かつて一年生議員ながら異色の頭角を示し
党を変えた後は吉田茂の窮地を救い その後に抜擢され 政治の中心へと歩み始めた。
その吉田茂は
誠天調書: 2009年09月27日
マンガ「大宰相」の一巻にて こんな下りがあったのを思い出した。
吉田茂が そのGHQ占領下で首相の座にあった時
有望な閣僚ではあったが外交は素人同然だった池田勇人を米国へ
対日講和の探りを入れさせに送り込んだ。
しかも あくまで表向きは経済交渉で その裏で 情報を引き出せ、
そして現地で誰と会い 誰と交渉し どのようにするかは
万事 池田勇人に任せる、と吉田茂は命じる。
読んでいて そら 厳しいなぁw と思った。
敗戦国の閣僚という かなり厳しい条件下だったが
後に首相となる池田勇人は これまた後の首相となる更に若い宮沢喜一という通訳と共に
それなりに手ごたえを掴んで帰ってきた。
池田勇人が吉田茂へ報告をした時 こう答えたと言う。
「成功だった …と私も思う。」
「君の労を多とするよ。」
「外交というものが… 少しは分かったろう…?」
「誰も知らない間に時代の先を進め、新しい事態を作る
……これが外交の要諦だ。
君のとっては宰相学に通じていく。 」
この観点を 慎重にかつ大胆に進めなければ 政治の先をいけるはずも無い。
新しい政治 なんてのは 絵に描いた餅に終わる。
だから政治は かくも難しい。
時代の先の要諦を 自ら作る、民主党の議員に欠けるのは その資質だ。
官僚の上に座すだけでは駄目なのだ、その上へ出る者が必要なのだ。
政治を自ら作り出す しかも時代に合致した形で。
菅の「消費税増税」が如何に時代の要請に合致してないかは 火を見るより明らかなのに
民主党議員の誰一人として 閣僚の中の誰一人として 体を張って止める者はいなかったよね。
それどころか 言い訳に奔走したり 責任の擦り付けを始める始末だ。
先に止めに入ったのは 小沢だったよね。
静かにしろ と言われたではないかと問い直されれば
静かに静かにお願いしているだけだ と返す。
つまり どうにかしてでも 体を張って止めに入れなかった議員は
政治家としての資質そのものが見限られても致し方なし という致命的な評価を下されるよね。
どんなに知性が有ろうとも そういう観点が見抜けない程度の知性では
政治家としての最後の段階では信用ができない。
思うんだけど 小沢は 心の底から、
民主党内に自分を使いこなしてくれる者の出現を待っていたよね。
そして 結局 誰も出てきてくれなかった。
鳩山兄に その気概は有ったが そこまで だったよね、とても惜しかった。いやまだチャンスは有るか?
菅は使いこなせる云々以前の問題だった。拒否しやがったしねw
そう思えばこそ
民主トロイカの 下の者達が 小沢に対抗しようとする姿を
小沢自身は ある意味では嬉しく思ったりもしていただろうね。
もう寿命も短い自分が居なくなった後を 心の底から案じていたよね。
次代の要諦を自ら作り出しては政治を切り開く気概 を持つ政治家、
その出現を心の底から待っていたよね。
なればこそ 仙石 枝野 松田 玄葉 野田 前原 あたりが如何に言おうとも動こうとも
むしろ微笑ましく見守ってきた感が有る。
越えて来い とね。
でも それ以上の上にまで来る才覚と力量を示せた者は 結局に居なかった。
すなわち 菅が消費税増税を口にした時 政治家生命を掛けてでも止めに入る者達が
民主党の中枢に居る者達からは とうとうに出現しなかった。
その後の事態にあっても 出現しなかった。
国家戦略局の件であっても とうとうに動かなかった。
次代の要諦を先に動いては作り出す気概と才覚と力量を持つ者が
民主党内には居ない という事実が付きつけられたんだよね。
小沢は一気に連立へ動き出すだろう。
菅政権になってから 待つだけ待った、けれども もう時間切れだ。
森辺りと組むかな?w と見せ掛けて一本釣りとかね?w
これからの6年間は 次代を作り出せる者の競争になる
民主 自民 その他の政党であろうとも「閣僚経験が無い」というハンデが言い訳にならなくなった。
政界再編を言うのは簡単だが
その先の先をも見越した上で なおかつ足下を盤石にも固められる
そういう政治家が出現できなければ 小粒な連中による衆愚の没落は避けられなくなる。
ま とりあえず2年ほどは まだまだ小沢時代だね。
けれども その先は? と問うた時 宰相クラスの人材は居るんだけど
人を集め 人の上に立ち なおかつ人を使っては理と論の上に利を作り出す
すなわち宰相を束ねる帝王学も示せる政治家は現れるのだろうか?
