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2008年06月10日

戦後の日本の掃海の件を ちょっとだけ見てみた

別に軍事関係を特別に読んでいる訳でもないけど
政治の事とかを追いかけていると その方面の事を無視して避けては通れないし
頭も悪いし俺なりに知っておこう と思ってるだけなんだよね。
お金も無いし図書館とか古本屋とかで ここ数日 読んだ本で
軍事なんか完全に素人なんだけど
なんとなく此処に 適当に書き残しておこうと思った。
なので 此処に書いている事は 正しいかどうかなんて確認してません
一切を信用しないように
勿論に 合っている 正しい という保障はしません。
気になったら自分で調べてくださいね。





掃海 - Google 検索
掃海艇 - Wikipedia
掃海艇(そうかいてい)は、機雷を排除し、海域の安全を図るのを任務とする軍艦である
機雷戦 - Wikipedia








昭和20年1945年2〜3月誠天調書: 硫黄島攻防戦で硫黄島が陥落、
日本本土上空は更に米軍優位の制空権 - Google 検索となって B-29の本土爆撃は更に苛烈さを増す。
1945年3月9日夜東京大空襲 - Wikipediaは未曾有の被害をもたらした。
この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783tにのぼった。
このように大量の焼夷弾を東京へ落とし
東京大空襲 - Wikipedia 5月25日の空襲でも
2745t を投下し その他の日本各地へも降り注がれた為
焼夷弾などが米国の生産力を持ってしても底を付くほどに不足し始めていた。


少し離れるけどイラク戦争での米軍の弾薬量などを含めた兵站面での資料は
米軍の輸送・補給システムが 面白かった
すげぇwww 桁違いだなwwwwwwwwwwwwwwwwww
この数字を見ると 喧嘩を売ったフセインを やっぱり別の意味で尊敬してしまうなw


大東亜戦争時の食料自給率は およそ80%程だったらしく
戦争末期は更に不足が続いたであろうが
その不足分の輸入を 大陸〜朝鮮半島からの輸入に頼っている事を
米国海軍は早くから把握しており
その食糧供給を断つ朝鮮半島〜対馬〜関門海峡での
輸入船舶攻撃用の機雷投下を B29を持つ陸軍に願っていた。
1945年4月1日の沖縄上陸作戦への後方船舶への攻撃も兼ねて
焼夷弾も不足してきたし という事で
B29による機雷投下が始まる。

機雷 - Wikipedia 歴史
アメリカ軍は、対日戦において機雷を戦略目的に使用(飢餓作戦・1945年3月27日〜8月14日、延1,200機のB-29が作戦)し、日本近海の海上交通遮断をめざして航空機等から大量の機雷を投下した。米軍の狙いどおり、港湾や海峡で船舶の被害が増大し日本の物流は麻痺状態となった。

