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2011年12月10日

「政治改革」を口実とした単なる権力簒奪劇でしかない【大化の改新】だとしたら? しかも血統の純潔性すら極めて危ういモノだとしたら?w

まだ途中だけど うpしてしまいます、追記できると良いなぁ。




https://twitter.com/saatennkixyu/status/144777226435575808
663年の白村江の戦いで 唐と新羅の連合軍に倭国と百済が敗北し、
唐と新羅がGHQのように倭国支配する。

673年即位の40代の新羅王族の天武から天皇は始る。
初代の神武から39代の天皇は、唐(中国)の影響下の下での朝鮮史を借りた、フィクションである。

新羅が崩壊し、天皇は百済の王族が代わる。
そして孝明天皇父子が殺害され、大室が明治天皇に
 ↓
"出雲神話の誕生" - Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%22%E5%87%BA%E9%9B%B2%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%22&hl=ja&lr=lang_ja&oq=%22%E5%87%BA%E9%9B%B2%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%22

http://freeport.at.webry.info/200809/article_4.html
大国主命にまつわる伝承は、因幡の白兎や大蛇退治の説話など、
子供向けにリライトされたものによって、幼児期から親しみ深いものであった。

ところが、大国主命の素性を辿ってみると、意外や弱小な一地方神に過ぎない。

その大国主命の話が、何故記紀神話の少なからぬ部分
(古事記においては神代巻の1/3以上を出雲神話に割いている)
を占めるに至ったのか。

本書はその疑問に答えて、1966年に刊行された「出雲神話の成立」を文庫化し2006年に発行された。

結論から言えば、
大和政権による国家統一の偉業を称揚するためには、
被征服民族もまた強大で大和政権に匹敵する力を備えていなくてはならなかった。
だから その為に記紀神話は大幅な修正・修飾が施された、という事だ。

DQの勇者を英雄とし神格化する為には 敵が強くなければ泊が付かない、
という訳なんだよねw


その過程を文献学的に辿ったのが本書である。

大国主命の数々の業績は、他の神々の事績を集積したものとなり、
その結果 この神は様々な異称を持つに至った。

古事記では、大国主命に加えて、
大穴牟遅(おおなむち)神、
葦原色許男(あしはらしこお)神、
八千矛(やちほこ)神、
宇都志国玉(うつしくにだま)神、
の五つが挙げられているが、
日本書紀の一書にはさらに、大物主(おおものぬし)神と大国玉(おおくにたま)神が加わる。

そもそも大国主命を祀る出雲大社(杵築大社)の創建は、
天平からあまり遡らないと考証されている。

ほぼ記紀の成立の後に、創立されたと考えられる。

大国主命を祀る出雲大社(杵築大社)の創建は、
天平からあまり遡らないと考証されている。
ほぼ記紀の成立の後に、創立されたと考えられる。

出雲族が大神の称号を奉った神は、熊野、野城、佐太の三神だけであり、
これらの神々は記紀神話に取り上げられていない。

一方、素性の疑わしい須佐之男命や大穴持命が出雲神話の主役となっている。

熊野、野城、佐太の三神の中でも、熊野大神だけが集落の守護神という位置づけではなく、
出雲族の部族神として特別に祀られている。

記紀から無視された熊野大神を捨てることが、
出雲族にとって一族の安寧をはかる道だった。
そして出雲国造家は杵築へ移住し、大国主神に奉仕することになった。

国譲りの神話には、どこか釈然としない印象があったが、
言うなれば無血開城を成し遂げた出雲族は、
大和政権という新来の勢力に恭順し、皇室神話という虚構の一翼を担ったのだ。

あの巨大な社こそ、
その代償と見れば、祀られる神が微力な地方神とはいえ、
一族の苦渋の選択の象徴のようにも見えて感慨深い



日本書紀の編纂に携わったとされる太安万侶の一族が、
出雲郡の少領(すけのみやっこ)の地位にあって、
肥河の流域に住みその地の伝承を中央にもたらし、
その一方で熊野大神が祀られ国庁もあった意宇川流域の
より重要な物語が歴史の表舞台から後退することになった、ともいう。

大和の豪族三輪氏の祀る大物主神を大国主神の和魂として同神と見ることによって、
一大出雲国の幻想が生まれたと指摘されている。
葛城の賀茂族、日向神話の母体となった安曇氏及び宗像氏なども、
出雲族とは何の血縁関係が無いにもかかわらず、大国主神の子孫と称した。

これらわずかの「国つ神」系統以外は、
系譜を改作して皇孫または高天原の神々の血筋をひくものとなった。
なんか処女懐妊の神の奇跡の話を聞かされている気分になるよねww


壬申の乱後、
天武天皇は自らの中央集権的な権威の拠り所を周知させるため、
歴史編纂の事業に着手した。

各氏族は、記紀の中で己の伝承が歪められているのを見たが、
風土記に皇室との関係を少しでも取り入れることによって、
大和政権とともに歩む安泰の道を選んだという。

皇室をめぐる虚構の壮大さに圧倒される。



この辺りが その話の補足には良いかな。
 ↓
天武天皇の年齢研究−白村江の戦い
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-h.htm

中々に面白い。
白村江の戦いと壬申の乱 と天武天皇
という日本の歴史の大転換点を、日本の学校の歴史の授業は かなり適当な話に止めている所が多い。
特に宗教右翼カルト系はね。




天武天皇の年齢研究
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/index.htm

現在まで、天武天皇の年齢は不詳です。日本書紀に記述がないからです。
一般的には686朱鳥1年56歳で崩御されたとする説が有力です。

しかし、過去の史料、例えば「一代要記」や「本朝後胤紹運録」などは65歳としています。
近年、この65歳に戻した説が注目を集めています。
その結果、弟であるはずの天武天皇が天智天皇より年上だというものです。

私もこの説に触発されて勉強を重ねてきました。
その結果、兄天智、弟天武の兄弟順は変わらないものとして、
天武は天智より10歳以上年の離れた弟であり、40歳代で崩御されたのではないか

と考えるようになりました。


日本書紀によれば、
天武天皇は兄の天智天皇の娘を4人も娶り、活躍も兄、天智に比べて極めて遅いのです。

また、天皇在位期間が比較的長かったわりには、数多くの事業が志半ばで皇后に託され、
つまり天寿を全うした老年の崩御とは考えにくいものです。

さらに、
万葉集を飾る額田王との恋愛歌は40代になろうとする男女の宴席での歌とするより
20代の若い二人の歌とした方が相応しい
と思うからです。

これらの理由を天武天皇の出自を疑うより、
年差のある弟として、若くして崩御されたと考えたほうが史実に無理なく説明ができます。

なるほどね。 かなり面白い。

万葉集 額田王 大海人皇子 天武天皇 恋愛歌 - Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86+%E9%A1%8D%E7%94%B0%E7%8E%8B+%E5%A4%A7%E6%B5%B7%E4%BA%BA%E7%9A%87%E5%AD%90+%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E6%81%8B%E6%84%9B%E6%AD%8C&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&hl=ja&lr=lang_ja&oq=%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86+%E9%A1%8D%E7%94%B0%E7%8E%8B+%E5%A4%A7%E6%B5%B7%E4%BA%BA%E7%9A%87%E5%AD%90+%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E6%81%8B%E6%84%9B%E6%AD%8C


