「連合軍が進攻して来たら、パリを焼き払え」 ヒトラーが叫んでいた頃、
ドゴールやらはパリ解放の作戦を練っていた。
その映画が有名な「パリは燃えているか」だが
今この言葉を読む者達には 映像の世紀の音楽「パリは燃えているか」の方が思い浮かぶかもしれない。
http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/Paris%20brule%20t%20il.htm
やがて劇的な8月25日、連合軍がパリ市内に入った。
ノートルダムの鐘が響き渡り、パリ市民は狂喜して町に溢れ出した。
その頃、投降したコルティッツ将軍の部屋の受話器から、
甲高いナチス総統ヒトラーの声が叫んでいた。
「パリは燃えているか!」
とっくに核の炎へ包まれた極東の一諸島だが 其の汚染の中で
今日も馬鹿で豚にすぎない一般民衆は幸せそうで それを狩り殺す連中も幸せそうでした。
ならば 俺のしている事は それこそマヌケな事なのかもしれない。
だから俺は 此処で言うよ
極東は核で燃えているか?
異民族へ この言葉は通じないだろうけど。
https://twitter.com/secretarykyoko/status/269453542304145408調べれば調べる程に グダグダな攻撃でしかない情報が出てきてしまう訳で。
おはよう日本から2人目なんだ、強制わいせつ。
http://www.j-cast.com/2012/11/16154325.html?p=2
https://twitter.com/jhatajinan/status/269456783641309185
この記事には電車内で捕まえたとも書いてある。 しかし向かい合って胸を揉むとは大胆ですな。
https://twitter.com/secretarykyoko/status/269439001012887552
どんなに混んでいても、痴漢が居たら速攻移動して身を守りますよね。
痴漢の腕取って「この人痴漢です!」なんて普通は言えないですよ、
こわくて。
https://twitter.com/jhatajinan/status/269439282261938177
彼女は、それ(このひと痴漢です!)を、電車を降りてからやったわけだ。
電車の中で、なぜ、やらなかったのか?
https://twitter.com/secretarykyoko/status/269441291023171585
どうしても許せなくて捕まえたかったと仮定しても、
それなら余計に電車内で言って、目撃者募りたいですよね。
降りられちゃったら逃げられるかもしれないし、「いや、違います」って言われかねないし。
https://twitter.com/jhatajinan/status/269441155425505280
通常、痴漢は迷惑条例違反だ。逮捕されても容疑を認めて罰金を払えば すぐに釈放される。
確か20万円とか。
しかし、NHK森本は強制わいせつ容疑。
被害者である23歳の女性が親告し、立件されたということだが、翌々日に処分保留で釈放。
うーむ、何かが解せない。
https://twitter.com/kiraramaron/status/269431531846660096
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012111501001017.html
女性が二子玉川駅で電車から降ろし、取り押さえた。
http://w01.freezepage.com/a/13530/72310DWJUBXUBGG/0
被害者の女子大生は「大声を出せず、逃げることもできなかった」と話している。
バラバラの証言が出てくること自体がおかしい!
https://twitter.com/jhatajinan/status/269387894077140993
午後八時だから、こんなガラガラなわけはない。
http://yfrog.com/oe9m8cgj
https://twitter.com/jhatajinan/status/269442181255811073
やはり、NHK森本が本当に痴漢していたとしたら条例違反で逮捕されるべきだった。
被害女性が親告し強制わいせつが立件された
ということは、
目撃者がいなかった
ということの裏返しである。
普通に混んでいる電車内で10分以上も胸を揉んでおいて目撃者がいない方がオカシイ。
https://twitter.com/secretarykyoko/status/269437641672499200
渋谷から二子玉川まで急行で14分。
途中停車駅の三軒茶屋は渋谷から4分。
私も過去田園都市線使っていたのですが、
もし渋谷から変な人がそばに来たら三軒茶屋ですぐ降ります。
23歳の女の子が よく二子玉川まで触られっぱなしで我慢したなあ
というのが正直な感想。
で こういう奴が現れる つーかtwitterの画像は どう見てもヤンキーのチンピラ車だが
https://twitter.com/namasekiyan/status/269399186565369856
目撃者多数!どうしても不可解なら駅員に聞いてみたらいいんじゃない?
https://twitter.com/namasekiyan/status/269400984520908800
車内でもだよ!
あんたのツイート見たけど、あの時間帯は田園都市線は混雑する時間帯だ!
伊達に頻繁に使ってませんから…
https://twitter.com/namasekiyan/status/269403484716167168
駅員じゃないよ!目撃者が車内にいたんだよ!
相も変わらずに 安い工作員ばっかり使うんだねぇ
https://twitter.com/jhatajinan/status/269405748147138560
板橋在住のヤクルトファンは 実際に強制わいせつの場面に遭遇したわけではない。ということだ。
https://twitter.com/jhatajinan/status/269406457932423168
そして、『痴漢行為を直接見たのか』という問いかけにはスルーし続ける。
https://twitter.com/jhatajinan/status/269524393422626817
NHK森本を押さえつけて筋肉痛になったヤクルトファンの板橋在住のガソリンスタンド勤務の男
であるが、
うーん、ツイッターで頻繁にやり取りしていた相手(y_kxxxx、yukiと呼んでる)が
いつのまにか鍵付きに。
大勢に見られて恥ずかしくなっちゃったのかね。
https://twitter.com/jhatajinan/status/269432998439579648
大体
NHKで番組司会をやったりしてて、
けっこう知名度ある人が酒を飲んでタクシーで帰らない
というのがおかしいんだよね。
だって酔っ払って電車に乗って顔バレしたら会社として悪印象を与えるはずで、
そういうことは避けなさい と ちゃんと教育されていたと思うんだよね。
https://twitter.com/jhatajinan/status/269431158226432000
同感w なんで電車に乗るんだろうね。
RT @ma_chako ガソリンスタンドの整備士が「仕事柄しょっちゅう列車移動する・・」って言ってるらしいけど
そんなはずないですよねw
https://twitter.com/jhatajinan/status/269375900355796992
原発事故を検証する番組の司会をやったNHKディレクターを痴漢容疑で押さえつけた人は
この人? http://yfrog.com/h7f0ndpuj
普通にテロ攻撃そのものだよね コレ。
そこまでに どうしようもなく下劣で下品なテロをしてくる連中が居る というのが分かる。
だから散々に言ってきたよね、そういう連中がいる とね。
一般民衆がコレをされたら ひとたまりも無いだろうね。
https://twitter.com/AmboTakashi/status/269369116752760833
そもそも11/14の午後7時〜8時の話なのに
露骨なまでの宗教右翼カルトの下僕でしかない日刊スポーツは
ろくな記事も無い翌日の11/15の一面には 充分に記事の差し替えの時間は間に合うはずなのに 全く載せず、
わざわざ翌々日の11/16の一面へは大きく報じる
https://twitter.com/AmboTakashi/status/269369602243444737
何らかの情報工作の意図が無ければ このズレは説明が付かない。
少なくとも 情報の工作を企図する存在が確実に動いている事を完璧に証明している。
あの痴漢報道は、当該の放送局NHKだけではなく 全メディアへの見せしめ。
恐怖政治としてのテロ攻撃を 此のタイミングで仕掛けてくる、
それは如何なる指示系統で動く連中なのか?
そういう者達とは 如何なる者達なのか?
コイズミ時代と全く変わらない 其れは戦前の恐怖政治と全く変わらない、
そう思えばこそ俺は 宗教右翼カルト という言葉を使っていくしかない って思うんだよね。
宗主国サマ をも含めた その厳格な階級序列の観念論を言って行く方を俺は選んだんだよね。
スロウ忍ブログ@Blogger: テキサス州を始めとする20州が米合衆国からの独立を要求。愈々(いよいよ)“米帝”の誕生か。
http://surouninja.blogspot.jp/2012/11/20.html
いわゆる“南部”のテキサス州やフロリダ州が真っ先に独立を要求しているのはアメリカの“南部” という言い回し、は如何なる意味になるのか?
恐らく 今回の米大統領選でオバマが再選され
ミット・ロムニー(カルト保守勢力)が敗退したことにも関係があるのではないかな。
ジョージ・W・ブッシュ - Wikipedia第46代テキサス州知事を務めた。
フロリダ州知事を務めたジェブ・ブッシュは弟。
アメリカの“南部”とは如何なる意味を指すのか?
本多勝一の アメリカ合州国 が 其の辺りを書いてくれている。
それを極めて分かりやすく教えてくれるのが
アラン・パーカー監督の「ミシシッピー・バーニング Mississippi Burning (1988年)」
という映画である、
こういう言い方をする事は殆ど無い俺だが、ウチのブログを見る人達ならば 必ず観るように、と言う。
今の極東の一諸島で起きている事と完璧に類似するからである。
あ ちなみに映画とする為に 史実とは大きく異なる脚色をされている。
つーか そうでもしないと公開できない程の内容だからね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0
時は公民権法制定前の1964年。ミシシッピ州も“南部”であり 検索予測では普通に「ミシシッピ州 差別」と出る。
ミシシッピ州フィラデルフィアで3人の公民権活動家が行方不明となる。
それを調査するために、ベテランFBI捜査官2人(ウォードとアンダーソン)が
公民権運動家の失踪した田舎町に捜査に行く。
ところが、その町では人種差別が公然と行われており、
さらに事件の捜査を開始した二人に対し街のKKKや警察等が捜査の妨害を図ろうとする。
しかし、2人は失踪した3人の行方を究明しようと試みるのと同時に、人種差別主義者も追いつめていく。
ネトウヨや宗教右翼カルトとは如何なる連中か? ニホンジンのコッカのニホンとは如何なる存在なのか?
それを完璧に教えてくれる映画である。
なので“不思議な”wikipediaでは 内容の本質 を無視して瑣末な話しか書いていない。
平然とテロ攻撃をする 拉致監禁をする 暗殺と虐殺をする。
そういう連中 とは如何なる存在なのか?