機雷戦 - Wikipedia
1945年 3月27日-B-29による最初の機雷敷設が行われる。関門海峡(以下、関門)付近への機雷敷設。使用された機雷は磁気及び音響機雷
3月30日-B29による関門付近、広島・呉及び佐世保への機雷敷設。
4月1日-呉へのB-29による機雷敷設
4月2日-広島・呉へのB-29による機雷敷設
4月3日-広島・呉へのB-29による機雷敷設
4月9日-関門付近へのB-29による機雷敷設
4月12日-関門付近へのB-29による機雷敷設
5月3日-関門付近及び大阪・神戸へのB-29による機雷敷設。水圧機雷が初めて敷設される。
5月5日-東京湾、伊勢湾及び瀬戸内海にB-29による機雷敷設
5月14日-関門付近にB-29による機雷敷設
5月16日-関門付近及び舞鶴にB-29による機雷敷設
5月19日-関門付近及び敦賀にB-29による機雷敷設
5月21日-関門付近及び舞鶴にB-29による機雷敷設
5月23日-関門付近にB-29による機雷敷設
5月25日-関門付近、新潟、七尾・伏木及び名古屋にB-29による機雷敷設
5月27日-関門付近、伏木、福岡及び唐津にB29による機雷敷設
5月28日-関門付近にB-29による機雷敷設
6月 7日-関門付近、福岡及び唐津にB-29による機雷敷設
6月 9日-関門付近にB-29による機雷敷設
6月10日-関門付近及び敦賀にB-29による機雷敷設
6月13日-関門付近及び新潟にB-29による機雷敷設
6月15日-関門付近、福岡、唐津及び伏木にB-29による機雷敷設
6月17日-関門付近及び神戸にB-29による機雷敷設
6月19日-関門付近、新潟、宮津及び舞鶴にB-29による機雷敷設
6月21日-伏木、仙崎、七崎及び油谷湾にB-29による機雷敷設
6月24日-福岡、唐津、境港及び新潟にB-29による機雷敷設
6月25日-関門付近、舞鶴及び小浜にB-29による機雷敷設
6月27日-萩、神戸及び新潟にB-29による機雷敷設
6月29日-関門付近、舞鶴及び酒田にB-29による機雷敷設
7月1日-関門付近、七尾及び伏木にB-29による機雷敷設
7月3日-関門付近、船川及び舞鶴にB-29による機雷敷設
7月9日-関門付近、七尾及び新潟にB-29による機雷敷設
7月11日-朝鮮半島、関門付近、宮津、舞鶴及び小浜にB-29による機雷敷設
7月13日-朝鮮半島、関門付近及び福岡にB-29による機雷敷設
7月15日-朝鮮半島、直江津及び新潟にB-29による機雷敷設
目的が はっきりと分かるね。
この効果は絶大で 機雷の直接被害も大きかったが
そもそも機雷を取り除く掃海は時間が掛かり危険な作業なので
航行そのものが殆どできない海域が 特に大陸との航路要所のほぼ全てで生じ
大陸との海運が壊滅的な停止状態に陥った。
機雷投下以前の50%以下にまで海運量が激減したらしい。
そら オシマイだなぁ。
原爆投下を待つまでも無く 日本の食糧不足を考慮すれば
この段階で完全に勝負はついたようなものである。

で 1945年8月15日に敗戦を迎え 日本は米国の統治下に入る。
けれども米国にしてみれば 既に冷戦 - Google 検索は始まっているようなもんだし
日本の復興を持ってソ連や朝鮮半島や中国の件に当たるに
機雷の掃海は 大至急で行われなければならない緊急の懸案となった。
だって 海運が麻痺したまんまじゃ ねぇw 復興も何も無いわなw


ところが投下した機雷 - Wikipediaの中には
自動触発海底水雷の敷設に関する条約 - Google 検索に抵触しかねないものもあり
磁気感応型と水圧・音響感応型となどの複合によって反応する海底の機雷に関しては
現在でも掃海する決定的な方法が無く、
最終的にはソナーで見つけては一つ一つ爆発処分するしかないらしい。
なので 未だに爆発の危険がある機雷も残っている可能性もあるらしい。


そんなこんなで 米国としては表立って話ができない案件となってしまい
この日本の戦後掃海作業については長い間 表面化されなかった話だった。
けれども 宗谷海峡 - Google 検索から台湾海峡 - Google 検索まで
米軍が投下した機雷は約11000 日本が本土防衛用に敷設した機雷は約55000 を
早急に何とかしなくちゃならないのは 当時の日米双方で一致していた。


第二復員省 - Wikipedia
第二復員省(だいにふくいんしょう)とは、海軍省を改組して1945年(昭和20年)12月1日に設置された、海軍軍人の復員等を主管する中央省庁の一つである。
要するに 内実は看板だけが変わった場所で
海軍の兵が掃海作業に借り出される事となり
その後 部署は
"復員庁第二復員局" - Google 検索
"運輸省海運総局" - Google 検索
海上保安庁- Google 検索
海上警備隊- Google 検索
保安庁警備隊- Google 検索
と変遷はあったが
1954年防衛庁の発足と共に、海上自衛隊が誕生に伴い
海上自衛隊 - Wikipediaが掃海業務を引き継ぐことになる。

こうして組織上は変遷があったものの、
掃海任務の危険性が熟練を求められる作業であり 誰にでもできるものではなく
現場の掃海任務に当たる人間は
旧海軍の人間と その後継者達が引き続き行う事になったのは
当前の帰結ではあった。
この辺りの事情も 海上自衛隊へ
旧海軍の人脈と伝統が今日まで断絶することなく引き継がれる一因
となったようである。
日本の掃海艇 - Wikipedia
こうして掃海部隊は、旧帝国海軍と海上自衛隊をつなぐ重要な役割を果たしており、旧帝国海軍の伝統を海上自衛隊に伝える文化的な橋渡しをしている。また掃海部隊の技術も100年以上の時間、途切れさせずに来ているのである。



