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2013年10月13日

ベースボールではなく野球 は其処にも有る。

https://twitter.com/precrione/status/389311943581769728
9回裏でのあまりの様式美に思わずワロタ。
最後の打席が新井さんだし偶然にしては出木杉としか思えないな。
今日も勝てて本当によかった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131013-00000011-spnavi-base
“代打の神様”桧山、惜別の代打2ラン「野球の神様がいた」 スポーツナビ 10月13日(日)
今季限りで引退する桧山進次郎が13日、セ・リーグのクライマックスシリーズ(CS)・ファーストステージ広島戦の9回、代打で登場し、広島の抑え・ミコライオからライトスタンドに2ランを放った。

試合後の桧山のコメント。

――今日が最後の試合となってしまいましたが?
「チームとしては連敗してふがいないし、ファンの方に申し訳ない気持ちでいっぱい」

――最終打席はホームランでしたね?
良い打ち方ができて正直びっくりするぐらい。
 あんな打ち方ができたんだという感じ。
 僕にも野球の神様がいた。
 22年間で一番、自画自賛のホームラン。


 引退試合では強引にいってゴロだったんで、
 謙虚にセンターという気持ちで振ったら、
 クルっと回って良い打ち方ができた
 最後の打席でこんな風になるとは」

――まだ続けられるんじゃないですか?
「貢献できなかった悔しい思いもあるし、後輩に優勝を託して見守りたい」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131013-00000027-asahi-base
阪神の桧山は154キロの直球を振り抜き、右翼ポール際に運んだ。
「自分で驚くくらいの良い打ち方。自画自賛のホームラン」
と笑った。
2011年5月14日の中日戦以来の一発は、阪神一筋だった22年間で通算161本目。
念願の日本一はかなわなかったが、家族が見つめる中、44歳は自らの一振りで花道を飾った。
アレが出来るのは超一流の打者だけ、凄い打撃だった。
狙って出来る打者は殆どに居ない。

左打者の桧山が
 右投手のミコライオのインコース低目の剛速球を
 投球の速さ と 投球の力 の両方にも負けず
 しかも芯で取らえて
 なおかつに 腕を返さず バットに乗せるようにボールを運ぶ振り方をする
という複雑で様々な動作を一瞬の間で完璧にこなした。
此れが出来なければ 仮に芯で当たっても必ずファールとなる。

絶好調の時の巨人の阿部 すなわち「有り得ない」に匹敵する まさに出来過ぎな偶然と言いきって良い。
 凄いモノを見てしまった
とは この事だろう。 俺も 野球の神様 という言葉の方を信じてしまうね。

和田監督の采配は最悪だったのに 其れを一振りで消し去ってしまった。
今回の話は 其の一振りの前段階にこそ本質が有るんだけどね。




http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131013-00000002-wordleafs-base&p=2
CSの勝敗を分けたのは「打った」、「打たなかった」の問題だけではない。


真のエースが不在だった阪神

藤浪のCS開幕投手抜擢については賛否両論があるだろう。広島にしてみれば、一番出てきて欲しくなかったはずの左腕、能見というカードを切らないままCS敗退したことも考えねばならない反省点だ。本来ならばマエケンに阪神もエースをぶつけるべきであった。だが、裏を返せば信頼すべき真のエースが、今季の阪神には存在しなかったとも言える。

確かに来季のことを考えれば、藤浪に、このCS舞台を経験させた意義はある。
つまり むしろ問題にすべきは、継投についてだ
この日の第2戦も、安藤、ボイヤーの投入が、裏目となってゲームに緊張感がなくなった。
負ければ終わりの短期決戦なのだ。

ベンチ入りメンバーには巨人戦の先発要員だったスタンリッジもスタンバイさせていたと聞く。後がないのだからスタンリッジ、福原を惜しむことなく、つぎ込めば良かったと思う。終わってみれば、和田監督の采配は、シーズン中の広島3連戦と、なんら変わりがないように見えた。首脳陣に短期決戦の経験がなかったと総括すればそれまでだが、勝負への徹しようが、上から下まで中途半端だったように思える。この点もまた広島と阪神との“違い”であった。

(文責・掛布雅之
広島は5回で被安打1だけで抑えていた先発のバリントンを変えてでも積極采配を貫いた。
阪神は勝負所でカードを切れず 結局に能見・スタンリッジ・榎田は登板せずに全てが終わる。
阪神は監督やコーチが馬鹿すぎたね。

また守備力の違いも気になった。

広島の二遊間の守備力は、中日の“アライバ”に匹敵するものがあった。
特にセカンドの菊池は、甲子園の土と芝に境目に足がかかるほど、
深い守備位置を守って、その守備範囲は驚くほど広い。
逆にショートの梵は堅実にプレーするタイプ。

広島の野村監督からすれば、レフトのエルドレッドの守備力だけが不安だったのだろうが、
そのエルドレッドが、藤井の抜けそうな打球をジャンプ一番好捕した。
この試合にかける集中力の違いのようなものが際立つことになった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131013-00000096-spnannex-base
CS導入から7年目にして初出場を果たし、一気に2連勝でのファイナル進出。
6回に逆転の左前適時打を放ったエルドレッドは
「非常に興奮している。素晴らしいCSだった」
とお立ち台でまくし立てた。

西岡の先頭打者アーチで阪神にいきかけた流れを引き戻したのはエルドレッドだった。
0―1で迎えた2回の守備。1死一塁で阪神の8番・藤井彰が放った打球は長打になりそうな大飛球だった。
だが、元は一塁手の 急造な左翼手なエルドレッド が この大飛球を好捕する。
「打者もいい当たりを打ったと思うが、打球へのいい読みとジャンプができた。
 ジャンプしなければ捕れない打球だったが、身長もある(191cm)のでジャンプして何とか捕れた。
 走者が出ていたのが見えたから投げたんだ」。
好捕の次はすかさず送球し 見事な中継で一塁へ併殺を完成させ、ピンチを一瞬にしてしのいだ。

0―1で迎えた6回、1死三塁からキラの適時二塁打でまず同点。
2死三塁で打席に入ったエルドレッドに気合が入らないはずはなかった。
「初球を打ったらいいところに抜けてくれた。非常に気持ちのいい感触だった」。
逆転となる左前打を放つと、
「勝ち越せば、うちの投手が守ってくれると思った」
とチームメートを信頼して、あとは代走に譲り、交代。
最高の勝利の瞬間をベンチで見届けた。

16日からはセ・リーグ覇者・巨人とのファイナルステージに臨むが、「東京でいい試合をする準備はできている。そこで何とか勝って、広島に帰って来たい」とエルドレッド。高らかに“下剋上”でのG倒を誓った。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131011-00000021-tospoweb-base
CSが始まる2日前の10月10日、JFE西日本との練習試合で
シーズン後半に4番で奮闘したエルドレッドを初の6番で起用。
理由を
「エルドレッドはメッセンジャーに対してよろしくない。
 しかし彼の遠くに飛ばす力は相手が嫌がると思うので、どう機能するかを考えて」
と話し、今季阪神戦で1割7分と相性の悪い主砲の打順を下げる方針でいる。

2本塁打と期待に応えたエルドレッドも
「すごく感じがよかった。僕は変わりなく力を発揮するだけ」
と気合十分だ。

本番直前での打順変更だけに
「キラとエルドレッドが3、4番で並んでいたことで威圧感があったのに…」
との声もある。
しかし、指揮官の今季の“ミラクル采配”がそんな不安を打ち消している。

「シーズン後半の監督の采配は神懸かっていた。
 今回も監督なりの考えがあってのもの。
 いきなりになるが大丈夫でしょう」(球団関係者)。

8月末にコーチ陣の反対を押し切って昇格させて守備変更までさせたエルドレッドが大爆発、
大抜てきしたルーキー・鈴木誠也が活躍する
など勝負どころの采配がことごとく的中した。

この集中力の有る広島の守備 逆に集中力に散漫が見られた阪神の守備 という守備力の違いは、
投手への精神的負担の軽減など、あらゆる部分に波及効果をもたらす。
目立たぬ点だが、決してCSの勝敗を分けたのは「打った」、「打たなかった」の問題だけではない


http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131011-00000302-sportiva-base
広島のレギュラーシーズンの成績は69勝72敗3分(勝率4割8分9厘)。
勝率5割を切ったチームがCSに出場するのは2009年のヤクルト(71勝72敗1分)以来、2度目。
さらに、今季リーグ優勝した巨人とのゲーム差は「17」。
もし、広島がCSを勝ち上がって日本シリーズ進出となれば、
現行制度見直しの声も出かねない状況だ。
それでも、現在のカープには、そんな騒動を起こしてしまいそうな勢いと可能性がある。

この広島躍進の要因には、3つのキーワードが挙げられる。
「ケガの功名」「昨年の教訓」「指揮官の覚醒」だ。
特に後半戦は、これらの要素が見事に噛み合い、快進撃へ繋がった。

「ケガの功名」は、開幕早々から見られた。春季キャンプで、セカンドのレギュラー候補だった東出輝裕が左ヒザ前十字靭帯を断裂し、今季絶望の重傷を負った。その代役として起用されたのが、本来はショートを守る2年目の菊池涼介だった。

今季から就任した新井宏昌打撃コーチが、「コーチに就任して、最初に名前が浮かんだ3人のうちのひとり」という菊池は、もうひとりの丸佳浩(打率2割7分3厘、29盗塁で盗塁王獲得)とのコンビで打線に新風を吹き込んだ。チーム最多となる141試合に出場し、打率2割4分7厘ながら球団新記録となる50犠打をマーク。守備でも規格外の守備範囲の広さで、日本新となる528捕殺を記録した。

また、ここ数年、貧打に泣かされた打線のターニングポイントとなったのが、6月に途中入団したキラの存在だ。新井コーチが「キラが加入して軸が固まってきたことで、点が入る雰囲気が出てきた」と評価する新外国人の獲得は、開幕から4番を任されていたエルドレッドが右手首に死球を受けて骨折し、離脱したことがきっかけだった。キラ(66試合に出場し、打率2割5分9厘、14本塁打、45打点)の加入後、打線は1試合平均4.5点を叩き出し、それまでの3.3点を大きく上回った。

さらにCS争いも佳境に入った8月20日、開幕からサードのポジションを守り続けていた堂林翔太が左手に死球を受けて骨折し、戦列を離れた。レギュラーに定着して2年目の堂林は離脱するまで、打率2割1分7厘、失策19個(リーグワースト)とマイナス面も多かったが、チーム2位の41打点をマークするなど、着実に成長を遂げていた。その堂林に代わりサードに入った木村省吾と小窪哲也が、見事にその穴を埋めた。特に木村は打率3割を超える打撃で、「下位からでもチャンスを作れたのは大きかった」と新井コーチの評価も高い。何より、安定した守備力は、投手陣に安心感をもたらした。2010年は東出、2011年は梵英心(そよぎ・えいしん)と、いずれも故障離脱した内野の穴を埋めたスーパーサブの真骨頂だった。


一方、投手陣はエースの前田健太を筆頭に、バリントン、大竹寛、野村祐輔の4本柱が2ケタ勝利を挙げた。広島で4投手による2ケタ勝利達成は、北別府学や大野豊などを擁し、「投手王国」と言われた1987年以来、26年ぶり。実は、この先発陣の活躍の背景には「昨年の教訓」があった。

9月の急激な失速でCS進出を逃した昨年は、開幕から主に中5日のローテーションを組んでいた。シーズンを通してフル回転状態が続いた結果、勝負どころの9月に前田が5試合に先発して1勝しかできなかったのをはじめ、4本柱が挙げた勝ち星はわずか4勝。スタミナ切れは明らかだった。

そうした反省を生かし、今季は開幕から先発に無理をさせない起用を続けた。連戦が続いた7、8月も、なかなか結果を残せない中村恭平や中崎翔太を使い続け、中6日のローテーションを守り抜いた。
調子の上がらない今村に代わり 中継ぎとセットアッパーへの横山と永川の復活が大きかった。
後ろが固まる事で先発投手を無理に引っ張る必要性が減り 安定感あるローテーションを維持させ続けた。


その結果、エースの前田は7月14日から9月21日まで負けなしの9連勝。
前半戦はなかなか勝てなかったバリントンも8月4日から9月25日まで7連勝。
大竹、野村も順調に白星を重ね、3位争いのライバルチームを大きく引き離した。

そして「指揮官の覚醒」だ。開幕当初から「日替わり打線」と揶揄され、144試合で109通りにも及んだ打順も、シーズン終盤にはある程度の形が完成し、機能した。休養を与えながら慎重に起用してきた故障持ちの梵や石原慶幸も勝負どころで結果を出し、昨年6勝17敗1分だった9月を今季は14勝7敗で乗り切った。
何より光ったのが野村謙二郎監督の積極采配だった。

その最たるものが、終盤に見せたエルドレッドとキラの両外国人の併用だ。
ふたりの適正ポジションはともにファースト。
だが、野村監督は守備面でのリスクは承知の上で、エルドレッドをレフトで起用した。
実際のところ、失点につながるミスも度々あった。
それでも、「今年は打ち勝つ野球がテーマ」(野村監督)と最後まで攻撃野球を貫いた。

キラが来日当初の勢いを失った9月に4番復帰したエルドレッドは、
打率3割2分9厘、7本塁打、15打点と打ちまくった。
野村監督は「万馬券が当たったようなもの」と自らの起用について語ったが、
ハイリスクハイリターンの決断が見事にはまった結果となった。

10月12日から始まるCSファーストステージで、まず広島はセ・リーグ2位の阪神と対戦する。
今季、阪神との対戦成績は12勝12敗とまったくの互角。
しかし、9月以降の両者の対戦では4勝1敗と広島が勝ち越しており、勢いの差は歴然としている。

しかも、広島には絶対的エースの前田がいる。
前田は今季、阪神戦に6試合先発して4勝1敗、防御率0.40と抜群の成績を残しており、
甲子園に限っていえば2戦2勝で防御率0.00と1点も許していない。
前田は初戦の登板が予定されており、ここを確実に取れば、
3試合制(2勝で勝ち抜き)のファーストステージを勝つ可能性は高くなる。

ファーストステージを勝ち抜けば、セカンドステージで対戦するのが巨人だ。
今季、巨人との対戦成績は8勝14敗2分と大きく負け越しているが、
9月以降に限れば広島が5勝2敗と勝ち越している。
また、昨年5月から14連敗を喫していた「鬼門」の東京ドームでの戦いも、
7月25日の試合で1イニング8得点の猛攻で勝利し、その後も4戦2勝と苦手意識を払拭した。

7月24日の時点で、広島の借金は今季最多の「14」に達していた。
目標だった5割には届かなかったが、
9月以降は7連勝を含む16勝9敗1分と巨人、阪神の上位チームを上回る成績で3位に入った。
それだけに1991年以来となる日本シリーズ進出も……広島ファンは今、そんな夢を見ている。
2013.08.26 「9月の悪夢」は繰り返さない。CS初進出へ、広島ナインの思い
http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2013/08/26/cs_1/



http://thepage.jp/detail/20130930-00000001-wordleafs?page=1
2013.9.30 巨人・原監督が警戒する広島とのCS対決
広島が強い。

9月の広島は貯金「8」
9月の成績を見比べると、阪神は24試合で6勝16敗2分(借金10)。
対する広島は、23試合で15勝7敗1分(貯金8)。
一時は、阪神に10ゲーム以上離されていたが、今や勢いは完全に逆転している。
ただ、広島の残り試合は3で阪神は6試合。両チームの直接対決は1試合しかないので、
2位浮上は広島にとって他力本願にはなる。
それでも今の広島の勢いから見れば逆転劇は現実的だろう。

この後のクライマックスシリーズでは、カープの9月の勢いが、そのまま出そうな雰囲気はある。

巨人は広島を警戒

先日、東京ドームで原監督と少し立ち話をした。
「優勝おめでとうございます」と声をかけると、
原監督は「運も味方しました」と謙遜してから、
クライマックスシリーズ進出を決めていた広島について語り始めた。

「元々、マエケンがいるわけですから計算の立つチームなんですよね。
 問題は打線だったのでしょうが、キラが入ったことで、つながりが生まれました。
 ウチからすれば、本来、確実に(打線を)切れるところで切れなくなったんです。
 今は、セ・リーグで一番勢いに乗っているチームですよね」

私が「クライマックスでは阪神より広島が嫌でしょう?」と返すと、
原監督は、苦笑いを返しただけだったが、その表情がなによりの答えだろう。

広島打線は阪神打線より怖い

私は、原監督の「切れるところで切れなくなった」という話にピンと来た。
広島は、堂林というキラ星のような才能を持った三塁手の育成がチームの命題だった。
だが、8月20日の中日戦で、堂林は左手に死球を受けて骨折、チームから離れた。
皮肉なものだが、堂林がいなくなって三塁のポジションに木村と小窪が入るようになってから
広島の快進撃が始まることになる。