天武天皇の年齢研究−概要と年齢仮説
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage1.htm


天武天皇の年齢研究−年齢を定める手法
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage2.htm
男として、天武天皇は、何歳から何歳まで子作りをしたのか。
俗なことがらですが、答えが身近にある気がします。


天武天皇の年齢研究−歴史的文献
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage31.htm


天武天皇の年齢研究−近年の学術研究
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage32.htm


天武天皇の年齢研究−年上論争経緯
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage33.htm

1974昭和49年、佐々克明「天智・天武は兄弟だったか」『諸君8月号』

天武天皇年上説は、
佐々克明氏が1974昭和49年「諸君8月号」に掲載された「天智・天武は兄弟だったか」により
初めて疑問のかたちで提示されたのが始まりです。

佐々氏によると年齢疑問をもつにいたったきっかけは、
小説家の彼が持統女帝について執筆調査をしていた過程においてでした。
岩波書店刊「日本史年表」(歴史学研究会編)に載せられていた天智天皇と天武天皇の年齢が
それぞれ46歳と65歳とあったのです。
「逆算すると兄の天智より弟の天武が4歳年長となる」ことに気が付いたのです。

しかし、その後よく調べてみると「学界はすでに周知であった」のです。

佐々氏は ここで
「創作をこころがけるからには、天智・天武の年齢矛盾を含めて、
 幾多の疑問点を自分なりに堀り起していかなければならない次第にたちいった」
として、筆をとったのです。

この兄弟逆転説により、二人は兄弟ではないのではないかと問題提起をされたのです。

白村江の戦いを見据えて、天智天皇の対応は
「侵略的な軍事介入ではなく、結果的には救援軍であり、百済の敗戦処理であった」
と考えました。
多くの避難民ともいえる渡来人を受け入れ優遇したとして、
天智天皇をいわゆる「百済系」と位置づけたのです。

一方、天武天皇は「新羅派」としました。

壬申の乱での吉野を含む逃避行は新羅系渡来人の居住地であり、
新羅系の秦(はた)氏を優遇し、百済系とした東漢(やまとのあや)を名指しで非難したというのです。

また、婚姻関係でも、天武天皇と後の持統女帝とが
「伯姪結婚などという近親婚が古代では通常に行われていたという」意見に、
韓国などの例を挙げ疑問としたのです。



この文章が発表されると「予想外の波紋がひろがり」、驚かされたと述べておられます。

まず、達寿氏(作家)や鈴木武樹明大教授らが「検討に値する提言」として関心を寄せられたといいます。



1978昭和53年、佐々克明「天智・天武は兄弟ではない」『歴史と旅1月号』


佐々氏の興味は すでに天武天皇の年齢確定論議よりその出自に興味は移っていたようです。

「学界の内部では〜天武65歳没は56歳没の誤記として処理してきたようで、
 〜むろん誤記であるという明白な史料はなにもない。
 したがって年齢矛盾の件はいっこうに解決しない。

 そんなことから7世紀を追求した結果、
 後述するように、年齢がどちらが上であろうとなかろうと、
 そもそも両者は“非兄弟”なのではないか、という推論に達したのであった。

小著『騎馬民族の落日』−産業能大出版局刊参照。」

ここで、当初の「疑問」としてではなく、はっきり兄弟ではないと否定され、
「大海人皇子は百済系を主流とする日本の朝廷に『人質』として派遣された新羅系王族、
 金多遂(きんたすい)だった」
と斬新的な提案をされたのでした。

理由1.非兄弟説を天智・天武に限ったことと考えてはいけない。
    日本人のルーツはアジア全体として大陸からの流入になかで考える。
    継体天皇の渡来王朝、欽明と宣化などの非兄弟など例は多数ある。

  2.オジ天武36歳に対するメイ鸕野皇后13歳という不自然な婚姻。

  3.天武の記述が突然、壬申の乱で登場する。
    それまで、皇弟、東宮など5種類の表現で使い分けられる不自然さ。

  4.新羅から金春秋が人質として来日後、
    入れ替わり来日した金多遂の帰国記事がなく「蒸発してしまっている」。

  5.日本の朝廷の主流は百済系、しかし天武は新羅系。

  6.天智は天武に4人の娘を送り、藤原鎌足も2人を差し出す。

1978昭和53年、小林恵子「天武天皇の年齢と出自について」『東アジアの古代文化夏号』

そこに、小林恵子氏の1978昭和53年
「東アジアの古代文化」において「天武天皇の年齢と出自について」という小論文が登場しました。
すぐれた内容でかなり具体的な仮説でした。
副題も雄大で――大化の改新から壬申の乱にいたる常識的歴史観への疑問――とあります。
この具体的の実例はその後、各種の本やインタネットの記事で多用されることになります。

天武天皇の出自が問題の主流として議論されるようになります。



天武天皇の正体――父は誰、出自の諸説

まず、よく知られる方々の代表的な論説を以下にまとめました。


  主張者      天武の父       天武天皇の正体


1.佐々克明                金多遂(新羅の王族)

2.小林恵子、季寧熙 高向王=高向玄理   淵蓋蘇文(高句麗高官)=漢皇子

3.大和岩雄     高向王(用明天皇の孫)

4.豊田有恒     高向王(東国惣領)  百済系阿智王の子孫

5.井沢元彦     新羅人又は新羅系渡来人と親しい有力氏族の長

6.黒岩重吾     舒明天皇       天武天皇

7.石渡信一郎    舒明天皇       天武天皇=古人大兄皇子

8.古田武彦     九州王        九州の出来事を大和とねつ造した。

9.関裕二      蘇我入鹿=聖徳太子  天武天皇=漢皇子=古人大兄皇子

天武天皇の出自に関して、いろいろな方々が独自の論陣を張ることとなったのでした。多くの人達たちが佐々氏の天武天皇の年上説に支持し、小林氏の提唱した漢皇子=天武天皇に賛同し、その出自に独自の解釈を加えていきます。また、出自を隠すために日本書紀が書かれたとされてきました。私見ですが、佐々氏が考えた「新羅系」、「百済系」という派閥論にも、蘇我王朝、九州王朝、出雲王朝などの存在説が結びついていったようにも思えます。