願わくば No2である時にこそ最大の力を発揮する小沢の力が残っている間に
そういう者の出現を見たいものだけどね。
ま それは後回しだ
もし 支持率クソクラエで地方選も捨ててでも 色んな事を国政で断行するつもりならば
連立を仕掛けては この2年間を使う というのもあるだろうねw
んでもって真紀子首相で乗り切ったりとかねww
公明とみんなと組んでは清和会を潰しへ入る ってのも アリだしねぇwww
もしくは清和会(非コイズミ一派)+αと組んで 郵政改革法案を通す ってのも面白いよねぇww
さて どうなるかなぁ。
ついでにコレを貼ってみよう
田中角栄を歩く | Web草思
政治の力学を「点」ではなく「線」でとらえながら、田中を支えたエネルギーの源に向き合ってみよう。日本の政治の一面を読むには なかなかの資料かな、
時間のある時に読んでみるのは良いと思う。
冷戦構造の悪化に伴いGHQの占領政策が「民主化」から「反共の砦」への大転換し、
GHQ内で実質的に占領政策を取り仕切ってきた民政局(GS)と、
対敵諜報や民間諜報を手がける参謀第二部(G2)の抗争は激化した。
日本政界を巻き込み、熾烈な権力の奪いあいがくり広げられた。
民政局の実力者ケーディスは社会党系の片山内閣、三党連立の芦田内閣を全面的に支持し、
参謀第二部のウィロビー部長は民主自由党を率いる吉田茂の一派と手を結んだ。
いつの時代も政敵を追い落とすには「政治と金」のスキャンダルが手っ取り早い。
吉田の翼下で地歩を固め始めた田中角栄は、
片山−芦田政権を撃つ「鉄砲玉」を買って出た。
国会の赤絨毯を踏んで以来、
土木・建築政策を練る国土計画委員会で現場感覚を生かした論陣を張ってきた田中は、
1948年に入ると主戦場を「不当財産取引調査特別委員会」に移した。
不当財産取引調査特別委員会は、
終戦のドサクサで横流しされた軍需物資や臨時軍需費の支払、官有財産の払い下げ、政府補助事業
などの調査を通して、政官界の粛正を図るべく組織されている。
きな臭い噂が立ち込める政界のど真ん中に角栄は踊りこんだのだった。
片山内閣が倒れる寸前、2月4日の同委員会で質問に立った田中は、
総理大臣の秘書と称する人物が官邸や私邸で起こした詐欺事件に着目し、
片山総理本人の委員会出席を要請。瀕死の片山内閣に引導を渡した。
民政局の後押しで その後に芦田内閣が成立すると、
田中は戦後の疑獄事件の走りとされる「辻嘉六事件」にも斬り込む。
辻嘉六は、明治期に台湾総督に就任した児玉源太郎の私設秘書になったのを振り出しに
原敬、床次竹二郎、久原房之助、鳩山一郎ら政友会系の政治家と親密な関係を保ってきた政界のフィクサーだ。
旧日本軍が国内各所に貯蔵した隠退蔵物資が闇取引され、
その莫大な資金が辻を介して鳩山一郎に渡り、自由党が結成されたといわれた。
実業家の顔を持つ辻は、政界の古老。隠然たる影響力を保持した。
戦中、海軍航空本部の嘱託となった児玉誉士夫が上海に設けた「児玉機関」とのつながりも噂された。
海軍向けに銅や潤滑油、雲母、プラチナなどを現地調達した児玉機関は
大量のダイヤモンドを蓄えていたともいわれる。
児玉は、5万2000カラット、時価200億円(現在の7兆円)相当のダイヤをこっそり持ち帰ったと語られていた。
4月13日、不当財産取引委員会に実業家の杉本嘉市が証人として出席した。
杉本は辻嘉六に100万円の献金を渡していた。
田中は、杉本に舌鋒鋭く、質問を浴びせた。
(以下「国会議事録」より)
田中
「ちょっとお尋ねします。
辻嘉六さんの支配人の笹本さんが あなたの事業を援助しておられたということをご証言になりましたが、
その笹本さんは児玉機関とのご関係があることは御存じでございますか」
杉本
「全然知りません。
児玉さんのお話は聞いておりますが、関係があるかどうか、
それはお話を聞いただけで、私児玉さんに会ったこともございませんし、
笹本さんとどういう関係にありましたか、それは知りません」
と証人は答える。
田中
「あなたの会社が戰時中と戰後において、
笹本氏の援助を得て事業をやってきたということであれば、
あなたが戰前から戰後を通じてずっと現在まで継続されておるのでありますから、
どういう方面にご援助をしていただいたということは、ご明言できるはずだと思いますが、
できないのは、いわゆる児玉機関の資産処理という問題に関連をもっているから、ではありませんか」
わはwwwwwwwwwwwwwwwwww 其処まで言うかwwwwwwwww
杉本
「児玉さんのことについてはお話は承っておりますけれども、
一度もお会いしたことはございませんし、その関係は、私は全然存じません」
杉本証人は、タブーに触れるのを拒むように、必死で児玉との関係を否定した。
田中は児玉機関との関連をしつこく訊いた。
ロッキード事件での田中と児玉の位相のズレを考えれば、
若き代議士・田中が執拗に児玉機関に言及した点は興味深い。
