菜を少し食べただけ
でも白血病になってしまう といった事実の方が
日本人全体にとって恐るべき出来事である
http://satehate.exblog.jp/17093654/


https://twitter.com/hibi_tantan24/status/136099667896303617
「まず除染」大合唱の陰でホンネを言えなくなった飯舘村の“移住希望”村民 http://j.mp/rGaleP
除せんの莫大な予算を使っても、完全に放射能汚染がなくなることはないことを考えても、同じ予算で全て移転したほうがいいと思う。

政府、福島県とあくまで除せんにこだわり続けているようだが、記事の中の若者の意見は、当たり前のもので、常に被ばくの危険に子供をさらすわけにはいかないだろう。

≪「村役場はもちろん、村の年配住民も『除染して村に戻ろう!』と言うのですが、僕ら若い世代の意見はちょっと違う。村外に移り住みたいという声も少なくないんです。だけど、『まずは除染』の大合唱の前に、それがなかなか言い出せない。避難という言葉も『ネガティブだから使うな、保養と呼べ!』と怒られる始末です」≫
宗教右翼カルトのヤクザ何処に出没しているのか 分かりやすいねw








http://www.logsoku.com/thread/hatsukari.2ch.net/news/1319965785/
36 : 知の巨ネ申兵 ◆72LhxCl/ys (大阪府) : 2011/10/30(日) 18:23:44.72 ID:8msJz+dm0 [1/2回発言]
初音ミクはまだミッキーマウスどころか
ドラえもんにすら なれてないだろ


52 : 名無しさん@涙目です。(アラバマ州) : 2011/10/30(日) 18:27:56.64 ID:60/cfWyi0 [3/16回発言]
>>36
サンタクロースの域に達するとの声も。

http://logsoku.com/thread/hatsukari.2ch.net/news/1311651818/
595 : 名無しさん@涙目です。(新潟県) : 2011/07/27(水) 02:55:21.51 ID:RO3m8Oi10 [1/2回発言]
ミクのポジを奪うのは容易ではないでしょ。
どんなに性能が良くても。


596 : 名無しさん@涙目です。(長屋) : 2011/07/27(水) 02:57:15.68 ID:dsAZaSiZ0 [2/3回発言]
>>595
ミクさんというキャラクターは、ミッキーマウスやキティちゃんを越え、
サンタクロースのクラスに到達するのではないかという見方もありますからね。
将来的には、ならば その可能性もゼロでは無いかもね。
初音ミクという存在は
サンタクロースに近い“固有名詞としての使われ方”をされていく可能性もあるだろうね。

“固有名詞としての使われ方”としてのサンタクロースという言葉は
ミッキーマウスやキティちゃん ドラえもん スヌーピー アンパンマン
などなどのキャラクターの名前の認知度の強さを凌駕する存在だよね。

初音ミクは いずれ未来に
上記に並んだ“カネを無限にも近く生み出す”極めて広く認知されたキャラクターの名前
に匹敵する存在となろう。

しかも 上記に並んだ圧倒的に強力な存在感の在る者達とは一線を画している
“声優が”ではなく“一般民衆”に近い「声」をも持っている、
更に 其処まで強力な存在でありながら 版権的に鷹揚 という特殊な側面も在る。

ネット社会が加速すればこそに生み出されることは必然であった
 本当の意味での最強の“電子の歌姫”
として その圧倒的な認知度の先に何が有るのかを考えれば、
サンタクロースという名前の認知度と比較するのは 非常に刺激的な空想だと思う。





先日 ようやく図書館へ行き 読みたかった本を読んだ。
SFマガジンが 原発と震災を如何に捉えているか を知りたかった。



SFマガジン2011年8月号は電子の妖精・初音ミクさん大特集!→尼で文藝春秋やFRIDAY以上の予約数 : はちま起稿
http://blog.esuteru.com/archives/3637326.html
129.名無しさん:2011年06月18日 13:21
もともとSFのアイテムだったバーチャルアイドルってのが、気が付けばミクとして実現していたんだ
現実におけるこのバーチャルアイドルの「誕生」というより
「生成の過程」ってのは今後、SFのリアリティについて語る上で大いに意識すべき事件だったと思うぞ