天武天皇が兄、天智天皇より年とする説は、突き詰めると、天智天皇は「日本書紀」から58歳と計算され天武天皇は「一代要記」や「本朝皇胤紹昌運録」などの書物が65歳としているからということだけなのです。

それは、非兄弟説に結びついていくのですが、上記に示す以外にはその根拠なども味付けが加わる程度で上記以外の論説からは特に新しいものは見当たりません。天武天皇が誰か、どこから来たかについてばかりが百家争鳴となっていくのです。

当初掲げたように佐々氏はいいます。「古代史研究のやり方は、『書紀』を優先させるといいながら、ご都合主義に陥っていて、つじつまが合わなくなると『書紀』の記事でも恣意的に改変して解釈することが多く、この年齢矛盾のケースはそのシンボリックなあらわれである」と「権威」を恐れず指摘されたのです。

しかし、このことはブーメランのように最近の自分たちの論争を非難しているようにも見えてきます。

残念なことに歴史学者は最初に論戦に参加しましたが、以後沈黙します。

まるで一般史家による論戦のつぶし合いをじっと見ているようです。



本稿は日本書紀の記述にできるだけ忠実に、天武天皇の年齢を通説とは異なったものに設定して考察を重ねてきました。正直年齢を違えるだけで、こんなにもその人となりがまるで違って見えてくることに驚き、怖くなることさえあります。



天武天皇の出自の仮説はかぎりなくありますが、本稿の興味はその結論や推理ではなく、その最初の疑問にあります。日本書紀の記述内容への疑問、通常の解釈では理解できない事象、すべてがなるほどと思わせる何らかの核心を突いているからです。

論文、書籍やインナーネットで新しい疑問を見つけるといつもわくわくさせられてきました。

もちろん、その結果、いろいろな推論や仮説を目にすることになるのですが、これを単に批判するものではありません。いわゆる対戦ゲームで終わっていいものではないのです。一つ一つが蓄積されより正しい高みへと導いてくれるものと信じています。

今日もまた新しい発見を求めて、ページを開こうと思います。


http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage3.htm
歴代天皇在位期間と崩御年齢



天武天皇の年齢研究−后妃と皇子等の年齢
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage4.htm


天武天皇の年齢研究−父母、従兄弟等の年齢
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage5.htm

一人一人を精査している 凄いなぁ。
面白かったのはコレ

天武天皇の年齢研究−額田王の年齢
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage42.htm
【年齢検証】

日本書紀、天武2年2月27日の天武天皇即位に際しての記述で、額田王を「初娶」と表現されているところから、天武天皇諸后妃のなかでも額田王が最初に、大海皇子の子供を生んだと考えて間違いないようです。「初」の意味は、中村隆彦氏がいうには、そのときより以前にさかのぼって、ことの由来をしるすときに用いる語とのこと。それより以前にという意で、春秋左氏伝の常套語だそうです。ただ、額田王の年齢が、他の后妃と比較してそれほど離れて高齢だったとは思えないのです。



日本書紀全体に見られる婚姻の表現に「立」「納」「喚」「娶」「召」などの相違があります。最近の研究では日本書紀の担当執筆者の癖による使用頻度の違いがクローズアップされています。しかし、この天武紀の10人の妻たちが「納」と記述されるなかにあって、額田王だけが「娶」とあるのはその意味をしっかり区別していると考えられます。

「娶」は日本書紀全体では、10回ほど使用されています。そこからわかることは、結婚しても同居していない形跡が見えることです。

たとえば、仁賢天皇の場合

「春日大娘皇女、大泊瀬天皇、娶和珥臣深目之女、童女君、所生也」

大泊瀬天皇、すなわち雄略天皇は和珥臣深目の娘、童女君を娶り、春日大娘皇女を生んだと書かれています。しかし、一日で孕んだことで雄略天皇に疑われてしまいます。これは二人が同居していなかったことから起こる疑いの眼差しではないでしょうか。天皇といえどもこの頃は和珥臣深目の屋形に通ったと思われるふしが多くみられます。

また、仁徳天皇の場合など

「仁徳天皇30年秋9月、天皇伺皇后不在、而娶八田皇女、納於宮中。」

「娶」と「納」が同居するめずらしい例です。「仁徳30年秋9月、天皇は皇后(磐之姫命)の不在の時をうかがい、八田皇女(仁徳の異母弟の妹)を娶り、宮中に納めた。」八田皇女は天皇の位をめぐり争った太子、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の同母妹です。仁徳天皇は菟道稚郎子との抗争の後、八田皇女をその地で娶っていたものと思われます。その後、嫉妬深いといわれる磐之姫不在の機会を捉え、宮中に迎えたものです。



こうした例を比較するに次の意味がおぼろげながら見えてきます。

「娶」は男性が行動を起こし、女性と関係をもつイメージ。「納」は女性側の家が娘を男性に与えるイメージ。「娶」は通い婚、または当事者同士の自由恋愛、「納」は親によって決められた政治的色彩が強い婚姻と考えていいと思います。なお、古事記では日本書紀とは逆にほとんどが「娶」を用いています。古い表現といっていもいいのかもしれません。

大海人皇子は、額田王と知り合い、鏡王宅に通い額田王と結ばれ、そして、十市皇女をこの地、十市郷で生んだのです。岸俊男氏は、額田王と鏡姫王は近くに住んでいたとして、「額田部一帯は当時の高級住宅地」としています。十市の地もその少し南にあります。想像ですが、初めての若い男女の恋愛。通例に則していえば、額田王は大海人皇子より少し年上だったかもしれません。



昔から額田王の年齢を考えるとき、キーになる史実が二つあります。

一つは懐風藻の記述から、十市皇女が生んだとされる葛野王の年齢がわかることです。

もう一つは額田王が716和銅8年まで生きた証拠が残っていることです。

ところがこの二つが矛盾を生み、額田王を大変な長寿にしています。昔からその長寿に疑問の声がありました。

【本稿の説】

600年 4455555555556666666666777777777 年

     8901234567890123456789012345678 齢

大友皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25

葛野王                       @ABCDEFGHI−37

十市皇女             @ABCDEFGHIJKLMNOPQR

額田女王 EFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――――73

天武天皇 DEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――――――43


その結果、十市皇女の母である、額田王の年齢が大きく若返ることで粟原寺の鑪盤の真実であることがわかってきたのです。



粟原寺の鑪盤によれば、額田王は持統天皇8年のときから和銅8年に至るまで22年の間、この寺を建てることに尽力したとあるところから、額田王は夫、中臣大嶋の死を契機に粟原寺建立に力を注いだとみられます。叔母と思われる鏡姫王も後の夫、中臣鎌足の病気平癒祈願のため、山階寺(興福寺の前身)を建立したといいます。その影響もあるのではないでしょうか。対抗意識の強い女性です。