田中は、児玉機関の裏側をかなり知っていたのではないか。
戦時中、田中は朝鮮で理研の軍需工場の建設に邁進している。
中国で暗躍する児玉機関の活動が満州経由で伝わっていたとしても不思議ではない。
吉田茂の鉄砲玉としての田中の攻勢は
吉田茂の対抗馬として担ぎ出される予定になっていた鳩山一郎を向こうに見据えていた、
という観点が必要になる。
当時 鳩山一郎は公職追放中の身だった。
そしてA級戦犯の児玉は巣鴨プリズンに収監されている。
後年、児玉自身、自伝に鳩山との関係を写真つきであっけらかんと記している。
終戦間もなく、児玉は辻に誘われて鳩山を訪ねた。鳩山は、心情をこうぶつけてきたという。
(以下「 」は児玉誉士夫『悪政・銃声・乱世』廣済堂出版より)
鳩山
「児玉くん、きみの好意は、ほんとうに有難い。
しかしきみが、これだけのことをしてくれるについては、なにか特別の条件があるとおもう。
……だが、その条件によっては、ぼくとしてもきみの折角の好意を受けられぬかもしれん。
その点をひとつ、率直に言ってもらいたい」
児玉は、即座に答える。
児玉
「個人としての条件は、なにひとつありません。
ただひとつ、如何なる圧迫があろうと、ぜったい天皇制を護持して下さい。それだけです」
鳩山は涙を流しながら、同調した。さらに児玉は記す。
「そして欣然と児玉機関にかんする全部の資産を、仲介者の辻老人を信じて提供したのだった。
それから間もなく、じぶんはA級戦犯容疑者として指名を受け、
巣鴨拘置所に収容の身となった。
――じぶんは鉄格子のなかで毎日のように、
鳩山さんが天下を取ったばあい、どんな政治をされるかをおおいに期待し、
その日が来るを祈っていた」
児玉は巣鴨プリズンでGHQと何らかの取引をしたとみられる。
放免された児玉は、政界の黒幕と怖れられ、
やがてCIAの協力者に名を連ね、ロッキード社の代理人を務める。
「政治と金」の根は深い。
「昭電疑獄」と国策捜査
国策捜査は、ささいな罪に手をつけるところから始まる。
まず浦和地検が
昭電秩父工場の錫や銅が米や麦と交換するために闇に流されている事実を押さえ、工場長らを強制収容。
これに続けて警視庁は富山、大町の工場を捜査し、物価統制令違反で関係者を逮捕する。
国民経済が疲弊し、闇米が当り前の時代、厚生給与として自社製品を主食と交換する例は枚挙にいとまがなかった。
一々、物価統制令違反で挙げていたら社会生活が成り立たなくなる。
しかし警視庁は微罪を突破口にし、
5月25日、昭電本社を家宅捜索。会計帳簿類を押収する。
6月23日、商工省課長らへの贈賄容疑で日野原社長を逮捕した。
疑獄は政権中枢にまで広がった。
栗栖赳夫経済安定本部総務長官、西尾末広副総理が検挙され、
48年の秋、芦田内閣は総辞職を余儀なくされた。
芦田本人も昭電事件とは直接関係のない鉄道工業会が絡んだ収賄容疑で逮捕される。
裁判で栗栖以外の政治家は無罪となるが、
「民主化」から「反共の砦」へと占領政策が変わる過程で起きた疑獄事件は、
権力の移行を如実に物語っていた。権力の重心は絶えず、変化している。
昭電事件に連座して大蔵省の花形主計官、福田赳夫も10万円の収賄容疑で逮捕された。
福田は日の当たる役人街道から転がり落ち、政界へ転じる。
民自党の田中が一気呵成に攻め込んでくる姿をどう眺めていたものか。
角―福の怨念も これまた根が深い。
再び首相の座についた吉田は、田中を法務政務次官に抜擢する。
不正を暴いた論功行賞であろうが、よくも悪くも田中は目立ちすぎた。
吉田は九州の炭鉱王、麻生太賀吉と閨閥をなしている。
麻生が吉田に政治資金を提供していることはよく知られていた。
その命綱を断とうと企てた。
だが……民政局にかつての勢いはなく、吉田失脚には至らなかった。
その代わり、炭鉱国管疑惑は田中角栄ら、実働部隊に及んだ。
11月23日、東京高検は、飯田橋の田中土建事務所と牛込の田中邸を家宅捜索した。
二日後、衆議院本会議で角栄は弁明している。
(以下「国会議事録」より)
田中角栄
「私は、石炭国管運動に反対いたしまして(芦田が党首だった)民主党を離党いたしました。
しかし私は、石炭国管運動だけに反対して民主党を離党したのではありません。
私は三党連立に反対し、しかも公団法に反対し、農業生産調整法に反対して離党したのでありまして、
しかも石炭国管法の審議において、特定の業者と金銭の收受の事実は断じてありません。
ただ私は、ここで自分が事件に関係があるとかないとかいうことを申し上げるために、
一身上の弁明に立ったのではありません。
私は、吉田内閣が綱紀粛正の看板を揚げながら、しかも若い政務次官を人選したことに対して、
まことに私が若い人の最も悪い代表であるというようなことを言われたように承りましたので、
私は、若いがゆえに、土建業者なるがゆえにそのような侮辱に対して、
一言弁明をしたかったのであります。
私の黒白は、当然司直がこれを裁くでありましよう。