156.名無しさん:2011年06月18日 15:00
大きく捉えれば SF 要素はあるでしょ。
コンピュータやバイオテクノロジーやら、
新しい技術に関する話を書くのと一緒。


185.名無しさん:2011年06月18日 19:50
まあギブスンまで話題にしてたくらいだし、
むしろSF雑誌としては遅すぎたことを恥じるべき位のもんだな。

205.名無しさん:2011年06月27日 10:34
何年か前にミクさんは星雲賞を取ってただろ
特集組むの遅いくらいだわ。

2011年06月22日 山本弘のSF秘密基地BLOG:今月の『SFマガジン』は初音ミク特集
つーか、『SFマガジン』が特集組むのが遅すぎたのでは? ミクって3年も前に星雲賞を受賞してるんですが。

第39回星雲賞自由部門 初音ミク
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4429464

僕はこの時、観客席にいました。「本日、初音ミク様はご欠席です」には笑いましたね。


初音ミクという、単なるソフトウェアを超えた特異なムーブメントには、この前年の9月、発売直後あたりから注目していました。この年のSF大会でも、野尻抱介氏やクリプトンの方を招いて、「ボーカロイドが世界を侵蝕する」と題したパネルをやったんでした。『地球移動作戦』を連載していたのもこの頃。あれから3年か。早いなあ。

なんか「流行りものに便乗するのはよろしくない」みたいなストイックなことを言う人がいるみたいなんですが、僕はSF界はもっとあざとく売ってもいいと思うんですよね。むしろ、SFファンだからこそ、こういう新しい概念に注目すべきなんじゃないのかなと。

だいたい、ミクはすでに単なる流行じゃなくなってます。
これから何十年、ひょっとしたら何百年も生き残るキャラクターじゃないかと思うのです。
サンタクロースやドラキュラやシャーロック・ホームズのように


ほぼ全面的に同意。



映画もマンガもアニメもゲームもファンタジーも扱う硬派の雑誌 それがSFマガジンだ。
その位置づけで考えて だから原発事故を如何に捉えているか が読みたかったんだよね。

そして予想通りに 直後に極めて鋭い洞察を突きつけていたことが確認できる。
7月号だから5月末〜6月初旬に発売、その原稿は4月に書かれていたのだろう。


なぜ「この程度の放射能汚染は安全」という学者が多いのか "SFマガジン"  2011年7月号
情報流通の観点を無視する理系の人らしい話w まぁ良いけどさw
断片的なニュースや、不安を煽る言説が飛び交う中で、
ただ過剰に反応して駄々をこねるのではなく、
情報を集め、ステップを踏んで、未来について考えることを、忘れないようにしたい。

"伊藤計劃" メタルギア - Google 検索
 ↓
SFマガジン7月号「伊藤計劃以後」特集が素晴らしい。 - 【蝸牛の翅(かたつむりのつばさ)】
http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20110525

と書けば 興味が出てくる人も出てくるだろう
でも今日の本題は  チョット別の話。
まぁ つらつらと始めよう

○「3.11後のSF的想像力」

「3.11後のSF的想像力」と題した、冲方丁(1977年生まれ)、小川一水(1975年生まれ)、長谷敏司(1974年生まれ)といういずれもSF界きっての人気・実力を兼ね備えた物語の綴り手であり、同年代に属する若手作家の三者三様の寄稿が素晴らしく興味深い。

被災した(福島在住だった)冲方丁は「10年後のSF」と題し、自らの経験と怒りをいつもながらの圧倒的な「熱」を込めて語り、この事態を迎えて自分にとっての「SF」が持つべき意義の再確認を行い、その決意と確信を告げる-----この人を見よ。

愛知に住む小川一水は“「3.11後」はどこにあるのか”と題し、まず「継続している事態」に対しての認識の重要性を説く。


長谷敏司は、センセーショナルかつ象徴的な事態に際し
「原発事故後の想像力の被災について」と題し、
「"頑張って"新しくわかりやすいイメージ」が立てられることを憂い、
再建の前に先立つべき「片付け」の必要性を説く。