粟原寺の鑪盤が正しいのなら額田王は生涯で三人の夫をもち、その三人の死を見てきたことになるのです。

その前に、中臣朝臣大嶋とはどういう男で、本当に額田王に相応しい夫なのでしょうか。

私は天武皇后の姉大田皇女が生んだ大伯皇女より一年早く生まれた十市皇女と同様、額田王が大田皇女より一歳年上と考えました。額田王は中臣大嶋と2歳違いとなります。



600年 6666666666777777777788888888889999

     0123456789012345678901234567890123

       天智天皇在位    天武天皇在位         持統天皇在位 

天智天皇 ―――――40―――――46

天武天皇 PQRS―――――――――30―――――――――40――43

中臣大嶋 OPQRS―――――――――30―――――――――40――――――――49

額田女王 QRS―――――――――30―――――――――40―――――――――50――73

十市皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQR



黒岩重吾氏はその遺作となった「闇の左大臣 石上朝臣麻呂(いそのかみのあそんまろ)」のなかで、中臣朝臣大嶋について、どのような根拠に基づくかはわかりませんが、本稿と同じ年齢で紹介されていました。

「(689持統三年)、現在の大嶋の位は麻呂とほぼ同じだった。ただ、年齢は五歳ほど若い。」(集英社文庫P393)

その石上朝臣麻呂の年齢は640舒明12年生〜717霊亀3年没 78歳です。

  中臣朝臣大嶋の年齢は645大化 1年生〜693持統7年没 49歳

となります。



額田王が若返えらせて考えることで、ここでも中臣朝臣大嶋が同年配の夫として輝いてくるのです。

  第1の夫 天武天皇 660斉明6年(18歳)〜666天智 5年(24歳)

  第2の夫 天智天皇 666天智5年(24歳)〜671天智10年(29歳)

  第3の夫 中臣大嶋             〜693持統 7年(51歳)

この論考の仕方は 流石に「参った」の一言しか無かった。
額田王の万葉歌


年齢がこうも若返ると、歌の印象も変わります。
というより、学者たちの描く萎びた額田王ではなく、
若くはつらつとした我々万葉ファンの素直な印象に近づいた、
これが額田王といえないでしょうか。

額田王を若返らす その最大の理由、
それはなんと言っても万葉集につづられた若々しい情熱的な歌の一句一句です。
その一句一句を解説している お見事 としか言いようが無い。
額田王20〜23歳(通説32〜35歳)

@9
幸于紀温泉之時額田王作歌
莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
しづまりし   うらなみさわく     わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと
しづまりし うらなみさわく 我が背子が い立たたりせむ 厳橿が本


万葉集随一の難解な歌として知られています。

意味は不明ですが、さわがしく厳しい世評のただ中にある夫の姿を心配そうに見つめる額田王の姿を感じます。白村江の敗戦の衝撃か、夫の母斉明天皇が亡くなったことも含め大変なときだったはずです。紀伊の温泉での歌ともいう。斉明4年の行幸時の歌とする意見もありますが、万葉集構成上、年代順配置の原則からやはり斉明7年以降の歌としました。

本稿では、各皇子の出産年代を調べているうちに、この5年間、天武天皇に子供が生まれなかったことがわかってきました。なぜでしょう。

九州での水城、瀬戸内海ののろし台の建設、さらにそんな中、敗戦処理として大唐軍が大挙して使節として九州を訪れています。このとき、天武天皇は天智天皇の名代として、妻子らと別れ、九州の地で奮戦していた時期があったと想像しています。天武天皇が明日香に戻るのは母、斉明天皇らをできた墓に埋葬する儀式のとき667天智6年のことです。

額田王24歳(36歳)〜

天武天皇は妻子を残し、この頃まで一人九州にいたと推測しています。
いつ頃、天智天皇と関係ができたのでしょう。
娘と二人、九州の天武天皇を心細く待つ中で、
天智天皇の誘いにのる隙がいつしか生まれていたのかも知れません。

そして、彼女は天智天皇を選択しました。彼女の決意の歌ともいえそうです。


額田王25歳(37歳)前後の歌です。

近江大津宮御宇天皇代
天命開別天皇謚曰天智天皇
天皇詔 内大臣藤原朝臣 競憐春山萬花之艶 秋山千葉之彩時 額田王以歌判之歌

天智天皇、内大臣藤原朝臣に詔して、春山万花の艶と秋山千葉の彩とを競憐はしめたまふ時、
額田王、歌を以ちて判る歌

@16

冬木成    ふゆこもり   冬ごもり
春去来者   はるさりくれば 春さりて来れば
不喧有之   なかずありし  鳴かざりし
鳥毛来鳴奴  とりもきなきぬ 鳥も来鳴きぬ
不開有之   さかずありし  咲かざりし
花毛佐家礼杼 はなもさけれど 花も咲けれど
山乎茂    やまをしみ   山を茂み
入而毛不取  いりてもとらず 入りても取らず
草深     くさふかみ   草深み
執手母不見  とりてもみず  取りても見ず
秋山乃    あきやまの   秋山の
木葉乎見而者 このはをみては 木の葉を見ては
黄葉乎婆   もみつをば   黄葉をば
取而曽思努布 とりてぞしのふ 取りてそしのふ
青乎者    あをきをば   青きをば
置而曽歎久  おきてぞなげく 置きてそ嘆く
曽許之恨之  そこしうらめし そこし恨めし
秋山吾者   あきやまわれは 秋山われは


冬がすぎ春が来ると、鳥が鳴き、花が咲き、山も青々と茂ってくる。でも、草深い春山に入ってまでしてうるさい鳥の声のなか草花を採りに行こうとは思わない。秋山こそ深く分け入り、木の葉を見、紅葉を手にとって草花を楽しみ物思いに興じることができるのです。私は秋山をとります。(意訳)


春山と秋山、どちらがよいかとのご下命によりお歴々が集う席上、
春秋の優劣つけがたくあるなかで、額田王は歌で、私は秋山がよい
と きっぱり主張したものです。
曖昧にしない恐れを知らぬ勝ち気な女性らしい若々しい歌です。
また大変に負けずきらいな性分のようです。

近江大津京での一こまでしょうか。
額田王はもう天智天皇の宮人です。天智天皇の熱い信頼のもと、こうした大胆な発言をしています。
本当に天智天皇を愛し始めていたと思います。光り輝く額田王の歌です。

飽くなき自己顕示欲の強い女性とも言えそうです。
秋を好むと言っていますが、内向的な女性ではあり得ません。



額田王26歳(38歳)

天皇遊獦蒲生野時額田王作歌 
@20

茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや   きみがそでふる
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
紫草生える野を行き、標縄を結う野を行き、番人に見咎めはしないだろうか、
君が袖振るお姿を