http://movie.goo.ne.jp/movies/p8712/story.html
64年6月、執拗なまでに俺が 宗教右翼カルト という言い回しを使う理由は、其処に有る。
ミシシッピー州ジュサップの町で起きた3人の公民権運動家の失踪事件を重要視するFBIは、
全てに対照的で時には対立さえするが 2人の腕きき捜査官を現地に派遣した。
その2人とは
元郡保安官でたたきあげのルパート・アンダーソン(ジーン・ハックマン) と
ハーバード大出のエリート、アラン・ウォード(ウィレム・デフォー)、である。
しかし 町の人々は非協力なだけでなく、激しい敵意さえも明らさまにする者達まで居る。
少しでも捜査に協力的な態度を見せた人々は、何者かに家を焼かれたり、激しいリンチに晒された。
そして 町の人々は再び口を重く閉ざすのだった。
FBIは大掛かりな遺体の捜査も行われたが、手掛かり一つ見つけることができない。宗教右翼カルトと男根主義 という言い回しをまで わざわざ俺は使うんだけどね。
焦立つFBIウォードに対し
FBIの叩き上げのアンダーソンは、
「街の 保安官のスタッキー(ゲイラード・サーテイン) と その助手ペル(ブラッド・ダリフ)」
の仲間たちが事件に関わっている
という確信を抱き、ペルの妻(フランセス・マクドーマンド)を訪ねる。
ペルの妻から 「夫 と この町に嫌悪している」と聞かされ
彼女から事件の糸口を探ることができるのでは、とアンダーソンは感じていた、
しかし その間にも“公民権運動の一つフリーダム・サマー”の行進に参加した黒人青年が
瀕死の重傷を負うリンチをうけ、またある黒人の家が焼き打ちされる。
だが この焼き討ちの現場を目撃した1人の少年の証言から、3人の容疑者が裁判にかけられる
しかし、地方裁判所の判決結果は 露骨な不平等を極め ほぼ無罪も同然で、容疑者は放免される。
その直後、街のアチコチで激しい焼き打ち行為が起きる。
目撃証言をした少年の家も焼かれ、彼の父親は集団リンチで撲殺され 挙句に木に吊るされる。
だが この事件をきっかけに、FBIの叩き上げのアンダーソンは
告白をする決心をしたペルの妻 から
街の保安官の夫が失踪事件に関わっていること、
そして彼ら3人の遺体が埋められた場所
などを聞き出すが、
ベルの妻は その告白を知った夫のペルから 激しい暴行を受け重傷を負う。
此処へへ至り FBIのアンダーソンのウォードも もう手段は選べない と其の根幹に有るモノは全く解決していない、
実は「陰で糸を引く町長」 を痛めつけてでも口を割らせる、
という 一歩でも間違えば大変に危険な手段へと出る。
だが その手段は成功し
次々と町長の口から 事件に関与した人物達の名前 と その動機が明かされる。
ついに事件の核心は姿を見せた。
事件は解決し それなりに裁判は判決を下した、尚に異様な判決は出続けるが。
しかし これで全てが終わったわけではないのだ。
という強烈な意味合いを突きつけた映画だった。
当時は 其の意味の根幹を理解するモノは皆無だったろうね、
実際 知人達は誰も真っ当に理解できなかった。
かろうじて 本多勝一や旧式左翼が人種差別や公民権運動を語る程度だった。
俺はさ、右翼と靖国とカネ と並べて考えれば完璧に同じじゃん、って幼い頭ながらに思ったんだよね。
ネットの時代が来て そういうのを俺は此処で書いている。
テロ攻撃が起き続ける 其の情報の流れを見ながらね。
今のUSAは
ブッシュ政権の 当然の結果でしかない失政 の反動で急速にリベラル化しており、
カルト保守勢力を使って合衆国全体を操縦し辛くなってきた富裕層が
愈々(いよいよ)、急進的な方法を取り始めたということだろう。
米国のカルト保守勢力が愈々(いよいよ)、本物の「米帝」を誕生させそうな悪寒である。
カルト保守色が濃縮された「米帝」では、
多国籍企業の利益が人命よりも重視される傾向が強くなり、
“米帝軍”は、多国籍企業の“実験”と“利益”の為だけに周辺国へ侵略戦争を仕掛けることだろう。
万が一、日本政府がカルト保守勢力に唆されて米帝の下請けを行うようなことになれば、
日本国民の生命は間違い無く危険に晒されることだろう。
国内のカルト保守勢力(民主、自民、公明、国民新、みんな、維新、太陽)が大集結しつつあり、
どう考えても次期衆院選で彼奴らが有利である以上、其の虞(おそれ)は現実の物と成りつつある。
ほんとうの「ミシシッピ・バーニング」
http://www.fujinaga.org/blog/bt/2005/01/post_77.html
1964年、ミシシッピ州ネショバ郡で、半世紀の後になってから冤罪を覆したからって
有権者登録運動を推進していた人種平等会議(CORE)の活動家3人が、
保安官に交通違反で逮捕された後、KKKに身柄を引き渡されリンチで殺害される
という事件が起きた。
大阪で起きている事 や 不思議な痴漢が起きる
と非常に類似している気がするのは きっと勘違いでしょう。
DL刑事罰が 如何なる使われ方をするのか? と邪推する方がオカシイのでしょうね。
この事件は映画『ミシシッピ・バーニング』のモデルとなった事件である。
だがしかし、映画は肝腎なところで史実を誤って伝えた。
否、公民権運動家が激怒する形に脚色したのである。
でも 80年代のUSAで此れを映画にして広く情報流通させようとする のならば
とも思う。
第一に、映画ではFBIが大活躍するが、これはまったく史実と反していた。
公民権運動家やミシシッピ州の黒人は何度もFBIや司法省に保護を求めたのだが、拒否され続けた。
その結果リンチ事件が起きたのである。
第二に、映画では、獅子奮闘するFBIが犯人を逮捕し起訴するのだが、これも史実とは異なっていた。
3名を殺害したのにもかかわらず、有罪判決をうけたものは 結局に僅かである。
しかも殺人罪ではなく、公民権侵害での起訴なので、六年以上の懲役に服したものは一人も居ない。
しかし、21世紀になってミシシッピ州警察が、
この度、この「悲劇」の解決に向かって ようやく大きな一歩を踏み出した。
三人をリンチしたKKKのリーダー、エドガー・レイ・キレン(Edgar Ray Killen)を殺人罪で逮捕、
大陪審も起訴を決定したのである
(なお60年代の捜査では、「陪審員全員が白人の大陪審」が審理し、不起訴処分に終わっていた)。
当時、ボランティアとして運動に参加していた黒人女性の大学生は、
この事態の急転に関して、こう述べている。
「ありきたりのことだけど、こう叫んだわ、ついにやったのよ!って」。
さらに、リンチ事件が起きる日まで三人と行動を共にした公民権運動指導者のひとりで、
現在も南部で活動に従事しているローレンス・ギヨーはこう述べる。
「生きて この日を見てやる、そう祈っていきてきました。
このために闘い続けてきたんですから。夢にさえみたくらいです。
それがやっと現実になりました。
これでミシシッピ州当局はこう断言したことになります
ーーこの州において、二度と再び、政治的暗殺を許容することなどあってはならない」。
さらに同じく運動指導者のひとり、ヒーザー・トビアス・ブースはこう語る。
「これから得た教訓がありますかって?、それだったらこういうことです。
正義を求める闘いはいまも続いている。団結すれば、歴史を変えることだってできる」。
其の根幹を突き詰めていかなければ意味が無いと思うんだけどね。
少なくとも極東の一諸島に生きる俺達は そのUSAの下僕でしかないニホンジンのコッカのニホンの司法が
それ以上の大量虐殺と民族浄化に加担し続けている現場を見続けているからね。
ここにくるまで実に長い時間が経った。甘いわな、だけど 彼らには彼らの戦い方が有る、それ以上には言う必要性も無い。
そのため、殺害された大学生の母親は80歳代になっている。
それでも確かにミシシッピの歴史の大きな部分が書き換えられ、そうすることで歴史が変わった。
なお、キレン容疑者(左写真)は無罪を主張。
さらに公判が行われた裁判所には、爆破予告さえあった。
だからこそ、もう一度このことばを胸に刻まねばならない。世界がこんなにも暗いからこそ。
「団結すれば、歴史を変えることだってできる」
ミシシッピ公民権運動を鼓舞したゴスペルにこんな節がある。
This little light of mine, I'm gonna let it shine, let it shine, let it shine, let it shine!
むしろ 此方の状況を見れば それ以下の無残でマヌケな状況が拡がっているんだからね、何をか言わんや だ。
史跡めぐり・「フリーダム・サマー」活動家三人の暗殺
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_16.html
追悼式の発起人の一人で新聞社社長のJames Princeに面会しました。
私がJames Princeに2002年のK.K.K.の行進の話をすると、
「まだK.K.K.は この町を昔のままであるかのように世界に印象づけたいんだ。
われわれは地域住民に
『行進を無視するように。見に行かないでくれ』
とキャンペーンをした。
憲法で保障された権利により、K.K.K.といえど行進する権利はある。
われわれは それを妨害することは出来ない。
しかし、見物が少なければ彼らを失望させることは出来るだろうと思ったんだ」
とJames Prince。
彼と そのフィラデルフィア連合は、
緩やかな歩みで町の"redemption"(贖罪)を行い、町の誇りを取り戻そうとしています。
この時点では州司法省は実際には再捜査を約束していず、
James Princeは もどかしい思いを感じていたようでした。
2004年の末、州司法省は突如「三人の殺害事件は2005年の初めに決着をつける」という談話を発表。
そして2005年1月6日、
フィラデルフィアのK.K.K.のリーダーだったEdgar Ray Killen(エドガー・レイ・キリン、現在80歳)が
逮捕されました。
Edgar Ray Killenは
"Preacher"(説教師)というニックネームで呼ばれていますが、
実際にバプティスト系の司祭の資格を持ち、今でも時折り説教を行っているそうです。
当時は製材所のオーナーであり、保安官の職に立候補したこともありました。
1967年の「公民権を覆す陰謀」裁判で彼は「結論出ず」として罪を免れていました。
しかし今回、「殺人事件」としての初の容疑者として逮捕されたのです。
Edgar Ray Killenの逮捕劇には次のような舞台裏があります。
2004年9月、殺されたAndrewの母親Carolyn GoodmanとAndrewの弟David Goodman(デヴィッド・グッドマン)は、The Philadelphia Coalition(フィラデルフィア連合)のリーダーたちと共に州都ジャクスンに赴き州司法長官Jim Hood(ジム・フッド)に面会したのです。
David GoodmanはK.K.K.の告発を懇願しました。「私の家族のためばかりでなく、ナショバ郡と州のために正義を実現してほしい。負ける予感があってさえ訴えを起さねばならない時もある筈だ」と州司法長官の説得に努めました。
裁判は2005年6月16日に、事件が起きた事件が起きたPhiladelphiaにおいてMarcus Gordon(マーカス・ゴードン)裁判長の前で開始されました。
検察側には州司法長官Jim Hoodが直々に参加するという背水の陣。
陪審員は白人九人、黒人三人という人種構成で、これだと検察側に辛い事態になりそうでした。
この日は、奇しくも
K.K.K.が41年前に活動家三人をおびき寄せるために黒人の教会に火を放ち、全焼させた日でした。
裁判の模様を伝えるため、全米はもとより世界数カ国から報道陣が駆けつけました。
41年前の事件ですから、もう大体の証人は あの世へ行ってしまっています。
検察側は昔の二回の裁判で証言された記録の幾つかを朗読するという手段に出ました。
昔の検事の質問は現在の検事が読み、証人の答えは検事の一人が朗読し、
反対尋問は現在の弁護士が読みます。
これは陪審員に聞かせるのが目的です。
検察側の決め手は、
容疑者Edgar Ray Killenが暗殺について誇らしい言葉を漏らした会話を聞いたとする証人でしたが、
この人物はレイプ犯として20年服役中という身でした。
弁護側は この男の兄を喚問し「弟の証言は嘘だ」と云わせました。
この辺は まるで映画のようでした。
証人の数が少なかったこともあり、裁判は駆け足で進行しました。
検察側の州司法長官が最終論告を行なった際、
彼はEdgar Ray Killenを指差し
「あの男です。あの男が三人の若者を死に至らしめたのです」
と陪審員たちに訴えました。
おいおいw
TVではEdgar Ray Killenのリアクションが捉えられました。
声は聞こえませんでしたが、明らかに"Son of a bitch!"(くそったれ!)という風に唇が動きました。
これが“説教師”と呼ばれた男の正体なのです。
6月20日、陪審員長は「6:6で膠着状態」と裁判長に報告しました。
三名の黒人陪審員に加えて三人の白人が有罪に傾いているというのは良い知らせでしたが、
このまま行けば40年前と同じ「結論出ず」という結果に終わる懸念もありました。
しかし その翌日の6月21日、
陪審員たちは「manslaughter(故殺)の罪で有罪」という全員一致の評決をもたらしました。
容疑者Edgar Ray Killenは「殺人罪」で起訴されたのですが、
殺人で有罪にするためには
本人が拳銃を撃つ、
三人を殺せと指示した明白な事実
を立証しなければなりません。
「故殺」とは、計画的殺人ではなく、
感情の激発によって衝動的に殺人を行なったというもので、
刑罰は軽くなります。
傷害致死つーか過失致死って事かな。
実はこれ 裁判長が陪審員への最後のインストラクションにおいて、
「検察側は殺人を立証出来なかった。殺人より軽い故殺の罪も視野に入れて結論を出しなさい」
と云った影響によるものです。
後に陪審員の一人がある大新聞に寄稿した記事を読むと、
「われわれは この事件が“殺人”以外の何ものでもないことを知っていた。
しかし、検察側は“殺人”で有罪に出来る証拠・証言を法廷へ提出が出来なかった。
われわれは過去に知ったことや思い込みで人を裁くことは出来ない。
そんなことをしたら、それはK.K.K.のやり方と同じになってしまう。
“故殺”は立証された範囲で妥当かつフェアな結論だと考えている」
と述べていました。
陪審員による有罪評決を受け、裁判長は
「どんな生命にも価値がある。前途ある青年たちの命も尊重されるべきであった」
と、一件につき故殺の罪の上限である20年の刑期を云い渡しました。
犠牲者が三人ですから、計60年。
この6月21日という日は、ちょうど41年前に三人の青年が殺された日でもありました。
弁護側は州最高裁に控訴し、同時にEdgar Ray Killenの保釈を求めました。話は 此処で終わる そんなぁww
同じMarcus Gordonを裁判長とする法廷で、再び検事側と弁護側が顔を合わせました。
それぞれの云い分を聞いた裁判長は
「検察側は、被告人を保釈することが社会に対して危険であると立証出来なかった」
として、州最高裁裁判までの期間の保釈を認めました。
実際には、Edgar Ray Killenが刑務所にいた間、
「自殺する気はないだろうね?」という獄吏のお決まりの質問に対し、
「おれが自殺するのはあんたを殺してからだ」と応じたという証言もあったので、
この保釈には疑問の声が寄せられました。
全国紙'Washington Post'さえ
「Edgar Ray Killenにも控訴する権利はある。
しかし、それまでの期間自由を味わう権利はない」
と主張しました。
9月初旬、州がEdgar Ray Killenの保釈無効の訴えが起し、
再び同じ裁判長の前に検察側と弁護側が対峙しました。
検察側は
「Edgar Ray Killenは木の下敷きになり下半身が不自由で、刑務所内では充分に治療出来ない
と主張していたが、
保釈中一人で車を運転し、ガソリンスタンドで一人で立って給油していた姿が目撃されている」
として、数名の警察官に証言を述べさせました。
裁判長は「下半身が不自由」という被告の申し立てが虚偽に基づくものであること知り、
「真実を述べる者は公正な扱いを得るが、法廷で虚偽の証言をした者はそれなりの扱いを受けることになる」
と、保釈を取り消す判断をしました。
Edgar Ray Killenは自由の身を剥奪され、刑務所へ舞い戻ることになりました。
結局どうなったのかなぁ
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/kinema/1350429056/l30
10 :無名画座@リバイバル上映中:2012/10/20(土) 22:52:30.94 ID:3uoPtAgb
Edgar Ray Killenは三回の判決を受け、合計20年の刑を受けた。
上告は2007年、ミシシッピ最高裁で棄却された。
Wikipediaを見るとこう書いてある…?
http://wikipedia.qwika.com/en2ja/Edgar_Ray_Killen
18 :無名画座@リバイバル上映中:2012/11/02(金) 22:43:15.42 ID:nR8KBvUw俺達が抱く感覚との違い に気付けない者達は 大馬鹿野郎かパラノイアか詐欺師で有ろう。
FBIの叩き上げ刑事を演じるハックマンへ 南部の人間が
「あんたはもう南部の男じゃない」
と言うが、其の背景には かつては北部白人による南部白人への蔑視もあったのだとか。
「グローリー」でも描かれているね。
南部は教育も行き届いておらず、
その粗野で下品な姿に
南北戦争で壊滅的な被害を受けた南部へ救済の手を差し伸べようとしたが
なのに北部白人層は拒否反応を示す。
其れは 北部側が訴えた人種差別からの解放 ではなく 北部側が持つ経済差別 だった。
リンカーンの暗殺で南部の再建の遅れは確実となる。
南北戦争での 南部での人種差別は消えず 北部のの経済差別は顕著になる。
だから1960年代の公民権運動まで その問題が残され続けた。
ミシシッピー・バーニングの頃までのUSA人は 自由平等を謳いながら
内実は階級意識が旺盛で、其れが北部では経済差別 南部では人種差別と結びつく。
FBIは
上の下(なんだかリーグ?)ぐらいの大学を出ていて体育会系を自認する連中が大半だったとか。
そういうのも
映画ミシシッピー・バーニングの二人のFBIの刑事を演じたハックマンとデフォー
の刑事としての関係に現れていると思う。
19 :無名画座@リバイバル上映中:2012/11/03(土) 09:32:12.23 ID:O+ON9aoC
ハックマンがデフォーにするビンタ のシーンは強烈!