そして、SFが持ちうる意義に対しての姿勢は やや悲観的で、
わかりやすくもなく手間のかかる正しい「技術」への「理解というステップを踏む」必要性を訴える。


長谷敏司「原発事故後の想像力の被災について」は
三者の論考の中でも断然に完成度の高いものと思えます。

その分、以下、引用を以ての各論紹介に際しては、
全文引用でなければ損なわれるものが非常に多いとも思われます。

これでもやや抑えた引用としますが、(勿論、他に論についてもですが!)是非とも原文を読んで下さい。是非。


長谷敏司「原発事故後の想像力の被災について」


未来とは言うまでもなく曖昧なものだ。

 曖昧なものだから、さまざまなかたちで想像力が入る余地を残している。

 だからこそ、SFで架空の未来を楽しむことが出来る




福島第一原子力発電所の事故より前、
 原発は未来のモニュメントとして機能していた。

 こうしたモニュメントが用意されていると、
 一見しただけで特徴的なイメージが読み手の中に浮かぶ
 (中略)
 物語のイメージがわかりやすくなるのだ。

 わかりやすさは、だが信頼とも理解とも異なる




なぜ不安であり解消を望んでいる人々が、結論ありきで情報を取得するのか
 (中略)
 人々が原発と原子力利用について考えるとき、
 頭に浮かぶイメージが、建家が壊れた原子力発電所になっているのではないか
 ということだ。

 かつて未来のエネルギーのモニュメントとして機能していた原発が
 (中略)
 今や破綻を表す分かりやすい"一枚絵"として機能するようになった




今、我々はモニュメントを通してイメージを信頼することの危うさ
 に立ち会っている。
 未来はあやふやなものであり、だからわかりやすさに集まりたくなる。

 だが、理解を伴わない信頼は、
 自分の生命にかかわることで誰に説得されるかを選んでいる
 という、本末転倒な状況を起こしかねない。

 自分語りを重ねても、技術への信頼を自力で再建することは不可能なのだ。

 自分の内心のモニュメントに自分で始末をつけるには、
 今度こそ自分の中にあるイメージではなく技術で理解をする必要がある



 このモニュメント被災の時代に、
 新しく作られていくフィクションは人を集め続けるのだろう。

 イメージの利用から、もう一歩先、
 現実の技術に理解を広げる作品が存在感を増すようになるのかもしれない。

 けれど、やはりSFは、わかりやすい楽しさを求めてパノラマを広げ続けるだろう。
 技術への理解を広めることへの貢献も、
 読者の興味をかき立てることに留まる場合が ほとんどだろう




今回の原子力発電所の事故で、
 未来のモニュメントは、多くの人にとって一度は壊れた
 (中略)
 にもかかわらず
 その隣に、"頑張って"新しくわかりやすいイメージを立てるとすれば、
 いびつな一枚絵をつくることになる。

 再建の前には、壊れたものを片付ける必要がある。
 そして、この片付けは、熱狂や義務感ではなく 理性の仕事である。

 起こったできごとを理解し、自分なりの知見を養うことで、
 そのモニュメントは初めて片付く。
 傷跡が残っても、ようやく残骸は片付く


 未来とは それでもわかりやすさを求めたくなるほど曖昧なものだ。
 だからこそ、未来への想像力の被災から、本当に回復するには、
 どこかの段階では、
 個々人の原子力発電や放射性物質への理解
 というステップを踏むよりないのである
4月の段階で 此処まで突き付ける文章を出せる、
まさに破局の後の未来を予言をも模索するSF作家の面目躍如 といった文章だと思う。

俺が 狂気の暫定基準値の件を含めて 猛然と核種の事を学ぶ事で
その先に見えてきたモノが、
これまでに俺が激しく疑ってきた諜報系の情報工作を含めた話の先の「世田谷などでのテロ事件」などだった。


また翻って別の視点で様々な情報流通を眺める時、例えば
分かりにくい未来を それでも描ききろうとしないままに政治を語る者達 には共通して
実利主義へ堕ちるのみ な浅慮さと軽薄さを象徴するかのような品性の惨さを見せつけるかの如き
そんなアフィやカネの流れの山を見るw