巨人のある関係者から、こんな話を聞いた。
「堂林がいると、ピッチャーが楽だったと言うんだよ。
 (堂林は)打てないポイントがあるので、堂林が次に控えているなら、
 前の打者と勝負せずともいいし、ひとつアウトが計算できて打線を切ることができる。
 でも、堂林がいなくなって、打線が切れなくなった。
 だから、今の広島は阪神打線より よほど怖い」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131013-00000102-nksports-base
野村謙二郎監督(47)は、エルドレッドの守備に「あれは、ビックリしたね」と驚いた。
犠打がことごとく得点に絡むなど、采配がことごとく的中したが、
「僕は普段通り。選手がひるむことなく、勢いを感じる中で、サインを実行してくれている。
 先制のホームランを打たれたけど、接戦になればどうにかなると思っていた。
 中盤のいいところで外国人が打ってくれた。みんながよくがんばってくれた」
と選手をたたえた。


http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20131013-1203829.html
広島ブライアン・バリントン投手(33)が粘り勝ちだ。いきなり阪神西岡に先頭打者弾を浴びたが、その後は無安打投球。

本調子ではないものの、5回1失点で勝ち投手になり、ファイナルステージ進出を決めた。9月末のCS進出が決定した試合でも勝利投手になっており、節目の試合に強い。ファイナルステージでは巨人と対戦するが「とても楽しみ。今のような野球をすれば勝機は十分ある」と自信を見せていた。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131013-00000002-wordleafs-base&p=1
私は、CSの2日前に甲子園を訪れ練習を見させてもらった。阪神はバントなどのケースバッティングをしていた。バントプレーの確認は必要なものだったが、首をひねったのは、エンドランのケースバッティングを取り入れ、バッターがボール球を打っていたことである。CSのような短期決戦の前にボール球を打たせると間違いなくバッティングのメカニックは微妙に狂う。それほどバッティングとは繊細なものだ。特に阪神の打線はボールの見極めができないことが課題だったから、なおさらである。私は、「広島戦では打てなくなるぞ」と悪い予感がしたが、それははからずしも現実のものとなってしまった。

打線がつながらないどころかヒットも出ない。
初戦の前田健太、そして、バリントン。バリントンの序盤は調子がいいように見えなかったが、同じようなパターンの凡退を繰り返した。
好球に手を出すのはいいのだが、それをファウルにしてしまうからカウントが悪くなる。そうなると相手のウイニングショットの餌食である。

「狙い球を絞って、それが来るまで我慢する」という、ぶれない戦略がなかったのである。私はCS前から、その意思統一の必要性を指摘していたのだが、結局、カウントを追いかける最悪のパターンから抜け出せなかった。一方、広島には「狙い球を絞る」という我慢があった。この日、キラがボール気味のストレートを強引に引っ張って同点タイムリーとしたが、キラとマートンという両チームの4番の違いが、如実にゲームの勝敗を分けることになった。

試合前に嫌な兆候はもうひとつあった。1番に座る西岡が、熱発で練習を休んでしまったことである。ゲームに出場できないほど深刻な病状であれば別だが、結果的に出場できたのだから練習に姿だけでも見せておかねばならなかった。西岡は、チームに勢いをもたらす中心人物なのだ。「何が何でも勝つ」という必死さをチームに伝えておくべきだったと思う。

甲子園には、多くの広島ファンがつめかけ、レフトスタンドは真っ赤に染まった。私たちが、現役の頃の阪神―巨人戦を彷彿させるような独特の雰囲気が出来上がっていて選手は、いつもとは“違う雰囲気”の浮き足だっているようにも思えた。こういう時こそ、勢いをチームに引き込んでくるのは、必死さやガムシャラさなのだ。

監督とコーチのベンチ采配からして CSという短期決戦に必要な積極采配 が全くに出来て無い
なのだから 選手に必死さが出るはずもない。
個人個人の戦術的奮闘が仮にあったとしても 作戦的な失敗は覆せない という典型的な事例で有る

夏から秋以降に、
偶然の要素が有ったにせよ広島のベンチ陣は昨年の失敗から学んだ教訓を活かし
阪神のベンチ陣は同じ失敗を何度でも何度でも繰り返し続けるだけだった。
つまり阪神は
 仮に作戦的な成功が起きていたとしても 戦略的な大失敗は覆せない
という典型的な事例を自ら証明させて見せた訳だ。

野球という戦いの場の考察を こういう観点で見定める事は
社会 政治 外交 軍事 の観点でも充分に応用の効く話でも有る。


戦略的視点を持つ原監督は 作戦面と戦術面での優秀なコーチ陣を揃え 勝ち続けた。
其れでもプロ野球というのは6割に勝てれば「ならばよし」でしかない過酷な話でもある。
 長所が短所を上回る勢いを持つ現在の広島
 盤石な強さで迎え撃つ巨人
おそらくに また此のままに1年を戦い続ければ巨人が勝ち越せるだろうけど
短期決戦だからこそ先は読みきれない程度にしか差は無い。



記事を読み進めていて、今の広島に 新井宏昌 がコーチで居る と有って、驚いた。
新井宏昌は広島と縁が無いはずだ。

広島もまた 監督コーチのベンチ陣は同族主義で貫かれる。
其れは天下り先という意味合いが有り
それは特に現在の阪神や中日で極めて深刻な事態を引き起こしている。
だから中日は落合をGMで復活させて谷繁監督で森ヘッドコーチにさせるという荒療治を選択した。
阪神は 全くに変わりそうもない。
そういう意味合いでは 原巨人もまた 天下りという観点を上手に排除し続けてきている。

で 広島のコーチ陣を眺め直してみた。


http://www.carp.co.jp/team13/member/k77.html
広島東洋カープ公式サイト 監督 コーチ
 ↓
http://www.carp.co.jp/team13/member/k78.html
一軍 投手コーチ 古澤憲司

古沢憲司・・・って、誰???
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/hee_haa11/article/315

この人事は非常に驚いている。
http://toshifumi.blogzine.jp/onetoshi/2012/10/post_ada5.html

古沢憲司 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%B2%A2%E6%86%B2%E5%8F%B8
1993年から1995年まで広島東洋カープの投手コーチ(93年は一軍の投手コーチ)、
1996年から2000年まで阪神タイガースの二軍投手コーチを務めた。
阪神の監督は 1999年 - 2001年 が野村克也である。
その時の2軍監督は岡田だった、此の時の1軍と2軍の意思疎通は非常に悪かった。

2001年からはドミニカ共和国カープアカデミー臨時コーチを務めた。

2012年10月22日に広島東洋カープと一軍投手コーチとして契約を結び、
2013年シーズンより広島東洋カープの一軍投手コーチに就任する。


http://nanj-nanj.com/blog-entry-2783.html
現役19年で阪神、西武、広島と渡り歩いて87勝。93年に広島で1軍投手コーチとなり、
阪神2軍投手コーチ時代には井川(現オリックス)、藤川らを指導した
V奪回を狙う野村内閣4年目の体制が、これでほぼ固まった。

大野投手チーフコーチ退団により、人選を進めていた1軍投手コーチは経験豊富な64歳に決まった。
この日、球団幹部が、ドミニカ共和国カープアカデミー臨時コーチを務める古沢氏に就任を要請し、
本人も快諾した。
「(野村)監督ともよく知った間柄で、話もできる。監督がやりやすい人」
と同幹部。
OBの中から人柄、指導力を考慮した上で最適の人材と判断した。
http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2012/10/19/0005460273.shtml
なるほどねぇ。
広島は カネに渋い球団 だが よく練習をする球団 でもある。
其の為にも 選手守備に負担が大きいドーム球場な人工芝 を新マツダスタジアム球場でも採用しなかった。
選手は基本的に 育てる をしてきた。
外国人選手は 安くて良い選手を比較的に良く当てる という印象が有った。

此の記事の ドミニカ共和国カープアカデミー が特に気になった。


http://pootasouan.web.fc2.com/f_dominica/d-sosetsu.html
ドミニカ・カープアカデミーの創設
1999年のデータです。

■ドミニカ・カープ・アカデミーは、こうしてつくられた…。
●設立の趣旨
広島東洋カープは、
プロ野球球団を経営する一企業として
球団の財産ともいえる選手の発掘・育成には最も力を入れている。

日本の球界での たったひとりの大リーガーに投資する巨額の金銭 と その選手と日本での働きぶり
は必ずしも額面通りではない。

広島東洋カープ球団は独自の立場で、野球が盛んな中南米諸国の駐日大使館を訪れて事情を聴き、
さらに外務省の理解を得て各国の野球事情を視察した。
また、ドミニカ共和国には、過去5回にわたり訪問。
同国の政府関係者、野球関係者の協力のもとに野球アカデミーの建設に踏み切った。
広島東洋カープは、同国の習慣を尊重し、
さらに既に同国に進出している米国アカデミーの関係者と強調しながら、発展を図り、日本との交流を深め、
日本とドミニカ共和国の友好親善の使命を果たすことが願いであり、夢でもある。

■ドミニカ・カープ・アカデミーは、こうしてつくられた…。
●大きな教育的投資
ドミニカ共和国は、現在人口は約700万人で、GNPは1人当たり4,000ドルでですが、貧富の差が大きい国である。1990年11月29日の開校式には、ドミニカ共和国からは大統領、国防相、文化相、スポーツ相ら閣僚のご出席を賜った。
当時のホアキン・バラゲール大統領は御年83歳。目が不自由で、足どりが気になりましたが、定刻にヘリコプターで来場された。
親しく言葉を交わす機会を得たが、大統領はしっかりした口調で、「このベースボールアカデミーを発展させたい、ご協力をお願いする」と言われた。カープのアカデミーオプベースボールは、単にカープだけでなく、ドミニカにとっても大きな教育的投資であるとの感じを受けた。
ドミニカには現在、メジャー・リーグ26球団のうち、22球団がなんらかの形で、ドミニカの選手をスカウトし、養成する手段を持っているが、カープのように、本格的な施設を持っているのは、ドジャースとブルージェイズの2球団だけである。

これら、球団のスカウトは野球を教え、素質のある少年をスカウトしていますが、カープは2名、ドジャースは8名のスカウトを持っています。
カープのアカデミーには、17歳の遊撃手がいましたが、肩の強さは日本のプロ野球の中でも目立つほどであった。このような選手たち13人が、カープアカデミーオブベースボールと月額2万円で選手契約をしている。
カープアカデミーオブベースボールには、このほか国内規約(アカデミー連盟へ登録)によって、1か月ごとに登録を更新する16人の無給登録選手と練習生が10人程度いる。

●サン・ペドロ・デ・マコリスの野球事情
サン・ペドロ・デ・マコリス(San Pedro De Macoris)ドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴ(Santo Domingo)の東、約80kmにある州と都市で、サン・ペドロ・デ・マコリス州は人口約17万人。
州都サン・ペドロ・デ・マコリス市は人口約5万人である。
広島東洋カープ・アカデミーオブベースボールは、この市の郊外にある。

サン・ペドロ・デ・マコリス市にはプロ野球のほか、まがリトルリーグのチームを含むアマチュアチームが数多くあるが、メジャーチームは10チームで、これらのチームは企業がスポンサーとなり、ユニホーム、スパイクシューズなどの用具を貸し与えている。小学校、中学校、高校はクラブ活動としてのチームはない。

広島東洋カープは、民族的にすでに野球選手としての優秀性を発揮している、サン・ペドロ・デ・マコリスの住民のなかに優れた野球選手を求めて、ベースボールアカデミーを設立しました。いま、ドミニカの少年たちの夢は、まず安心して眠れることと、日に三度の食事を摂ることだという。

■ドミニカ・カープ・アカデミーの概要
●名  称/(Spanish) ACADEMIA DE BEISBOL HIROSHIMA TOYO CARP
      (English) HIROSHIMA TOYO CARP ACADEMY OF BASEBALL
      (Japanese)広島東洋カープ・アカデミー・オブ・ベースボール
●住  所/KM31/2 Carretera Mella San Pedro de Macoris Rep, Dominicana.
      TEL 011-1-809-529-2040 FAX 011-1-809-529-6458
      首都のサント・ドミンゴより東に約80km、車で約1時間30分。サン・ペドロ・デ・マコリス
      の郊外

●土地面積/269.011平方m(約81.000坪・広島市民球場の約10倍)
●施  設/
 ▲第1グラウンド…試合用、両翼100m・センター125m 
 ▲第2グラウンド…練習用、両翼100m・センター125m 
 ▲第3グランド…内野守備練習用・芝生 
 ▲第4グラウンド…内野守備練習用・土 
 ▲オブザベーションタワー
 ▲室内バッティング練習場(3打席)
 ▲ピッチング練習場(5プレート)
 ▲ウェート・トレーニングルーム 
 ▲選手専用宿舎(48ベッド)、コーチ専用宿舎(5ルーム)従業員用、トレーナールーム、
  ロッカールーム、シャワールーム、
  ランドリールーム、ダイニングルーム、多目的ルーム、事務所、エントランスホール、
  ミーティングルーム、マネージャー
  ルーム、接客ルーム、スタッフルーム、車輌倉庫

▲コーチ
 ■トレーナー  1名
 ■スカウト   3名
 ■契約選手   30名前後
 ■登録選手   15名前後
 ■テスト生   20名前後
 ■常時駐在員  1名(鍜冶口尊将)
 ■定期駐在員  3名前後
 ■従業員    30名前後(上之光紀:通訳) 他(事務、グランドキーパー、食堂、掃除)
●着  工/1989年3月
●開  校/1990年11月29日
なるほどね。
成功している とは思えないけど 外国人選手との接点を球団として独自に作っている という背景には
この辺りの 外交による人脈形成の成果 とも言えるんだろうね。

カネでしか物事が考えられない そんな野蛮人へと堕ちるだけな存在となった蟲やケダモノの如きな存在では
 人の生き方や価値観や美意識の根幹とは何たるか?
が俺達とは全くに異なる 不思議な異民族 そのカルトの下僕 でしかない己が存在の中身にすら
もはや理解が欠片も及ばないんだろうけどね。

まさか
 人脈とは目先のカネモウケという意味合いで考えているハイパーキチガイカルトの下僕
は居ないとは思うけどさ。


カープアカデミー開校20周年記念Q&A 「不毛の10年」
http://kugyousow.blog.fc2.com/blog-entry-305.html

http://kugyousow.blog.fc2.com/blog-entry-1511.html
事情通
日本の球団としてはいち早くドミニカに目をつけたまでは良かったのですが、
この「カープアカデミー」、今は単なるお荷物でしかありません。
地理的なこともあり、現地の野球を志す若者が
より興味を持つのがNPBではなくMLBであることは想像に難くないでしょう。
MLB関係者だって馬鹿じゃありませんから現地にエージェントを置いたりアカデミーを設けたりしています。

そのような現状において、
カープアカデミーに在籍するのはメジャーの組織に入れてもらえなかった選手が殆ど
なのが今の実情です。
たまに網から漏れたダイヤの原石が表れないとも限りませんが。。。
このことは日本の球界関係者、マスコミにとっては公然の事実、
松田オーナーのドミニカ視察は単なるアリバイ作りに過ぎません。
鳴り物入りで始めたからにはダメでしたといって店じまいするわけにもいきませんからね。
2012/12/12 Wed 23:01

苦行僧
コメントありがとうございます
もうおそらく、ドミニカ共和国が国を挙げて歓迎してくれた手前、
引っ込みがつかんようになってしまってるんかも知れません。
もったいない話です。惰性でしょうね。
そう言えば由宇練習場も、造ったはいいけどそのあとの進展が全くありません。
「とにかく作ればいい、あとは知らん。」
みたいな傾向がカープ球団内に蔓延しておるような気もします。
2012/12/13 Thu 03:49


勿論に資本の論理の全てを否定する なんてキチガイな言葉をのみ吐くつもりも俺には無いけど
ハイパーキチガイカルトの情報流通の人民統制の下僕
の下で蟲かケダモノとしてだけ存在してきた事すら自覚できない者達は、
きっと最後の時が来るまで 己が存在の本質が微塵にも理解できないままなのでしょうね。


そして此の記事を読む、最後が非常に面白かった。
2013年05月14日 ドミニカで“日本式野球”を布教する男 広島カープのアカデミーを直撃取材
http://toyokeizai.net/articles/-/13946

ドミニカ共和国にある広島カープのアカデミーを訪れると、選手たちの着ているアンダーシャツのカラフルさが目についた。カープカラーの赤だけでなく、青、黒と色とりどりだ。目を凝らすと、赤のシャツにはセントルイス・カージナルス、青にはシカゴ・カブス、黒にはニューヨーク・ヤンキースのロゴが入っている。

「メジャーリーグの球団とマイナー契約を結んでも、活躍できなければすぐに解雇される。そうしたドミニカ人選手たちが、カープアカデミーにセカンドチャンスを求めてくるんだ」