潔白であることを信じていただきたいと思うのであります。
ただ最後に、国会議員の一員といたしまして
特に家宅捜索を受けるという状況にまで至りましたことを、皆様におわびいたすのであります」
田中角栄は小菅の拘置所に収容された。GHQが アメリカが 何を目的に こいつらを釈放したかは
「至誠の人」を座右の銘とする田中は、
口を真一文字に結んだまま、涙をはらはら流しながら護送車に揺られた。
23日、与野党逆転状況の衆議院で
内閣不信任案を可決された吉田茂は、解散、総選挙を決断する。
側近から「じいさん」と呼ばれる吉田は、
丸々とした体に満々たる闘志をみなぎらせ、勝負に出た。
歴史の巨大な歯車は轟々と音をたてて回っている。
翌24日、GHQは巣鴨拘置所に監禁され、裁判に付されていないA級戦犯の釈放を発表した。
占領国へのクリスマス・プレゼントの意味がこめられていた。
そのなかには岸信介、笹川良一、児玉誉士夫ら国家主義者の顔もあった。
「冷戦」の厳しい現実の前で、GHQは、かれらに再起の機会を与えたのだった。
その後の行動を見れば露骨に分かるけどねwwwwwwwwwww
そして 此処から先に 小沢を支える思想の根幹が垣間に見える かもしれない
しんしんと冷え込む小菅の獄舎で、角栄は、苦悶していた。
鉄格子の間から差し込む月光を見つめ、
もう一度国政に打って出るべきか、
社業に専念すべきか、
迷った。
このままでは野垂れ死にだ。
俺はスケープゴートにされるために代議士になったのではない。
政治に体を張りたい。
だが、断崖絶壁に追い込まれていた。
社業を託す役員が面会に来て
「もう30万円しか会社の金庫にはありません。これを使ってしまうと田中土建はどうにもならない」
と言った。
万一、選挙に出て敗れたら、すべてを失う。社員は路頭に迷う。
逡巡した田中は役員に
「星野一也さんの意見を聞け」と命じた。
星野は、田中が父のように慕った理研の総帥・大河内正敏の下で
新潟の柏崎一帯の工場施設を統括していた人物である。
理研城下町、柏崎で星野を知らない者はいない。良識派で人望が厚かった。
新潟の田中が前回の選挙で当選できたのも星野の協力をとりつけ、
理研票を一本化できたからだった。
土壇場で、田中は地元の声に耳を傾けようとした。
「俺は越後から米をつきに上京した出稼ぎ人」。
そんな田中の土着の情念が、右腕と頼む役員を故郷に向かわせた。
星野は、田中土建の窮状を訴える役員に言った。
「そんなことより、牢屋のなかからでも立候補できるはずだ。
立候補したら演説しなくてはならない。
それには保釈してもらうことだ。大急ぎで東京に戻りなさい」
助言を受けた田中は獄中で立候補した。
年が明けて49年1月13日、保釈された田中は、
上野発の夜行列車に飛び乗って南魚沼郡の六日町に向かった。
そこから伝説的な雪中行脚、地を這う選挙運動を展開するのである。
獄につながれたからには組織票を頼ってはいられない。
豪雪のなか、長靴を履いて山から山、村から村、車座の集会や立会演説会場を経巡った。
吹雪が荒れ狂い、乳を流したような白いヴェールが行く手をさえぎる。
列車が止まっても「歩いていこう」と田中は退かなかった。
小千谷に向かう上越線の鉄橋を渡っていたとき、不通のはずの線路が細かい震動を伝え始めた。
線路の揺れは次第に大きくなり、気がつくと、目の前に黒々とした列車が迫っていた。
「うわぁ」。どこに逃げていいかわからない。
田中は鉄橋の橋げたにぶら下がって列車が通過するのを待った。
線路上が静かになると、また歩き出すのだった。
演説会では、
「みなさん新潟県と群馬県の間に三国峠があるでしょ。
あれをダイナマイトで吹っ飛ばすのであります。
そうすれば日本海の季節風は太平洋側に抜けて越後に雪は降らなくなる……」
と、お決まりの大開発論をぶつ。
「石炭はどがんした。言うてみらっしゃい」
容赦のない野次が飛ぶ。田中は顔を赤らめ、つっかえ、つっかえ身の潔白を説こうとする。
「演説はもうええわ。浪花節をやらっしゃれ」
「天保水滸伝」や「佐渡情話」の十八番に新しいレパートリーが加わっていた。
題して「田中角栄小菅日記」。
やはり転んでもタダでは起きない男である。
拘置所暮らしの辛さを、濁声で切々と語りかける。
ちょうど林芙美子の『放浪記』が流行っていた。
気の毒に、助けてやろうと村人は同情を寄せる。
田中は都市部の票数ではなく、山間部の得票率を重視する独特の選挙戦術を編み出した。
浮動票よりも固定票を選んだのだ。
ひとつの村で大多数の票を得れば、放っておいても村人たちが宣伝をしてくれる、
と見切った。
田中は新潟三区で4万2536票を獲得し、第2位で当選。国政の場に戻った。
それにしても星野は、なぜ田中に獄中立候補を薦めたのだろうか。
ロッキード事件の一審で求刑があったころ、
星野は田中邸を訪ねて、田中本人にこう言い渡している。
星野
「おれは慰めに来たのではない。