俺は そんな「みみっちい個人的なカネ」を貪る位なら 其の労力を他に使おうと思うだけだ。
未来を見通そうとする思考 とは何か?に この愚か己が脳を使い向けるだけだ。

つまり 宗教右翼や旧式左翼な思考に縛られて脱却できないような連中は
瓦礫の処理や放射性物質の処理の云々の以前に
その精神的な異物と汚物からの脱却という処理をする為にも
目の前の状況に対応する為の
旧式な思想では追いつけない別の角度の思考への労力が必要となるのだ。

そういう思考の転換が出来ない者達は 結局に この核戦争にも勝てないだろうね。

下士官層の中の者達が情報戦における現場への対応に
旧式の思想のみで対抗する者達が多数を占めるのならば
この核戦争における敗退は 更に地獄を創るだけな話となろうね。


そして、これはごく個人的な感想ですが、長谷敏司さんの論を読み
自分も
 やや関心を持って調べてはいた原子力発電や放射性物質について、
 より理解を深めるべく努力しなければ

と素直に思えました。

以前から反原発を主張していたという論者の中で、
数少ない「熱狂や義務感ではなく理性の仕事」が出来る人物であることで高名だった
という故・高木仁三郎の著作あたりから読み進めていければと思います。

下記の自伝的エッセイを初めとりあえず三冊
(『原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)』
 『核の世紀末―来るべき世界への構想力 (人間選書)』)
読んでましたが、
下手な現在のネット上の情報などより、得るものは遥かに大きいと思えました。
知識人が論理や理性で知識を構築する その以前に
日々の営みを生きるしかない者達は 経験上の感覚で
原子力発電や放射性物質について、より理解を深めるべく努力しなければという事に
勘の良い者達から気付き始めていたよね。
知識人は 其処へ更なる補完を与えては安心感による社会秩序の安定への寄与という役割が在るはずだ。

それは嘘デマ扇動で誤魔化しての社会秩序の安定へ寄与 という
食用家畜を飼い慣らすかの如き搾取を目的とした情報工作の山を築き上げる事
とは 完全に真逆の話である。


この破局の前へ晒された時
旧態依然な知識人は その浅慮と無能を完全に露呈させた。
だから新規の知識人を社会共同体が必要とする時期へと激しく移行してきている。

俺は自分自身が其処を担える者になれる とは欠片も思わない。
が そういう方向性を俺なりに補完できるようになれれば良いなぁ 位には考えている。

だから俺の言葉なんかは一文字たりとて信じては駄目なんですよ。







中川大地 「ゲーム」からみた「伊藤計劃以後 SFマガジン 7月号 - Google 検索

http://twitter.com/#!/ssakagami/status/73234185367728128

http://twitter.com/#!/d_nak/status/73204531579727872
見本誌拝受。
「小説外の想像力」として評論”「ゲーム」からみた「伊藤計劃以後」”を書きました
http://twitter.com/#!/yoakero/statuses/75920592456515584
今月のSFマガジンの伊藤計劃特集をざっと読んだ。
文学からゲームへの文化再編の潮流のうちに伊藤計劃を捕捉することを試みた中川大地さんの
『「ゲーム」からみた「伊藤計劃以後」』がイカしてました。
こーゆう感じのゲーム論をこそ もっと読みたいぜ。
正直 極めて良かった。
こういうゲーム論をこそ俺は強烈に探していた。
その前段階として
誠天調書 2011年10月18日: 瘴気の下に沈む腐海の虚構世界で生きる蟲達は電気蟲の夢を見るのだろうか?
を だから手探りで書いた。





SFマガジン8月号での初音ミク特集に食いついても
その先月の7月号にある極めて強烈なゲーム論には食いつかない、
というのが ネットの日本語圏でサブカル系に強いと呼ばれる連中の
極めて底の浅い 目の前のカネを貪り食うことだけしか出来ない 品性が穢れきった
という本質を 非常に良く表しているなぁ、と つくづくに思う。

まずは承前に この記事から


 ↓ ↓
2011 10 31 グリーが業績予想を大幅に上方修正 課金好調、売上高1300億〜1400億円に
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1110/31/news092.html
iPhoneでもランキング上位だもんなぁ、遊んだ事ないけど。
アタリショックの再来は 時間の問題だなw
いや既に かなw
現場は戦々恐々としているのだろうか? それともなのだろうか?