其処かよw
27 :無名画座@リバイバル上映中:2012/11/08(木) 18:05:07.14 ID:Pf+CnMx+
相手に「ミスター」を付けながら怒鳴り合うシーンがある映画って中々ないんじゃないかな?
デフォーは行儀がいいから、ハックマンは上司だから。
あー なるほどね。ホント良く練られている映画なんだよね。
29 :無名画座@リバイバル上映中:2012/11/16(金) 01:57:15.87 ID:KZ8Vf7pA
>>27気付かなかった(笑)
日本の公務員でいうと
デフォーがキャリア組でハックマンがノンキャリみたいな認識でいいのかな?
21 :無名画座@リバイバル上映中:2012/11/04(日) 00:51:39.72 ID:L0Dyxw09
犠牲者の葬儀での牧師のスピーチ
(YouTube)
ttp://www.youtube.com/watch?v=CSCaDVR5nJU&sns=em
「今日、私の中には怒りしかない!
白人に殺された黒人の葬儀に行くのは もううんざりだ!」
「ミシシッピ・バーニング」……「傷害致死」なわけないだろう。
http://nofrills-o.seesaa.net/article/190027661.html
映画「ミシシッピ・バーニング」のモデルとなった殺人事件がおきたのが1964年。
英国の映画作家アラン・パーカーによって映画が制作・公開されたのが1988年。
主謀者が逮捕・起訴されたのが2004年。
殺人罪(故意による殺人)で有罪の評決および懲役60年の判決が出たのが2005年。
評決が出たときの記事(CNN日本語):
http://cnn.co.jp/usa/CNN200506220004.html
量刑が申し渡されたときの記事(BBC):
Preacher jailed over KKK killings
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/americas/4124258.stmBBC記事より:
……控訴するんかい。
それはそうと,上記引用の最後の部分,manslaughter charges と murderが対置されていますが,manslaughterは"The unlawful killing of one human by another without express or implied intent to do injury",murderは"The unlawful killing of one human by another, especially with premeditated malice",
つまり殺すつもりで殺すのがmurder(殺人罪)。
「カッとなって」などの場合がmanslaughter。murderの方が重い。
日本の制度でいう「殺人罪」と「傷害致死罪」のようなものらしい。
つまり検察は,被告は殺すつもりで殺したのだと考えていた。これから極東の一諸島でも ニホンジンのコッカのニホンによって 似たような事件が大激増するだろうね。
一方で陪審は,被告は殺すつもりで殺したのではないという評決を出した。
1964年から41年もかかった「法の裁き」。
何が明らかになった?
1964年に殺された3人はなぜ殺されたのか。
彼らが公民権運動をやってたからKKKが殺したんじゃないのか。
今回の評決は明らかにすべきものを明らかにしていない。
殺された3人は微罪(交通違反)で警察に引っ張られ,
夜中に釈放された直後に,KKKの一団に襲撃された。
死体は見つからないように埋められた。
行方不明になった3人の捜索が行なわれ,1ヶ月半くらい経ってから死体が発見された。
これが,結論的に「傷害致死」なのか?
もっとも それと類似するのが「福島第一原発テロ事件の全容」なんだけどさ
それでも この陪審の判断に基づいて,判決は下された。
3人の死者一人一人について懲役20年。合計で60年。
80歳の被告はあと60年生きることはないだろう。
しかし被告が3人を殺してから40年間は,1967年に公民権侵害で法廷に立っただけで
(Killen was tried in 1967 on federal charges of violating the victims' civil rights. But the all-white jury was deadlocked. --BBC),
あとは,3人を殺していない人達と同じように自由人として過ごしてきた。
Strange Fruitという曲がある。
日本では「奇妙な果実」として知られている。
1930年代終わりに米国の黒人女性歌手ビリー・ホリデーが歌ったものが有名だ。
その歌詞は大体こういう内容――
「南部の木には奇妙な果実がなる
葉っぱにも根っこにも血が
黒い身体が南部の風に揺れる
ポプラの木に奇妙な果実がなっている ……」。
(歌詞全文は http://www.pbs.org/independentlens/strangefruit/film.html。)
ビリー・ホリデーがこう歌ってから25年くらいして,黒人公民権運動のメンバーがリンチされて殺されたのだ。
その後の40年で南部がいかに変化したかがBBCの記事(上掲の記事とは別のもの)
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/americas/4084996.stm
で語られている
――いかに白人優越主義が薄らいだかが。
でもそれは,薄らいだだけであって,なくなったわけではない。
しかし被告はmurderではなくmanslaughterで有罪となった。っていうか 此の極東の一諸島におけるニホンジンのコッカのニホンでは
murderであっても,量刑の懲役60年が例えば80年になったりするようなもので,
被告の80歳という年齢を考えれば現実面では あんまり違いはないかもしれない。
でもこれは,manslaughterという結論で終わらせて済まされる事件ではない。
量刑(懲罰)を科すことではなく,何があったのかを明らかにすることが,ほんとの目的。
そうじゃないのか?
此の事件が 如何なる背景の下に起きていて 如何なる結末を迎えたのか
を見つける事すら 未だに困難な状況だからね。
それ以前の状態 どうしようもなく手遅れな状況だからこそ
東電OL殺人事件の渡邊泰子は 未だに売春婦の汚名が晴らされていない訳で。
他国の事なんか言えたモノでは無いわな。
http://eiganotomo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-6b43.html
ちなみに本作を観た時は、私は大学生だったのですが、この程度で ならばよし としなければならない段階で、
それまでアメリカにおける人種差別の歴史など全く知らず、
「公民権」という言葉も本作で初めて知るような状況でした。
しかしそれは私だけではなく、私と同年代の人達の多くがそんな状況だったという事が重要であり、
それが本作に対する衝撃度の大きさに結びついてきたのだと思っております。
どんだけ この150年に この65年に 俺達は捨ててはならないモノを捨ててきてしまったんだろうね
って思うんだよね、手遅れだよなぁ とか思っちゃうんだよね。
https://twitter.com/masakarinuts/status/269499454514688000
誠天調書さんがよく良い方法が有ります、2者択一です。
「下士官層がボチボチとやれることをやり、百年先に漸くチョットましになるかどうか」
といった事を書かれている。その通りだろう。
しかし、自分の子供達が成人するまであと十年程。
これ以上酷い国にならないようにと考えるが、有効な手段が思い当たらず、やりきれない気持ちになる。
・テンノウヘイカバンザイ シンベイホシュハウツクシイ と叫びまくりながら 受験勉強に勝ち残る
とした後ならば 運が良ければ徴兵されての福島送りが免除されます。
・国民の生活が第一 とか言い出すと
警察公安検察や宗教右翼カルトから拉致監禁と集団リンチを受けます
ミシシッピー・バーニングと全く同じ事が大阪で起きている以上は
東電OL殺人事件は非常に同じ背景が類推される以上は
平然と情報工作の為のテロでしかない痴漢冤罪を現在も仕掛けてきている以上は
来年は そういう選択肢が極東の一諸島の全土で突き付けられるんでしょうね。
それがウツクシイなニホンなんだからさ。
まだまだ序の口だと思うよ 今の状況はね。
史跡めぐり・アラバマ州の教会爆破事件 (1963) 公民権運動の盛り上がりはK.K.K.など白人至上主義者を苛立たせました。
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_14.html
1963年9月15日、アラバマ州北部の商業・工業都市Birmingham(バーミングハム)の
公民権運動の拠点16th Street Baptist Church(16番通りバプティスト教会)に
ダイナマイトが仕掛けられました。
日曜学校に来た黒人女子小・中学生4人が死亡しました。
Addie Mae Collins(アディ・メエ・コリンズ、14歳)、
Cynthia Wesley(シンシア・ウェズリィ、14歳)、
Carol Robertson(キャロル・ロバートスン、14歳)、
Denise McNair(デニーズ・マクネア、11歳)でした。
当時、Birminghamのいくつかの学校で人種統合が予定され、
黒人生徒が白人の学校に転・入学することになっていました。
人種差別主義者たちは その動きを阻止しようと躍起となっていて、
この教会爆破事件も その一環と考えられました。
しかし、犠牲となった4人の少女たちは誰一人として白人学校への転入予定者ではなく、
公民権運動のデモ行進にさえ参加したことさえありませんでした。
10時22分、その部屋の外壁に置かれた爆発物が炸裂。
四人の少女達を即死させ、礼拝中の会衆20人を負傷させました。
同日、
他の場所で一人の黒人青年が警官によって殺され、
もう一人の黒人青年が暴徒によって殺されました。
実は1940年代後半から60年代半ばにかけて、
Birminghamでは人種偏見に基づく爆破事件が50件も起り、
そのどれもが未解決でした。
人々は「Birminghamじゃなくて、"Bombingham"だ」と囁き合ったそうです。
ただ、それまでの爆破事件には概ね2本のダイナマイトが使われていたのに対し、
16th Street Baptist Churchでは20本ものダイナマイトが使われたことによって、
その残虐さが際立っています。
爆破事件当時、アラバマ大法学部で卒業を控えていたWilliam Baxley(ウィリアム・バクスリィ)は、
少女たちの死に愕然とし、
同級生に「この事件解決のために何かしたい。絶対何かするつもりだ」と語っていました。
彼は1964年に卒業し、アラバマ州最高裁の事務官になり、後年検事の職に就きました。
1970年に州司法長官の椅子を射止めると、
彼が真っ先に行ったことは教会爆破事件再調査のチームを編成することでした。
「この事件は私の四年の任期の最重要課題だ」と彼は語っています。
しかし、事件後十年も経っていて、再調査は難航しました。
一番のネックは事件当時最先端で捜査にあたったFBIの資料が閲覧禁止に分類されていて、
William Baxleyのチームがアクセス出来ないことでした。
この人が居なければ永遠に解決しなかった訳だ。
ニホンジンのコッカのニホン にも こういう開示がされない いや 速攻で廃棄された 証拠や物品や情報が
山のように有るんだろうなぁ。
William Baxley(ウィリアム・バクスリィ)は州知事の座を目指していましたから、爆破事件の解決によって黒人有権者層の支持を得ようとしたことは間違いありません。しかし、彼はオフィスにリンカーンやケネディの肖像を飾っていたほどで、公民権運動に対しての理解もあり、学生時代の“公約”を真摯に実行しようとしたのも事実でしょう。
William Baxleyは数年の間に幾たびかワシントンD.C.のFBI本部に赴き、資料公開を懇願しようとしましたがいつも玄関払いでした。ある時、古い友人であるLos Angeles TimesワシントンD.C.支社長に会い、非協力的なFBIの態度と、それにもめげず犯人を監獄送りにする決意を語りました。感銘を受けたその友人は、「William Baxleyは教会爆破事件の遺族をワシントンD.C.のリンカーン記念堂に連れて来て、抗議の記者会見をするらしい。これはいい記事になる」と司法省に漏らしました。すると、司法省から「記事はストップせよ。FBIは資料を公開する」と連絡がありました。一人の友人の機転によって、教会爆破事件再調査は最初の難関を乗り越えることが出来たのでした。
なぜFBIが検挙者を出さなかったか、そして情報提供を渋っていたかには、次のような憶測があります。教会爆破犯を指摘出来る有力な証人の多くはFBIへの情報提供者だった。つまり、K.K.K.の中の誰かを買収して内通者に仕立てあげた人々なので、検挙者を出せば内通者名を明らかにしなくてはならず、彼らの命が危ない。FBIとしては折角の情報源を使い捨てにしたくなかったので、検挙者を出さずに資料もしまい込んでしまったというもの。連邦司法長官とFBIの連携プレーが見られるようになったのはカーター大統領(任期1977〜1981)の時代からで、William Baxleyはちょうどそれ以前に悪戦苦闘した結果となったわけです。
William Baxleyは州司法長官を二期勤めました。州法が三選を禁じていることもあり、William Baxleyは自分の未来を州知事選に賭けましたが、1978年の挑戦は失敗に終わりました。投票者へのアンケート調査によれば、支持者のうち「教会爆破事件の解決」を理由に挙げている人はわずかに14%で、事件解決への努力は白人層の多くの票を失う結果となったようです。1982年、彼は副知事に選ばれ、1986年の州知事選に再度立候補しましたが、また敗れ、その後は弁護士として働いています。