額田王はすでに天智天皇の宮人です。大海人皇子は25歳です。

斉藤茂吉は「万葉秀歌」のなかで言っています。
「この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかい、対詠的にいっているので、
 濃やかな情緒に伴う、媚態をも感じ得るのである。」

天智天皇の狩り場の中で、
額田王は周囲に気にもとめずに自分に向かって袖を振る天武天皇の大胆なお姿をみて、
かつての妻として彼の身を心配している思いやりが感じられます。
また、もうあなたの妻ではないのだからと自分の身をあきらかにし、
自分に戒め言い聞かせているようにもみえます。

(追記)知人から「紫野行き、標野行き」は「紫野逝き、標野行き」であると、
藤村由加氏の「額田王の暗号」に書かれています、と教えて戴きました。

確かに意味がまるで違ってきます。突きつめると、
大海人皇子の元を去り、天智天皇の元に入った、と自ら言い切ったようです。
(2011.05.04)



皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇謚曰天武天皇

皇太子の答へましし御歌
@21

紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
むらさきの にほへるいもを   にくくあらば  ひとづまゆゑに あれこひめやも
紫草の にほえる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我れ恋ひめやも
紫の色の美しく匂うような美しいあなたを憎いはずがありません。
人妻となったゆえに心惹かれるのです。


紀曰
天皇七年丁卯夏五月五日 縦葛於蒲生野(「葛」は、けもの偏をもつ)
于時 大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉

668天智7年丁卯、夏5月5日、蒲生野に縦猟したまふ。
時に大皇弟・緒王・内臣と群臣、悉皆に従なりという。


蒲生野遊猟時の額田王に対する恋歌。有名な天武天皇の額田王への恋の歌です。

真率な表現で堂々と燃えるような恋情を訴えています。
あなたは人の妻となって、紫の色の美しく匂う花のようにますます美しくなった、
と額田王を讃えたのです。

ここでは、大海人皇子25歳、額田王26歳として鑑賞したいものです。

若い大海人皇子の歌とすれば自然なのです。
この情熱的な歌を、宴席で披露された40歳近い中年男女の掛け合いの歌とか、
秘められた不倫歌だと水をさす必要はありません。
むりに年取らせた解釈は無用です。

天智天皇もこの二人の歌を聴いていたはずです。
弟、天武天皇の歌を通して、
なるほど確かに額田王は自分のところへ来て美しくなったと思いを新たにしたに違いありません。
天武天皇の頭の良さが冴え渡る場面です。
かつての妻に こそこそと振る舞うことはせず、堂々と皆に向かい元の妻の美しさを褒め称えたのです。
うわwwww やべぇwwww 面白すぎるwwwwwwwwwwwwwwww
額田王 25〜29歳(37〜41歳)


額田王思近江天皇作歌一首
額田王、近江天皇を思ひて作る歌1首(8−1606に重出)
C488

君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
きみまつと あがこひをれば わがやどの すだれうごかし あきのかぜふく

君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く
天皇の君を待つ私の恋の思いに、秋の風が吹き、すだれを動かすのです。


天智6年〜10年の歌。
斉藤茂吉は「万葉秀歌」のなかで言っています。
「この歌は、当たりまえのことを淡々といっているようであるが、
 こまやかな情味籠もった不思議な歌である。
 額田王は才気もすぐれていたが情感の豊かな女性であっただろう。」
天智天皇を慕うようになった30歳前の女性の自然な思いです。

これを額田王40歳のころの歌とするから意味不明な解釈が飛び交うのです。


天武天皇の年齢研究−孝徳天皇の年齢
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage53.htm
中臣鎌足は中大兄皇子(天智天皇)に巡り会う前、
多くの王と会い盟主を探していたようです。
それは戦国時代の自分を生かす指導者を捜す浪人の姿を連想します。

日本書紀は眼前の蘇我入鹿を憎む という狭い理由を掲げていますが、
ここは もっと広い意味で日本を変革したい という思いがあったのです。

自分の主君に相応しい職さがしの為に あらゆる代表に会っていました。
そのなかの一人に軽皇子がおり最後に中大兄皇子と巡り会うのです。

日本書紀は皇極天皇の頃、
中臣鎌足が中大兄皇子と知り合う前、軽皇子こと後の孝徳天皇と知り合っていたことを紹介しています。

皇極紀3年1月1日

三年春正月乙亥朔、
以中臣鎌子連拜~祗伯。再三固辭不就、
稱疾退居三嶋。
于時、輕皇子、患脚不朝。
中臣鎌子連、曾善於輕皇子。
故詣彼宮、而將侍宿。

中臣鎌子連、爲人忠正、有匡濟心。
乃憤蘇我臣入鹿、失君臣長幼之序、侠韜隕社稷之權、
歴試接於王宗之中、而求可立功名哲主。

「三年春一月一日、
 中臣鎌子連を~祗伯に任ぜられたが、再三辞退してお受けしなかった。
 病と称して退去し摂津三嶋に住んだ。
 このころ輕皇子も脚の病で参朝されなかった。
 中臣鎌足は以前から輕皇子と親しかった。
 それでその宮に参上して侍宿をしようとした。

 〜

 中臣鎌子連は人となりが忠正で、世を正し救おうという心があった。

 それで蘇我臣入鹿が君臣長幼の序をわきまえず、
 国家をかすめようとする企てを抱いていることを怒り、
 つぎつぎと王家の人々に接触して、企てを成し遂げ得る盟主を求めた。」
宇治谷孟訳


通説では このとき軽皇子(孝徳天皇)は49歳、
そんな年寄りに自分を託そうなどと考えるほうがどうかしています。
中臣鎌足は このとき25歳です。通説でも31歳。
天智天皇(中大兄皇子)は19歳でしかないのです。
此処で軽皇子(孝徳天皇)と天智天皇(中大兄皇子)の年齢差に矛盾ができるが 其れは後述に

本稿では このとき軽皇子(孝徳天皇)は29歳で中臣鎌足とは同年齢代の人間と仮定してます。
まさに乙巳の変を目前に控え、
皆自分から前に出ようとする若いエネルギーが爆発する一瞬でもあったと思うのです。
大化の改新が 随分と違って見えてくるね。