で その掃海作業は 困難を極める。
終戦直後1945年から昭和25年1950年まで航路啓開 - Google 検索の業務中に
沈没や損壊をした舟艇は118隻、殉職者77名、重軽傷者約200名、
5年でこの数字であるから 相当に厳しい作業であった事が窺える。



その後 昭和25年1950年6月25日に朝鮮戦争 - Google 検索が始まる。
制海権 - Google 検索は圧倒的に米軍国連軍が握っていたけど
北朝鮮軍が秘密裏に機雷を敷設している可能性が発覚、
日本の掃海部隊は日本の要所沿岸で警戒を始める。


ところが 朝鮮半島への上陸作戦を計画している米軍と国連軍は
何故か掃海部隊が脆弱で 10隻前後しかなく
(制海権を完全に握ってるし
 北朝鮮に海軍力なんか殆ど無いも同然だったのでナメてたのかなぁ)
北朝鮮の機雷敷設が発覚しても 掃海艇の増強が上陸作戦に間に合わなかった。
結局 米軍国連軍の被害自体は大きくなかったらしいけど
その後 北朝鮮の日本海沿岸側の一部地域では 3000個あまりがあったらしく
米軍国連軍は対応が必要となった。

昭和25年1950年 日本の掃海作業をしていた航路啓開(啓開 - Google 検索
部隊は一段落をしていて
人員は1500人 掃海船舶は70隻に縮小されていた。
けれども その陣容は 米国国連軍と比べれば
かなりの豊富で しかも熟練し なおかつ朝鮮半島近海に精通している人間も多かった。

1950年昭和25年10月2日、米極東海軍参謀副長は海上保安庁長官の大久保へ
朝鮮海域の掃海の為の掃海船50隻を乗員と共に雇用(ハイヤー)したい旨を通告した。
この時に長官は 浮流機雷の警戒と処分 と考えていた。
が ともかく 長官の一存では決められない と
吉田茂首相へ判断を求める事になった。
元外交官の吉田茂 - Google 検索首相は 老獪な外交手腕で知られているが、
この時も勿論 単純には返事を出さない。

まず
米軍へではなくて あくまで「国連に協力することが基本方針」とした。
なおかつ 朝鮮半島への派遣という 極めて微妙な案件であり
政治問題と発展させる訳には行かないので
(未だ対日講和前 "対日講和" - Google 検索 でもあり)
占領軍からの命令 という形にしてもらうことにした。
だけれども 一方的に占領軍の言いなりにはなる必要は無い と
25隻に値切るというカードも切る、
その後に船数を増やせば 恩は大きくできるしねw
結局 吉田茂の提案内容のままに 1950年昭和25年10月4日
米極東海軍司令官から運輸大臣へ正式に命令という形が出される。

こうして日本の掃海部隊は朝鮮海域へ出発するものの
作戦を急ぐ米軍は
上陸作戦の先頭にての掃海作業 を日本の掃海部隊にさせる事となる。
コレに現場の掃海部隊の日本人は驚く「上陸作戦の先鋒ではないか」と。
まさに これはヒドイ だな。
それでも日本の掃海部隊は 懸命に頑張ったようである。

その他 まぁ色々と 現場では困難が伴った。
掃海作業中に日本船が機雷と接触し沈没し船員が死亡する事例や
そのせいで 騙されて連れて来られた との心象が強かった日本掃海部隊が
現場での言葉の行き違いなどで 撤収騒ぎが起きる などもあったようである。
計画の遅れに苛立っていた米第95任務群指令は納得しなかった
「予定通り、直ちに大掃海せよ。
 そうでなければ日本に帰れ。
 15分以内に出て行け。
 ファイヤーだ!」
と怒鳴ったとされる。
「砲撃する とはなにごとか!」
と激高した第ニ掃海隊は 撤収して下関に帰還してしまった。