やっとFBI資料の閲覧が可能になった頃は、
すでに州司法長官William Baxleyは任期の二期目に突入していました。
1976年、彼はBob Eddy(ボブ・エディ)という43歳の男を雇い、
Birminghamに駐在してFBI資料の閲覧と事情聴取を始めることを命じます。
Bob Eddyの調査で浮かび上がって来たのは
Robert Chambliss(ロバート・シャンブリス)という、
Birmingham周辺のK.K.K.の中でも最も粗暴で過激な男でした。
この男は"Dynamite Bob"(ダイナマイト・ボブ)というニックネームを持つほどで、
市内の爆破事件のいくつかへの関与が噂されていましたが、いずれも起訴を免れていました。
しかし、豊富なFBI資料とBob Eddyの執念が
Robert Chamblissを有罪に出来る証人発掘につながります
1977年11月14日、巡回裁判所における裁判が始まりました。
最も効果的な証人はRobert Chamblissの姪(Robert Chamblissの妻の姉の娘)で、
彼女は事件前日にRobert Chamblissが「日曜になれば分る」と云ったり、
事件を伝えるTV画面に向かって
「誰も傷つけるつもりじゃなかった。予定時刻に爆発しなかっただけだ」
と呟いていたと証言しました。
当時K.K.K.仲間だった男の妻で、事件の二週間前に夫婦でRobert Chamblissの家を訪れ、
トイレを探していて間違えて開けたドアの向こうで話しているRobert Chamblissと夫、
そして床に並べられたダイナマイトを見たという証言も有力でした。
11月17日、最終論告には州司法長官William Baxleyが立ちました。
彼は4人の少女たちの写真を手に、
「陪審員の皆さん、今日は少女たちの一人Denise McNair(デニーズ・マクネア)の誕生日です。
もし、彼女が生きていれば、23歳になっていた筈です」
と口を切り、少女たちの生命を奪った犯罪の証拠をおさらいしたあと、こう続けました。
「73歳の被告に同情なさるのなら、
この写真を見て頂きたい(彼は少女たちの検死写真を陪審員席に向けて並べた)。
Denise McNairに誕生日のプレゼントを上げて下さい」
判決は「有罪」で、Robert Chamblissは終身刑を云い渡されました。
実は調査員Bob Eddyは判決以前にその有罪を確信していました。
Robert Chamblissの妻は、彼に一言も「夫は無罪だ」と述べたことはなく、
「有罪となったら、彼は罰を受けるしかない」と漏らしていたからです。
Robert Chamblissは服役中の1985年10月に病死しました。81歳でした。
1965年の「Selma→Montgemory大行進」の直後に原爆ドームすら満足に残す事が出来ない ような程度にしか
公民権運動支援の白人女性を殺したK.K.K.数名が有罪となり、
1967年にミシシッピの「活動家三人の暗殺」の首謀者・実行犯のK.K.K.数名が有罪となったことはありました
が、いずれも「公民権を覆す陰謀」という連邦政府による告訴で、
刑も長くて十年という軽いものでしかありませんでした。
この教会爆破事件の裁判は、
深南部の州による告訴で初めて「殺人事件」として有罪を勝ちえた画期的な実績となりました。
なお、教会爆破事件の犯人の一人(教会にダイナマイトを置いた人物)はテキサスに逃げていて、
長らく捕まりませんでした。
元親族の証言などにより、年老いた元K.K.K.メンバーは逮捕され、
有罪が確定したのは2002年春のことです。
少女たちが亡くなって39年経っていました。
教会のガイド(黒人の中年女性)に
「もうBirminghamには人種的トラブルはありませんか?」と聞くと、
「とんでもない。就職とか出世にはまだ厳然と差別がある。
古い世代が各界のトップから去って、世代交代するまでは駄目ね」
私が「今の子供たちは白人も黒人も一緒に遊んでいますが」と云うと、
「そう、彼等が市や企業の要職に就くまで、待たなきゃならないのよ」
「かなり長い辛抱ですね」
「そうだわね」
彼女は(その頃は私はお婆さんで、就職も出世も関係無いわ)という言葉を呑み込んだように見えました。
云っても詮ないことですものね。
16th Street Baptist Churchの斜め前にKelly Ingram Park(ケリィ・イングラム公園)があります。
ここは黒人たちのデモ行進の出発地点や集会場として使われた場所だったそうです。
一見、ごく普通の公園に見えますが、中を歩くとびっくりします。
金属で作られたモニュメントが幾つか立っているのですが、
それらは警察権力による黒人デモ隊迫害をリアルに表現したものなのです。
白人警官が警察犬を黒人少年にけしかけている立像、
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/dog2.jpg
消防隊の強力な放水を受ける少年少女。
「私たちは拘置所を恐れない」と題された鉄格子に歩み寄る男女。
圧倒的なのは、両側から警察犬が飛びかかろうとしている小径です。
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/dogs.jpg
金属で出来た犬とはいえ、その間を歩くのは背筋が凍ります。
此の極東に一諸島における 本物の“一般民衆を守る社会環境”への啓蒙 は進んでいないんだよね。
こういうのを日頃に見れば 警察公安警察 とは外道である、という感覚を子供の頃から覚えていくからこそ
という 本物の“一般民衆を守る社会環境”への啓蒙 になるんだけど、
未だに道徳が テンノウヘイカバンザイ とか シンベイホシュハウツクシイ とか そんな状況じゃ オハナシニナラナイなんだよね。
んなもんは 外道が口にする言葉 とまで言い始めて ようやく入口に辿り着けるだけなのにね。
16th Street Baptist Churchの前には、
市によって建てられたBirmingham Civil Rights Institute(公民権会館)
という大きな建物があります。
付属の展示館は敷地をフルに使ったスケールの大きいものです。
ヴィデオでBirminghamが白人と黒人両方の力で隆盛への道を歩み始めた時期、
白人勢力が黒人を疎んじ始めた時期、
そしてK.K.K.が黒人を弾圧し始めた時期までを見せ、
スクリーンがスルスルと上がると、その向こうが展示のスタート地点になっています。
黒人たちの暮らし、差別の実態、公民権運動の歩みなどが
ヴィデオやリアルな展示で理解出来るようになっています。
最後はMartin Luther King, Jr.による有名なスピーチ
"I Have a Dream."(私には夢がある)の大画面による映像。
1963年8月、リンカーンによる奴隷解放宣言から100年経ったのを機に、
Washington D.C.で大行進が行なわれ、全米から25万人が参加しました。
その最後はリンカーン記念堂前における大集会で、
Martin Luther King, Jr.は締めくくりのスピーチを担いました。
このスピーチはCDやヴィデオでも聞けますが、
この展示館のヴィデオは大聴衆のリアクションを交えて編集されていて、
スピーチ単独よりも感動的でした。
史跡めぐり・Selma→Montgomery(アラバマ州)選挙権獲得をめざす大行進 (1965)
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_18.html
Birminghamの教会爆破事件はアメリカの黒人社会に衝撃を与えました。
それは燃え上がっていた公民権運動に油を注いだような結果をもたらしました。
州都Montgomery(モンガメリ)の西方にSelma(セルマ)という町があります。
人口20,000。
この町はアラバマ川に面し、もともと綿花の積み出しなど内陸港として栄えた町で、
アラバマ州のQueen Cityと呼ばれています。
周囲にプランテーションも多く、黒人奴隷を供給する奴隷市の町としても有名でした。
1965年当時、奴隷の子孫の黒人の数は白人を上回っていましたが、
町の黒人9,600人のうち選挙権が得られたのは たった150人(1.6%)でした。
選挙権登録は月に二日しか出来ず、
黒人の行列が長くなるに従い係の役人の昼の休憩も長くなる始末。
黒人の市内におけるデモ行進は、次第に暴力的に弾圧されるようになりました。
1965年2月18日、隣町Marion(マリオン)で黒人の集会が開かれた時、
参加者が州警官の一隊に襲われました。
殴られる母親と祖父をかばった黒人青年Jimmie Lee Jackson(ジミィ・リー・ジャクスン)に、
一人の州警官が至近距離から弾丸を発射。
Marionの病院はどこも彼を手当てしようとせず、
Jimmie Lee JacksonはSelmaに運ばれて来ましたが、数日後に死亡しました。
黒人たちの憤りは激しく、
「Jimmie Lee Jacksonの亡骸を州知事George Wallace(ジョージ・ウォレス)の足元に横たえよう」
という案が出ました。
これがいつしかSelmaから州都への大行進というアイデアに展開して行きました。
Martin Luther King, Jr.(キング牧師)は
このSelmaから Montgomeryへの「選挙権を求める大行進」に賛同しました。
1965年3月7日、キング牧師は
郷里ジョージア州 Atlanta(アトランタ)の教会に戻っていて不参加でしたが、
電話でゴー・サインを出していました。
SNCC(非暴力学生連盟)やSCLC(南部キリスト教指導者会議)などの先導で
500人規模の行進が始まりました。
警察も州知事もデモ行進を許可しなかったため、違法となることは承知でした。
ダウンタウンを出ると
すぐアラバマ川を渡るEdmund Pettus Bridge(エドマンド・ペタス橋)が架かっています。
橋を渡った地点に州の騎馬警官たちが待ち受けていて行進を阻止し、
デモ参加者に「町へ帰れ」と命じました。
動かないデモ隊に突如催涙弾が打ち込まれ、
警棒を振りかざした州警官、民兵が一丸となって襲いかかり、
逃げまどう人々をどこまでも追いかけました。
負傷者数65名という最悪の事態となり、
この日は"Bloody Sunday"(血の日曜日)と呼ばれています。
キング牧師は「安全を見極めて、行けるところまで行け」と指示し、
バックパックを背負っていたJohn Lewisすら
「50マイルも行進出来るとは思っていなかった」
と云っているほどで、誰もこの日曜日に遠くまで行けるとは思っていなかったのです。
参加者の多くは日曜礼拝の礼装のままだったり、ハイヒールの御婦人までいました。
留守部隊としてBrown Chapelに残ったSCLC幹部は、
「5日間の食料調達、テント設営場所の選定が火急の仕事だったが、それが現実的に必要とは思えなかった」
と語っています。
つまり、誰もが州警官やシェリフたちの強い妨害を予期していて、
“違法デモ行進”が町を出られるとは考えていなかったことが分ります。
John Lewisは彼の著書'Walking with the Wind'(Harcourt Brace, 1998, $16.00)でニホンジンのコッカのニホンの警察公安検察が そこまでしない と思う?w
次のように書いています。
「橋の中ほどでやっと進行方向が見えた時、そこには州警官隊がびっしりと横隊になって道を塞いでいた。
牧師Hosea Williamsは橋の下の濁った川の流れを見下ろしながら、
『あんた、泳げるか?』と聞いた。
私が『ノー』と応えると、『そうか』と微かな笑みを浮かべてHosea Williamsが云った、
『おれも泳げない』。『しかし』と、顔を水面から戻し、真正面を見据えながら彼は続けた、
『泳がなくちゃならんかもな』。
警官隊は我々に二分以内に廻れ右して戻れと命じた。
我々は600人が二列縦隊で並んでいて、二分で廻れ右して後退することなど不可能だった。
前進は州警官隊の牙に飛び込むようなもので、攻撃的に過ぎた。
唯一考えられるオプションがあった。
『ひざまずいて祈ろう』と私はHosea Williamsに云い、彼が頷いた。
しかし、まだ一分も経たないのに、警官隊に号令が下った、『前進!』」
この日の州警官、町の警官たちは警棒、鞭、ロープ、機関銃などを用意しており、
特に騎馬警官たちはカウボーイが牛や馬を扱うように黒人たちを鞭打ったそうです。
それ以上をする に決まってるじゃん。
つーか現実に ニホンジンのコッカのニホンは それ以上の大量虐殺と民族浄化を平然としているんだしさ。
"Bloody Sunday"の模様は全米にTVニュースとして流され、
警官隊が非武装の一般人を襲うその残虐さに非難の声が巻き起こりました。
キング牧師の呼びかけによって「Selmaを支援せよ!」と全米各地から皮膚の色を問わず沢山の人々が結集。
翌日、急遽駆けつけたキング牧師は様々な宗派の牧師を中心とするサポーター多数と共に
Edmund Pettuce橋に向け行進し、バリケードを築いている州警官達を前に祈りを捧げました。
この日は それだけで町に引き返し、デモ行進を正式に認める連邦裁判所の許可を待ちました。
時の大統領Lyndon B. Johnson(リンドン・B・ジョンソン)は議会で演説し、
「『全ての国民は平等』という約束がなされて100年以上経った。
その約束はまだ果たされていない。
今こそ正義が行われるべき時である」
と選挙権行使妨害防止法案を提出しました。
また、Selmaのデモ行進の正当性についても言及し、
アラバマ州警官隊を州知事から取り上げて連邦政府の指揮下に入れ、
行進の警護に当たらせることにしました。
大統領Lyndon B. Johnsonの演説は概略次のようなものでした。
「Selmaでは長く苦しんでいた男性や女性が、