これらを考えるとき、あの大化の改新について再考する必要があると思います。

645大化元年6月14日、孝徳天皇即位に際して、7名のブレーンが発表されます。

日本書紀 孝徳天皇

是日、              この日に、
奉號於豐財天皇、曰皇祖母尊。   みなを豐財天皇に奉りて皇祖母身尊と曰さしむ。
以中大兄、爲皇太子。       中大兄を以て、皇太子とす。
以阿倍内麻呂臣、爲左大臣。    阿倍内麻呂臣を以て、左大臣とす。
蘇我倉山田石川麻呂臣、爲右大臣。 蘇我倉山田石川麻呂臣を以て、右大臣とす。
以大錦冠、授中臣鎌子連、爲内臣。 大錦冠を以て、中臣鎌足に授けて、内臣とす。
増封若于戸、云云。        封を増すこと若干戸と、云々。
中臣鎌子連、懷至忠之誠。     中臣鎌子連、至忠(いさお)しき誠を懐く。
據宰臣之勢、處官司之上。     宰臣の勢によりて、官司の上におり。
故進退廢置、計從事立、云々。   故、進退、廢置、計従、事を立つと、云々。
以沙門旻法師、          沙門旻法師、
高向史玄理、爲國博士。      高向史玄理を以て、国博士とす。


この日に、645大化元年6月14日に、
号を皇極天皇に奉って皇祖母身尊と呼んだ。
天智天皇こと中大兄皇子を皇太子とした。
阿倍内麻呂臣(阿倍倉梯麻呂)を左大臣とし、
蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣とした。
大錦の冠位を中臣鎌足連に授け、内臣とした。
封(食封)若于加増した、云々とある。
中臣鎌子連は至忠の誠を抱き。
宰臣としての宰臣として諸官の上にあった。
その計画はよく人々によく従われ、物事の処置はきちんときまった、云々とある。
沙門旻法師(日旻)、及び
高向史玄理を国博士とした。


つまり大化の改新を推進したのは次の8名です。


孝徳天皇       父は茅渟王、母は吉備姫王。
           そのため、直系の舒明天皇の娘、間人皇女を皇后として娶ります。

皇極上皇       孝徳天皇の実の姉です。皇祖母身尊と呼ばれた。

中大兄皇子      後の天智天皇で皇極天皇の子です。この時、皇太子となります。

阿倍倉梯麻呂     左大臣となります。孝徳、天智の両天皇に娘を納めています。

蘇我倉山田石川麻呂臣 右大臣となります。孝徳、天智の両天皇に娘を納めています。

中臣鎌足       内臣として、大錦の冠位を授けられました。

沙門旻法師(日旻)  国博士(国政上の顧問)

高向史玄理      国博士



日旻(にちみん)法師は高向玄理(たかむこげんり)とともに、
608推古16年に中国に渡った遣唐使の同期であり、
632舒明4年に日旻のほうが先に帰国、次いで640舒明12年に高向玄理が帰国しています。


大化の改新は孝徳天皇を中心とした この8名により運営されたとしてもよい表現です。
よく、大化の改新は天智天皇と中臣鎌足でなされたもの、
孝徳天皇は傀儡とした意見を耳にしますが、
大化の改新は やはり この8人全員の参加なくしてはあり得なかったと思います。

孝徳天皇も このとき理想に燃えていたはずです。


しかし、その5年後を境にして、この孝徳天皇を囲むブレーンが次々死んでいきます。

649大化5年 3月17日 左大臣、阿倍倉橋麻呂が難波京で没。

        3月25日 右大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣、自殺。

653白雉4年 6月    摂津の阿曇寺で日旻法師没。

        ?月    天智天皇らは難波宮の孝徳天皇を離れ、大和に戻る。

654白雉5年 2月    高向玄理、遣唐使に任じられ日本を離れ、唐で客死。

       10月    孝徳天皇、一人失意のなか難波宮にて薨去。



653白雉4年孝徳天皇の知恵袋でもある日旻が亡くなると、
天智天皇は、孝徳天皇の反対を押し切り、難波宮を離れ大和に戻ってしまいます。
このなかに、孝徳天皇の姉、皇極上皇、孝徳天皇の皇后、間人皇后、天武天皇がおり、
百官が ことごとく鼠の群れのように これに従い難波宮を離れたといいます。

しかし、奇妙にみえますが中臣鎌足だけは難波宮に一人留まりました。
翌年正月に孝徳天皇より中臣鎌足だけに紫冠を授けられ、加増までされているからです。
賞罰の決定権は天皇にあります。
皇太子である中大兄皇子が中臣鎌足に紫冠を授けたはずはないのです。



そして、2月に大化の改新のメンバーの最後の一人、
高向玄理までもが遣唐使を任じられ、日本を離れてしまいました。
かなりの高齢であったはずですし、命がけの大陸への旅路です。
一行は2月と5月の二船に分乗して出発しました。

「留連すること数月、新羅道を取りて、莢州(らいしゅう)に泊まり、遂に京に至りて、天子に観え奉る」
とあり、伊吉博徳の言葉として、押使高向玄理をはじめ、学問増恵妙、覚勝らが、
唐で客死し、他に3名が遭難死したことを伝えています。



ついに10月1日孝徳天皇は病の床につきます。
それを聞いた天智天皇は、皇極上皇、孝徳皇后、天武天皇ら公卿と
再度、難波宮に赴き孝徳天皇を見舞ったとあります。
たぶん、中臣鎌足が知らせたのでしょう。

まるで死神のような中臣鎌足の存在です。



こうして10月10日に孝徳天皇が難波宮の正殿で崩御されました。
8名で始めた大化の改新のメンバーは一挙に5名が亡くなり、
皇極上皇、天智天皇、中臣鎌足だけになりました。

歴史上の大改革、大化の改新は幾多の矛盾を露呈し、事実上の終焉を迎えました。
しかし、この理想は その後の日本の政治を形作るうえでの重要な指針となったことも事実です。



大化の改新は天智天皇中心ではなく、亡くなられた孝徳天皇を中心とした、
阿倍倉橋麻呂、
蘇我倉山田石川麻呂臣、
日旻法師、
高向玄理らが興した理想郷を目指した政治改革だったのではないでしょうか。

それを現実派の天智天皇、中臣鎌足、皇極上皇の離反から瓦解したものと考えてみました。

天武天皇の年齢研究−天智天皇の年齢
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage55.htm

と書きながら 此処では天智天皇の年齢よりも その周辺事情が中心に書かれている。
中大兄皇子が、蘇我入鹿を殺した乙巳の年644皇極4年を21歳としているところから、
天智天皇は47歳没と計算されます。
日本書紀との記述に1歳の差があるものの ほぼ正しいとして、日本書紀の記述を採用します。

蘇我氏はもと物部氏と同祖とみられる系譜が残っています。
天智天皇は幼少のころは葛城皇子ともいわれ、物部氏=蘇我氏と関係あることが指摘されています。

中臣鎌足の年齢は日本書紀から668天智8年56歳没とあり、藤氏家伝書も同様に56歳没の記述があり、生年が「甲戌」とあることから614推古14年甲戌生まれとされていました。