あなたは政治家を目指して以来、自分のやり方でやってきた。
それを変えろとは言わん。
政治家になって以来持ち続けてきた主義・主張をつらぬけ。
そのために健康に気をつけろ、風邪ひとつひくなよ」
田中が「持ち続けてきた主義・主張」とは、
ひと言でいえば「民衆へ」の意識ではなかったか。
それが
ソ連と敵対するアメリカ、という権力の太陽に向かって飛び続けるエネルギーになったのではないか。
炭管疑獄で権力の炎に焼き尽くされそうになった田中を救ったのは民衆だった。
49年4月、国会に議席を得た田中は、本来の国土開発分野で辣腕を振るうのであった。
GHQは日本を「アジアの工場」にしようと手を打つが、
国民生活の向上にはほとんど関心を払わなかった。
住宅政策や地方の開発には冷淡だった。
田中はGHQとやりあった日々を、次のように回顧している。
「占領軍から毎日のように『メモランダム』が発せられていた。
まァ、日本の国会に対する事実上の指示だな。
そのメモランダムで法律の原文が示され、
一行の修正でも、附帯条件をつけることでも、
占領軍のOKがなければできなかったんだ。
それはもう、やかましいものだったよ。
(中略)
占領軍のメモランダム、これはもう洪水みたいでね。
まるで蛇口からほとばしる水道の水だ。
わたしはその蛇口の下に位置しておって、
ジャーッと降ってくる法案の条文整理をしたり、
ときには占領軍のメモに反して多くの議員立法をしたこともある。
ま、そうした若いときの経験がね、
今のわたしの法律に対する知識の基礎であるかもしれないと思うんだ」
(『早坂茂三の「田中角栄」回想録』小学館より)
この時代から60年 政治環境 国際環境は激変した。
未だ占領時代と同じ思考しかできない政治を続けるのか?
そういう政治をする者達を如何に考えるのか?
ならば どうすれば良いのか?
知り 学び 考え そして行動し続けるしかない。
その先を歩む覚悟は いつの時代も問われる。
もう一つ置いてみる 話は少し戻ってから始まる
田中角栄を歩く 永田町の洗礼| Web草思
1947(昭和22)年5月20日、新憲法下で初の特別国会が召集された。国会議事堂の中央玄関、ふだん固く閉ざされている重さ1トンの扉が、この日は厳かに開け放たれた。総選挙で勝った代議士たちが顔を上気させて登院してくる。そのなかに民主党の一年生議員、田中角栄の姿もあった。ちょび髭をたくわえたモーニング姿の土建屋議員は、「よろしく」「よろしく」と誰彼かまわずペコペコおじぎをしながら、玄関から中央広間へと入った。
田中が登場する少し前の首相の吉田が最も手を焼いたのが市井を覆う「飢餓」だった。制度が変革されても、飢えは解消されない。終戦直後、大都市での主食の配給量は、大人で1日297グラム。茶碗1杯分しかなかった。エネルギー源の石炭の産出量は落ち込み、工場は操業停止。モノ不足は大インフレを引き起こす。物価は、なんと戦前の65倍にハネ上がる。片や賃金は、戦前の23?37倍にとどまり、家計の7割以上を食費が占めるありさまだった。
闇市には人が群れた。飢餓は人を「獣」に変える。花形の歌舞伎役者が食べ物の恨みから弟子に撲殺され、配給のミルク不足で乳児院の赤ん坊たちが息絶える。幼い子どもの衣服を脱がせて持ち去る「はぎ取り魔」やスリ、強盗が横行した……。
4月の総選挙で、吉田茂の自由党は片山哲を擁する社会党に第一党の座を奪われた。飢えと貧困にあえぐ大衆は、保守政権への不満と現状脱却を期待して社会党に多くの票を投じた。とはいえ、獲得議席数は、社会党143、自由党131、田中や中曽根が籍を置く民主党124、三木武夫ら中道路線の国民協同党31。社会党の単独政権は難しい。片山は難局に際して四党連立を呼びかけたが、吉田は誘いに乗らず、反共の立場を強調して野に下った。お手並み拝見、いずれ出番は回ってくると読み切っての下野である。そして鉄砲玉の田中の話が有るが 実はまだ吉田と田中は党すら違う、続けよう
飢餓と経済危機の打開、民主化を同時に進めねばならない片山内閣は、安定感に欠けた。加えてGHQ内で、民政局と、検閲や諜報活動を通して情報分析を行う参謀第二部の葛藤が、占領政策に微妙な影を落とし始めていた。
参謀第二部は、日本の非軍事化で表舞台から追放されたはずの特別高等警察(特高)や憲兵、日本軍諜報機関の高級参謀たちを密かに抱え込み、策謀を練った。
政界は、一寸先が闇だ。野党へ転落した吉田茂、そして その頃の一年生議員の田中は
与党議員で政界にデビューした田中角栄は、7月10日、衆議議院本会議の「自由討議」で国会第一声を上げた。自由討議とは文字どおり議員がフリーに討論する場。民主化の象徴として設けられたのだが、卑俗な野次が飛び交い、とても議論にならない。でありながら
議員はそれぞれの政治テーマに応じて委員会に所属する。
田中は、迷わず国土計画委員会に名を連ねた。
土木、建築分野はお手のものだ。キレのいい質問を放ち始める。