アメリカ人としての権利を否定されていることに対し、平和的に抗議している。
多くの人々が荒々しく暴行を受けた。一人の善良な男性(神に仕える人)が殺された。
(略)
水曜日に私は議案を提出する。それは投票権を違法に妨げる障壁を根絶するためのものだ。
(略)
この議案が議会を通過したからといって、闘いが終わるわけではない。
Selmaで起ったことは、アメリカ合衆国のどの地域でも起りうる運動の一部分である。
それはアメリカの黒人たちが、
アメリカ人として受けうる十分な恩恵を確実なものにしようとする努力である。
彼らの主張は われわれの主張でもある。
単に黒人たちだけでなく、われわれ全部が、
偏見と不公平という出来損ないの遺物に"overcome"(打ち勝つ)しなければならない。
"And we shall overcome."(われわれは絶対に打ち勝つのだ)
(略)
一世紀が過ぎた。平等が約束されて100年以上が経った。
しかし、まだ黒人は平等ではない。
約束の日から一世紀経った。
約束は守られていない。
正義のときがやって来たのだ。
(略)
偉大で、豊かで、活動的な国というのは、
機会と教育と希望を全員に提供することが出来る…
黒人にも白人にも、
北部にも南部にも、
小作人や都市居住者にも。
次のようなものは敵である…
貧困、無学、病気など。
これらは敵であり われわれの同胞でも隣人でもない。
貧困、病気、無学、"And we shall overcome."(われわれは絶対に打ち勝つ)」
この演説は全体がヒューマンな視点で貫かれており、
アメリカ大統領演説の中でも際立ったものの一つとされています。
特に、公民権運動のテーマソングである
"We shall overcome"
が何度も登場するため、
これを聞いた黒人たちを狂喜させました。
キング牧師も聞きながら涙を流したそうです。
3月21日、日曜日、キング牧師夫妻を先頭に3,000人のデモ行進がスタートしました。その憤りの強さが無ければ 無理だろうね。
サポーターの白人も多く、カソリック、プロテスタント、ユダヤ教など、
さまざまな宗教の司祭、尼僧たちも参加していました。
州警官の援護によりEdmund Pettuce橋も無事に通過出来ました。
この「Selma→Montgomeryの行進」は有名なのですが、
どの印刷物にも参加者数や日数が記載されていません。
私は頭の中で せいぜい三時間程度の行進を想像していました。
私はMontgomeryからSelmaへと高速80号線を逆にドライヴしたのですが、
何と54マイル(87km)もあるのです。
結構きつい坂もあります。「こんな長距離を一日で歩けるわけない」と思いました。
「大行進」は平和裡に終わりましたが、
行進が終わってからは参加者は州兵の護衛もなく帰路に着かねばなりませんでした。
そして、また更なる一つの悲劇が高速80号線で起りました。
「大行進」には全米から多数のボランティアが駆けつけました。
ミシガン州デトロイトからマイカーでやって来た
39歳の白人女性Viola Liuzzo(ヴァイオラ・リウッツォ)も その一人でした。
彼女は四人の子の母であり、主婦でした。
彼女は行進の間は車による必要品運搬係として働き、
終了後はMontgomeryから行進参加者をぎゅう詰めにして、
出発点であるSelmaの教会に送り届ける役でした。
一回目の参加者輸送を終えたとき時刻は午後8時過ぎでしたが、
もう一往復すべく一人の黒人青年を同乗させてMontgomeryに向かう途中、
信号待ちで並んだ車に乗っていたK.K.K.四人に見咎められました。
彼らは同じアラバマ州のBirmingham(バーミングハム)近郊からやって来た連中でした。
K.K.K.はViola Liuzzoの車を追尾しながらピストルを抜き出し、
並走してこちらを向いたViola Liuzzoめがけて二発の弾丸を発射しました。
頭部を撃たれたViola Liuzzoは即死し、車は牧草地に乗り上げて停止しました。
K.K.K.が確認のために歩み寄って来た時、黒人青年は恐怖で失神し、死んだと思われて助かりました。
この辺は丘陵が続く牧草地帯なので目撃者も無かった。俺が 宗教右翼カルトのニホンジンのコッカのニホン という言い回しをするのも
しかし、実際には四人のK.K.K.が24時間以内に逮捕されました。
実は、K.K.K.のうち一人はFBIへの内報者だったのです。
彼は何度も殺人を止めさせようとしましたが、他の三人は聞かなかったそうです。
「公民権侵害容疑」による連邦地方裁では有罪となり、三人に懲役10年の刑が下りました。
しかし「殺人容疑」によるアラバマ州裁では三人は無罪になりました。
「殺人でも相手が黒人なら無罪」
という当時の“深南部の伝統”は、ここでも強固だったわけです。
伊達や酔狂じゃないつもりなんだけどね。
K.K.K.は黒人を蔑視し、極東の一諸島におけるネトウヨや宗教右翼カルトの 大馬鹿野郎やパラノイアのキチガイ沙汰
そういう黒人を助ける白人を"nigger lover"(黒んぼ贔屓)として殊更に憎みます。
しかし、一介の主婦を殺害しようという点に 彼らの下劣さと浅薄さが露呈しています。
Selmaの町外れのMile Marker(マイル・マーカー)は'Mile 87'です。
Montgomery方向へ24マイル(約30分)走った南側の'Mile 111'の標識のところが悲劇の場所です。
歴史的場所であることを示す標識は全くないので、Mile Markerだけが目印です。
慰霊碑は道路沿いの小高い丘の上に立っています。
1991年当時は慰霊碑だけでしたが、
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/liuzzo_memorial.jpg
人種差別主義者の度重なる冒涜的行為により、1999年に鉄格子の柵が付け加えられました。
と如何に酷似しているか? を考えれば 其の先を考えるのは難しくないと思うんだけどね。
1965年7月9日、米議会は選挙権行使妨害防止法案を立法化しました。
2003年の'Bridge Crossing Jubilee'(渡橋記念祝典)に参加しました。
毎年(7日未満の週を除く)3月最初の日曜日が祝典の日と定まっているそうです。
2003年は3月7日(金曜日)から祝典が始まり、
土曜日は9:00にパレード、11:00から18:00まで街頭音楽祭、
最終日の日曜日午前に「宗派に無関係の祭礼」の儀式があり、
2:00過ぎに記念の行進というプログラム。
午前中は雨もよいの陰鬱な空模様でしたが、
昼過ぎから晴れ上がって、三月というのに初夏のような暑さになりました。
この年は十回目の記念行進にあたります。
過去には現職大統領だったクリントンも参加したことがあります。
今年は各州の議員十名前後が参加。2:00にBrown Chapelに参加者が勢ぞろい。黒人も白人も、メキシコ人、そして日本人(私)もいます。プログラムには「行進前の集会」という文字があるのですが、実際には誰も何も喋らず、いきなり行進が始まります。John LewisやJesse Jacksonなど来賓を先頭に、2,800名の大行進。昔は敵だった警官たちが、オートバイや車でエスコートします。見ると多くの警官たちは黒人でした。市長も黒人ですし、この変化は目を見張らせるものがあります。今や懐かしい"Ain't Nobody Gonna Turn Me 'Round"や"Eyes on the Prize"など、公民権運動の“聖歌”の合唱。老けた顔の人ほど誇らしく、声高に歌っています。Edmund Pettus Bridge(エドマンド・ペタス橋)の上、キング牧師らが祈りを捧げた地点で犠牲者を悼み、まだこれからの運動達成が祈られ、その昔州警察官たちが待ち受けていた場所の傍らに作られている記念公園で集会が開かれました。先ず、John Lewisを讃える言葉、彼による記念碑の起工式、さまざまな人たちのメッセージ、若者たちの合唱、「大行進」を体験した老年合唱団の歌などが繰り広げられました。
2005年は「大行進」から40年目にあたりました。
2005年の渡橋記念祝典の後、約50名の人々が1965年の大行進を再現すべく、
五日間かけてSelmaからMontgomeryまで歩きました。
3月12日、終点の州議事堂前には約300名の人々がつめかけ、大集会が行なわれました。
1965年以前のアラバマ州で選挙によって選ばれた黒人の数はゼロでしたが、
2001年までには755人の黒人が当選するという成長を見せています。
南部全体で云いますと、1965年以前はたった70人であった黒人当選者数が、
2001年には7,000人となったそうです。
全ては
この大行進の成果である選挙権行使妨害防止法案によって、
黒人有権者数が飛躍的に増加したからにほかなりません。
ジェイムズ・メレディスの「恐怖への行進」 (1966)
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_20.html
1966年の「恐怖への行進」というのは
キング牧師の"I have a dream"で有名な「Washington D.C.大行進」(1963)や
「セルマ→モンガメリ大行進」(1965) に較べて、あまり知られていません。
しかし、James Meredith(ジェイムズ・メレディス)の個人的アイデアに端を発した この行進が、
結果的に当時の黒人の政治・社会的運動のターニング・ポイントとなるのです。
1962年にミシシッピ大学への初の黒人学生として転入を果たしたJames Meredithは、
いわゆる“活動家”ではありませんでした。
彼独自のポリシー、哲学を優先し、本来は孤独な一匹狼だったようです。
ミシシッピ大学卒業後、彼はナイジェリアの大学、コロンビア大学などで政治学、法学を学びました。
1966年6月5日、James Meredith(32歳)と彼の友人たち4人は、
テネシー州メンフィスからミシシッピ州ジャクスンまでの約220マイル(約354 km)の
「恐怖への行進」を開始しました。
英語では"March Against Fear"ですので、「恐怖に抗する行進」というのが正しく、
彼のミシシッピ大学への転入を阻もうとしたような
差別的、暴力的深南部の核へと行進する気概を象徴しています。
それはまた、白人たちの攻撃に対する恐怖心から
選挙権登録に逡巡している黒人たちの勇気を喚起する行動でもありました。
この行進は彼独特の方針で、
公民権運動の組織や活動家たちとは無縁の、
全く個人的な行動として行なわれました。
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/ms_map.jpg
James Meredithはルートとして
インターステイト・ハイウェイ(州間高速自動車道)55号線に平行する
USハイウェイ51号線沿いに歩くことにしました。
アフリカ探検隊が被るような帽子にアフリカ土産の杖という出で立ちでした。
ミシシッピ大学転入事件により彼は黒人たちにとって英雄でしたから、
沿道の野次馬は結構に多かったようです。
行進を開始して二日目、
ミシシッピの州境から16マイルのHernando(ハーナンド)という町の南へ差し掛かった時、
待ち伏せていたメンフィス在住の白人の散弾銃から発射された三発の鹿撃ち用散弾を全身に浴び、
彼はメンフィスの病院に担ぎ込まれました。
Hernando(ハーナンド)はとても小さい町です。これで たった5年w すごいねぇ。
James Meredithの一行が午後4時15分に この辺りに差し掛かった時、
9m離れた左手の薮からサングラス着用の一人の白人が立ち上がり、
「俺が殺(や)りたいのはMeredithだけだ」
と怒鳴ったそうです。
James Meredithは即座に身を伏せましたが、男は構わず散弾を彼の背中にぶち込みました。
FBIと州兵、警官などが車で後尾にいたため、発砲した男はすぐ逮捕されました。
アーカンソー州生まれのメンフィスの住人で建築関係の人間(当時無職、41歳)だったそうです。
この男は五年の刑に服すことになります。
キング牧師を頂点とするSCLC(南部キリスト教指導者会議)、
SNCC(非暴力学生委員会)、
CORE(人種的平等評議会),
NAACP(全国黒人地位向上協会)
などの主だった公民権運動指導者たちがメンフィスのJames Meredithを見舞いに訪れ、
銃弾によって自由への前進を止められるものではないことを示すため
「恐怖への行進」を継続させてくれと頼み、
James Meredithも了承しました。
キング牧師の非暴力運動には不満を感じている者達も少なくなかったが、
行進のシンボルとしてキング牧師が必要だったため、他の組織は決裂しないように努めていました。
行進のリーダーたちはJames Meredithが意図したルート(51号線を真っ直ぐ南下)を変更し、
その西のミシシッピ川デルタ地帯に分け入り、
分散したリーダーたちによって周辺の黒人住民に選挙権登録を呼びかけることにしました。
行進は少ない時で30人、多い時で250人ほどになりました。
町を通過する時は、住民が町外れまで参加しました。
ミシシッピ州知事Paul Johnson(ポール・ジョンスン)の指示で、
地元警察も白人たちの暴力行為が起らないように気を配っていて、平和な行進が続きました。
行程の丁度半ばの距離にGrenada(グレナダ)という人口10,000人程度の町があります。
行進以前は697人の黒人が選挙権登録しただけでしたが、
二日間で1,300人の登録者の増加をみました。
これは行進のリーダーたちには大きな成果でしたが、ミシシッピ州知事は激怒しました。
単なる行進だと思っていたのに、内実は選挙活動に化けてしまっていたのです。
黒人の選挙権登録者が増えることは、自分たち白人政治家の首を締めることに他なりませんのですから。
Grenadaの南西にあるGreenwood(グリーンウッド)という町はその後に 此の公民権運動に武装闘争派が出てくる事となる。