本稿ではこの中世の頃、天智天皇と中臣鎌足の年齢は同年であったとする風説があったと考えました。

その理由は、同じ藤氏家伝をよく読むと「大臣以、豊御炊天皇、卅四年歳次甲戌」とあり、中臣鎌足大事は推古天皇34年甲戌に産まれたことになりますが、この推古天皇34年は「丙戌」年に当たり、「甲戌」年ではありません。この推古天皇34年は現在、考えられている日本書紀の記述から逆算した天智天皇46歳説の生年に当たります。

藤氏家伝自身が矛盾しているわけですが、間違いを犯しながらもここでも天智天皇の生年と同じとするこだわりがあったと考えたわけです。

天智天皇の后妃たちをよくみると、
蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘と大友皇子の母、
宅子娘を除いて どれも年齢が若いと推測できます。

つまり、乙巳の変で蘇我入鹿を殺した頃の天智天皇には妻が二人しかいなかったことになります。
その5年後の白雉1年、大化改新も軌道にのってきた頃から、
天智天皇は人が変わったように女性を物色し始めます。
そして天武天皇と同様、白村江の敗戦の直後は一時期おとなしい天智天皇でしたが、
弟の妻、額田王を手に入れるなど、この頃の天武天皇ほどの ひどいブランクは見当たりません。

また、文献で知れる天智天皇の后妃達の身分は高いものとそうでないものと半分半分と思われます。

しかし、その身分ある娘たちは皆、
父親が天智天皇に殺されたりして亡くなったあとに后妃として迎えられたものであることがわかります。


天智天皇は よく知られているように、蘇我入鹿を暗殺しました。俗に乙巳の変と言われています。

しかし、これまた よく知られているように他にも殺害は繰り返されました。
可能性のあるものをここに列挙します。

下記に示した「年齢」は天智天皇の年齢です。


645皇極4年 20歳 古人大兄皇子 殺害。        娘、倭姫王12歳

649大化5年 24歳 左大臣、阿倍倉梯麻呂が難波京で没。 娘、橘娘 13歳

            右大臣、蘇我倉山田石川麻呂、自殺。 娘、姪娘 11歳

654白雉5年 29歳 孝徳天皇 病死。

658斉明4年 33歳 孝徳天皇の息子、有馬皇子19歳を殺害。



孝徳天皇をはじめとした、
大化の改新のメンバー
阿倍倉梯麻呂、
蘇我倉山田石川麻呂、
高向玄理、
日旻についての死は 孝徳天皇の項で述べました。



右大臣蘇我倉山田石川麻呂が自殺に追い込むと
若い娘(11歳くらいか)、姪娘を手に入れ、
後に御名部皇女と阿閇皇女(後の元明天皇)を産ませています。

左大臣阿部倉橋麻呂の娘も13歳くらいの年に この父を失いました。
その娘、橘娘は天智天皇に嫁ぎ、後に飛鳥皇女と新田部皇女(天武天皇妃)を産んだのです。

天智天皇の義兄、古人大兄皇子の娘、倭姫王も
たぶん義兄を殺した後に手に入れたものです。
古人大兄皇子が殺されたとき、倭姫王はまだ12歳ぐらいと思われるからです。
後に倭姫王は天智天皇の皇后となる娘です。

こう考えると、
天智天皇の卑賤なものを除く高貴な身分の妃達の殆どが、
その父を殺されたあと次々と取り込まれていった者達でもあったのです。



最後に一般的に言われていることですが、
兄天智天皇と弟天武天皇との血縁関係を憶測ぬきで
ここでは事実だけを述べます。

日本書紀にのる天智天皇の子供達14名(皇子4名、皇女10名)のうち、
弟天武天皇に嫁いだ皇女は4名、鸕野皇女、大田皇女、新田部皇女、大江皇女で
天武天皇の皇子に嫁いだ皇女は2名、阿閇皇女、山辺皇女です。

しかし、日本書紀以外でも夫婦であったと記録されるものに、
大友皇子と十市皇女、川島皇子と泊瀬部皇女、施基皇子と託基皇女の3組の関係があります。
また、近年の学説まで広げれば、御名部皇女と高市皇子、飛鳥皇女と忍壁皇子ともなり、
天智天皇の子供14名中11名が天武天皇 もしくは その子供と夫婦関係を結んでいたことがわかります。

逆に関係を取りざたされなかった者は3人で、建皇子、泉皇女、水主皇女となりますが、
建皇子は8歳で夭折されていますから厳密には二人だけとなります。

なお、こうした関係を本稿では個々に すべてを認めているわけではありません。



しかし、このように天智天皇と天武天皇の二人の兄弟関係は
異常ともいえる閉鎖的な血縁関係で結ばれていたといえそうです。
おそらく わざとだろうけど この人は何故か言及していないけど
論説を並べていけば答えは一つ
孝徳天皇の実子の可能性が低い天智天皇
 と 
孝徳天皇の実子の可能性が高い天武天皇
という、どう見ても 義兄弟による政略結婚による縁戚関係の強化ですねwwwwwwwww

つまり実際には
「“孝徳天皇)と中臣鎌足”の大化の改新」なんだけど
「“中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足”による大化の改新」 という話ばかりが先行する理由は
“中大兄皇子(天智天皇)に箔を付ける為 もしくは 実は単なる鉄砲玉扱いだった?w
のような話だったと思えば 大化の改新 が随分と違って見えてくるかな。



天武天皇の年齢研究−義兄 古人大兄皇子の年齢
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage54.htm

【古人大兄皇子の関連年表】

615推古23年  1歳 古人大兄皇子降誕(本稿)
626推古34年 12歳 天智天皇降誕
629舒明 1年 15歳 父、舒明天皇即位
641舒明13年 27歳 父、舒明天皇崩御
643皇極 2年 29歳 蘇我入鹿が斑鳩宮を急襲、山背大兄王を自殺させる。
645皇極 4年 31歳 6月12日乙巳の変。蘇我入鹿暗殺。
               13日蘇我蝦夷殺害。
               14日古人大兄皇子は吉野山に引きこもる。
                  孝徳天皇即位

             9月謀反の罪により天智天皇により殺害される。

日本書紀に「大兄」とあり、9月の「或本伝」に「古人太子」として、古人大兄皇子は舒明天皇の長男にして皇太子に準ずるものであったと言われます。

乙巳の変のときは三韓の調を貢る日に天皇のそばに侍しています。そんな高い位の古人大兄皇子の年齢はいくつだったのでしょう。

ここは舒明天皇の長男として、舒明天皇20歳の時に生まれたとまず、仮定してみました。すると645大化元年9月、34歳で後の天智天皇こと中大兄皇子による乙巳の変のあと殺されたことになります。