そう語ったのは、投手コーチを務めるフアン・フェリシアーノ。彼自身、プロ生活をスタートさせたボストン・レッドソックスのマイナーリーグ時代には結果を残せなかったものの、カープアカデミーで実力を伸ばし、2004年から広島で3年間プレーした経歴を持つ。その後はイスラエルやメキシコ、アメリカの独立リーグなどに活躍の場を求め、2011年からカープアカデミーで指導している。

1990年、カープアカデミーは総工費6億円をかけて設立された。メジャーリーグでシルバースラッガー賞(各ポジションで最も打撃に優れた選手を選出)に4度輝いたアルフォンソ・ソリアーノ、1995年に広島でチーム最多の15勝を飾ったロビンソン・チェコを輩出したものの、近年はあまり機能しているとは言いがたい。

その理由について、フェリシアーノはこう説明する。

「カープアカデミーから日本に行く選手の多くは、プロ経験のない者ばかりだ。ドミニカ人が日本の野球に適応するためには、やるべきことがたくさんある」

カープアカデミーに所属する選手のほとんどが、貧困に苦しみながら育った。幼少期に学校へ通えなかった弊害で、規律と他者への敬意を欠いている。大人になった現在でも自らに厳しい練習を課せず、技術指導を受けても1週間後には忘れてしまうという。

フェリシアーノは広島でプレーしながら規律を学び、体格でドミニカ人に劣る日本人選手が活躍できる理由を肌で理解した。日本人はつねに一生懸命プレーし、強いメンタルを備えていた。

そうした心構えこそ、成功する秘訣だとフェリシアーノは熱弁する。

「いつだって、絶対にあきらめないことが重要だ。あきらめた瞬間に、付いて行けなくなる。つねに向上することを心掛け、チームのために貢献しなければならない。選手には日本の文化、日本の野球に敬意を払うように話している。互いを尊敬し合うことができなければ、野球をプレーするのは難しい」

フェリシアーノの指導はメンタルだけでなく、メニューも日本式だ。ドミニカにあるサンディエゴ・パドレスのアカデミーでは全体練習が2時間半なのに対し、カープアカデミーでは午前中から4時間、夕方に2時間行われる。午前練習の最後に待っているのは、ハードな中・長距離走、筋力トレーニングだ。

「走ることで体が強くなる。体力が増えれば、もっといいボールを投げられるようになる」

・厳しい練習のおかげ
メジャーでは週の限られた日数にしかブルペンに入らず、球数も30〜40球が一般的だが、カープアカデミーは毎日約70球を投げ込む。入団間もないドミニカ人選手は不平をこぼすものの、2〜3週間で慣れてくるという。下半身の使い方から体重移動、腕の振り方まで、フォームを修正するのもカープアカデミーでは当たり前だ。

合理的な投げ方を身に付けることで、スピードやコントロールが改善されていく。全体的にドミニカ人選手は腕の関節が固いため、鉄アレイを持たせて上下・左右に運動させることで、柔らかくするメニューも繰り返される。

そうした努力が実を結び、2012年12月、ワシントン・ナショナルズを解雇されてカープアカデミーにやって来たブライアン・ガブリエルは、140キロメートルだったストレートの平均球速が144〜150キロメートルにアップした。あこがれのアンディ・ペティット(ニューヨーク・ヤンキース)のようにきれいなフォームからキレのあるボールを投げる左腕投手は、厳しい練習のおかげで夢を取り戻すことができた。

「2カ月間、ここのプログラムに集中したことで、上達することができた。心からいい投手になりたいと思っている。それには、もっとコントロールの精度を上げなければならない。日本の野球は3Aのレベルと同じくらいなんだろ?そこで上達すれば、メジャーリーグに行くことができる」

昨シーズン、育成選手として広島で過ごしたホセ・ポランコは、日本で貴重な経験を積んだ。

「日本の練習がハードというのは、正確な表現ではない。それは彼らの熱意なんだ。日本人はそうやって上達していく。俺もさらなる努力が必要だ。メカニック(フォームにおける一連の動作)をもっと上達させなければならない」

フェリシアーノはカープアカデミー時代、コーチの古沢憲司(今季から広島の1軍投手コーチ)にかけられた言葉が脳裏に刻み込まれている。
「一生懸命プレーしなければ、何も達成することはできない。
 努力した者だけが、いい選手になることができる。
 古沢さんにそう言われたことを、絶対に忘れない。
 ドミニカのコーチは、そんなことを教えてくれないからね。
 メンタルの話をされることなんてないし、活躍できなければ解雇されるだけ。
 いい選手になるためには、日本の野球の考え方が必要だ」

人間的に成長する必要性

努力しなければ、上達できない――。
日本人にすれば当たり前のことが、外国では驚きとともに受け止められることもある。
外国人の考える努力と、日本人の定義する努力の違いもあるだろう。

「人間的に成長できない者には、人生にさまざまな障害が待ち受けている。
 信頼して共にプレーするコーチ、選手を見つけることができなければ、
 練習でうまくなることはできない」

日本人コーチとの出会いで人生観が変わったフェリシアーノは、
現在、母国のドミニカ人選手に日本流で教えながら、成長を促している。
今年の秋季キャンプには4〜5選手を広島に送り込める可能性があるという。

「皆さん、ドミニカからいい選手を送ります。頑張ります。お願いします!」
目を輝かせ、流暢な日本語でそう言ったフェリシアーノ。
メジャーの眼鏡にかなわなかったドミニカ人選手たちは、
日本式の練習でどこまで可能性を伸ばすことができるか。
まずは、今年の秋が楽しみでならない。
なるほどね、そういう事だったんだね。

ベースボールではなく野球 という意味合いの中身が理解できる人間は多くない。
分かっている という気になっている人間ほどに“何も分かって無い”場合が殆どだ。

人を育てる とは如何なる事なのか?
おそらくイケシャアシャアと御託を並べる者達ほどに 己が如何に恥を晒しているかも理解できないだろう。

人脈形成 外交 人を育てる とは投資で有る。
目先のカネモウケをのみ投資と呼称する そんなハイパーキチガイカルトを自分の言葉で否定できない者達は
きっと幸せに生きていけるだろう。

自分達は何者なのか? の本質を捉えた上での民間外交として考えれば
普通に「ならばよし」とは思うけどね。


東洋経済は 時に不思議な記事がある。まぁチョコチョコと変な個所も少なくは無いがw
野球の資本に強い接点が無い のかな?
特別に良い ではなく まだマシな記事だからこそ
キチガイな情報工作な情報流通 を眼前にすると 非常に際立つよね。


2013年09月04日 ノムさんの教えを守り、“名脇役”になった男 西武・渡辺直人はなぜ重宝がられるのか?
http://toyokeizai.net/articles/-/18820
社会人の三菱ふそう川崎で巧打のショートとして鳴らした右打者の渡辺は、2006年のインターコンチネンタルカップで日本代表に選ばれるなど、アマチュア球界の実力者として知られていた。同年の大学生・社会人ドラフト5巡目で楽天に指名され、野村の門下生となる。

当初はアッパースイングになる癖があったものの、バットを水平に振るよう野村に指摘され、
センターから逆方向中心のバッティングを心掛けるようになった。
渡辺の打撃スタイルは1番や2番のチャンスメーカーとしてはまり、
入団から3年連続でチームトップの盗塁数(25、34、26)を記録するなど、欠かせない戦力になった。

だが2010年シーズン終了後の12月、突然の金銭トレードを通告される。
8日前に翌年の契約更改を済ませたばかりで、球界では異例の出来事だった。

同じ内野手の松井稼頭央、岩村明憲(現ヤクルト)をメジャーリーグから獲得し、
出場機会が減少するための措置とも噂され、
楽天に残る主力選手やコーチは声高にトレード反対を訴えた。
自己犠牲の精神でチームの勝利を最優先する渡辺は、チームメートに それほど愛される存在だった。
此の事件についてはウチも記事を残している とか思ったけど見つからないw
此処でリンクとコピペをする。


2011/01/10 http://number.bunshun.jp/articles/-/78322
ある場所から去ることになった時、心から涙を流してくれる人が何人いるかで、その人の価値が決まる。
楽天・渡辺直人の横浜移籍が決まった時、鉄平、嶋基宏、草野大輔が悔し涙を流している。

「女性以外に3人も泣いてくれる人がいたんだ。それってすごいことじゃない」
渡辺に声をかけると、何とも所在無げな作り笑いを返してくれた。

昨年最下位に沈んだ楽天は岩村明憲、松井稼頭央の元メジャーリーガーで二遊間を補強し、
岩隈久志のポスティングで得た落札金でふたりの年俸を払う、という青写真を描いていた。
ところが交渉が“不思議な”不調と終わり、岩隈の残留が決定。
そこで同じ内野手の渡辺が放出されることになったのだ。
控えで置いておくよりも金銭トレードで金にしたい、そう思われても仕方のないトレードだった。

此の時の「星野の下では“死んでも仕事をしたくない”岩隈」への嫌がらせに等しいキチガイ事件の中身を
マスコミ新聞テレビ大手メディアは完全に嘘デマ扇動のみな情報流通を貫き通した。
今でも情けない俺だが 当時の俺は更に甘い記事しか書けて無かった。

ブラウンが指揮を執り出場機会が減った昨季「なぜダメなのか」と渡辺直人は直訴して説明を求めた
ことも、フロントから小うるさいタイプと思われたのかもしれない。

野村克也を師と仰ぐ尾花高夫と野村野球の申し子・渡辺直人。

渡辺は野村克也監督就任2年目の2007年に大学・社会人ドラフト5巡目で入団。野村監督の評価が高く、野村野球の申し子といわれる選手だった。一度だけ宴席をともにした時、若手が野村監督のボヤキに不満を言う中で、監督の意図はここにあるのだから、と仲介役を買って出ていたことを今でも憶えている

渡辺は移籍が決まった夜、野村克也に電話を入れ、「よそのメシを食うことは視野が広がる」とアドバイスをもらった。また世話になった仙台の知り合い一人ひとりに電話で挨拶を済ませ、誰もいないロッカールームで私物を整理していた時、渡辺を師匠と呼ぶ鉄平が「お手伝いさせて下さい」と声をかけてきた。さすがにこの時は涙が止まらなくなったと言う。
「今は横浜で自分のポジションをどう獲るか、それしか考えないようにしている」と渡辺は言うが、ショートには売り出し中の石川雄洋がおり、熾烈なポジション争いになることは確かだ。

3年連続最下位の横浜は「自己犠牲」という発想がないチーム。勝つためには泥臭いプレーも厭わない渡辺は、野村克也を師と仰ぐ尾花高夫にとって、何より頼りになる存在になるかもしれない。
しかしチーム身売りという激震が尾花と渡辺直人の運命を変えてしまう。
そもそもの アレな球団の横浜 から モバゲーへの身売り という事態が アレ なのだが。


2010/12/27 http://number.bunshun.jp/articles/-/74594
2010オフにロッテから横浜に移籍した橋本将捕手が1年間、横浜にいて感じたというこの言葉だった。
「このチームでは、ありえないことが当たり前になっている」――。
橋本によると「試合中にベンチにいる選手が少ない」など、
他チームでは考えられない出来事に、横浜では当たり前のように遭遇したというのだ。

確かにこれまでも某主力選手は途中交代すると、
ベンチ裏に下がってソファーで寝そべりながらテレビ観戦を決め込んでいた
――そんな話も聞いたことがある。
他チームでは打ちこまれた投手も、アイシングが終わればベンチに戻って声を出す。
そういうことは常識中の常識だと思っていたが、
横浜では どうやら違うようなのだ。


誠天調書 2013年09月30日 モバト の向こう側。
http://mkt5126.seesaa.net/article/376075520.html

誠天調書 2010年10月02日 横浜売却の不思議な構図
http://mkt5126.seesaa.net/article/164380209.html

2010/12/14 http://number.bunshun.jp/articles/-/71977
翌日の契約更改交渉に臨んだ選手のほとんどが、
渡辺直に惜別の言葉を贈る以上に、悔し涙を見せた。

公私ともに仲が良く、渡辺直を「師匠」と慕う鉄平は、
自身の契約にはわき目もふらず、事態の説明を球団に求めたほどだ。
「直人さんがあんなことになって……。
 技術だけではなく、人間的に未熟だった自分にいろいろなことを教えてくれた先輩でした」

同期入団で、来季から「二人三脚で頑張っていこう」と渡辺直と誓い合ったばかりの新選手会長の嶋基宏も、
涙ながらに語った。
「悩んでいるときに声をかけてくれましたし、
 来季も副会長としてサポートしてくれると言われていたので……。
 直人さんがいなくなってしまって、僕も悔しくて」

さらに翌日には、チームの精神的支柱の山崎武司ですら、
「プロだからトレードは仕方がありませんけど、出すべき選手ではなかったと思う」
と、球団に疑問を投げかけた。

これで十分に伝わるだろう。
彼はチームメイトから信頼される選手だった。
そして、ファンから愛される選手であった。

渡辺がどれほどファンから愛されていたか。それを裏付けるエピソードがある。

渡辺の厚い人情を知るファンは球場で熱い声援を送った。

1年目のことだった。同期入団のゴールデンルーキー・田中将大にファンが群がりサインを求める。
しかし、一部のファンが営利目的のためネットオークションで売却していたことを知った球団が、
公式イベント以外でのサインはしないよう全選手に通達した。

だが、渡辺直だけはサインをし続けた。
関係者の話によれば、球団が困惑しながらやめるように言うと、彼はこう返答したという。
「100人にサインをして、99人がネットオークションで売ったとしても、
 ひとりだけ本当に喜んでくれるファンがいるかもしれない。だからやめません」
ファンは、そんな渡辺直の人情を知っているからこそ、
ホームゲームではどの選手よりも大きな声援を贈るのだ。

派手さには欠けるが「フォア・ザ・チーム」を貫いた。

プレーヤーとしても、渡辺直は自分の持ち味を貫いた。
派手さはない。だが、右方向へ打球を飛ばすために何球もファウルで粘り、
死球を恐れることなく思い切り踏み込んでインコースの球を打ちに行く。
出塁すれば果敢に次の塁を狙った。4年通算97盗塁がその証。

上位、下位どの打線を任されても力を発揮した。
守備では、'09、'10年と2年連続でショートの守備率1位。
堅実かつ必死に打球に食らいつく守りでチームのピンチを幾度となく救った。
渡辺直は、「フォア・ザ・チーム」の塊のような男だった。

そんな選手が楽天からいなくなる。

人気と戦力以外で、球団を支えている要素とは何か?

監督が星野仙一になり、松井稼、岩村を獲得したことで人気、戦力は底上げされた。そのことで、来季は優勝争いに加わるかもしれないし、ホームの集客率も上がるだろう。
だからといって、楽天がより「ファンから愛されるチーム」になったかというと疑問符が残る。

渡辺直のように、
ファンと真摯に向き合う生え抜き選手がひとり、またひとりと増えていくことで信頼関係が生まれ、
愛されるチームになっていくのではないだろうか。

なにより仙台を拠点とする楽天は、「地域密着型のチーム」だ。
バレンタイン解任騒動で揺れた'09年の千葉ロッテのように、ファンの意思が形になって表れやすい。

今回の渡辺直の放出を教訓に、球団にはそのことを少しでも理解してもらいたい。
カネモウケと情報工作と人民統制を主目的にする一神教で野蛮人な集団でしかないからねぇ。
そんなハイパーキチガイカルトな連中に 多神教で文明人の生き方や価値観や美意識は絶対に理解されない。

そういうものだ としか言いようが無い。


http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamurahiroki/20130715-00026440/
2013年7月15日 トレード移籍の渡辺直人が各地で愛される理由 山村 宏樹
2010年のシーズンオフの事でした。

楽天で活躍、レギュラーだった渡辺直人が異例とも言える金銭トレードで横浜へ。
この、ニュースを聞いた私は、あまりの驚きで言葉が見つかりませんでした。
「こんな事があるんだ…。何でだ?」
様々な事が頭の中でぐるぐるとしました。決まった事は仕方が無いと思い、直人にメールをしました。
「悔しいと思うけど、活躍して楽天が出さなきゃ良かったな、と思う様に頑張れ!見返してやれ!」、
こんなメールをしました。

そのメールを見た直人がすぐに電話をかけてきて、
「ビックリです。今はなかなか気持ちの整理が出来ません。
 僕は頑張りますよ。でも仙台を離れるのが寂しいです。」
と語っていました。

やはり、慣れ親しんだチームメイトと一緒に野球が出来なくなるのは寂しいと思います。
私も2004年の球団消滅で当時のチームメイトと野球が一緒に出来なくなる事を経験しているので、
寂しい気持ちは痛いほど分かりました。
私自身も直人が出て行く事に寂しさを感じていました。

<ファン、チームメイトに愛され、そして信頼された直人>
そんな直人は楽天イーグルス時代に沢山のファン、チームメイトに愛される選手でした。
楽天イーグルスでの活躍は皆さんご存知だと思います。
「常に全力プレー」、「チームの為に」、そして「ファンの為に」。
自分を犠牲に出来る、素晴らしい選手でした。