過去にも全米に名を轟かせたことがありまして、いずれも人種差別によるものでしたが
【http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/extra_fear_3.html】、
今回は様相が異なりました。
参加者は どの町でも黒人子弟のための公立学校の校庭や公園にテントを張って寝ることにしていました。
ところがGreenwoodの警察は
「Broad Street公園にテントを張ることはまかりならぬ」
と云い渡したのです。
Stokely CarmichaelとSNCCメンバー数人は逮捕され、留置場に入れられてしまいました。
六時間後、保釈で出て来たStokely Carmichaelは怒り心頭に発していました。
彼はマイクを握って600人ほどの聴衆に こう怒鳴りました、
「オレが逮捕されたのはこれで27回目だ。もう留置場に行く気はない。もう留置場には行かないぞ!」
そして、"We want black power!"と五回叫びました。聴衆は熱狂しました。
「今後、何が欲しいんだと聞かれたら、どう答えるか分ってるだろう?何が欲しい?」
聴衆は"Black power!"と応じ、これが何度も何度も繰り返されました。
この一幕は取材に当たっていたマスコミの恰好の素材となり、
"Black power"は全米に広まることになりました。
「武器を取って起て!」という合い言葉に変貌してしまいました。この言葉は、絶えない人種差別、改善されない貧困な生活などに焦りを感じていた全米の黒人たちを刺激し、デトロイト(ミシガン州)やクリーヴランド(オハイオ州)での黒人暴動、カリフォーニア州の黒人武装集団Black Panther(ブラック・パンサー)などを生む契機となりました。
"Black power"は「黒人の白人への反撃」ととらえる白人たちを恐れさせました。多くの黒人の公民権運動リーダーたちも反撥しました。キング牧師は「黒人至上主義は白人至上主義と同じように悪である」と発言し、NAACP代表は「"Black power"は裏返しのヒトラーであり、裏返しのK.K.K.である」と非難しました。
そんなリーダーたちの意見の衝突と反目を孕(はら)みながらも、「恐怖への行進」は続きました。
目的地の州都ジャクスンまであと20マイルと迫ったCanton(キャントン)での6月23日の出来事は、
まさに“恐怖”そのものでした。
例によって参加者は黒人用公立のMcNeal小学校の校庭にテントを張る計画でしたが、
地元役人は それを許可しませんでした。
Stokely Carmichael【http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/extra_fear_4.html】は
3,500人の参加者の先頭に立ち、裁判所→学校間の抗議の行進を開始しました。
学校には61人の州警察官が完全武装で待ち構えていました。
1/3の参加者は雲隠れしたものの、2,500人が踏みとどまり、テントを張り始めました。
心配したキング牧師はマイクを取り、
「我々は州警察官たちと闘うものではない。
しかし、ミシシッピの全ての留置場を一杯にする覚悟はある」
と告げました。
午後8時30分、
ただ一度の警告の後、州警察官たちはマスクを着用し、
催涙ガス弾を放ち、銃の台尻で人々を殴り、婦女子を蹴りました。
あるリポーターは「警官たちは逮捕するのではなく、懲らしめている!」と伝えました。
これは「セルマ→モンガメリ大行進」における「血の日曜日」の再現でした。
今回は大統領Lyndon B. Johnsonは事件を無視し、
連邦司法長官も何の手も打とうとしないのが異なる点でした。
キング牧師はLyndon B. Johnsonに失望しました。
今もCantonに住む黒人男性C.O. Chinn(C.O.チン、63歳)は当時25歳で、
この町から「恐怖への行進」に参加しました。
警官たちの暴行を受けた小学校は とても小さく、
そこへ催涙ガス弾をぼんぼん打ち込まれたので大変だったそうです。
「もうもうたる煙の中で逃げ惑う参加者の中には、
8歳とか10歳の子供もいたので、死人が出なかったのは奇跡だ」
と云っていました。
6月26日、日曜日。James Meredithが行進を始めて三週間後、
ついに行進はJacksonの州議事堂前に到達。
最後を飾るスピーチが始まった頃には参加者は15,000人に膨れ上がりました。
この行進によって ほぼ4,000人の黒人が選挙権登録を果たし、
推定約10,000人の地元住民が(行程の一部とはいえ)行進に参加したとされています。
「フリーダムサマー活動家三人の暗殺」(1964年)以来、
久し振りに全米の目がミシシッピに集まりました。
この時の「史跡めぐり」は本当にラッキーでした。Hernando(ハーナンド)で38年前にJames Meredithの狙撃事件があった場所を探しましたら、二人目に尋ねた博物館の人が、まさにその場所を教えてくれました。Greenwood(グリーンウッド)で"Black power!"集会があった場所を探したら、道を尋ねた三人目は何とその出来事に参加した人で、その場所はBroad Street Parkであることを教えてくれました。
Broad Street Parkで写真を撮っていたところ、黒人の紳士が話しかけて来ました。「インディアナ州から大学生数十人がバスでやって来て、公民権運動ゆかりの場所を見たり、市の主な施設を見て廻る。あんたも来ればいい」とのこと。この人物はDavid Jordan(デイヴィッド・ジョーダン)という州上院議員で、毎年北部の学生たちが「公民権運動ツァー」でGreenwoodに立ち寄ると、歴史的場所を案内する説明役を買って出ているのだそうです、北部の大学のいくつかで「公民権運動ツァー」を実施しているのは知っていましたが、いきなりそれにぶつかるとは思ってもいませんでした。この時のバス・ツァーはインディアナ州大サウスベンド分校の歴史クラスの男女学生たち21人で、白人・黒人両方が参加していました。私も彼らについて歩き、州上院議員の説明を聞きました。この時さらに幸運だったのは、参加者たちがガイドブックとして手にしていた本'Weary Feet, Rested Souls'を見せて貰ったところ、これから行くCanton(キャントン)の州警察官たちによる催涙ガスと殴打攻撃が起ったのは、McNealという名の小学校であると分ったことです。これまでどんな本にも出ていなかった地名なのに、ずばり出ていてびっくり。
本の情報が正しいことばかりでなく、此の記事から数年後にオバマが登場するんだからね。
さらに38年前の出来事に参加した人を辿る人脈まで教えてくれ、
数時間内に取材を終えることが出来ました。
ラッキーとしか云い様がありません。
今回、数人の“歴史の生き証人”と話すことが出来ました。
しかし、公民権運動に参加したと云っても、
現存する人々の多くは当時二十歳前後の若者に過ぎず、
キング牧師やJames Meredith、Stokely Carmichaelを見たことはあっても、
そうした大物と話が出来る立場ではなかったようです。
しかし、運動に参加しキング牧師らと行進したという体験は、
今なお彼らの胸に誇らしく記憶されているようでした。
この「恐怖への行進」は黒人の選挙権獲得を推進するのが狙いでしたが、
それは功を奏し、その後も たゆみ無く黒人投票者の数を増やしています。
「恐怖への行進」参加者の一人C.O. Chinnに
「このまま黒人の投票者が増え続ければ、黒人の大統領が出現する日も遠くないのでは?」
と云いましたら、彼は ひそひそ声で
「アジア人、ヒスパニック、インディアン、黒人などが連携すれば、今だって政権を取れる」
と云い放ちました。
この自信をもたらしたものこそ
「セルマ→モンガメリ大行進」、「恐怖への行進」
などによる公民権運動の成果だったのです。
公民権運動は40年たって一つの実を付ける、南北戦争から数えれば約150年後だよね。
俺達の事を未来の子供達は覚えているのだろうか?
まぁ どっちでも良いよ。 俺は俺の出来る事をするよ。
史跡めぐり・キング牧師の暗殺
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_22.html
1968年4月4日、Martin Luther King, Jr.(キング牧師)はテネシー州メンフィスのモテルで暗殺されました。彼のメンフィスでの常宿はLorraine Motel(ロレイン・モテル)といい、ダウンタウンからほど遠い、やや裏寂れた一角にあります。ノーベル平和賞受賞者といえど黒人だからという理由でダウンタウンの一流ホテルには泊まれず、黒人オーナーが経営するこのモテルがメンフィスにおける常宿だったそうです。
【註】"Motel"は日本では「モーテル」と呼ばれますが、英語の発音は「モテル」(伸ばさず、"Hotel"同様「テ」にアクセント)です。ここでは正しい発音で表記します。
南部の公民権運動で幾多の成功を納めたキング牧師でしたが、
Malcolm X(マルコム・X)やBlack Panther(ブラック・パンサー)の登場以後
“ブラック・パワー”という暴力に結びついた運動に押され、
黒人の若者たちから「非暴力運動はもう古い」とまで云われるようになりました。
特に1965〜1967年当時のロサンジェルスやシカゴ、デトロイト、クリーヴランドなどでは
暴徒と化した黒人集団を抑え切れず、
キング牧師の影響力に翳りが見えて来ました。
当時、メンフィスのゴミ収集組合が待遇改善を求めるストライキに入っていて、
彼等は毎日市役所までのデモ行進を展開していました。
キング牧師は「貧民大キャンペーン」にゴミ清掃人たちも含めたいと考え、
その運動をサポートするためにメンフィス入りしました。
1968年4月3日、ある教会でスピーチをする予定でしたが、彼の健康がすぐれませんでした。
彼は人並み外れた強靭な身体の持ち主で滅多に病気にかからなかったそうです。
希にストレスがたまると流感のような症状が訪れ、数日の安静が必要だったとか。
実はこの時期がキング牧師にとって最悪で、
教会のスピーチをキャンセルしようとし、
盟友でもある牧師Ralph Abernathy(ラルフ・アバーナシィ)にスピーチの代理を頼みました。
しかし、Ralph Abernathyは満場に溢れる聴衆の数に驚き、
キング牧師に「数分でいいから話してくれ」と迎えをやります。
キング牧師は急遽やって来ると、原稿もなしでスピーチをしました。
これが有名な"I've been to the mountaintop"(私は山の頂きに立った)という最後のスピーチです。
この年の10年前の1958年9月、キング牧師は若いよね、 言い回しを聞いてても 実は若いもん。
彼の最初の本'Stride Toward Freedom'が出版され、
キング牧師はニューヨークで著者サイン会を行なっていました。
歩み寄って来た黒人女性が「あなたがキング牧師?」と聞くのに"Yes."と答えた刹那、
彼女はキング牧師の胸にペーパー・ナイフを突き刺しました。
一命は取り止めたものの、ペーパー・ナイフは大動脈スレスレに刺されており、
The New York Times(ニューヨーク・タイムズ)は
「キング牧師が一度でもくしゃみをしたら、大動脈が切れ呼吸困難で死ぬところだった」
と伝えました。
入院中、彼は沢山の見舞いの手紙を貰ったそうですが、
忘れられない一つの手紙はある白人女子高校生からで、
「Dr. King、あなたがくしゃみをしないで良かったと思います」
という内容でした。
この日のスピーチでキング牧師は、
「もし私がくしゃみをしていたら…」と、様々な公民権運動の進展について触れ、
「こうした運動を見ることは出来なかったろう」と述べ、次のように続けます。
「メンフィスに着いた時、
人々は我々に対する脅迫に言及し、
“病的な白人の兄弟たち”が私に何かするかも知れないと云った。
何が起るか分らない。まだ困難が控えている。
しかし、それは私には問題じゃない。私は山の頂きに立ったからだ。
誰しもが望むように私も長生きはしたい。
しかし、今、私には それも どうでも良いことだ。
私は神の望まれることをするまでだ。神は私に山の頂きへ行くことをお許しになった。
そこで、私は約束の地を見た。そこへあなたがたと一緒に行くことは出来ないだろう。
しかし、今夜、あなた方に知って頂きたい。私たちは約束の地へ行けるのだ。
だから、今夜の私は幸せである。何も心配せず、誰をも恐れていない。
私の目は神の栄光ある降臨を見たからだ」
この、死を予感したかのようなスピーチの後、
キング牧師は失神したようにRalph Abernathyの腕の中にくずおれました。
翌4月4日はモテルでゆっくり休養を取り、
部屋の中で友人たちと枕投げをしたり、フットボールの試合のように皆で折れ重なって倒れたり、
とてもハッピーな時間を過ごしたそうです。
その日の夕刻。親しい地元牧師に招かれたディナーの時刻となり、
キング牧師は友人たちと二階の306号室を出ましたが、
「コートがいるな」と側近がコートを取って来るまで、しばしドアの前で佇みました。
その時、轟音一発。キング牧師は倒れました。
救急車で病院に運ばれたものの、撃たれて30分後には死亡を宣告されました。
39歳でした。
現在、このモテルはキング牧師が滞在した棟の外観だけを残し、
全体が建て替えられてThe National Civil Rights Museum(公民権展示館)となっています。
別館へ行くと、殺人犯James Earl Ray(ジェイムズ・アール・レイ)が
モテルを見下ろしていた浴室の窓が見られます。
彼は強盗の前科があり、銃も見つかり、有罪を認めたため、
裁判抜きで99年の刑を宣告されました。
後に、彼は「銃は殺人者たちが置いて行ったもの」と無罪を主張しました。
調査が再開され、最新の弾道検査も実施されましたが、