しかし、舒明天皇が崩御されたとき、この古人大兄皇子が即位せず、皇后が位を引き継いだ大きな理由の一つ、後継者がまだ未熟など、定まらないためです。

また、蘇我入鹿が山背大兄皇子を急襲したのは古人大兄皇子に天皇位を就かせたいが為です。古人大兄皇子が相応しい年齢に近づいたからと思われます。当初34歳案では、舒明天皇が崩御されたとき31歳となり、十分天皇に即位する資格があったことになります。30歳以上が天皇即位に相応しい年齢だったと思われます。よって、父、舒明天皇が亡くなったときは30歳に足りなかったと考えたいのです。

そこで、上記のバランスを考慮して、31歳で亡くなられたとしました。

遠山美都男氏も「天皇と日本に起源」のなかで古人大兄皇子は乙巳の変の「当時おそらく三十歳前後であったと思われる」と述べられています。

つまり、父、舒明天皇が亡くなったとき、27歳で30歳に満たないという条件に違わず、山背大兄皇子を殺された年は29歳で、蘇我入鹿は来年にでも古人大兄皇子を即位させる準備に入ったことを意味する理由になります。そして、乙巳の変で中大兄皇子が蘇我入鹿を殺した31歳の年、古人大兄皇子は当事者の中大兄皇子より天皇になるよう進められます。これは天皇になれる年齢に古人大兄皇子が達していたことを意味しています。しかし、当然危険を感じた古人大兄皇子は即位を辞退するわけですが、結局その後、中大兄皇子らに殺されることになるのです。この経緯は後の天武天皇への天智天皇の即位催促の逸話にそっくりです。このとき、天武天皇こと大海人皇子も天皇位につける年齢になろうとしていたのです。これが本稿での解釈です。

乙巳の変は興味深い事件です。

詳細な記述は後日に譲るとして、ここでは舒明天皇のもう一人の息子について触れます。

蚊屋皇子は吉備国が母の母国となる大豪族の家系です。

母を蚊屋采女(かやのうねめ)と書かれています。吉備国から捧げられた蚊屋一族の娘です。一口に吉備国といっても家系には、下道、上道、香屋(賀夜、賀陽、蚊屋)、三野(御野)、苑(薗、曾能)、笠(賀佐)などの諸氏がいたといわれます。

乙巳の変で古人大兄皇子を奉じていた蘇我入鹿が殺されると、古人大兄皇子は自ら天皇位に就くことを断り、吉野に隠棲してしまいます。

こうまで頑なに天皇位を拒み続けたのには理由があります。自らを天皇へと奉じた蘇我本宗家が滅び、何時しか自分の周りには味方するものは少なく、父の妻の一人であった現天皇、皇極天皇一派によって固められていたのです。身の危険さえ感じていたのでしょう。

しかし、吉野に退いたとはいえ、世間では彼のことを吉野太子、古人太子と讃えます。くしくも中臣鎌足が言ったように、彼は正統な天皇の後継者であり年長者でもあるのです。外戚の皇極天皇一派に天皇位を奪われたという機運もあったのではないでしょうか。事実、天皇当事者である皇極天皇は自分の位をまず、息子の天智天皇に譲ろうとして、天智天皇の参謀である中臣鎌足の助言で断られてしまいます。すると彼女は古人大兄皇子など眼中にないかのごとく、実弟の孝徳天皇に天皇位を譲ってしまうのです。

こうなると、天皇家の純血は薄まるばかりです。同時にそのことは、皇極天皇一派にとっては純血の古人大兄皇子がますます煙たい存在となるのです。



日本書紀によれば、古人大兄皇子が謀反を企てた仲間には、蘇我田口臣川堀、吉備笠臣垂、倭漢文直麻呂、朴市秦造田来津がいたとあります。つまり彼らが吉野の地に同行していたのです。そのなかの、吉備笠臣垂が裏切り密告したとあります。

これが蚊屋一族の同胞である吉備国のものです。おそらく、蚊屋皇子は古人大兄皇子に見方していなのではないでしょうか。意外かも知れませんが皇極天皇一派はわりと閉鎖的な集団です。蚊屋皇子としては皇極天皇に味方しにくいのです。ましてや世間的には古人大兄皇子のほうが正統なのです。吉野に同行したかは別として蚊屋皇子は古人大兄皇子に同情的でした。



しかし、一族は決断します。汚名を浴びようが生きる道を選んだのです。

天智天皇の祖母の名も吉備姫王というからには吉備国にゆかりがあった女性です。彼女にすがったのかもしれません。

その後の蚊屋皇子の足跡はありません。しかし、蚊屋の地名が近江にあり続けます。また、古人大兄皇子謀反の仲間たちの多くはその後にも活躍し日本書紀に名を残しているのです。

日本書紀に言うとおり、一族のものである古人大兄皇子とその子が殺され、妻妾が自殺したのです。古人大兄皇子の血だけが根絶やしにされました。

あえて こういうコピペの仕方をして見ます
古人大兄皇子の死後、娘の大倭娘皇女が天智天皇の皇后になりますが、古人大兄皇子20歳のときの子として考えると、天智天皇より8歳年下ということになります。古人大兄皇子が亡くなったとき、大倭姫王は12歳です。どうも、そのあと、娘を奪った気配がしています。別で述べる予定ですが、天智天皇の性癖と思われるところがあります。孝徳朝時の左大臣阿倍倉梯麻呂の娘や右大臣、蘇我倉山田石川麻呂の姪娘も同様で、父親を殺したのちに幼い姫たちを娶ったと思われる節があるのです。

しかし、この倭姫王には天智天皇への挽歌が万葉集に4首も残ることから、必ずしもお飾りだけの日陰の皇后ではなかったと思います。


日本書紀に言うとおり、一族のものである古人大兄皇子とその子が殺され、妻妾が自殺したのです。古人大兄皇子の血だけが根絶やしにされました。

ただ、その中に唯一人、倭姫王が渦中から拾われます。12歳より若いと思われる年です。後日天智天皇の皇后となる女性です。なぜ、妾ではなく皇后にしたのでしょう。ここに天智天皇が血族としての天皇になる資格のないものだったのではないのかと疑うひとつの理由があります。

天智天皇の晩年、自分の天皇位を譲りたいと弟に相談したとき、天武天皇は断りながらもその天皇位は皇后の倭姫王に託したほうがいいと言っているくらいなのです。

この二人の兄弟にとって、倭姫王とはなんだったのでしょう。そうまでして、なぜこうも天皇家の純血にこだわらなければならなかったのしょう。


天武天皇の年齢研究−天武天皇の年齢
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage640.htm

では大化の改新とは 結局に何だったのか?




"孝明天皇" 死因 - Google 検索
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"孝明天皇" 死因 暗殺 - Google 検索
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"公武合体" "孝明天皇" 死因 暗殺 - Google 検索
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最近 ウチを被リンクしている他のサイト(ネトウヨ系)の過去の記事を調査しているみたいですねw
ごくろうさまですw












posted by 誠 at 06:11| Comment(0) | TrackBack(0) | (゚∀゚) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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