選手間では、直人は「とにかく野球が大好き」、「野球オタク」、「野球の事なら何でも知っている」、
と言うキャラクターで、練習の取り組み方から何まで、学ぶ事が多かったと聞いています。

平石一軍打撃コーチ補佐は、当時現役時代に自主トレを一緒にしていた仲で、
先日に話を聞いた所、
「とにかく野球を知っているし、いつも野球の事を考えていますよ。
 野手の中では、直人が中心になり試合の反省や、あのプレー、このプレーについての話を、
 バッティングでも状況に応じた打撃を、
 といつもチームの事を考えていましたよ!」
と話してくれました。

投手だった私は、直人と野球の事で話した事で思い出されるのは、以下のようなやり取りです。
「俺はこの球種を投げるよ、この打者との対戦は三遊間寄りの打球が多いよ。少し動いてくれる?」
とリクエストをすると、直人が
「球種のサインを確認させて下さい!見ながら動きます!」
と聞いてきた直人は、既に私の球種のサインは知っていて、「やるな〜」と私は思いました。

後ろで守っている直人は頼もしかったです。
時には「今日は若い投手だから、声をかけてあげてな、頼むよ!」と何かとお願いをしていました。
リーダーシップのある選手だからこそ頼める事なのです。
ピッチャーは、直人の守備で幾度となく助けられました。

<直人の送別会での出来事>
直人のトレードが決まり、すぐに高須洋介選手が「送別コンペやろう!」と言い出しました。
直人はゴルフが大好きで、いつもシーズンオフになると選手達とラウンドをしていました。
そこで、「みんなで一緒にゴルフをして、横浜へ送り出そう!」となり、
ゴルフ好きの選手が集まりコンペをしました。

だけどコンペ当日は、なぜか大雨でした。
普段なら選手間で連絡を取り合い「雨だから止めよう」となりますが、
この日は参加の選手は雨の降る中ゴルフ場に集合しました。
みんな思いは一緒でした。
「今日が直人さんとラウンド出来る最後でしょ?直人さんの判断で決めましょう!」
高須さんも、「そうだな!直人に聞くぞ」と全員を集め、
直人に「今日はみんなおまえの判断に従うよ!」これを聞いた直人は驚いた顔で
「いいんですか?最後なんで宜しくお願いします!」
と笑顔で答えました。

本来、ゴルフ場も大雨でクローズで休みにしようとしていた所、
支配人が「直人さんの為ならどうぞ!」と気持ちよく了承してくれました。

大雨の中で集まった選手、プレーをさせてくれたゴルフ場の皆さん、全て直人の人柄によるものです。
最高に楽しかったですし、あのような大雨でゴルフをやる事は なかなか無いでしょう(笑)。

<囲まれたテレビ局>

その渡辺直人、先日、横浜DeNAベイスターズから埼玉西武ライオンズへ移籍しました。
横浜では、出場機会に恵まれずにいましたが、
在籍中も横浜スタジアムで「渡辺直人」とアナウンスが流れると、一番の声援が沸き起こりました。
これを聞いても、人気の高さが伺えますし、ファンに愛されているんだなと思います。

先日、7月12日(金)に埼玉西武ライオンズに移籍して初めての試合。
仙台での楽天イーグルスとの試合になりました。
これも何かの縁でしょう。直人が打席に向かう時の声援や拍手はとても大きく、温かいです。
改めて、仙台での人気の高さを再確認できました。

楽天時代にはこんな出来事もあったそうです。
当時、楽天で広報を担当していた、
岩越亮氏(現・ソスニック・コブ・スポーツ・ジャパン代表取締役)が話してくれました。
2010年のトレードが決まり、地元のテレビ局に出演し、
生放送が終わるとテレビ局から出てくる直人を待つファンが約300人いたそうです。
当時のテレビ局の関係者は「あんな光景は見た事がない!」と驚いていたそうです。

そんな、多く集まったファンの為にサインを一人ずつ丁寧に書く姿は、
ファンを誰よりも大切にしていた直人ならではです。
沢山のプレゼントや花束をもらい、局から帰りの車に乗り込んで走り出そうとした時に、
集まった多くのファンが涙を流しながら渡辺直人の応援歌の大合唱が始まったのです。

仙台では伝説になっている出来事です。


<本人のコメント>
先日、球場で話した時に直人本人は
「ライオンズに移籍して良かったです。
 3球団目になりますが、良い経験も出来ているし、
 大好きな野球を一軍で出来て、こうやってまた仙台にも来れますし、最高ですよ!」
と、とてもいい表情で話してくれました。

最後に私に「オフは、ゴルフ行きますよ!」と、あの時の事を思い出す言葉をかけてくれました。

既に移籍して直後の試合で結果を出し活躍をしています。
これから、埼玉西武ライオンズでこれまでの経験を生かし、
若い選手を引っ張りグランドを走り回り、
ライオンズファンから愛される選手になる事は間違いないでしょう!

野球人「渡辺直人」。
これからもファン、首脳陣、選手、チームスタッフに愛される選手でいてくれるでしょう。
活躍に期待です!!
言うまでも無く 不思議な楽天の三木谷と星野とナベツネという関係性が其処には有る。

情報工作どころか
実際に戦争での人殺しに比類するような工作を生業とするような連中の動きにも似た“不思議な話”が
その向こうで見えてしまうよね。


誠天調書 2013年09月27日 「勝率が8割な程度の実力の投手」が22連勝する確率は0.74%
http://mkt5126.seesaa.net/article/375883477.html



2013年09月18日 ミスター社会人に学ぶ、40歳超でも輝く術 東洋経済オンライン
http://toyokeizai.net/articles/-/19639

“ミスター社会人野球”として知られる西郷泰之だ。
41歳の左打者はプロの世界とは縁がなかったものの、
1996年のアトランタ五輪で銀メダルを獲得するなど日本代表として長らく活躍し、
社会人ナンバーワンを決める都市対抗野球では“優勝請負人”の異名を授けられた。

三菱ふそう川崎でともにプレーした渡辺直人(西武)は「雲の上の人」と尊敬の念を表し、
現所属のホンダでチームメイトだった長野久義(巨人)も多大な影響を受けたという。
こんな選手が居るんだ、知らなかったなぁ。

西郷が野球界で一目置かれる理由のひとつは、他者がマネできないような生き様にある。20年以上に及ぶ社会人野球のキャリアで数々の栄光を築いた裏で、骨折5回、肉離れ8回と何度も故障を負った。ピッチングマシーンのボールが頭部に直撃し、頭蓋骨骨折で生死の淵をさまよったこともある。

不惑を経て、現在は満身創痍だ。それでも、バットを置くつもりはない。
「体が痛い、腰が痛いなんて些細なこと。もちろん痛いものは痛いけど……野球ができない苦しみに比べたら、体が痛いのは何てことない。自分はケガをして、野球をできない時期がありました。野球部が活動停止になって、プレーできない頃もありましたね。そういう時期は本当に辛かった。いま、野球ができているのはすごく幸せです」

41歳になったいまも現役にこだわる理由は、過去の悔恨と無関係ではない。西郷は20代の頃に1度、自分で野球をあきらめかけた経験がある。

95年、西郷は日本代表入りを果たした。日本・キューバ選手権で初の国際大会に挑み、翌年のアトランタ五輪では2番・レフトとして銀メダル獲得に貢献する。90年に三菱自動車川崎(後に三菱ふそう川崎と改称)に入社した当初は「期待もされていなかったし、2、3年でクビになるような選手」と自覚していた分、ガムシャラに練習した。三遊間に流してのヒットは「楽に打てる」と言うほどバットコントロールを磨き、アマチュアトップクラスの打者に登り詰めた。

「ダメな人間でした」

だが、秋になる度、プロ野球のドラフト会議で西郷の名が呼ばれることはなかった。小さい頃からプロに憧れ、活躍できる自信があったものの、年齢を重ねるにつれ自ら一線を引いてしまう。

「いまだったら27歳でプロに行く人もいますけど、20年くらい前は、24、25歳までに行けなかったら『もう指名されないな』という感じでした。そうやって、自分であきらめた部分はありますね。社会人野球でも30歳はベテランで、35歳まで続ける人はいませんでした。自分は社会人としてどう生きていこうかと考えていましたね」

15年ほど前を振り返る西郷が、達観した表情で続ける。

「いま思えば、それでもプロをあきらめないでやるべきだった。当時はまったくそんなことは思えなかったですね。ダメな人間でした(苦笑)。もったいなかったですね」

夢見たプロの世界をあきらめ、西郷は野球への意欲を失った。当時のチームを率いていた大須賀康浩監督(現・福井工大福井高校監督)に「野球をやめて、社業に就きます」と打ち明けたのは1度や2度ではない。だが、その度に「続けろ」と説得された。そんなやり取りを2、3年続けるうちに、事件は起こった。

社会人の頂点を争う都市対抗には、補強選手という独特の制度がある。各地方の代表が日本一を争うという大会趣旨のため、開催期間中、予選で敗れたチームから数名をレンタルすることができるのだ。

99年、日産自動車の補強選手に選ばれた西郷は都市対抗を控えた夏、日本代表の合宿に参加した。そのとき、予期せぬアクシデントに見舞われる。ベンチ前でバント練習用のピッチングマシーンが稼働していたことに気づかず、ヘルメットをかぶらないままグラウンドに飛び出すと、無防備な頭部に硬球が直撃した。頭蓋骨骨折、脳挫傷の重傷――。運良く失明は免れたものの、数カ月の入院生活を余儀なくされ、「もう野球をできないのでは」と悲嘆にくれた。

「日産がせっかく補強してくれたのに、結局、選手がひとり足りなくなって。自分の軽卒な行動で補強先に迷惑をかけ、自分自身もすごく悔しい思いをしました。そんな選手がいまでも野球をしているなんて、奇跡ですよ」

全部、フルスイング

病床で数年間を省みた西郷は、慢心していた自分に気づいた。社会人野球で確固たる地位を確立した一方、プロへの道をあきらめ、中途半端な気持ちでバットを振っていた。「これではダメだ」と思い直した。

一念発起した西郷が復帰すると、4年ぶりの再会が待っていた。99年シーズンオフ、垣野多鶴(現NTT東日本監督)が三菱自動車川崎の監督としてやって来たのだ。西郷が初めて日本代表に選ばれたとき、打撃コーチを務めていたのが垣野だった。

「もう、流し打ちは禁止だ。全部、フルスイングしていけ!」

逆方向へのバッティングでヒットを稼いできた西郷に、垣野は打撃改造を命じた。西郷は、「垣野監督の『今までのようなバッティングじゃダメだぞ。もっと上を目指せ』というメッセージ」と受け止め、バットを思い切り振り込んでいく。

二人三脚でバッティングを作り直す過程で、最も衝撃を受けたのは「ポイントは横一線」というアドバイスだった。少年野球の頃から「ポイントは斜め横」、つまりインコースは体の前、アウトコースは引きつけて打つよう教えられてきたが、垣野の指導は異なっていた。
「垣野さんは『インコースのボールは引きつけて、アウトコースは前で打って、全部センターバックスクリーンに入れろ』って言うんですよ。それまでとは反対のことを言われて、最初は『うん?』と思いましたが、やってみたら、何となくわかるんですね。

『インコースのボールを体の前で打つと右に行くから、ボールを引きつけて、バットを内側から出しながら90度の角度をつけてバックスクリーンにたたき込め。アウトコースのボールはバットのヘッドが遅れて出てくるとレフトに行っちゃうから、ヘッドを前に出して打て』と。言われてみると、確かに垣野さんの言う通りでした」

垣野は西郷に中心打者として期待し、どんなボールでも強打できるように説いた。西郷はティー打撃用の台にボールを置き、内角から外角まで横一線に移動させながらセンター目指してフルスイングを繰り返した。そうして習得した新打撃スタイルが、西郷を1段上のステージに引き上げた。

西郷が都市対抗で記録した14本塁打のうち、13本は打撃改造した00年以降に放ったものだ。02年に金属バットから木製バットを使用することにルール変更されたものの、木製で9本をスタンドインさせている。

2009年のターニングポイント

都市対抗では00年に初優勝すると、02年はいすゞ自動車の補強選手として社会人の頂点に立った。03、05年に所属の三菱ふそう川崎、07年には再び補強選手として東芝の優勝に貢献し、“優勝請負人”と呼ばれるようになった。

勝利の美酒に酔ったのは過去に6度あるが、特別な味わいだったのは09年大会だ。前年、不況の煽りで三菱ふそう川崎が活動停止となり、西郷の頭に引退がよぎった。そんな折、ホンダの安藤強監督(当時)から声をかけられる。

「ホンダのユニフォームを着て、都市対抗のホームラン記録を塗り替えてみろ」

当時、西郷は36歳だった。ホンダでは他の社会人チームから選手を取ってくる例が珍しく、社内から反対の声も挙がったが、安藤が説き伏せた。過去2年、ホンダは4番打者に適任者がおらず、苦しんでいた。期待されずに社会人野球の門をたたいてから19年、西郷は求められる選手に変わっていた。

09年の都市対抗では通算13号本塁打を放ち、4番打者としてホンダを優勝に導いた。その打棒はもちろん、西郷の姿勢がチームにいい流れを呼び込んだと安藤は言う。

「西郷はこれぞ社会人というお手本。走るにしろ、打つにしろ、意図が伝わってくる。守りでも攻撃でも、体を張っています。年齢が上の選手から若手まで、西郷の姿を見てまとまりました」

12年大会でタイ記録に並ぶ通算14本塁打を放ち、新記録に王手をかけた。記録はあくまで記録と位置づけるが、モチベーションになっている。

「安藤監督に『ホンダのユニフォームで記録を達成しろ』という言葉をもらって、ここに来ているので。何とか約束を果たせるようにと思っていますね」

10年限りで安藤がチームを去り、長谷川寿がチームを引き就いたが、西郷は4番を任されている。13年の都市対抗は初戦で敗れたものの、まだまだ勝利への欲は尽きない。

「これだけ長くやらせてもらって、チームが勝つ喜びを知っています。その喜びを1度知ったら、また味わいたいと思って目指しますね。若い選手にも、そういう気持ちを味わってもらいたい」

監督やコーチとして若手を指導する立場もあるが、現在の西郷にその選択肢はないという。

「チームメイトとして、何とか優勝するための力になりたい。生涯現役?まあ、許されるのであれば(笑)。でも、チームの役に立てなかったら意味がないので、何とかそうなりたいですね。周りから見て、『もう、やめればいいじゃん』と思う人はいっぱいいると思うんですよ。別に、それはしょうがない。でも、自分からあきらめる気にはなっていませんね。体が動くうちはやり続けたい。野球をできなくなった場合、またやりたくなることはわかっているから、やり切りたいですね」

過去の悔恨は、決して消すことができない。だが、後悔をモチベーションに変えることができれば、計り知れないパワーになる。

“ミスター社会人”の野球人生が、そう教えている。

ベースボールではなく野球 が其処にも有る。

2013年07月24日 ドラゴンズ浅尾が、マイナス思考にふける理由
http://toyokeizai.net/articles/-/16069
「失敗を乗り越える」という表現は「不撓不屈」や「前向きな取り組み」などポジティブなイメージを想起させられるが、浅尾のメンタルはむしろ逆だ。そこにこそ、球界トップに登り詰めることができた理由が潜んでいる。

2010年に歴代最多の47ホールドを記録して最優秀中継ぎ投手に輝き、翌年は同賞とシーズンMVPを獲得した浅尾だが、プロ入りまではスポットライトと無縁の日々を送った。小学生の頃はプロ野球選手を夢見ていたものの、中学生になると実力的に「プロにはなれない」と悟る。卒業後は捕手として愛知県立常滑北高校(現・常滑高校)に進学し、2年夏の大会後から本格的に投手として取り組んだ。高校3年夏の愛知県大会3回戦で敗れて「野球をやめよう」と思ったが、愛知大学野球連盟の下部リーグに所属していた日本福祉大学に推薦で合格した。「いつか絶対に野球をやめよう」と思う反面、「何となく続けていた」。

最速157kmのストレートと鋭く落ちるフォークで打者に向かっていく姿から、勝手に豪快なイメージを抱いていたものの、浅尾の発言にはネガティブな色が少なくなかった。

浅尾は冷静に物事を考えすぎるあまり、少年時代には野球に没頭し切れない部分があった。そんな彼を変えたのは、大学時代に喫した敗戦だ。

先輩の代の試合で登板し、自分が打たれたことでチームは敗れた。当時の浅尾は練習への熱が足りず、敗戦に申し訳ない気持ちになった。先輩の取り組みを見て「これだけ一生懸命やっているのだから、それで打たれたらしょうがない」と思っていた分、自らの甘さを情けなく感じたのだ。以降、浅尾は「こいつで打たれたらしょうがない」と周囲に認めてもらえるように努力を重ね、2006年、大学生・社会人ドラフト3巡目で中日に指名されるまでに成長した。