その結果はJames Earl Rayに味方せず、そのうちに彼は獄死してしまいました。
James Earl Rayと話したり、彼を調べた人々によれば、
「彼の知性は このような陰謀を企むレヴェルではなく、公民権運動に関する知識も貧弱だった」
という事で、J.F.K.暗殺同様の多数による謀略と推理する人も少なくありません。
1983年、1月20日のキング牧師の誕生日は国民の祝日と制定されました。
2003年の私の町のパレードと式典を見てみました。始まって四回目だそうですし、小さい町ですからパレードといってもそう派手なものではありません。ルイジアナ州から来てくれた海軍のマーチング・バンドが唯一目立つ程度で、後は教会単位の参加者(主に青少年)が歩いたり、車に乗ったりして行列しました。
ある黒人牧師は祝辞の中で「白人至上主義はいけないが、黒人至上主義もいけない」と述べました。
これはキング牧師の言葉でもありますが、ここではもっと深い意味があります。
最近の国勢調査でこの町の白人対黒人の比率が逆転し、40:60ぐらいで黒人が多くなったのです。
そういう背景からの発言ですが、
それもキング牧師らが推進した選挙権獲得運動が実ったからこそ云える台詞です。
人数だけ増えても選挙権が無ければパワー足り得ないからです。
この牧師は最後に
キング牧師の"I Have a Dream"(私には夢がある)という有名なスピーチの後半を再現しました。
キング牧師の口調を真似た語り口で、私は最初「不遜ではないか」と思いましたが、
原文の強さで次第に引き込まれてしまいました。
黒人の聴衆も手を上げたり、"Yeah!"と云ったり、共感を素直に表現していました。
キング牧師の夢は まだ実現されていないのです。
史跡めぐり【終章】黒人たちの抱える問題
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_24.html
2004年にアメリカで発行された「完全なる融和のために」というタイトルの10枚組の切手シート。こうして読んでみて思うのは
1948年から1965年までの黒人たちの歩みを、様々な芸術家による絵画・写真・彫刻などで象徴しています。
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_rights_stamps.jpg
1) 1948年 トルーマン大統領により、黒人が軍人として採用されることになった。
2) 1954年 ブラウン対教育委員会裁判が最高裁で結審し、「公教育の場での人種差別は違憲」とされた。
3) 1955年 アラバマ州の州都モンガメリで、人種差別を止めない市営バスのボイコット運動。
4) 1957年 アーカンソー州リトルロックで、黒人学生九人が白人の高校に編入し、白人父兄や人種差別主義者たちの妨害を受け、アイゼンハワー大統領が空挺部隊を差し向けて鎮圧するまでの騒ぎとなった。
5) 1960年 ノース・キャロライナ州グリーンズボロのデパート内ランチ・カウンターで、黒人学生たちがサーヴィスを要求して座り込みを開始。この抗議行動は各地に飛び火し、公民権運動が全米に広がり始めた。【註:このデパートが現存すれば当然「史跡めぐり」に入るところですが、もう取り壊されて跡形もないそうです】
6) 1961年 人種差別が実際に解消されたかどうかを検証するため、白人・黒人混合の若者たちが南部を横断するバス旅行を企て、各地で差別主義者たちから暴力をふるわれた。
7) 1963年 首都ワシントンに250,000人が集まり、人種平等を訴えた。キング牧師の"I have a dream"スピーチが有名。
8) 1964年 ケネディ大統領によって1963年に起案され、この年ジョンソン大統領によってサインされた公民権法が発布。
9) 1965年 人種差別撤廃を訴え、キング牧師を先頭にアラバマ州セルマから州都モンガメリまで80キロの行進が行なわれた。
10) 1965年 この年、黒人たちの選挙権が法によって初めて明文化された。
USAの公民権運動への攻撃する側
と
極東の一諸島における被支配者層の側へ攻撃をする側
の観念的な面から見た行動原理の あまりの類似性 なんだよね。
幼い頃から どう見ても右翼と一緒じゃん と強く強く思ってきたんだよね。
俺が宗教右翼カルトという言葉を使うようになったのは
そういうものを幼い頃から眺めてきたからなんだよね。
もう一点 そして公民権運動に参加する人達の そうして登場する人達の「人数」だ。
USAの国土の広さと人口 と比べても
2012年の首相官邸前の そして全国へ散っていった反原発で現場へ向かう人達の
その人数が 全く遜色の無いモノになっている と俺は思うんだよね。
この規模の意味するところを 俺は考えるんだよね。
当然に、宗主国サマも インテリジェンス(笑)とかな連中も 考えるだろう。
向こうは 対抗策とカウンタークーデターを考えるであろうし
ならば俺は ネットの日本語圏の下士官層 を考えるんだよね。
https://twitter.com/masakarinuts/status/269486526294028288
会社の同僚と飲み、選挙の話になった。
「また自民党に戻るのかなぁ」
「戻したら駄目でしょ。原発再稼働するし、TPP参加するし、下手したら中国と戦争になる」
「じゃ何処がいいの?」
「国民の生活が第一」
「お前それ本気で言ってるの?」
「一番ましな選択すべきでしょ」
「俺もう諦めてるし」…絶句。
いえいえ 順当な答えですよw
大変に失礼ながら それ以上を期待しちゃ駄目ですよ。
https://twitter.com/masakarinuts/status/269489181359763456
会社の同僚に、庶民の生活を破壊する自公民やみんな維新太陽に投票するなんて自殺行為に等しいでしょ、
と話しても
「小沢さんが正しいかどうか、ニュース見てもよく分からないが、
仮に小沢さんを選んでも、世の中が変わると思わない」
との反応。
わざわざ酷い政党を選ぶことないと伝えても「仕方ない」…。
というか、其処まで話をしたのならば もう大成功というか大躍進ですよ。
https://twitter.com/masakarinuts/status/269491350263717888
自公民みんな維新太陽を選ぶなんて、正気か?と思うのだが、
会社同僚からは逆に「国民の生活が第一がいいって、本気か?陰謀論に俺ははまらないぞ」と言われる始末。
でしょうねw
消費税、原発推進、特別会計の話など分かり易い事実を伝えても「仕方ない」。
溝の深さを かなり感じて愕然とした。
むしろ
大変に大変に失礼ながら“馬鹿で豚に過ぎない一般民衆”へ「其処は言っちゃ駄目でしょw」
と思う、そんな話が届くはずも無いw
https://twitter.com/masakarinuts/status/269499454514688000
誠天調書さんが
よく「下士官層がボチボチとやれることをやり、百年先に漸くチョットましになるかどうか」といった事
を書かれている。その通りだろう。
しかし、自分の子供達が成人するまであと十年程。
これ以上酷い国にならないようにと考えるが、有効な手段が思い当たらず、
やりきれない気持ちになる。
今日の記事に書いた USAの公民権運動は南北戦争から100年後だ。
つまり100年間に黒人は 事実上に奴隷のままで生きていくしかなかったんだよね。
俺は、
これから その南北戦争 と その後の100年 に比類する“血を流す”をして
ようやく 公民権運動の入り口へ辿り着けるくらいじゃないのかなぁ
と思っているんだよね。
こんな予測は外れて欲しいとは思うけど
そもそも昨日の読みも外している俺だけど
下層で生きる俺からしても こらアカンわ って心底に思うもんね。
例えば俺なんかは こんな風に考える。
奴隷根性 と 一般民衆の根性 の違いを
古今東西を問わずに”馬鹿で豚に過ぎない一般民衆”は自ら論理的には答えれないモノだけど、
少なくとも 感覚的に 何となく 位には答えていく
を より多くの人々が啓蒙されているか? という観点に関しては
まさに オハナシニナラナイ だもんね。
人類にとって 大衆社会の成熟 という不可避の流れの先に今が有るのならば
其処には
1. 大衆社会の経済的社会的成熟
2. 民主主義という政治的成熟
の二つが必要だと思うんだよね。
例えばEU社会は
2.民主主義という政治的成熟 が先行して進んだ感じが有る
だけど1.大衆社会の経済的社会的成熟も七転八倒しながら
殺しも殺したりな500年を経過する中で 遅れながらには進んだ。
其れと比して考えれば 極東の一諸島では
1.大衆社会の経済的社会的成熟 だけが江戸時代に猛烈に進み
2.民主主義という政治的成熟 を明治時代に導入しようとしたが
実際は 支配者層に全く導入する気が無く 形式だけでしかなかったので
1.大衆社会の経済的社会的成熟 をもすら大きく削り堕としていった
という事態の先に今が有るんじゃないかな、なんて思うんだよね。
じゃUSAは
2.民主主義という政治的成熟 という御題目だけは先に派手に掲げて
1.大衆社会の経済的社会的成熟 は欠片も進ませられてないから
独立戦争から南北戦争の100年を経て やっと1.大衆社会の経済的社会的成熟 が僅かに進み
2.民主主義という政治的成熟 という公民権運動が動き出し
其の50年後にオバマが登場した。
って感じかな。
で 極東の一諸島における多神教で文明人の社会共同体は
1.大衆社会の経済的社会的成熟 だけが江戸時代に猛烈に進んだ
は良いけど、この150年間も 其の観点では まぁまぁだったかもしれないけど
2.民主主義という政治的成熟 は殆ど全くに進んでいないのは
俺達の目の前を見れば分かるよねw
むしろ 逆行しまくる方向性へは 徹底的に進もうとばかりに なっているよね。
そう思えば
1.大衆社会の経済的社会的成熟 すら大きく欠落してしまっている
とまで俺は考えてしまっているんだよね。
それが311という結果だとも言えるからね。
もう手遅れかなぁ、って言うのは簡単だから
もうチョットだけ俺は頑張るよ って思うんだよね、
手遅れだから 千里の道の一歩 な程度にしか進めることは出来ないだろうけどさ。
センゴクに こんなシーンが有ったと思った。
若き頃の藤堂高虎が 兵卒を前にして小難しい孫子の兵法を喋りだすんだが
頭の悪い仙石と兵卒は欠片も理解できないw
それよりも兵卒へは
ただただ「打って 走って 囲め」とだけ言った方が通じる
という話になる。
まぁ そらそうだわな って俺も思う。
だから俺も
“馬鹿で豚に過ぎない一般民衆”へは
しっかりと「国民の生活が第一」とだけ伝えられれば
まずは それだけで半分は勝ったようなもんだ とさえ思っている。
それ以上は全く期待していないし 期待するだけ無駄な気もしているし
まぁ あくまで相手も一人の大人の人間だと思えば それ以上を言うのも野暮ってモンかなw
なんて思っとく位じゃないとね。
其れよりも俺は 残りの半分を上手に勝つ
(上手に説得する
上手に味方にする
上手に“政治的に”率いれる形式にしておく)
為に どうでもいい話の中に 上手に話を混ぜていく をして行ければ良いなぁ
なんて思う。
この前 こんな話をしたかな。
俺はSOEKSを常備し続けている また福島へ計りに行ったの? とか話をされる
(この段階で 俺的には相当に勝ちだと思っている)
行けませんよw 死にますよwマジにw って俺は答える。
「そもそも全然に終息してませんからね、
ウチにテレビが無いんで分からないんですけど
なんか終息したとか話しは出てましたか?」
「いや聞かないねぇ 石原がどーとかこうとか 尼崎のが どーとかばっかりだよ」
「あー 石原とかねぇ 維新の橋下も それに自民も民主の野田もそうだけど
あいつら徴兵制をして 福島へ送り込むつもりらしいですよ」
「本当に?」
「もっぱら そういう話ですよ、そちらのお子さん 男の子ですよね、
そうなったら徴兵されて月30万で福島へ送られて 死んだら感謝状一枚で終わり
ですよ。前の戦争でも そうだったじゃないですか。」
「本当にそうなるの?」
「少なくとも そういうのに反対しまくっているのが国民の生活が第一ですよ」
後は全く別の 野球の話をしていた、
メジャーの連中が星野と仲の良い山本浩二の全日本へ来る訳が無いじゃんw
とかね。
向こうが嘘デマ扇動を叫びまくるんだから
此方だって虚実を入り混じらせて 何とかしてでも言葉を届かせるように駆使するまでだ。
其れが説得力だと思うし
むしろ“馬鹿で豚に過ぎない一般民衆”へ むしろ難しい言葉は禁句だよね。
ぶっちゃけ言って チョットした政治に関わる語句そのものですら使うはリスクが有ると考えて
如何に 耳障りの良い上手に使い回し 言い回しをしていくか
まで考えて考えていくしかないよね。
そういう状況を先行して作っておく為にも
早川マップとSOEKSを自然に用意して置ける環境を作っておく。
ウチの仕事場の雑誌の置き場の地図に早川マップが挟み込まれ続けている。
それだけでも 加点 だと俺は考えている。
そういう地道な加点を チョットずつチョットずつ積み重ねていく。
小沢の
議員へは東京で議論をする位なら辻立ちをし続けろ
というのと似たような意味だと思う。
そうして一騎当二でも一騎当三でも確実に創っていく をする方が まだマシ。
俺は そう考えて生きてきて
そういう為には情報流通の最先端を自分なりに掴んで 己が内側を構築していく
その為に更新をしていく つまり自分の為の更新が まずは最優先なんだよね。
個人ニュースサイトを更新し続けるというのは そういう事が可能になる 其の入り口になる
と体験的に思えばこそ俺は ネットの日本語圏の下士官層 という言葉を使う。
其の技術を上手に適宜に昇華させるは とても難しい。
俺だって七転八倒し続けてきた。
しかも 虚構世界と現実世界を己が内側で適宜に上手に結びつける というのは
更に更に難しい。
小沢は ネット選挙 と軽く言ってくれるが
現場の此方は そう甘くねーんだよ!w とは言いたいね。
だから 後4年は待って欲しい って思ったけど、
それこそ甘い!