これは言語の壁によって生じた出来事だった。
米語の会話体で「ファイアー」は「ハイヤー」の反語で、「解雇」「クビ」を意味する。
「契約を履行しなければクビだ」と言ったのを、
日本側は「砲撃する」と意味を取り違えたのが事の真相のようである。

また こんな事もあったようである。
任務中、韓国の対日感情を考慮して、
隊員は極力上陸しないように指示されていた。
しかしある時、やむを得ない事情で元山に上陸すると
韓国兵に日本人とすぐ見破られて取り囲まれ
「何をしている」と問いただされた という。
正直に話すと、流暢な日本語で
「おー、そうか、ご苦労さんです。どうです、一杯。」
と歓迎されたそうである。


ともあれ 数々の危険で困難な任務を続け
休戦の1ヶ月前の1952年昭和27年6月まで掃海を続け
米軍国連軍の海上補給路への安全に大きく寄与した とされる。

米政府は契約通り燃料費と人件費で2億4千万円を日本へ支払っている。
日本政府も 隊員へは充分に報いた。
会社員の給与が500〜600円である昭和22年頃であるが
隊員の平均給与は1500円以上、俸給 航海手当 勤務手当を含めれば6000円を超えたという。
まぁ 掃海任務は それほどまでに危険な仕事ではあるしね。
この韓国近海での掃海では 戦時加棒として倍額支給
作業海面付近に着弾がある時は危険手当1日5000円をつけた。
いや まぁ 戦争やってる最前線で してるんだもんね
しかも武器を持たずにね 洒落にならん。
殉職した隊員には米政府から遺族に弔慰金400万円が送られている。

それでも
レーダーも装備して無い老朽の小型艇で しかも冬季の荒天下に、
きめ細かい丁寧な掃海作業を完遂させた事を米海軍は高く評価した。
だが、国外での掃海作業 という極めて微妙なこの件の秘密を隊員は守り通した。
コトの顛末が明らかになったのは時の海上保安庁長官の大久保が
昭和53年1978年に出版した「海鳴りの日々」で、
当時のことに言及したからである。
海鳴りの日々 - Google 検索



その後 この件が与えた影響という点で
はっきりしているのは
これを契機に米海軍当局が旧日本海軍の軍人を評価し直し
かつ好意を抱くようになったことである。
これは後の1954年昭和29年の海上自衛隊創設にて、
大きな好影響を与えている。

国内的には「サイレントネービー(サイレントネービー 海軍 - Google 検索)」として
朝鮮半島への派遣については沈黙を守り、
当時 対日講和問題を抱えて苦しい立場だった政府与党に貸しを作ることになった。

そしてなにより これによって
日本の掃海艇 - Wikipedia
こうして掃海部隊は、旧帝国海軍と海上自衛隊をつなぐ重要な役割を果たしており、旧帝国海軍の伝統を海上自衛隊に伝える文化的な橋渡しをしている。また掃海部隊の技術も100年以上の時間、途切れさせずに来ているのである。
と同時に
旧海軍の蓄積した経験伝統が
海上自衛隊へ断絶することなく受け継がれる事となった。
掃海部隊の多くは その後も海上自衛隊へ入隊し
その防衛任務の足場作りに貢献をしている。
掃海部隊からは 後の海上幕僚長 - Google 検索も出ている。


こうした歴史があったからこそ
平成3年1991年4月 湾岸戦争 - Google 検索後のペルシャ湾へ
直ちに準備を整えて掃海部隊を送る 自衛隊ペルシャ湾派遣 - Wikipedia というのもあり
自衛隊インド洋派遣 - Wikipediaなどにも繋がっている。

自衛隊ペルシャ湾派遣 - Wikipedia 部隊派遣後






以上 歴史群像2005年4月号 戦後を切り開いた日本掃海隊 より
読んだ事を 適当にメモしてみた。
勿論に 合っている 正しい という保障はしません。
気になったら自分で調べてくださいね。



機雷掃海(航路啓開)部隊









posted by 誠 at 16:18| Comment(1) | TrackBack(0) | (゚∀゚) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
東京湾の観音埼は25年くらい前まで機雷が残ってたなあ。爆破作業は結構な迫力だったよ。
Posted by at 2008年06月11日 16:06
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