セットアッパーやクローザーを任される浅尾は、僅差でリードをしている試合終盤に登板機会が訪れる。「抑えて当たり前、打たれたら周囲からいろいろ言われます」と話すように、投手として最も過酷なポジションだ。日々のストレスと向き合わなければいけない職務柄、リリーフで打たれた場合、「失敗はすぐに切り替えろ」と言われる。だが、浅尾は「失敗を引きずる」ことを原動力としている。

「よく『日付が変わったら、切り替えろ』と言われますが、日付が変わった時点ではあまり変わりません(笑)。寝て、起きて、球場に行って、次に投げる瞬間まで打たれたことをずっと考えていますね。『次はやってやる』という気持ちに変わるのは、登板直前。すぐに切り替えてやれるタイプもいるでしょうけど、ミスから学ばなかったら意味がない。反省して、同じような失敗を繰り返さないように、ずっと記憶に残している部分はありますね」

昨年、巨人の阿部慎之助の取った行動が話題を呼んだ。ある試合で2点リードの9回裏2死にキャッチャーフライを落としたことで、チームは引き分けに持ち込まれた。翌日、自身のロッカーにエラーの写真を張り付けた。悔しさを刻み込むための阿部の行動を、浅尾は共感できるという。

「抑えたときのピッチングは、あまり覚えていないものなんです。打たれたときの記憶ばかりあるので、阿部さんの気持ちもわかりますね」

浅尾は“マイナス思考”にふける。

「『このバッターにはヒットを打たれて、バントで送られて』という状況を頭に置いておきます。そうすると、実際のマウンドで冷静になれるんですよ。『このバッターにフォアボールを出しても、まだこの状況だから』と頭に入れておきますね、つねに」

グラウンドに一歩足を踏み入れると冷静になるものの、ベンチにいる間は「足が震えるくらいに緊張している」。ストレスのかかる仕事ほどリラックスして向かったほうが成功しそうだが、そうではないと浅尾は言い切る。その考え方は今季、通算350セーブの日本記録を打ち立てた大先輩の岩瀬仁紀と共通するものだ。

「岩瀬さんも『緊張しなくなったら終わり』と言っていました。絶対、緊張は必要だと思います。緊張しない日もあるんですよ。そういう日はだいたい、打たれます。どこかに隙があるのでしょうね。油断で痛い思いはいっぱいしています」

要は、いかにストレスフルな仕事と向き合い、万全の準備をしておくということだ。リスクを想定しておけば、難しい状況が訪れても対処法を考え出すことができる。

2010年。浅尾の思考法は大きく変わった。内容ではなく、結果を重視するようになった。

きっかけは、試合中にチームメイトの投球を見ていたことだ。岩瀬や現在47歳の山本昌、エースの吉見一起は浅尾のようなスピードボールを投げるわけではないが、相手打者を巧みに打ち取っていた。

「球速150km以上の自分が打たれるのに、山本昌さんや岩瀬さん、吉見は『どうやって抑えるのだろう?』と見ていたんです。そのとき、コントロールや配球を見て学びました。156kmのストレートで打たれるなら、147kmのストレートで抑えるほうが絶対にいいですよね?プロで生き残っていくためには、抑えていかないといけない。スピードだけではないと気づきました」
「毎日試合にかかわって、特に自分の投げた試合で勝てたらうれしいですね。本当に、小さい積み重ねが楽しくて、楽しくてという感じです」
この「小さな積み重ね」という言葉にこそ、浅尾の哲学が潜んでいる。
「自分は次の日のことしか予定を決めたくないタイプなのです。だから高い目標は立てないようにしています。何試合登板とか、防御率は何点台とか、届くか、届かないかギリギリのところにしか立てないですね」


2012年12月11日 角中、大化けの秘密―月収13万から首位打者へ 素直な心で、実のある努力
http://toyokeizai.net/articles/-/12059
角中が月収13万円時代の独立リーグからはい上がり、日本トップクラスに成り上がることができたのは、自身がどんな状態や環境にあっても、つねに同じ姿勢を貫き通してきたからだろう。

「開幕1軍を逃した悔しさよりも、2軍で実戦の機会を増やせるプラスが大きかった」
中日新聞のインタビューに対し、角中はこう話している。
1軍でベンチを温めるより、2軍でプレーした方が、自身の腕を磨くことができると考えたのだろう。
http://tk.ismedia-deliver.jp/mwimgs/d/8/-/img_d863303822eda64ce389de93a8e9222435891.jpg
角中がプロ入り以降、周囲の声に惑わされず、信念を持って練習してきたことを示唆するデータがある。
1軍と2軍における、対照的な成績だ。

全然に関係ないけど こんな言葉が置いて有った。
西武の監督を務める渡辺久信。
前橋工業高校から1983年ドラフト1位でプロ入りした渡辺は、いわゆる天才タイプだ。
現役時代は豪速球を武器にチームのエースを張り、監督としても巧みな育成手腕を発揮している。
そんな指揮官に一般論として「凡才がトップに登り詰める方法」を尋ねると、興味深い話をしてくれた。
「努力は当然、必要だよね。その中にも実になる努力と、実にならない努力がある。
 もちろん、運もあるんだけどね。
 俺の持論として、初めから運命は決まっていて、実のある努力をすれば、運をつかめる
では、どうすれば、実のある努力をできるようになるのだろうか。
「今の子は小さい頃からパソコンに慣れ親しんでいて、いろんな情報が入ってくるでしょ?
その情報を自分で処理していくことが必要だよね。
 全部詰め込むと、伸びていかないと思う。
 『違うな』と思うことは捨てる

 昔の選手は、今の選手ほどそういうことができなかった。
 昔は指導者に『こうやれ』と言われて、うまく流せる選手は少なかった。
 今の選手は、いろいろ処理しながらやっていくことが大事だと思う」


2013年07月09日 創部7年の野球部が、日本一になれた理由 2006年から桐蔭横浜大学硬式野球部を率いる齊藤博久監督
http://toyokeizai.net/articles/-/15107

2013年06月25日 野球選手に学ぶ、"オリジナル技"の開発法 潮崎哲也はなぜ魔球シンカーを習得できたのか?
http://toyokeizai.net/articles/-/14465
右サイドの潮崎のシンカーが
 右打者からは「カーブに見える」のに「シンカーとして曲がって落ちる」
って そんな馬鹿なw

一般的なシンカーは、投手の利き腕の方向にシュート回転しながら落ちていく球種だ。
ソフトバンクの攝津正やヤクルトの石川雅規やヤンキースの黒田博樹が決め球としている。

打者にとって厄介なボールだが、
中でも潮崎のシンカーが“魔球”と特別視されるのは、独特な軌道を描くからだ。
右のサイドスローから放たれたボールは一度は浮き上がり、シュート回転しながら落ちていく。
其処までは分かる。

その凄味が良く分かるエピソードを、以前に社会人野球のホンダの安藤強前監督から聞いた。
安藤は現役時代、松下電器(現・パナソニック)に所属していた潮崎と対戦した。
「カーブを狙え」と言われて打席に立つと、
「この球は本当にカーブなのか?」と戸惑いを隠せなかった。

軌道をよく見ると、その球はシンカーだったという。

先日、別冊宝島2017号『「絶対エース」の魔球伝説』の取材で潮崎にその話を伝えると、
潮崎は こう話した。
「僕のシンカーを横から見たら、カーブみたいな感じだと思います。
 打席に立って初めて、右バッターなら『体の方に向かってくる』と感じるんじゃないかな?
実際に一度は見ないと、軌道をイメージできないと思います」
なんで?w

潮崎のシンカーが魔球と言われる理由は、この言葉に潜んでいる。

鳴門高校時代にシンカーを習得しようと決意した潮崎は、軌道をイメージすることから始めた。
「センター方向から見て、右に曲がりながら落ちる球を投げたいと思いました。
 左に曲がる球がカーブだから、その反対をやろう、と」
「カーブの逆」という発想自体はシンプルだが、
野球の常識で考えた場合、行うのは容易ではない。

しかし、潮崎は躊躇せずに取り組むと、1、2カ月後には習得できたという。
このボールが、潮崎の野球人生を変えた。

鳴門高校に入学した頃、潮崎は特に目立つ投手だったわけではない。
高校2年の頃、フォームをスリークオーターからサイドスローに変えたのは、
同級生に右のオーバースローから投げるエースがいたからだ。
首脳陣から「目先を変える意味で、横でも下からでも投げておけ」と指示されたことが理由だった。

週末になるとダブルヘッダーで練習試合が組まれ、
潮崎は「2試合目を消化するためのピッチャーだった」。
試合で打たれようが、特に怒られることもない。
本職は内野手で、投手としての期待は決して高くなかった。

だが、高校3年春に高松西高校と行った練習試合が分岐点となる。相手は小柄な投手で、特筆すべきスピードボールを投げていたわけではないが、サイドスローからのシンカーで内野ゴロの山を築いた。その姿を見た監督が、「お前も同じようなタイプだから、シンカーを投げろ」と潮崎に命じた。それから1、2カ月後、すぐに“魔球”を習得できたという。

「魔球と言うと、『開発に何年もかかって、ようやく試合に使えるようになった』
 という話をよく聞きますよね。
 僕にはそんな開発秘話はありません(笑)。
 コントロールも右バッターの膝元ばかりにいくような感じで。
 それまでは2番手投手だったのが、急に打たれなくなりました」

高校卒業後に松下電器へ進むと、ストレートの球速が10〜15km速くなった。150km近くのストレートとシンカーのコンビネーションで頭角を現し、19歳で出場した1988年のソウル五輪では銀メダル獲得に貢献する。89年ドラフト1位で西武に入団すると、抜群の勝負度胸でチームを何度も勝利に導いた。入団1年目の日本シリーズでは巨人と対戦し、3勝0敗で迎えた第4戦では7回から登板。最終回、駒田徳広をシンカーでピッチャーゴロに打ち取り、胴上げ投手になった。

宝刀のシンカーで打者をきりきり舞いさせる潮崎を見て、投げ方を教わりにきた投手は少なくなかったという。惜しまずにボールの握り方を教えたが、彼のようなシンカーを投げる者は現れなかった。潮崎のように薬指の柔らかさを持つ投手はおらず、ボールをリリースする際にうまく抜くことができないため、回転力を止めてしまうことが理由だった。

しかし、潮崎は「僕のシンカーを投げられなくてもいい」と言う。

2005年、中日から正津英志というサイドスローのピッチャーが西武に移籍してきた。07年から西武の指導者になった潮崎に、正津は「いろいろとマネしてみましたが、潮崎さんのシンカーを投げられませんでした」と言った。正津のシンカーを見ると、潮崎と球の握り方こそ違えども、リリース時にボールを抜く感覚は同じだった。

「僕みたいに薬指で抜くのは難しい。でも小指をどかして抜けるなら、そうやって投げればいい。その感覚自体は同じ。考え方の違いであって、自分に合っている球を操れればいい。僕の握りじゃなかったら絶対にあかんということではなく、似たような球がほうれるなら、どんな握りでもいいと思う。考え方ひとつで、どうにでもなるんじゃないですか」

その子のレベルまで行かせてあげたい

目標を明確に定め、ゴールに到達するまでの道を探っていく。逆算のイメージで“魔球”を習得した潮崎は現在、同じような考え方で西武の投手コーチとして若手投手を鍛えている。

今季の西武には、育成選手を含め34人の投手が在籍している。潮崎が念頭に置いているのは、彼らの能力は千差万別であるということだ。

「プロ野球に入ってきても、『この子は1軍に行けるかな?』という子もいるんです。もちろん『こいつはすごいな』というピッチャーもいる。だから、その子のレベルに合ったところまではちゃんと行かせてやりたい。『将来は先発ローテーションに入るピッチャーやな』と思えば、ローテーションまで行かせてあげる。『そこまで行くピッチャーじゃない』と思えば、何とか1軍に入れるようなピッチャーにしたい」

人の能力には限界がある。一方で「適材適所」と言われるように、適した場所に配置してやれば、持てる能力を存分に発揮できる確率が高くなる。そう考えると、選手の可能性を最大限に引き出してあげるのが指導者に求められる役割だ。

シンカーという“魔球”でトップに登り詰めた潮崎は、現実を冷静に見つめつつ、人の可能性を信じながら明日の戦力を育てている。


2013年04月02日 名コーチ、高橋慶彦の天才論
http://toyokeizai.net/articles/-/13504?page=4
高橋には打撃の師匠がいる。史上2人目の2000本安打を達成し、コーチとして落合博満を育てた山内一弘だ。現役時代に毎日(現ロッテ)や広島でプレーした山内は84年、中日の監督に就任した。高橋は試合前に山内を訪れ、敵将にアドバイスをもらっていた。

あるとき、山内が突然に投げてきたボールを高橋が手で捕ると、「おまえ、何で捕るんや?」と聞かれた。高橋は「ボールが来たからです」と答えた。すると山内は、「バッティングもそうならなあかん。考えている時間はないんやぞ。おまえは、考えて打っているやろ?」と言われた。つまり山内は、「コツをつかめ」と教えていたのだった。
高橋は両打ちを習得すべく、「1日24時間では足りなかった」と振り返るほど練習を重ねていく。ヒザを負傷している時期には、イスに座ってティーバッティングを行った。
「腕は空いているから。時間を大切にしなければいけない」。当時の広島は他球団を寄せつけない練習量で有名だったが、古葉は高橋について「あんなに練習した選手はいない。暇があったらバットを振っていた」と振り返る。そうして高橋は、球史に残るスイッチヒッターになった。

ロッテの2軍監督として若手選手を指導している頃、高橋はこんな話をしていた。
「天才って、何種類かいると思う。みんな、飽きずにやる天才になってほしい。人は飽きてしまうものだし、同じことをずっと続けるのはなかなか難しい。だから指導者として、それを何とかしなければいけないと思う」

凡人は周囲に飛び抜けた才能を見つけたとき、「あいつは天才だから……」と特別視し、自分の限界を決めつけがちだ。しかし、それは自身ができないことへのエクスキューズにすぎない。
高橋の言うように「天才的な感覚=コツ」だとしたら、努力次第では凡人でも身に付けることができる。その努力ができる者こそ、本物の天才なのだろう。


2013年08月20日 ヤクルト石川は、低身長でもなぜ勝てる?“自分の弱さ”と向き合う力
http://toyokeizai.net/articles/-/17891
球界トップクラスのコントロール

身長167cmは、800人を超えるプロ野球選手の中で4番目の低さだ。左腕を思い切り振っても、ストレートの球速は140kmに到達しない。それでもヤクルトの石川雅規がプロ12年間で110勝以上を積み重ね、エースとして君臨してきたのは、自身の“弱さ”と向き合ってきたからだろう。

「僕は150kmのボールを投げられるわけではありません。でも、技巧派だからこそ、攻めないといけない。心掛けているのは根気強く、低めを突くことですね」

ヤクルトで石川とバッテリーを組む捕手の相川亮二が言う。
「世間では真っすぐでインコースを突けば、攻めていることになりますよね?でも、そうじゃない。変化球を投げることが、かわすということでもありません。僕の意識では、自分の得意のボールを投げ込むことが攻めている投球です」

石川の武器は、球界トップクラスのコントロールだ。テレビのプロ野球中継ではストライクゾーンを縦と横に9分割した図で示されることがあるが、実際にそこまで投げ分けることのできる投手は皆無に近い。“精密機械”や“和製マダックス”と言われた小宮山悟(元ロッテ)でさえ、制球できるのは高低、左右の4分割だったという。

相川が続ける。
「4分割に投げ分けることができれば、すごいですよ。石川は、そこは外さないピッチャー。バッターの特徴をつかみながら、四隅に投げることができます。ここという勝負どころのコントロールは、うちではトップクラスですね。真っすぐも変化球も、すべての球種を勝負球にできるピッチャーです」

小さな体の自分が、どうすれば大きな打者を打ち取ることができるだろうか、と。
そんな折、父親にかけられた言葉が
「球が速くなくても、バッターを抑えられるんだぞ」
要は打者との駆け引きのうえで、いかにリズムを狂わせるか、なのだ。

現在、石川の“女房役”を務める相川は、リードする際にこんな意識をしている。
「石川は球が速くないので、コントロール、緩急が重要になります。緩急を使いながら、いかに真っすぐを生かすか。石川の真っすぐは見せ球ではなく、勝負球。変化球を生かすも殺すも真っすぐ次第です。それをどう使うかだと思いますね」

絶妙のコントロール、そして宝刀のシンカーを武器に青山学院大学から2001年ドラフト自由枠でヤクルトに入団した石川は、1年目から先発ローテーションに入って5年連続で2ケタ勝利を飾った。セ・リーグで入団から5年連続で10勝以上をマークしたのは、堀内恒夫、江夏豊に次ぐ快挙だった。

球界屈指の制球力を誇る石川でさえ、「10球のうち、7、8球も思うようなところにいかない」という。だからこそ、必要な心構えが2つある。

ひとつ目は、割り切りだ。
「自分が勝負を決めにいったときや、バッターが打ちにきたときだけ、思ったコースに行けばいいのです」
最初から「狙ったところにピタリと投げられるはずがない」と考えておけば、コントロールミスをしても動揺しない。相川はかつて、小宮山にこんな話をされたことがあるという。
「いくらコントロールがいいと言っても、お前がミットを構えたところに来ると思ったら、それは違うからな」