9月、「キャサリン台風」の襲来で
関東、東北、北海道にかけて、死傷者、行方不明者3600人を超える大水害が発生した。
利根川、荒川など多くの河川が決壊する。
田中は行政機構の矛盾を衝いた。
「各省に(災害対策事業が)分属しておる部局と十分なる連絡が、あるかないか。どうなのか。
根本的原因として600ミリないし700ミリという予想外の雨が降ったからというご説明でありますが、
これは当然、そういうことを考えなければならぬ。
明日また700ミリ、800ミリも降るかもしれぬ。
農林省に分属しておる治山関係と、内務省に属しておる治水関係が、
過去においてうまくいっておったのかおらないのか。
しかも今次水害にぶつかって、その応急対策ならびに計画を立てるにおいても、
十分なる連絡があるかないか」
内務事務官は、冷や汗を流しながら答える。
「過去においては、多少、いろいろのことが風評にせられておりますけれども、
最近においては農林省の治山方面と内務省でやる砂防という点については、
常に連絡を取っておるので、この五ヵ年計画においても……」。
田中は曖昧な答弁に「現場感覚」で突っ込む。
「内務省国土局は、災害復旧に関して、
技術陣容ならびに機械設備において遺憾なき状態にあるか。
第二に復旧工事は従来どおり内務省でもって直営でなすか否か。
第三には労務配置に関しまして総合的計画ならびに失業(対策)との間に連絡があるかないか」
と、田中は復旧工事にかかる「人、モノ、金」の内実に迫った。
経営者ならではの発想だ。
工事が内務省の直営で行われないとすれば、当然、民間に請負工事が発注される。
役人の答弁ひとつで土木業者の「食い扶持」が決まるのである。
官僚は、もはや言を左右できない。
「第一問につきまして内務省の機械力または人的資源は十分だと思います。
しかしながら利根川の決壊口は、この際は一刻も争うという意味から、
やはり民間のご協力をもって時日の短縮に専念している状態で、
今後も内務省の直轄工事でやるという意思は毛頭ありません。
平時の災害復旧にも直轄と請負の二本立てで準用していきたい。
労務関係につきましても、被災地では災害者が非常な熱意を示されまして、
早期復旧のためには不眠不休で応援するという涙ある申し出がありますので、
被害者のご援助を得て、労務については不足を感じておりません」
民間の工事請負を官僚が約束した。
工事は現地の失業対策にも充てられる。
並の新人では、こんな答弁は引き出せまい。
並行して、田中は選挙区の刈羽郡、柏崎市を流れる鮫石川水系の砂防工事を手始めに
河川改修や道路整備の「請願」を次々と出した。
請願は憲法に認められた権利であり、
国会議員の紹介で出された請願が議院で採択されれば、内閣に送られる。
内閣はその処理を報告しなければならない。
請願はれっきとした国への「発注」だ。
当時、土建屋を荒くれ者と遠ざける人も多かった。
その土建屋の中から閣僚や官僚に物申す新人代議士が現れたのである。
角栄は、紛れもなく戦後の民主化の落とし子だった。
田中の国土計画委員会での質疑や請願を地方の窮状を無視して 金融政策にのみ奔走する連中との比較が 頭によぎる
土建業界への利益誘導と、したり顔で断罪するのは簡単だ。
しかし、飽食の時代に生きるわたしたちは、飢えを実感できていない。
政界に躍り出たばかりの田中が直面した飢えへの想像力を閉ざしてはならないだろう。
「憲法より飯だ」と叫ぶ人々に政治は何を与えられるのか……。
国土計画委員会での田中の振る舞いを一業界への利益誘導とみなすと、
占領から復興への大潮流をも見失いかねない。
田中の具体的な指摘は、種々雑多なようで、じつはある一点に収斂していた。
それは内務省解体後の土木・建設行政のあり方。つまり旧秩序から新秩序への転換点に集約されていた。
時代の波打ち際を田中は走っていたのである。
GHQは、内務省を軍国主義的中央集権体制の中枢ととらえ、政府に解体を命じた。
内務省は、全国の警察行政を統括する「警保局」、
知事の任免を含めて地方行政を牛耳る「地方局」、
河川や道路、港湾、住宅などの土木建設行政を握る「国土局」、
国家神道を統括する「神社局」、
労働、保険政策を司る「社会局」
などで構成されていた。
田中の関心の的は内務省解体後の「国土局」の行方だった。
水害復旧に係わる質問で、農林省の治山と、内務省国土局の治水の縄張り問題に触れたのも、
解体後の国土局は復興に必要な「国土計画」を実行できる「建設省」に生まれ変わるべきだ
と考えていたからだった。
建設行政の一元化を田中は志向していた。
一方、国土局の官僚たちは必死で生き残りを模索する。
終戦間もなく、一部のグループは国土局を出て、都市復興を手がける「戦災復興院」をつくった。
地方計画に携わる者は、内閣所属の「経済安定本部」に出向。
いよいよ内務省の解体が迫ると、
戦災復興院と国土局は合体して「建設院」を名乗った。
この建設院の看板を「建設省」とつけ変えて、