 ↓
誠天調書 2011年10月18日: 瘴気の下に沈む腐海の虚構世界で生きる蟲達は電気蟲の夢を見るのだろうか?
少し前から
スマートフォンにおけるグリーやモバゲーのネットゲームにおける質と量の変化に俺は愕然としている
という事を書いてきたが ソニーは当然に気付いていたんだろうね。

スマートフォンによる常時接続によって成立するネットゲームのアクティブ人数が桁違いに多い
その可能性の意味を、ゲーマーと言われる者達 もしくは 自認する者達 の殆どは
もう少し真剣に考えるべきだと思うけどね


そして現実に 既に其れが成立しているとしたら?

大変に失礼ながら
抜粋し引用をして 勝手な補足や改変をしながら再構成をしてみる。
問題があればコメントで連絡してください、直ちに削除します。


"「ゲーム」からみた「伊藤計劃以後」" - Google 検索

ゲームという文化の勃興と定着は、此処二十年あまりの日本の社会文化にとって
極めて本質的かつ甚大な影響を与えた震源地であった。

なぜなら 高度経済成長期を終え 劇的な進歩が望めなくなっていた1970年以降の日本にあって
唯一に日進月歩の技術進歩を実感させてくれる“コンピューターなる道具”が
不要不急の「遊び」の多様化を通じて人々の生活の中に入り込んでくる、という
かつて無い生活体験の変容そのものだったからである。

言い換えれば、
コンピューターゲームは人々が始めて接した最も純粋な形での「消費社会の対現物」なのである。
そしてインターネットの普及の以前にあっては
最も実感的に高度な情報化社会をなるものの手触りを味わえるものだった。

かくして、高度成長期時代の進歩への「夢」の名残を背負いながら、
まずは玩具として認識させられて生活の中へも登場した“コンピューターなる道具”のゲームは、
1980年代のFC期に「ドラゴンクエスト」シリーズの大ヒットなどにより
物語の表現を伴うゲームが一般化することを機にして
独自で独立した価値を持つ「作品」としての性格を認知されていくようになる。

そうした著作物性の前面化と同時に
特に1990年代以降のCDやDVDなどの光学メディアによる商品流通化の方式が定着すると
急速に総合視覚表現である映画を強く意識したものとなっていった。

“コンピューターなる道具”のゲームは その技術革新と同時に
既存の産業資本による表現を旺盛に取り込んでいった動きを示したが、
その反作用として
逆に “コンピューターなる道具”のゲーム独自の体験性 が
既存の産業資本(特にメディア)へ輸出されていった例も枚挙に暇が無い。


20世紀末から全世界で人類史上空前の規模で普及した“コンピューターなる道具”のゲームが普及したことは
人類の文化としても巨大な意味を持っている。

物語を構築する という文学や映画などの かつての人類の文化
 と
“コンピューターなる道具”のゲーム
は、人類が外界からの情報から材料を得て虚構的な領域を構築する
という 現実加工の営み という点は共通していながら、
その「構成」と「文化の受動者が得るもの」は全くに異なる物になりやすいからである。

“コンピューターなる道具”のゲームは
非現実的な物語でありながら 文化の受動者が現実経験を産生されやすい要素を強く備えている点で、
非現実的な物語を構築する という文学や映画などの かつての人類の文化とは大きく違う面が在る。

そうした 非現実的な物語 でありながら 
 “コンピューターなる道具”のゲームは文化の受動者が
 現実経験を産生されやすい要素を強く備えている
という かつての人類の文化とは一線を画している面 によって 、
高度成長期時代の進歩への「夢」の名残を背負わされてきた「“コンピューターなる道具”のゲーム」
という高度成長の頂点へ近づく時へと至った後になって、
坂の上の雲の向こうの非現実的な物語を突きつけられる事になる。