相川の解釈は、「キャッチャーの意図したボールが来なかった場合、次にどんな配球をするかを考えておけ」というものだ。その論理は投げる側も同じで、自分の狙いどおりにいかなかった球が打たれたとしても、仕方がないと割り切ったほうがいい。頭を切り替え、走者にホームを踏ませなければいい話なのだ。そういう発想を持っておけば、ピンチに備えることができる。
だから俺は「ならばよし」と言う。そう言いながら 其の先や先を幾つも想定して置く。
必要な心構えで窮地を切り抜けたのは、7月25日に行われた阪神戦の6回だ。1死2塁で4番のマートン、2死1、2塁で打率3割を超える今成亮太を迎えたが、いずれも内野ゴロに打ち取った。試合展開的に、並のピッチャーなら崩れているようなシーンだったが、なぜ石川は粘ることができたのだろうか。
「根気強く、いろんなボールを低めに、両サイドに、って小さな頃からやってきましたからね。低めと両サイドに投げていれば、大崩れはしません。習慣?そうでしょうね。球が速かったら勢いで抑えるピッチングをできるのでしょうけど、僕は速くないので。そんなピッチングをしたこともないですし。基本どおりに、低く、低く、コーナー、コーナーに。根気強くがいちばんです」

主力に故障者が続出し、下位に低迷している今季のヤクルトで、エースの石川は通算12年間のプロ生活で1、2を争う苦しさを味わっている。4月26日の巨人戦で勝利した後、3カ月も勝ち星から見放された。自身の責任で敗れた試合もあるが、味方の援護がないケースや、リリーフが打たれて勝ちが消えたことも少なくなかった。
7月25日の阪神戦で久々の勝利を手にすると、石川は「この3カ月はきつかった」と正直な心境を吐露した。しかし、その表情は浮かなかった。

「素直には喜べないですね。喉から手が出るほど欲しかった勝利だけど、チームがこういう状況にあるのは、自分が勝てなかったせいでもあるので」

個人の成績とチームの順位をいかに結び付けるかは、悩ましいところである。最高のシナリオは、自身の活躍が組織のプラスにつながることだが、うまくいかない場合はどこまで自己を犠牲にし、チームのために尽くせばいいのか。

3カ月ぶりの勝利を飾ってから10日後の8月4日、神宮外苑で練習を終えた石川に、「自分に勝ちがつかなくても、チームが勝てばいい」と話す真意を聞いてみた。
「もちろん、自分に勝ち星をつけたいと思っていますよ。でも、野球はチームプレー。チームあっての自分です。口では『チームが勝てば、これほどうれしいことはない』と言っても、頭では『自分に勝ちがつけば』と思っていますけどね。先発をしている人で、『チームが勝てばいい』と100%思っているピッチャーはいないんじゃないですか。ただ、僕らは小さい頃から集団プレーをしてきているわけです。『自分が、自分が』では長くプレーできません。でも、心の中に『自分が、自分が』という気持ちがゼロの人はいない。『自分が』という気持ちも大事だけど、チームプレーですから。心の隅に、『自分が勝ちたい』というのはもちろんありますけどね」

葛藤の中に、石川の本音が透けて見える。「チームが勝てばいい」という気持ちは、決して建前ではないだろう。組織の勝利に少しでも貢献できれば、たとえ自身に勝ち星がつかなくても、果たした仕事に意味を見出せる。「チームが勝てば」と考えることで、自らに前を向かせようとするメンタルコントロール法なのではないか。言い換えれば、それが根気強くということなのだと思う。

逆境に立ったときこそ、人の真価は試されると言われる。苦しむエースがどこまで根気強さを見せるのか、最後まで注目したい。


2013年02月26日 ノムさんの人生が示す、「一流」と「二流」の差 妥協、限定、満足は禁句
http://toyokeizai.net/articles/-/13032
打撃フォームを固めた野村は4年目の1957年、打率3割2厘を記録する。30本塁打でホームラン王に輝いた。「プロでやっていける」と自信を手中にした。

だが、1958、59年と成績が思うように伸びない。打率は2割5分3厘、2割6分3厘で、本塁打はいずれも21本。守備の負担の多いキャッチャーというポジションを考慮すれば、決して悪い成績ではないが、野村は納得できなかった。

そこにこそ、一流と二流の差がある。

「一流選手の共通として、自己満足をしない。妥協、限定、満足は禁句。『俺はこれくらいやれればいい』と思ったら、それで終わり。下降線をたどっていく。一流の人は成績を残せば給料に跳ね返ってくるから、年俸に対する意欲もあって、現状に満足しない。そういうものを共通して持っている」

野村は、「バッティングには限界がある」と言う。野球は相手のあるスポーツで、打者は打率3割を打てば一流と評価される世界だ。打撃とは、それほどに難しい。だからこそ、野村は「プロで生き残っていこうと思ったら、限界から先のことをやらなければならない」と言う。

投手のクイック投法、ストライクゾーンを9分割する配球表など、日本球界に独自の方法論を定着させてきた野村だが、彼の代名詞のように語られる言葉がある。「ID野球」だ。日本野球にデータという概念を定着させたのは、野村だった。

プロ入り6年目の野村が打率2割9分1厘、29本塁打と過去2年の壁を打ち破った裏には、ある先輩の一言があった。思うような結果を出せずに悩む姿を見て、田中一朗という選手が声をかけた。

「ぶん殴ったほうは忘れていても、殴られたほうは忘れていないぞ」
ヒットを打った打者はその打席について忘れても、打たれた投手は「次こそはやり返してやる」と苦い記憶を脳裏に刻み込む――野村は先輩の言葉をヒントに、相手投手の視点に立った。

当時の南海では、毎日新聞の記者だった尾張久次が球界初のスコアラーを務めていた。野村は自身に対する相手投手の球種、コースをすべての試合で出すように頼み、12種類別のストライクカウントに当てはめた。初球はどんな球で入り、1ボール2ストライクの場面では何をどこに投げてくるのか。

1957年と58、59年の2年間を比較すると、相手の攻め方が変わっていた。4番打者の野村に対し、57年までは外角中心の配球をする相手が多かったものの、58年以降は内角を突くボールが増えていた。実際、野村は「強気に攻めてくるな」と感じていた。それを数値に置き換えることで客観視でき、あらためて事実に気づくことができた。そうして生まれたのが「データ」という概念だ。当時は「データ」という言葉はなく、「傾向」と呼ばれていたという。

「このカウントでは、インコースに投げてくることは100%ないという状況がある。野球は相対関係でできているから。外角に対しての内角。高めと低め。速い、遅い。そういう組み合わせでできている。たとえば、内角を意識させれば、外角を広く使える。今では当たり前になっているけど、当時は誰もそんなことは言っていなかった。精神野球の時代で、気合いだ、根性だ、ばかりだった。でも、データで考えられるようになってから、急に野球が面白くなった」
長嶋茂雄や王貞治のように圧倒的な力を持つ者なら、自分を中心に考えることが好パフォーマンスへの最短距離になるだろう。しかし、野村のように持てる才能が限られている者は、相手との力関係で上回る創意工夫が必要だ。

技術力だけでは限界がある

現役引退後に野村克也が率いたチームは いわゆる“弱小球団”ばかりだった。相手より戦力が劣る中、どうすれば打ち負かすことができるか。野村は現役時代同様、頭をフル回転させた。

「バッティングでもピッチングでも、技術力には限界がある。わかりやすく言えば、80年の歴史があるプロ野球では4割を打った人が1人もいない。よく打っても3割。7割は凡打。そういう中で少しでも確率を上げていくためには、技術力だけでは難しい。プラスアルファをどう出していくか。技術力プラス、何かを出していく。これが僕の基本的な取り組み方です。ましてや南海を皮切りにヤクルト、阪神、楽天と最下位のチームばかりやらされてきましたから。そうすると選手も同じで、弱者が勝者になろうと思ったら、強者と同じことをやっていたら絶対に勝てない。当たり前のところから発想していくわけです」

押してダメなら、引いてみる。きっかけをつかめなければ、たどり着きたい結論を見据えて逆算する。
そうやって頭を使えば、凡才だって本当の頂点に到達できる。野村の野球人生はそう教えている。
というか 考えて 考えて 考えて をせずに 億劫になっているだけのクセして、
その途中で止まったマヌケな自分を無視しながら 其れを「信念」とか言って 同じマヌケを繰り返し続ける。
大馬鹿野郎にしてもキチガイにしても そして其れを利用する詐欺師にしても
其のマヌケな輪の中の地獄で のたうち回るだけ、な話だよね。

同じ愚か者だとしても俺は此処で一人で のたうち回る をするよ。



2012年11月27日 高卒外野手の栗山が、2億円を稼げるワケ 強みは、頭の良さと性格の良さ
http://toyokeizai.net/articles/-/11872
12年シーズン終盤、知人の報道関係者から興味深い話を耳にした。ある球団で編成担当を務める者から、栗山の性格面、頭のよさについて聞かれたというのだ。

プロのスカウトはアマチュア選手を獲得する際、性格面に目を光らせる。以前、『週刊東洋経済』のスポーツ&リーダーシップのコーナーで、広島の苑田聡彦スカウト部長に取材した際、こんな話をしていた。

「選手の伸びしろは、性格を見ます。たとえば練習の態度で、やる気があるか、ないか。やる気がない人はダメです。人のせいにするヤツもダメ。ベースカバーの際にピッチャーが怠ったとしても、内野手が『ピッチャーが悪い』とするのはよくない。それをみんなでカバーするのが野球。1つのボールを追いかけてやるものだから、他の競技とは違います。人の気持ちのわかるヤツが、ずっと伸びていく」

栗山は自分に厳しく、妥協を許さない。
10年シーズン開幕から2年連続で全144試合にフルイニング出場。12年は左太ももに負傷を抱えながら、グラウンドに立ち続けた。

チームのキャプテンという立場もあるのだろう。それに加え、世界記録を少しずつ、着実に更新していく棒高跳び選手のように、栗山は自らのハードルを上げていった。

「一昨年、去年は絶対フルイニング出場の気持ちでした。今年は強いこだわりというより、続けているものだから続けたい。去年もきついときがありました。でも、そこをできたのだから、今年できないのはおかしい。自分がやりたいと思ってやってきたことだから、やりたい。去年、一昨年の自分を否定するのは嫌。出られる状態に持っていって、ゲームに出たい。一歩引くのも大事だと思いますけど、今の立場、任されているポジションがあります。まだ若いし、痛いとか言っていられない」
29歳、自分に厳しいキャプテンは、絵に描いたような好青年でもある。周囲に気遣いができ、チームメートからの信頼は絶大だ。

論理的な思考を、言葉に表すことができる

12年シーズン序盤、八戸大学から入団して2年目の秋山翔吾は5番に抜擢された。クリーンアップで中島裕之、中村剛也という球界を代表する打者の後を打つことに「緊張した」という秋山に、栗山はこんなアドバイスを送った。

「どんなにいいバッターでも、10回に3回しか成功しない」
野球の世界では、バッターは3割を打てば一流と評価される。裏返せば、10回に7回は凡打でいいのだ。栗山の一言で、秋山は楽な気持ちになったという。

「10打席のうち3回の成功を狙うと、どうしてもそれより下がります。だから、5安打を狙うくらいの考えでいる。いい当たりが野手の正面を突くこともありますからね。栗山さんに言われて、『10回に3回の成功でいい』と思えるようになりました。ありがたい言葉ですね」

栗山はまた、論理的な思考を言葉に表すことができ、自らの成長を段階的にとらえられる選手でもある。

兵庫の名門・育英高校時代、栗山は2年生の頃から4番を打ち、通算47本塁打を記録した。当時は「ホントに技術がなかったので、スイングスピードで飛ばしていた」と言う。

しかし、現在は安打製造機のタイプだ。ピッチャーの投じたボールをぎりぎりまで見極め、打つポイントを体の近くに置いてボールを強くたたく。センターから左方向、いわゆる逆方向への安打が多く、玄人好みのタイプと言えるだろう。

“変身”のきっかけは、プロの壁にブチ当たったことだった。

「プロに入って、ボールにバットが当たらなかったんですよ。バーンと振っても当たらないので、まずは当てなきゃというところから始まった。2軍のピッチャーでもフォークを投げる人もいれば、緩急を使える人もいます。1軍には外国人もいますし、本物の長距離バッターがいる。僕は何とか1本のヒットを打たないと、2軍でも試合に出られない。打率を上げないことには話にならなかった」

懸命にバットを振り込んだ栗山は、センターからレフト方向への打撃を身に付けた。そうして08年、リーグ最多の167安打を放ち、同4位の打率3割1分7厘を記録した。

だが翌年、成績が下降する。打率はリーグ22位の2割6分7厘で、チームは4位に沈んだ。

迎えた10年シーズン、栗山は発想を転換した。2番打者という役割を与えられ、とにかく出塁数を増やそうと考えた。具体的に掲げた目標は、四球の数を増やし、三振を減らすことだった。

「09年を振り返ったら、三振が多くてフォアボールが少なかったので、そこを逆転させれば、いい形の打撃になっていくと思いました。09年があったから、10年はこうなったということですね。09年にもう少しいい成績を残してチームに貢献していれば、10年は違ったスタイルで臨んでいたと思います。絶対に優勝争いをしなくちゃいけないと考えて、個人としても絶対にチームに貢献したいという思いがあった」

09年と10年の成績を比べると、四球は53→80、三振は106→69。栗山は2つの目標を達成すると同時に、打率をリーグ11位の3割1分に上昇させた。

そして翌年、次のステップに進む。09年に好成績を残せず、10年シーズンに封印したもの――長打への欲求を表すようになった。

「僕は外野手なので、長打を打てないとダメ」
外野は守備の負担が少ないポジションだ。攻守ともハイレベルな選手の台頭が目立つ、「まずは打てなければダメ」というポジションなのだ。

しかし、栗山には本塁打を量産するようなパワーはない。
そこで重視したのが、2塁打だった。

09年は24本だった2塁打が、10年は35本、11年は30本に増加した。しかし、12年は17本に減少する。8月21日のソフトバンク戦で死球により左尺骨を骨折し、103試合目で戦線離脱となった影響が大きい。1番を任され、出塁率を重視したことも背景にあるだろう。

高校時代にパワーヒッターだった自分を安打製造機に変身させることで、プロ野球界のトップまではい上がった栗山巧。チームきっての努力家は来季、どうやって長打力という上積みを自身に加えるのか。

段階を踏みながらステップアップしてきた栗山の新たな挑戦が、今から楽しみでならない。

2013年05月28日 ショートゴロに隠された、栗山巧のすごみ 月間MVPプレーヤーの目標達成力
http://toyokeizai.net/articles/-/14101

栗山は、目標設定を的確にできる選手だ。

5月14日、神宮球場。4連敗中だった西武は交流戦初戦で、ヤクルトと対戦した。
試合は両先発が不安定な立ち上がりで、4回を終えて3対2でヤクルトがリード。
5回表、攻撃の西武は9番・投手の十亀剣に代打で送った片岡治大がレフト前ヒットを放ち、
1番・浅村栄斗のセンター前ヒット、続く秋山翔吾の送りバントで1死2、3塁。
是が非でも同点にしたい場面で、3番・栗山に打席が回ってきた。
「最低限の犠牲フライでも、1点入って追いつきますね」
バックネット裏で一緒に観戦していた某球団の元選手に、筆者が話しかけた。
「栗山はそんなタマじゃないだろ?」
ヒットで2人の走者を生還させれば、チームは逆転する。
左打者の栗山はセンターから左方向に打つ技術が高く、タイムリーヒット狙い
と元選手は見ていた。

だが、栗山の思考は我々の両者の予想の遙かに上を行っていた。

結果を見れば、
 単なるショートゴロ。
 相手野手のフィルダースチョイスが絡んで打点1が記録された
だけで、特に話題になった打席ではない。
しかし、この一打にこそ、栗山巧(西武)の凄味が凝縮されている。

「あのショートゴロは狙いどおりです」

翌日の試合前、“ドヤ顔”の栗山が言った。
明治神宮外苑の室内練習場からクラブハウスまでを歩きながら、満足気な表情で狙いを明かしていく。

「犠牲フライを打ちにいったら、もしフライの距離が足りなかった場合、点が入らないでしょ?あのケースで最悪なのは、点が入らないこと。もし1、2打席目で感じがよく、自信の持てる打席だったら、もちろんヒットを狙いにいきます。両投手が不安定な打撃戦の様相の中の5回の表の1死2、3塁で相手のヤクルトのリードは1点しか無い という局面で僕の打席の前にショート、セカンドが守備位置を下げました此のヤクルトの動きもまた面白い。だからセカンドゴロならツーアウトになっても1点入り、セカンドランナーもサードに進めますけど、今の僕の状態を考えれば、ショートゴロで1点がいちばん堅いんじゃないかな、と」