省庁間のバランスを保ちながら、体よく旧体制の延命を図ろうとしていた……。
12月5日の衆議院本会議、角栄は、
舌鋒鋭く、片山哲総理大臣に「建設院」のあり方を問うた。
省への格上げを視野に入れた弁舌からは、叩き上げの迫力が伝わってくる。
田中
「私は、土木建設業者でございまして、
しかも過去十年間を通じ、建設省設置論者であります。
なぜ建設省をつくらねばならぬか。
いまさら申し上げるまでもなく、わが国の建築行政が多岐にわたっておりますために、
わが国再建を阻害しておることは、総理大臣もお認めになっていると思います。
一例として、終戦後、最も大きな事業となった特別建設工事があります。
進駐軍に関する渉外工事です。
渉外工事がインフレを助長させたといわれていますが、
土木建設業者に流されたカネの量は厖大なものがあります。
しかし、そのような噂を立てられるのは、
一にあの厖大なる渉外工事を、一年有半にわたって外務省の所管で工事が遂行されたからであります。
しかも工事の結果がよろしくない……。
(建設行政は)農林省の開拓局、商工省の電力局、運輸省の港湾局、あらゆる省にまたがっております。
これを一挙にやるためには行政整理(改革)をやらねばなりません。
建設省ができれば、この行政整理はどうなるのか。
行政整理は日本を再建する唯一の途であると私は感じておるのであります」
片山首相が苦虫をかみつぶしたような顔つきで答える。
「行政整理はなかなかの大問題でありまして、
機構の改革と経費の節減と人員の調整問題でありまして、
この三つをにらみ合わせてやるのですからなかなかの大事業であります……。
人員の問題及び整理の問題は、小出しに部分的に出しまして、
いくらかでも進歩を図っていきたいと思っております」
公務員労組を支持母体とする片山総理には精一杯の回答である。
田中は、やおら庶民が塗炭の苦しみを舐めさせられている「住宅問題」を突きつけ、
家とは何か、持論を展開した。
「現在、住宅は、ご承知のとおり600万戸も不足であり、
経済安定本部案に沿って24万戸ずつつくっておったならば、
戦前に復旧するまで30年間かかるのが現状であります。
米もない、着物もない、住宅もないということになりますと、
人間が生きるための必需条件である衣食住、
その住宅は一家の団欒所であり、 魂の安息所であり、思想の温床である。
その住宅が30年間も戦前に戻れない状態では、これはえらいことになる。
高度民主主義を標榜される片山内閣といえども、出直していかねばならぬものじゃないか……」
片山が答える。
「住宅問題ばかり考えますと、今後30年かかり、40年かかるということになりましょう。
農民問題ばかり考えますと、農村の文化建設には30年かかるというでありましょう。
個々別々に立場を主張されると、きりがありません。
国全体の経済の隆盛を考えて、住宅問題を好転せしめたい。
復興事業の重大性を考え、(建設院を)内閣直属の外局に置くのでありまして、
内閣総理大臣の責任においてその発展を期したい」
ここで田中は「建設院」の位置づけに切り込んだ。
厖大な建設事業に立ち向かわねばならない建設院が、内閣の外局では心もとない。
法律の文言を示し、建設院の責任者は国務大臣を充てよ、と弁じた。
「(建設院設置の)法案の第十条、
『建設院の長は、国務大臣を以って、これに充てることができる』
という条項は、当然、内容からしまして、
『国務大臣を以って、充てる』としたほうが適当だと思います。
ご答弁いただきたい」
「……ことができる」は可能の表現であって、厳格な規定ではない。
このわずか六文字をとっただけで建設院の長は大臣と規定され、省と同格になる。
「法律の鬼」田中の目覚めであった。建設官僚たちは最大級の追い風を感じただろう。
具体的な質疑では、手ごわく立ちふさがる田中が、頼もしく映ったに違いない。
田中さんなら話が早い。そんな空気が醸成される。
片山総理は、田中の意見を形式論にすぎない、と退けようとした。
「私の考えは、そういう形式にとらわれないで、
いままで官僚は形式にとらわれて外局だから軽くみたように思うが、
重要な問題には十分力を入れて発展を期したい。
この問題には、もう十分力をいれております」
総理大臣と一年生議員の討論は、どちらに軍配が上げられようか。
建設行政の本質を押さえて ひた押しに押してくる田中を、片山はもてあましたようだった。
国会で田中が真っ向勝負を挑めたのは、与党、民主党のくびきを自ら断ち切ったからでもあった。11月末、田中は、片山内閣が提出した「炭鉱国家管理法案」に反対し、民主党に「離党届」を出していた。
炭鉱国管法は、GHQの支配下、前吉田内閣と代わり映えのしない経済政策を強いられる片山内閣が示した唯一の「社会主義政策」といわれた。石炭の増産のために炭鉱を国の管理下に置こうとする、この法案は、当初から麻生太賀吉ら九州の炭鉱業者から強い反発を受けた。麻生家に娘を嫁がせている吉田はもとより、政権与党の民主党のなかからも反対運動が沸き起こる。炭鉱業者は反対派の国会議員にカネをばらまいた。