って言い返されるのがオチだ罠w
そんな感じの無駄な考え休むに似たりな事を 俺は此処でボチボチと頑張るよ。
仮に あまりに辛くなって他の人達が寄っても恨まずに 俺は此処に残るよ。
未来に 誰も俺の事なんかを覚えていなくても それ位の方が 本当は良いんだからさ。
https://twitter.com/olivenews/status/268744503018541057
減税日本の河村市長は、同党が太陽の党に合流したことを明らかにしました。河村さんガッカリだよ。太陽の党に太陽なんてない。あそこにあるのは差別主義。人を睥睨するひとたちだよ。もっとも悪いことだと思います。
https://twitter.com/ompfarm/status/269103506370215936
河村氏には、常識が適用できない破天荒さがあり。
虎穴で虎の子をさらうような。
そんな辛党への食い込みを無碍に吐き捨てるのも即断が過ぎる気もします。
https://twitter.com/18iha/status/269105184607698944
ご指摘ありがとうございます。
自ら身を削りながら改革に励む河村氏には期待もあり落胆も大きかったのですが、
仰るとおり もうちょっと待ってみるのも必要だと思いました。
https://twitter.com/akahataseiji/status/269225641629589504
「太陽の党」、じつは総務省に「たちあがれ日本」の名称変更を届け出ただけ。
解党しなかったことで12月分の政党助成金約4300万円が受け取りが可能に。
結党後の会見で石原氏は「一つのステップ」「消えてもかまわない」といいつつ
助成金=税金は ちゃっかり受け取り
http://toracyan53.blog60.fc2.com/blog-entry-3257.html
2012年11月16日(金) 石原氏「太陽の党なんて暫定的」。
選挙後、どうなってるかミモノだわ。つーか 来月には?w という話かと。
河村にしてみれば 国政政党として国政議員5人を集めるにも苦労した減税日本 だったからね。
むしろ散々にブレるけど芯は有るのが河村だし そういうモノだと思って見てくのが無難かと。
今の小沢を基準に ブレない つまり 自己制御の能力 を考えるのは、そら採点が厳しすぎるw
今後 こういう見定めにくいモノが多く出てくるだろうね。
現実の政治は そういう権謀術数が当然の如くに無数と入り混じる まさにドス黒い世界
という事を忘れてはならないと思うんだよね。
そういう事を踏まえて尚に今の小沢は
自己制御の能力を示し あそこまでの持続する意志を示し続けている。
アレが凄すぎるのであって、アレを基準に考えて他の政治家が見劣る のは仕方が無いw
だから
其れを如何に弾力的に受け止められるか? を 馬鹿で豚にすぎない一般民衆に求める訳には行かない以上
そういう情報工作をも含まれるも見定めては 情報流通をして行く
をしていければ良いなぁ とネットの日本語圏の下士官層という言葉を使う俺は思っている。
午後3時からは、石原代表と「減税日本」の河村代表が共同記者会見した。単なる保身しかねーなw
当初は、ここで両党の合流が発表されるとみられていたものの、具体的な発表がなかったため、記者が確認の質問をすると、石原共同代表は「(減税日本が太陽の党に合流するということ?)くだらない質問なんだよ、それは。本当にばかばかしいね、やめてくれよ、そういう質問するの。あのね、太陽の党なんて、暫定的なものでしかない。やっぱり、あした橋下さんと決めて、大連合をつくるんですよ。そうしたら、1つの党でやるんだよ、1つの党で! つまらない質問をするな!」
言い換えれば そういうキチガイ石原へでも投票する家畜が確実に居る 以上は
如何に其れを上手に掠め取れるか? というのも必要な訳で。
2009政権交代は 野田や菅や岡田の大馬鹿野郎を 小沢や鳩山兄が上手く利用して実現した、
と今なら そういう見方も出来る訳で。
敵をも信用する という難しい戦いを、これから河村が上手く頑張れれば良いけどね。
むしろ だからこそ河村が適任とも言える。
ただ この場合は こうして此方からの支援が難しくなる。
だから せめて 上手くいくように と 此方からの動きにも「技術」が求められるんだろうね。
https://twitter.com/higiyama/status/266365327707889665
誠天調書氏のどこまでも真実を追求しようとする態度に好感。そら止めた方が良いw ウチを読み続けるとロクな事が無いのでw
RTハタ次男@jhatajinan
誠天調書: 俺が執拗に311直後からstuxnetや東電OL殺人事件の先を追い続ける訳は。
http://bit.ly/UhwqWn
内閣不信任案も 俺の読みは外れた訳で。
https://twitter.com/mkt5126/status/269335133700632577閣議も総会も無風だった訳で。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121115-00000085-mai-pol
民主党内には、解散の前提となる法案審議が進まないよう、
内閣不信任案の提出を「国民の生活が第一」に働きかける動きまであった。
https://twitter.com/mkt5126/status/269335422889517056
生活幹部は「民主党の議員から(内閣不信任案の提出の)打診はあった」と認めつつ、
「何を考えているのか。逆に批判される」と不快感を示し、不信任案の提出は頓挫した。
小沢は動かなかった、
俺は5分5分かな とは思ってたけど
だから 社民か共産が動くかな って思ってたんだが、それも無し。
http://twitter.com/kagiwo/status/268858298072170496
焦って動くには ちと早いかもな。という事でしたね。
ここで手の内見せちまうと、あとで面倒なことになるかも。
解散のバンザイ起こるまではどうなるかわからんね。
此処で内閣不信任案を出すと、総辞職となり 解散できなかったじゃないか という責任論を吹かせたい
という罠が有るのは分かっていたけど その程度ならば とは思ってたので。
言い換えれば 解散させた という貸しを作っておいた、とも言えるかな。
どちらにしても離党予備軍は 逃げ出すタイミングを自力で作らなくてはならなくなったね。
その見方に立てば 自力で離党し暫定新党を立ち上げて不信任案を突きつける をすれば良かった訳で。
まぁ今更か。
https://twitter.com/mt3678mt/status/269421576393478144
これで千葉4区は全国一の注目選挙区になった。千葉4区の有権者が羨ましい。
かつてなく貴重な1票、無駄にしないで欲しい。
【野田首相へ「刺客」 生活・三宅雪子氏、千葉4区で出馬】
ttp://www.asahi.com/politics/update/1116/TKY201211160733.html
https://twitter.com/miyake_yukiko35/status/269446251425189889
民主党にいた者として、
国民の、特に未来を担う子どもの命を危険にさらした張本人と闘い、勝つ責任があると決断いたしました。
@tokidokiparis 一世一代の御聖断、心よりの敬意を送り全霊で応援させて頂きます。
女冥利に尽きる闘いで「戦後最悪の宰相」を現役落選させましょう!
https://twitter.com/miyake_yukiko35/status/269368560176992256
国民の命と暮らしを守るため、
それらを脅かしている一番の責任者である野田総理と千葉4区で闘う決心を致しました。
お支え頂いた群馬4区の皆様、心からお詫び申し上げます。
消費増税廃止、原発ゼロへ、TPP参加反対の政策とともに、
福祉と社会保障の充実を軸に命懸けで頑張ります。
こんど握手には行こう。是非に行こう。
ウチの仕事場で選挙区の人が居るから 上手に誘導しておきますね。
僅か数票かもしれないですけど 出来る限りのことはしますね。
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/extra_king_3.html
'Black National Anthem'あるいは'Negro National Anthem'は
1899年に黒人James Weldon Johnson(ジェイムズ・ウェルドン・ジョンスン、1871-1938)が作詞、
その弟J. Rosamond Johnson(J・ロザモンド・ジョンスン、1873-1954)が作曲。
1900年のリンカーン大統領の誕生日に、
James Weldon Johnsonが校長だった黒人用学校の500人の子供たちによって初めて歌われました。
この歌の起源はリンカーン大統領を讃えながら、
平等な明るい未来を願うというものでした。
リンチや不平等に苦しみ、自由を求めていた黒人たちは この歌を愛し、
1919年にはNAACP(全国黒人地位向上協会)が
'Negro National Anthem'(黒人の国歌)として認定、
1920年代迄には国内の黒人の教会の多くでも聞かれるようになりました。
公民権運動によって この歌が復活し、
1970年代には黒人の人口が多い都市や町の公的行事の際、
アメリカ合衆国々歌に続いて この歌が歌われるようになったそうです。
(出典: http://www.websters-online-dictionary.org/definition/LIFT+EVERY+VOICE+AND+SING)
'Lift Every Voice and Sing'
Written by James Weldon Johnson
Lift every voice and sing
Till earth and heaven ring,
Ring with the harmonies of Liberty;
Let our rejoicing rise
High as the listening skies,
Let it resound loud as the rolling sea.
Sing a song full of the faith that the dark past has taught us,
Sing a song full of the hope that the present has brought us,
Facing the rising sun of our new day begun
Let us march on till victory is won.
Stony the road we trod,
Bitter the chastening rod,
Felt in the days when hope unborn had died;
Yet with a steady beat,
Have not our weary feet
Come to the place for which our fathers sighed?
We have come over a way that with tears has been watered,
We have come, treading our path through the blood of the slaughtered,
Out from the gloomy past,
Till now we stand at last
Where the white gleam of our bright star is cast.
God of our weary years,
God of our silent tears,
Thou who has brought us thus far on the way;
Thou who has by Thy might
Led us into the light,
Keep us forever in the path, we pray.
Lest our feet stray from the places, Our God, where we met Thee,
Lest, our hearts drunk with the wine of the world, we forget Thee;
Shadowed beneath Thy hand,
May we forever stand.
True to our GOD,
True to our native land.
文化が違うんだな とは つくづくに思う。
だけど 生活が第一 ならば通じるのかな? なんて思った。
??何故腹が立つのかよ〜わからん(^^;)特撮関連は下地となる部分が多いから2〜3時間サクサク検索しただけで大した苦労はなかったり(苦笑)歴史を遡って考察推測するのがすんげ〜ツライ作業なのよね・・・orz特撮系の場合 俺は全く下地が無いんですけど
言われてみれば 特撮系の其の辺りの経緯は それなりに俺にだって分かっていたはずなのに
そうやって聞かされるまで 全く其の向こうが見えてなかった 俺の愚かさ に腹が立つんですよ。
なんで 其処に気付けなかったんだろう、
例えば今の特撮系と過去の特撮系には 其の全体の流れとして
一神教で蛮族野蛮人的な勧善懲悪のカルト思想の色濃さが どう考えても明確に違いすぎますよね。
ウルトラマンの版権問題 って そういう絡みも有るのかな?
考え出したらキリが無くなりそうな程に色々と見えてくるのに 気付けなかったなぁ とね。
いつまで経っても成長しない ホント俺って頭が悪すぎる ってね。
本当に ありがとうございます。
かつての特撮ファンが今のマンガ界に移動して、そこを攻撃されてると見るのが順当かと。この一文は 本当にやられた と思いましたので
いつか其の辺りも含めて俺も記事が作れたら良いな って思ってます。
ひとまず小栗忠順関連はちょっと置いといて(汗)面白そうなことをしてますよねw
もう調べるほど訳わからん状態なんだから自分程度には無理かも(涙)
誰がどこで何をしてそれが後々どう繋がるかとか追いかけるのも難しい・・・orz
俺も 時間と体力があったら 是非に其れはしてみたいんですけどね。
まぁ 気が向いた時に で良いんですよ。
https://twitter.com/kenshimada/status/269464516474068992
南相馬市60代男性
「自宅一軒、竹中工務店に560万円で除染を依頼し、
現場の下請けはピンハネされまくって、70万円で作業をする。
末端の作業員は日当約8千円。
除染が終了したら仕事がなくなるから、皆、いい加減な仕事しかしない。
それで雇用が確保され、経済が回る。
それが除染ビジネスの実態」
https://twitter.com/kiyowanajiageya/status/269383970611949568
官邸にも衝撃! 「これは本当なのか!?」
山崎@yamazakikoutaro 行太郎先生 ・・ 一市民T @4219take サン 共著による
衝撃の書 「最高裁の罠」 12月10日緊急出版
本書が1位になれば・・世の中が変わる!
http://www.asyura2.com/12/senkyo138/msg/880.html
11月16日 『最高裁の罠』内容紹介と発売日変更(12月10日に繰り上げ)! (一市民が斬る!!)
http://civilopinions.main.jp/2012/11/11161210.html
http://www.asyura2.com/12/senkyo138/msg/851.html
「選挙となると小沢代表の目の色が違ってくる様に思える:ムネオの日記2012年11月14日(水)」 (晴耕雨読)
http://sun.ap.teacup.com/souun/9160.html
11時に国民の生活が第一の小沢一郎代表と会い意見交換。
小沢代表から大変な気合いのこもった話を聞かされる。
今後の動きに活かして参りたい。
選挙となると小沢代表の目の色が違ってくる様に思える。