現実経験を産生されやすい要素を強く備えている とはいえ
“コンピューターなる道具”のゲームは文化の受動者として生きてきた者達は
見たくもない現実を克服しているように 虚構の経験を得ているだけなのだ。

その現実と虚構の差は徐々に広がっていった。


高度成長期時代の進歩への「夢」の名残 と コンピューター技術の発展の「夢」を体験させる
「“コンピューターなる道具”のゲーム」の歴史は
高度成長の頂点へ近づく時へと至った後になって、坂の上の雲の向こうの非現実的な物語を前にして、
据え置き型の家庭用ゲーム機の市場発展が袋小路に陥る打開策として
DSやPSPといった携帯型ゲーム機が主流となった2000年代後半のゲーム産業界は
コンピューター技術の発展の「夢」を体験させる方向性を変容させていくこともまた余儀なくさせられる。

非日常的な虚構世界を突き進む方向性 から
日常的な現実の延長線上に残る虚構世界を進むゲームへと。
その方向性が スマートフォン技術の発展と市場の発展と相まって
「“コンピューターなる道具”のゲーム」の歴史とは明確に違う 今の携帯ゲーム市場の隆盛
へと結びついている。



ゲーム産業が長く、店頭や店舗で流通や収益を出していたが、
その手法そのものが旧時代のモノとなる
「“コンピューターなる道具”のゲーム」経済の根本的な変容、
それがスマートフォンなどを利用したネットを経由し介在させるソーシャルゲームの台頭である。

それらには
1980年代から2000年代を通じて まさに数多の従来のゲームメーカーが挑んできたが
どうしても実現できなかった姿が具現化されている。

ネットの登場以来に 一部のコアなゲームユーザーをしか集められなかったが故に実現できなかった
日本でのネットゲームの普及の悲願、つまり
他者との開かれた出会い や 濃密な対話 や 仮想空間での無限な自由度 などなどの
数多の従来のゲームメーカーが挑んできた「夢」は断念と転換を常に余儀なくされてきたが
思っても見ない形で果たされた姿だとも言えるだろう。

「“コンピューターなる道具”のゲーム」は
1980年代から2000年代を通じて まさに数多の従来のゲームメーカーが進んできた道
高度成長期時代の進歩への「夢」の名残 と コンピューター技術の発展の「夢」の体験、
という役割を終え、次の段階へ至ったのである。

現状のスマートフォンなどを利用したネットを経由し介在させるソーシャルゲームは、
・参加への心理的コストを下げる為の敷居の低さ
・適度な競争や交流を誘発するルール設計
・その一方でトラブルや炎上を引き起こさないようにする自由度の制限や管理の差配
が「“コンピューターなる道具”のゲーム」として市場の発展を促させる
という時代の到来へまで状況は進展している。
その動きは極めて速い。


ある意味では
【“FCやPSの黄金期を知る世代が愛してきた「“コンピューターなる道具”のゲーム」の時代” の死】
なのである。
2010年代とは まさにそうした
 黄金時代の「夢」を捨てざるを得ない「“コンピューターなる道具”のゲーム」の時代
に何ができるのか という課題が突きつけられている。


長らく「“コンピューターなる道具”のゲーム」の時代を牽引してきた
 単線的な
 高度成長期時代の進歩への「夢」の名残 や コンピューター技術の発展の「夢」を体験させる
などに頼らず、
仮に言えば
 如何に虚構世界の人間的な繋がりの中からのゲームの構築を図るか
 という方向性でのゲーム制作の力の発揮
こそが
「“コンピューターなる道具”のゲーム」という物語への想像力に課せられた仕事となろう。



此処まで書いて ようやく
 あのスマートフォンにおけるゲームとは何だ
という
得も知れぬ訳の分からなさ
 や
ネットの日本語圏のサブカルに強いとされる連中の救いようの無い愚かさ
に対する、俺なりの一つの答えが出せた気がする。

勿論に コレが正解だとは思わない。
が 俺なりに何かが見えてきた、だから ならばよし かなぁと思っている。










posted by 誠 at 13:30| Comment(2) | TrackBack(0) | (゚∀゚) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。