この試合を打率3割4分6厘という好調を維持した3番打者として迎えた栗山は、1打席目はバットを1度も振らずに四球で出塁。2打席目は外角低めのストレートをショートゴロに倒れた。相手先発の村中恭兵に対し、タイミングが合っていないと感じていた。

そして迎えた3打席目。初球は真ん中高めのスライダーでストライクを取られる。その時点で、確実に同点にしようという考えが強くなった。

「初球はスライダーで先手を取られたから、バッテリーからしたら次は何でも投げられる状態になってしまった。本当はセカンドゴロのほうがよかったんですけど、バットの面を作って打てるのはショートゴロ。どの球種でも打てるのはショートゴロでした」

結果、内角のストレートを狙いどおりにショートへ。この一打で同点に追いついた西武は、続くホセ・オーティズがセンター前タイムリーで逆転に成功する。この回の2点が決め手となり、4対3でヤクルトを下して連敗を4で止めた。
つまり ヤクルトの側も
3番の栗山そして4番のホセ・オーティズで
同点までで抑える 逆転はさせない
という選択をした訳だ、
おそらく此の場合は
 栗山と勝負をして傷口を広げてしまう よりも
 栗山は歩かせても最悪でも満塁で守りやすくして 打率の低いオーティーズで勝負
というのがヤクルトの判断なのだろう。
だからこそ栗山もまた とりあえず同点までは という選択を取る。

此処まで両者の読み合いが有る。
其れを一瞬一瞬の間に判断しなければならないのが ベースボールではない野球 の精神戦でもある。
まさに武道の如きな 心理戦と技術戦と肉体の勝負の高次の結晶が有る領域の話だ。

ベースボールではない野球 という本質を理解する者は数少なく、
ベースボールという一神教で野蛮人の道具 と 多神教で文明人の野球という文化
の違いまでをも言葉にする者となれば皆無に等しい。

野球という文化は誰の前にでも平等では有るけれども
 マヌケでキチガイな精神論しか言えない者達が 本当の意味での野球を語る事は絶対に出来ない
と俺は断言できるね。



2013年02月05日 ”まじめ力”だけでは、一流にはなれない 西武・秋山に見る、登り詰める条件
http://toyokeizai.net/articles/-/12779

仕事で失敗を犯したとき、人は力量を問われるものだ。予期せぬピンチを迎えた場合、どうやって切り抜けるのか。自分に原因があるなら、反省して二度と繰り返さないようにするのは当たり前だ。そうやって人は仕事の能力を高めていく。

では、その失敗が不可抗力によるものの場合、どうだろうか?足を引っ張った部下や間違った指示を送った上司に責任の所在を求め、「自分のせいではない」と考えるのは必ずしも悪いことではない。それが“他責”という考え方だ。失敗を引きずるくらいなら、人のせいにしてパッと切り替えるほうがマシと考えるのは、確かに一理ある。

しかし、トップに登り詰めるプロ野球選手は、失敗を人のせいにしない。その原因が不可抗力によるものであった場合でも、だ。
ケガは誰の責任か?

大学からプロに入って2年目の昨季、埼玉西武ライオンズで外野を守る秋山翔吾は大きく飛躍を果たした。107試合に出場し、リーグ6位の打率2割9分3厘を記録。シーズン序盤は5番を任され、勝負どころの終盤には2番で起用された。

一方、1年目より落とした数字がある。ルーキーイヤーには110試合に出場したものの、2年目には107試合とグラウンドに立つ機会がわずかに減った。2年目にチームにおける存在感を大きくしたにもかかわらず、出場試合数を減らしたのは開幕前、シーズン途中と左太ももに2度のケガを負ったからだ。

昨季終了後の秋季練習で、秋山はこう話している。
「同じケガを何度もしてはいけませんよね。ケガに強い選手は首脳陣から信頼を得られます。『ここで』という勝負どころでチームにいないと、信頼を得られない。成績が落ちて外れるのとは違います。今年は2回ケガをしました。それでチームに迷惑をかけた」

「プロ野球選手にケガは付きもの」と言われるように、負傷は避けられない部分がある。しかし、それでも秋山は自身を責めた。その考え方にこそ、大卒2年目にしてトップ外野手の仲間入りを果たすことができた要因がある。

横浜創学館高校、八戸大学出身の秋山は、いわゆる野球エリートではない。そんな秋山が西武の外野でレギュラーをつかむことができたのは、プロでもトップレベルの強肩&俊足という武器と、“まじめ力”を備えているからだ。

プロ入り1年目の2011年シーズン開幕戦で、秋山は球団の新人外野手としては30年ぶりとなる先発出場を果たした。この年は打率2割3分2厘と打撃の調子は思うように上がらなかったものの、守備力を買われて110試合に出場した。

周囲の誰もが、「秋山はまじめ」と口をそろえる。昨季前半には、土井前コーチがこんな話をしていた。

「2年目のジンクスがある人とない人がいるよね?1年目に経験を積んで、2年目に上がってくる人もいる。秋山はまじめ。キャンプからバットを振ってきた強さが出ている。練習はウソをつかない。野球をなめんかぎり、良い選手になる。将来的にクリーンアップを打つ力がある」

“まじめ力”は秋山の才能で、非エリート校からプロのレギュラーにまで登り詰めた原動力だ。しかし、秋山が本当のトップにたどり着くためには、ここにプラスアルファを加える必要がある。求められるのは、“非まじめ力”だ。

西武の渡辺監督は興味深い話をしてくれた。
「プロだからこそ当然、妥協しなければいけないところもある。妥協しないとケガをするからね。そこをわかっているかどうか。ケガをすると、元も子もない。プロとして、抜くところがあるのは当たり前。それをうまくできるかで違ってくる。つまり、練習のメリハリだよね。人に言われてやるのではなく『今日は休む、明日はやる』と信念を持たないと、サボって見えることがある」
この話を聞いた数時間後、西武ドームで秋山と話をしていると、くしくも指揮官と同じようなことを語り出した。

「シーズンに入っても、生活にメリハリをつける必要がありますよね。きつくしすぎると、自分を苦しめちゃいますから。やるところと、やらないところを見極める。秋季練習でも、コーチには『様子を見ながらでいい』と言ってもらっています(12年シーズン終盤は、左足太ももに負傷を抱えながら出場していたため)。それを言われるのではなく、自分で覚えないと一流にはなれない。今は若いから、声をかけてもらっています。要は、気持ちのメリハリですね」
名選手は一概に、オンとオフの切り替えが上手い。オフでの休養を、良きオンにつなげているのだ。抜くところで抜かなければ、頭も体もオーバーワークで壊れてしまう。

「プロ野球選手は、まじめすぎてはいけない」とよく言われるが、一生懸命に練習するのは言うまでもない話だ。そこに“非まじめ力”をいかにバランス良くミックスさせるかが、秘訣である。


2013年01月08日 引きこもりから年俸4000万に這い上がった男 千葉ロッテ・岡田幸文の「やり続ける力」
http://toyokeizai.net/articles/-/12397
自らの仕事に誇りを持ち、その世界のトップを目指して挑戦している者にとって、理想は右肩上がりで成長していくことだろう。だが、人生はそううまくいかない。誰にも停滞のときは訪れる。

では、その壁はどうやって乗り越えていけばいいのだろうか。
そのヒントを与えてくれるのが、千葉ロッテマリーンズでセンターを守る岡田幸文だ。

2011年から2年連続でゴールデングラブ賞に輝くなど、現在のプロ野球界の外野手で最も美しく、ダイナミックで、かつ堅実な守備を見せる岡田だが、08年のドラフト会議で指名されたときはほとんど注目されないような選手だった。指名順位は育成6位で、年俸は240万円(金額は推定。以下同)。ドラフト1位の木村雄太が1億円+出来高5000万円の契約金を手にした一方、岡田には100万円の支度金が用意されただけだった。

岡田の野球人生は波瀾万丈だ。栃木の名門・作新学院高校では通算打率が6割を超える成績を残し、日本大学に進学する。しかし、入学直後に左ヒジを負傷し、1年を経たずに中退した。あまりのショックに、岡田は実家で引きこもりになったという。

それでもケガの癒えた1年後の04年、クラブチームの全足利クラブに入団する。日中は足利給食センターで働きながら、夕方になると野球の腕を磨いた。そうして努力を続け、08年秋にロッテの入団テストに合格してプロ入りの夢をかなえた。

ともすれば、大学入学直後のケガで心が折れてしまっても不思議ではない。だが、当時の岡田を「志半ば」という思いが突き動かした。

「プロに入る前にケガをしましたからね。いいときに挫折したのとは違います。周りからはいろいろ言われますけど、自分では『苦労した』とは思っていません。たまたま遠回りしただけ。大事なのは、やり続けることじゃないですか。夢を持って」

本人が強靭な意志を持っていたことに加え、大きかったのは、よき理解者がいたことだ。06年に結婚した妻は足利市の職員で、岡田を陰で支えてきた。08年秋に念願のプロ入りが決まったが、扱いは育成選手だ。年俸はサラリーマンの平均より安く、いつクビを切られてもおかしくない。だから妻は足利に残り、働きながら家計を支えた。岡田は「2年間だけやらせてくれ」と妻に頼み、単身赴任で夢を追った。

岡田のよき理解者は、プロの世界にもいた。09年シーズンオフ、ロッテの二軍監督に就任した高橋慶彦だ。09年3月末に支配下登録され、年俸が支配下選手最低額の440万円に増えていた岡田は10年、高橋の下で“英才教育”を受ける。高橋が岡田を育てようと決めた理由は、2つあった。

その1つが、不屈の心だ。高橋が言う。

「ことわざで『後悔先に立たず』っていうものがあるけど、やっぱり精神力の強いヤツのほうが伸びてくる。岡田もそうだよね。二軍から巣立っていける選手とそうではない選手の違いは、そういうところじゃないかな。岡田は死にものぐるいで頑張った。そうやって自分に勝ってきたんだと思う」

アマチュア時代から打撃を課題としていた岡田には、得意の守備を突き詰める姿勢があった。そこに、育成選手から一軍のレギュラーまではい上がることができた要因がある。岡田に「凡才がトップに登り詰める方法」を聞くと、彼はこう答えた。

「守備はずっと好きでやってきました。『好きこそものの上手なれ』ではないですけどね。大切なのは、もっとうまくなりたいと、ずっと思っていることじゃないですか」

岡田の守備へのこだわりは、一流プロのすごみを実感させられる。彼が美技を連発できるのは、打者が打つ前に半歩動き出していることが背景にある。
「ピッチャーが投げるのは真っすぐ系のボールか、変化球のボールか。キャッチャーのサインまではわからないけど、構えと球種、バッターのタイミングを見て判断します。踏み込んで打つのか、とかですね。準備するという意味で、半歩動き出すということです。心掛けているのは状況判断と、ボールに追いつくまでの速さ。追いつく打球に合わせて捕るのではなく、いけるところでは後ろから入って捕る。状況判断は、捕ってからカットに投げるまでを含めて。ファインプレーも大事ですけど、普通のプレーを普通にやることも大事です」
右打者が踏み込んできた場合、ボールを強くたたいてくる可能性が高く、強烈な打球がセンターからレフト方向へ飛んでくることが予測される。また、ボールを後ろから捕球すれば、その後の送球をいい体勢で行うことができる。岡田は守備について、そこまで細かく考えているのだ。
守備への集中力 というのは そういう観点も有るよね。

野球の守備って 特に外野手の場合は
 仮に3時間に出場したとしても一回な程度にしか守備機会そのものが無い
なんて場合だって充分に有り得る。

其れでも
 集中力を切らさずに しかも相手の打者の一打席一打席 どころか
 一球一球にまで集中して しかも頭まで働かせ続ける
なんて仕事は極めて難しいよね。

其の殆どが無駄に終わる としても
其の無駄な努力をし続けるからこそ必要な時に必要な結果を作る事が出来る、
なんて話は 非常に非効率的だ と野蛮人ならば言うだろうけどね。

だけど 其れがベースボールではなく野球の真髄 だと俺は思っている。
俺は そういうのが美しい って感じるんだよね。


そこまで守備を考える事が出来る選手 ということは 打撃でも深く考える思考力を備えているといえる。そうした特性を理解したコーチの高橋は、二軍時代の岡田を1番打者として育てようと考えた。快足というアピールポイントがあったからだ。広島での現役時代、1番打者として日本記録の33試合連続安打など数々の記録を打ち立てた高橋は、自らの経験から"金言"を岡田に伝えた。

「お前が塁に出るか、出ないかで、チームの攻撃が変わってくる。初回の1打席目を大事にしろ」

10年シーズン開幕から二軍で1番として起用された岡田は、打率2割8分7厘の好成績を残した。6月1日の巨人戦で一軍初出場を果たすと、72試合に出場する。中日との日本シリーズでは第7戦の延長12回に決勝点を呼び込む3塁打を放ち、チームの5年ぶりの日本一に大きく貢献した。このオフには年俸が前年から127%アップの1000万円となり、「奥さんの給料を超えましたね」と満面の笑みを見せた。

翌年は開幕から1番に定着。育成ドラフト出身では史上初となる144試合フル出場、規定打席到達(打率2割6分7厘)を果たした。外野手としてシーズン連続守備機会無失策(359回)のリーグ記録を樹立し、初の個人タイトルとなるゴールデングラブ賞を受賞する。年俸は3200万円まで上がった。


2012年12月25日 日ハム・武田久は進化し続ける 小さな大魔神の「突っ張る」力
http://toyokeizai.net/articles/-/12257
プロ野球選手の寿命は、決して長くない。
投手になるとその傾向は顕著で、2012年に12球団に在籍した選手の平均年齢は27.5歳(データは『週刊ベースボール』2012.2.24増刊号より)。

屈強な男たちが競うプロ野球の世界で、彼は極めて小柄だ。
12年2月時点で、12球団に在籍した全785選手の平均は180.7cm、82.6kgで、
投手に限れば182.2cm、83.0kg(データは『週刊ベースボール』2012.2.24増刊号より)。
170cm、73kgの武田久は、日本人の成人男性平均と変わらない数字だ。

しかし、この右腕投手は自らの体躯を効果的に、かつ最大限に使うことで、周囲がマネできないような偉業を成し遂げてきた。12年9月11日のロッテ戦で通算456試合登板を果たし、球団記録を45年ぶりに更新。このシーズンには32セーブで自身3度目の最多セーブ投手に輝き、チームを3年ぶりのリーグ優勝に導いている。

「久さんは、小さな大魔神ですよね」
そう話すのは、西武の牧田和久だ。武田久と同じ日本通運からプロ入りし、11年にクローザーとして新人王に輝いた下手投げ投手は、先輩のすごみをこう説明する。

「スピードがずば抜けているわけではないけど、安定感がすごい。クローザーは安定していないといけませんから。フォアボールの後にホームランを打たれたら、それだけで2点入りますよね?僕がクローザーとして一番心掛けたのは、安定感です」

武田久の投じるストレートは、平均球速140kmと速くない。しかし、左足を大きく振み出し、右ヒザが地面に擦れるほど沈み込むことで、全身を使ってキレのあるボールを投げ込んでいく。リリースポイントが低く、バッターはボールが浮き上がってくるように感じるという。そのストレートにスライダーやフォーク、シュート、カーブを織り交ぜ、凡打の山を築いていく。

一般的なクローザーには、豪速球と宝刀の変化球で打ち取る者が多い。“大魔神”こと佐々木主浩(元横浜)や藤川球児(来季からシカゴ・カブス)、浅尾拓也(中日)が代表格だ。三者とも、うなりを上げるようなストレートと落差の大きなフォークで、打者を力でねじ伏せていく。

対して、武田久は一撃必殺のボールを持たない。だからこそ、彼には特有の安定感があると日本ハムの栗山英樹監督は言う。
「投球術で打ち取れるので、球が悪いときでも抑えてくれる可能性が強いですよね。ただ、球威だけで抑えをやっているわけではないので。本当に、久みたいなピッチャーをつくるのは大変ですよ」

悪い状態でも抑えられるから、監督は安心してマウンドに送り出すことができる。武田久はそんな安定感を、どうやって身に付けたのだろうか。12年1月6日、さいたま市の日本通運総合運動場で西武の牧田、日本ハムの谷元圭介ら計8人と行った合同自主トレに訪れると、その理由が垣間見えた。

武田久は「スピードも上げたくないし、体も大きくしたくない」という。「バランスが変わるから?」と聞くと、「感覚ですね」と答えてくれた。

この感覚こそ、武田久が誇る最大の武器だ。おそらく彼は、140kmでも打ち取れるボールをわかっているのだろう。体が大きくなり、球のスピードが上がれば、投げる感覚が変わって打ち取れるボールを投げられなくなる。

生きた球とは何か?