田中は、「黒い石炭を赤くするな」と吼え、民主党内の反対派の先陣を切った。11月20日から22日まで衆議院本会議で大乱闘が続き、法案は修正に次ぐ修正を重ねてようやく可決。その結果、民主党は党内攪乱の首謀者7名を除名し、田中ら17名には離党を勧告したのである。
田中たちは「同志クラブ」を結成し、政権のキャスティング・ボートを握った。
民主党が割れ、片山連立内閣は、いよいよ求心力を失い、翌48年2月、総辞職。芦田均が首班指名を受けて政権を担当する。けれども芦田内閣の発足直後、田中ら同志クラブは解散し、新たな賛同者を入れて「民主クラブ」を再結成。そのまま吉田茂の自由党に合流し、議員総数152名の「民主自由党」が誕生した。
保守勢力が結集した民自党の総裁は、もちろん吉田茂。田中は吉田の子分となった。将来を老宰相吉田茂に託したのである。吉田は、いきなり田中を民自党の選挙部長に抜擢した。今日の選挙対策委員長だ。集金力を見込まれてのことである。以来、田中と選挙は分かちがたい関係で結ばれていく。
保守本流のまんなかに入った永田町の風雲児は、思う存分暴れまわった。
親分の吉田から小沢への疑獄の執念が むしろ怨念か呪嗟に近いのも さもありなん と言ったところか
「あいつは刑務所の塀の上を歩いているような男だ」と評された田中は、
炭鉱国管法反対運動に係わる収賄容疑で逮捕され、塀の向こう側に落ちた。
永田町の手厳しい洗礼を受けたのであった。
小菅拘置所のなかで、田中は選挙への出馬を宣言する……。
それにしても、国会議事堂の中央玄関を意気揚々とくぐってから小菅に収監されるまで1年半少々。
この短い期間に田中は政治家人生の「予告編」を演じてしまったようだ。
疑獄にまとわりつく怨念は、60年の歳月を経てもなお、政界の「黒い地下水脈」を形成している。
中曽根康弘と福田赳夫
田中の恐るべき現実主義は、同期の中曽根の質問と比較しても際立っている。中曽根は官僚出身らしく、政治は財政にありと「財政及び金融委員会」に身を置き、7月11日、初登壇した。この日の議題は国民の貯蓄奨励のための組合をつくる法律の審議である。
大蔵省主計局長の福田赳夫が政府委員で法案説明に立った。ある委員が「預金奨励のために福徳預金的な、いわゆる富くじ式の方策を採り入れてはどうか」と言ったのを受けて、福田が「ただいまさようなことは考えておらないのでありますが、非常に面白いご意見。なお研究してみたい」と答えたのにつづけて、中曽根が質問した。
「預金の増強は、インフレーションを克服するうえに相当重大な意味を持っておると思いますが、最近日銀券の増微の趨勢を巷間でいろいろ取り沙汰して、政府は、社会党がかつて唱導した、新円に手をつけるのではないか、登録するのではないかというようなデマが横行しております。こういうことは政府において絶対にないと確信しておりますが、御所信をお聞きしたい」
政府は、ハイパーインフレへの対策として、46年2月に5円以上の日銀券(紙幣)を強制的に金融機関に預けさせ、従来の預金封鎖とともに生活費や事業費などに限って新銀行券の払い出しを認める非常措置を実施した。これを「新円切り替え」という。市民は新円切り替えで戦前に蓄えた財産をごっそり失った。新円切り替えは、インフレ抑止に一定の効果はあったが、物価上昇は続き、人心の動揺はおさまらない。新円政策が、またぞろ転換されるのではあるまいな、と中曽根は質したのである。常識的にも通貨制度はそう簡単に変わるものではない。言わずもがなの感なきにしもあらず。
国会議員の政務次官が答弁に立ち、「さようなことは考えていません。通貨の新円を堅持します」と断言。聞かれるまでもない、とはねつけている。この場でのやりとりはそれっきり。主計局長の福田とはニアミスに終わった。
福田は、わざわざ念押しされなくても新円政策が変わるはずはない、と腹の底で突き放していた。後年、田中、福田、中曽根、三つ巴でしのぎを削りあう権力者の戦後出発点は、それぞれの前半生を反映していておもしろい。福田は、この時点では「官のなかの官」大蔵省の花形局長。日の当たる坂道をまっしぐらに駆け上っていた。いずれ官僚の最高峰、大蔵事務次官を務め、大蔵大臣の椅子でも狙うか、との心積もりではなかったか。陣笠議員になって雑巾がけに汗を流そうなどとは全く考えてもいなかっただろう。翌年、発覚する「昭和電工疑獄」で福田は収賄容疑で逮捕されて官界を追われ、政治家に転じるのだが、その福田の有力後援者のひとつが井上工業。そう、新潟から上京した角栄少年が最初に丁稚奉公をした土建会社である。福田と中曽根は群馬出身。やがて選挙となれば「上州代理戦争」を展開するようになる。田中、福田、中曽根、人の縁の不思議を感じる。
→ 誠天調書: 田中角栄から 今の民主政権を読む 2 へ続く