先日、南海やダイエー、西武などで強打者として活躍し、首位打者にも輝いたことのある佐々木誠に話を聞く機会があった。社会人のNTT西日本硬式野球部の監督として今年のドラフト会議で増田達至(西武ドラフト1位)、安部建輝(DeNAドラフト5位)と2人の投手をプロに送り込んだ佐々木は、こんな話をしてくれた。

「バッターから見て、
 どんなフォームなら球が見やすいのか、
 どういう球筋が嫌なのか、
 どういう球なら打てないのか
 という話をしてきました。

 ピッチャーで大事なのは、ホームベースの上でボールが生きているかどうか。
 いくらボールが速くても、ベース盤の上で死んでいれば、バッターは何とも思わない。
 生きた球というのは、ボールの初速と終速が変わらない状態。
 初速が150kmでも、終速で143kmだったら何とも思わない」
武田久がこだわるのは、佐々木の言う「生きたボール」だ。




2013年01月22日 偏差値30台のヤンチャを甲子園児に育てる男 大人が高校生を指導する意味
http://toyokeizai.net/articles/-/12257
体罰教師たちに聞いてほしい話がある。滋賀県立北大津高校で保健体育の教諭を務め、野球部を率いる宮崎裕也監督の指導法だ。「学力が高くないから、どうしてもヤンチャ坊主が集まる」という同校の野球部を1994年から率いる宮崎は、84年に創立した無名校を春夏合わせて6度甲子園に出場させた実績を持つ。

現在51歳の指揮官は、大人が高校生を指導する意味についてこう話している。
「スクイズや盗塁のサインを出すだけが、監督の役割ではない。高校生だから気持ちが折れかけたり、弱気になりかける選手もいる。そんなときに監督の自分が、どれだけそのケツをベンチでボーンとたたけるか。自分がどっしりして、メンタル面でどれだけ支えられるか。それが監督の仕事であり、ベンチの中に大人が必要な理由だと思う」

宮崎は滋賀県の名門・比叡山高校の3年時夏に外野手として甲子園へ出場し、ベスト8に進出した。中京大学時代は捕手を務め、3年秋の全国大会ではベスト4に進出したこともある。「高校の監督になれば、60歳まで野球を続けられる」と教職を取得した。

しかし、91年に赴任した北大津高校の野球部を見て、幻滅する。土のグラウンドにはヒザの高さまで雑草が生えているような状態で、選手たちは和気あいあいと練習していた。「こういうチームに自分が携わったら、選手の邪魔になるやろうな」。そう感じた宮崎は、アーチェリー部の顧問に就任した。同部は全国有数の強豪で、オリンピックに出場した卒業生もいるほどだった。

「野球が好きやから野球部の顧問になるのではなく、一生懸命しているヤツのそばにいることが好き。一生懸命さえしとったら、アーチェリーでも卓球でもバスケでもテニスでも、何でもいいわけです。自分が役に立てるのであればね」

3年後、野球部の監督が転勤となり、校長の要請を受けて跡を継いだ。

練習初日、「グラウンドに草がなくなるまで、練習しない」と言うと、11人いた部員が1人になった。宮崎とその生徒は雨の日も風の日も雑草を抜き続け、ようやくきれいになったグラウンドでキャッチボールを始めた(余談だが、雑草抜きを続けた部員は現在、西日本工業大学硬式野球部を監督として率い、昨夏には2度目の全日本大学選手権出場を果たした)。

「部に戻りたい」と頭を下げた10人を受け入れ、翌年は5人が入部してきた。宮崎は「黙って俺の言うことを聞いておけばいいんや」とグイグイ引っ張り、部は急速に力をつけていく。「北大津で野球をしたい」という新入部員が増え、98年夏には県大会で初の決勝進出を果たした。

宮崎の熱血指導がなければ、確かに北大津の急成長もなかっただろう。

教え魔となってはいけない

だが本人は、当時の自身について、肩に力が入っていたと振り返る。
「監督になったばかりの者は、選手にいかになめられないかに苦心します。選手のことなんて考えず、自分が監督として一目置かれなあかん。だから、ものすごく教え魔になる。教えんでええようなことも、野球の知識をひけらかすくらいに教える。選手の頭がパンクしようが関係なく、『すごいやろ、俺はこれだけ野球を知っているんや』ってね。僕自身もそうだったと思います」

順調に強くなった北大津高校野球部だが、どうしても甲子園出場には届かなかった。練習で細かく指示を仰いでくる選手に、宮崎は「ちょっとは自分たちで考えてできんのか?1から10まで人に指示を仰いで」とフラストレーションをためていく。悶々とする日々を送るうち、ようやく気づいた。県大会決勝の壁を突き破れないのは、自らに原因があるのではないか、と。
「情けない話で、僕の能力だけで選手を甲子園に連れていくのは不可能やなとわかった。僕の力には限界がある。選手の知恵も借りなければと、気づきました」

自ら練習メニューを考えさせ、ミーティングも選手たちの主導で行わせるように変えた。「大事なことは自分で決める習慣」を植え付けたかったからだ。当時のチームについて、「野球はやっているけど、勝負ができていない」と宮崎は感じていた。

たとえば、1点負けている8回裏の攻撃で、無死1塁の場面を迎えたとする。「勝負どころ」と感じた監督が盗塁のサインを出し、成功して無死2塁にチャンスが拡大された。打席の右打者はツーストライクに追い込まれた場合、最低限、右方向に流して走者を3塁へ進塁させることが求められる。対してサードゴロやショートゴロで走者が3塁に進めなかった場合、無死1塁から仕掛けたギャンブルの意味がなくなってしまう。

つまり、監督が盗塁のサインを出した意図を打者が理解し、逆方向への打撃で走者を3塁に進められて初めて、チームは「野球で勝負している」といえるのだ。その姿勢を教えるため、宮崎は「技術と戦術を分けて考えさせる」ことを重視している。

例を挙げると、打者は3ボール、ノーストライクの場面で、「1球待て」というセオリーがある。プレッシャーを感じたピッチャーの失敗=四球を待つためで、アマチュアばかりでなく、プロにも染みついているものだ。

その一方、3ボール、ノーストライクは最もヒットの出やすいカウントといわれる。投手は四球を嫌がり、ボールが甘くなるリスクを背負いながらストライクコースに投げてくるからだ。したがって、打者は打ちにいくべきなのである。

宮崎が言う。

「単純に考えたら、ノーストライク、3ボールから放るボールは、
 そのピッチャーが一番コントロールに自信のある球。

 そこでストレートを放るヤツは、一番ストレートに自信があるんだろうし。
 そこで変化球を放れるヤツはすごいけど、高校野球では少ない。

 そこで放る球が一番コントロールに自信のある球やから、
 確実にストライクを放るときはその球を放ると頭に入れておけば、
 次は真っすぐが来るのか、変化球が来るのか
 くらいは分かるわけです。

 そういうことを観察する目を持つことを含め、
 技術と戦術を分けて、野球を教えながら勝負を教えていかんといけない。

 指導者は、勝負と野球をごちゃ混ぜにして教えてはいけない」
技術は技術でしかない、
あくまで 如何に人の心の深さを読み解くか? こそが求められる。
ただし 戦術もまた戦術でしか無い、
勝つ為にならば如何なる卑怯な戦術を駆使しても構わない では単なるケダモノと化す。

だから技術とか戦術とか より先に 人の心を説く。
そういうのが武道だよね。
礼に始まり礼に終わり 其の作法をこそ重視する。

其の意味の中身を説く理由を己が言葉で語る事が出来ない者達が
だから大馬鹿野郎かキチガイか詐欺師なのである。


高校野球で大切な作戦の1つに、送りバントがある。その確率を上げるためには、どうすればいいか。多くの監督は練習量を増やすだろうが、宮崎は冬場の練習試合であえて送りバントを封印する。
「無死1塁でバントを使わずにランナーを進めろといっても、めっちゃ難しいですよ。ランナー2塁なら右にゴロを打てばいいけど、1塁ではわざと詰まって打つくらいしか方法がない。何でそんな無理なことをやらせるかというと、いかにバントがありがたいか を分からせるため。簡単にランナーを進めるためには、バントはなんて簡単なことやと意識づけています。バントは難しいと思うから、失敗する。打って送るほうが遙かに難しい」
なるほどねぇ。
蟲に等しき馬鹿で豚にすぎない一般民衆へ 物事の道理を教え込む という事が如何なる事なのか?
中々に面白い と思う。


宮崎の話の斬新な発想や作戦は、高校野球の指導雑誌によく紹介されているが、
手の内を明かすことで、相手に研究されるのは本望だという。
「僕みたいにずぼらな人間は、自分を追い込まんと行動しない。
 自分自身にあぐらをかいちゃうと、成長がない。
 手の内を明かしちゃったら、次のことを新たに考えないといけない。
 相手に研究されるということは、勝負できているということでしょ?
 野球が楽しいのではなく、野球を介して勝負できるのが楽しい。
 駆け引きというかね」
監督が誰より楽しみながら指導する姿を見て、選手は心から笑うために努力する。
監督が誰より考えているから、選手も負けじと脳を働かせる。
そうしてチーム一体となり、戦う集団ができていく。
俺も そんな感じだなぁw
県立の北大津高校には、中学時代から注目を集めるようなプロ候補生はまずいない。
関西には大阪桐蔭や履正社、智辯和歌山ら私学の強豪がひしめき、
青森の光星学院や東京の日大三高などに野球留学する高校生もいる。
北大津を志望する中学生も概して野球の腕はあるが、決して神童と言われるような選手ではない。

学校の偏差値は30台後半で、生徒はいわゆるヤンチャ坊主ばかりだ。
だが、宮崎とともに考えて野球をすることで、卒業する頃には見違える人間になっていく。

「3年間ここで野球をやって、卒業して出て行きおって、
 また顔を見せにくるとものすごくしっかりした子になっている。
 しっかり受け答えのできる、いっぱしの社会人にね。
 ここは更生所みたいなところです。
 ええ言葉でいうと、僕が導いていく。
 悪い言葉でいうと、たぶらかしていく(笑)。
 卒業するまでに、みんな、ちゃんとしますね」

宮崎に「凡才がトップに登り詰める方法」を聞いてみた。
「凡才が天才にならんでええんですよ。
 凡才を極めたらいい。
 亀がうさぎになる必要はない。
 亀を極める。何かに変わろうとしても無理だから」

ゴルフ場に務める生徒の親からプレゼントされたカートに乗り、
グラウンドを駆け回りながら高校生を教える宮崎は誰よりも楽しそうだ。
そこに、北大津の誇る強さの秘訣がある。
「監督が楽しくなかったら、絶対に選手も楽しくないやろうし。
 若い子に『夢や希望を持て』『あきらめるな』といっても、
 大人があきらめていたら、子どもがあきらめないのは無理ですよ。
 僕は、毎日 楽しい」

不幸にも理不尽な指導者と出会った場合、自ら命を絶つまでに追い込まれる高校生もいる。
しかし、尊敬できる指導者に出会えれば、凡才でも何かを目指す方法を学ぶことができる。

高校生を教える指導者の責任は、極めて重い。
「凡才が天才にならんでええんですよ」

いいじゃないか 三流で 熱い三流なら 上等よ
ってのはアカギの台詞だけど 俺なんかは熱くも無いけど 俺なりに進むだけの話だ。 

2013年09月04日 ノムさんの教えを守り、“名脇役”になった男 西武・渡辺直人はなぜ重宝がられるのか?
http://toyokeizai.net/articles/-/18820?page=2
DeNAではショートからセカンドにコンバートされた1年目の2011年こそ126試合に出場したものの、翌年はケガもあり、出場機会が70試合に減少した。今年は中畑清監督の戦力構想とマッチせず、4月22日以降は2軍暮らしが続く。若手の出場機会が優先され、難しい日々を送った。

置かれた状況を考えれば、並の選手なら心が折れていてもおかしくない。渡辺の年齢は32歳で、多くのプロ野球選手にとっては引退が近づく頃だ。だが、ユニフォームを脱ぐつもりなど毛頭なかった。
「年齢もいっているので、何もやらなかったら何もないまま終わってしまう。やるべきことを見失わないように、自分に厳しく練習していました。その気持ちがたまたま、トレードで生きてきましたね」

7月10日、長田秀一郎とのトレードで西武に入団した渡辺は、埼玉県所沢市の会見場で目を輝かせながら話した。
「野球に飢えています。西武は優勝して日本一になれるチームなので、力になりたい」
シーズン途中に移籍した渡辺は、合流直後にインパクトを残すことを意識していた。その意気込みどおり、7月末まで打率3割近くとヒットを積み重ねていく。打順はつなぎ役の2番、守ってはセカンド、ショート、サードをこなし、瞬く間にチームに欠かせない存在となった。
「チームが変わっても、今までやってきたことをブレずにやるだけです。いきなりホームランを打ったり、自分の特徴じゃないプレーをできるわけではないので、今までやってきたことを継続するだけですね」

渡辺の存在価値が評価されるのは、数字に表れる面ばかりではない。ベンチで声を出し、守備につけば二遊間でコンビを組む若手にアドバイスを送るなど、リーダーシップを発揮している。

「性格?いや、そうじゃないですね。何もしないのがいちばん楽ですよ。でも、勝つためには必要だからやっています」
8月に入り、渡辺の打率は急降下した。29日時点の打率は1割9分8厘。それでも2番で起用され続けているのは、チームへの貢献度が高いからだろう。

渡辺が“名脇役”ぶりを発揮したのは、8月17日の楽天戦だ。球団創設9年目の初優勝へ突き進む相手に対し、是が非でも負けられない一戦だった。9回表の2死から本塁打で1点差を追いつかれ、嫌な流れで迎えた裏の攻撃。先頭打者の渡辺は「どんな形でもいいから、絶対に塁に出ると自分に言い聞かせました」。マウンドの小山伸一郎に1ボール、2ストライクと追い込まれ、4球目がボールとなる。「2ボール、2ストライクになり、相手はコントロールのいいピッチャーではないから、粘ればいけるとフォアボール狙いに切り替えました」。ファウルを挟み、2球続けてボールを選び、フォアボールで出塁する。1死1塁から浅村栄斗の2塁打でホームを突いた渡辺は間一髪でアウトになったものの、その後の攻撃でサヨナラ勝ちをもぎ取った。

いぶし銀の働きで勝利に貢献したこの日の数日前、渡辺はこんな話をしていた。
「最近はヒットになっていないけど、悪い内容ではありません。しっかりバットを振れているし、いい当たりがアウトになることも絶対にあります。何か変えなければいけないこともないですね。僕の仕事は打つだけではありません。もちろん、打つのも仕事ですけどね。フォアボールを選ぶところは選ぶとか、自分の仕事を続けていくだけです」

筆者にとって渡辺が取材対象となったのは西武移籍後で、話を聞くようになってから日が浅い。それでも、なぜ楽天やDeNAで周囲から愛され、評価されるのか気になっていた。そこで、あえて嫌な話を聞いてみた。DeNAでチャンスに恵まれなかった今季序盤、なぜ自分に厳しくできたのか、と。「そこを話すんですか」と苦笑した渡辺だが、言葉を紡いでくれた。

「普通のことを普通にやるだけですよ。
 1軍にいるからとか、2軍にいるからとかで、自分のスタイルは変わらない。
 2軍で試合に出られないと、モチベーション的には厳しいですよ。
 でも、いつも目標として、いつかチームの力になれるときが来るから、
 そのためにしっかり準備しておかなければと思っていました。
 たまたまトレードで、それが生きてきましたね。
 自分がやっているのは普通のこと。
 どんな状況でも変わらず、目の前の状況のために練習、試合をやっていく。
 よくても、悪くてもベストを尽くす。
 それは変わらないというか、変えることができない。
 いつでも全力でやるし、勝ちたいし。それは変わらないですね」

エースや4番という主役のように、渡辺は花道を歩く存在ではない。
しかし、その名脇役ぶりは、チームが描くドラマにグッと深みを与えている。

普通のことを、普通に――。
意外と簡単なことではないが、サラッとやってみせるのが名脇役なのだろう。

こういう言葉の中身を 自分の言葉で口に出来る人は もはや殆どに居ない。
感覚的に理解する人 肌感覚だけで分かる人 は少なくないが、
けれども大概に 其の口から出る言葉は真逆となっている場合が圧倒的に多い。

考える事を億劫にして 結局に最後はカルトへ無自覚に堕ちている、な者達は
自分がカルトへ堕ちている事を指摘されると烈火の如くに怒り狂う。
それこそが野蛮人の証明でも有るのだけどね。
所詮に“其の程度”で思考停止になっただけの話なのに「信念」とか言い出す
のは カルトそのもの なのにね。

野球と政治の背景を徹底的に考えようとしないままに思考停止をする幸せ人達は
これからも幸せに生きていけるだろう。
俺は 考える事を止めない、人間として生きる事を止めない。
人の心の深さを読み解き続けようと思う。
ベースボールではなく野球の神髄とは そういう話だと俺は思う、それだけだ。
だから他の人が他の人なりに考える事を否定はしない。





posted by 誠 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | (゚∀゚) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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