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2010年07月24日

田中角栄から 今の民主政権を読む 2

誠天調書: 田中角栄から 今の民主政権を読む 1 の続き

そして話を田中に戻す
田中角栄を歩く | Web草思
耐震偽装が嵐が国会で吹き荒れた直後、国は構造偽装の再発防止を叫ぶ世論を利用し、瞬く間に建築基準法を改正。「建築確認」制度、チェックシステムの厳格化を打ち出した。ところが、その机上の論理が建設市場に大打撃を与えている。6月20日の新制度施行日になっても国交省建築指導課は具体的な対応を確定できず、自治体や民間確認検査機関の業務が3週間以上ストップした。挙句は構造計算とは無関係な資材や壁紙の種類まで克明に申請書類に記入させるなど常軌を逸した煩雑で大量の書類提出を義務づけ、建築確認業務が大停滞しているのだ。
 確認が下りなければ工事にとりかかれない。ついに8月の新設住宅着工数は前年同月比でマイナス43.3%。07年の住宅着工数は、石油ショック期と同程度、前年比3分の2に落ち込むと予想される。中小の建設会社、設計事務所は倒産の危機に瀕している。
 これで建物の安全性が確保されるのならまだしも、現場の構造設計士は設計実務とかけ離れた書類作成に忙殺され、本来の仕事に取り組めない。割の合わない激務に嫌気がさした構造設計士たちは、続々と設計現場から去っている。建物の総体的な安全性の低下が懸念される。建設業の市場規模は約55兆円。GDPと全就業者数、それぞれの1割を占める。この基幹産業の創造力のど真ん中にぽっかりと穴があこうとしている。官僚は法改正で制度を猛獣に変えた。
 田中角栄は、「住宅は職を生み、人を食わせる。家を作れ。政治は生活だ」と多くの建築関連法を議員立法し、政府提案にも深く係わった。こんな事態が生じようとは考えてもみなかっただろう。
 国交省の官僚は、法改正に基づく一片の通達で、膨大な人、モノ、金が行き交う建設市場というハイウエーのまんなかに突如「制度の関所」を築いた。担当官は「住宅の生産システムを変革する」と大言壮語したというが、本音はどうだろう……。
 今回の改正で高さ20メートル超のマンションや、木造の3階建て以上の住宅は構造計算の「適合性判定」を受けなければならなくなった。判定は、知事が指定する「構造計算適合性判定機関」で「専門家による審査(ピアチェック)」によって行われる。その手数料のうち数十億円が適合性判定の元締めである「(財)日本建築センター」に流れるといわれている。同センターの現役理事長以下、理事や評議員には国交省(旧建設省)OBがずらりと並ぶ。絵に描いたような天下り機関である。
 「官の暴走」が止まらない。
 かつて建築関連諸法が誕生した頃、人々はトタンと木っ端を組み合わせたバラックや、戦時中に道端に掘った広さ一、二畳の防空壕を転用した壕舎で暮らしていた。300万戸以上の住宅が足りなかった。仮に一戸4人とすれば1200万人を超える国民がホームレスにちかい状態だった。闇市が広がる「アメ横」や「秋葉原電気街」はバラックの群れであった。
 そんな時代に、田中は、国土の復興、開発と住宅建設の間に法律という「橋」を架けた。大量の人や物資、資金、情報が、田中のこしらえた橋を行き交った。が、やがて橋げたは経済の膨張と技術の複雑化という水流の増加に耐えかね、ギシギシと軋む。官は、その制度疲労と混乱に乗じて、天下り先をどんどん増やしていく……。
 「官の暴走」の本質を見極めるには、あの占領期の立法過程にまで遡らねばなるまい。田中が法案を国会で通すプロセスに、占領軍や官僚たちがどう係わったのか。たかだか五十数年前の話である。官僚の習性は、変化したのか、それとも変わらないものなのか……。

建築確認は、
1950年、建築基準法の制定に伴い、建築主の申請する「建築計画」が法令に適合するかどうかを
行政が着工前に確かめる制度として定められた。

実務は自治体に配属される公務員「建築主事」が行う。
建築主事試験の受験要件は「一級建築士試験に合格し、
建築行政実務に2年以上携わった経験を有する」等。
一級建築士の資格は「建築士法」が規定する。

ここに建築基準法と田中の議員立法による「建築士法」の強い連関性がある。

建築確認もアメリカの占領方針が日本の「民主化・非軍事化」から、
「反共の砦化・アジアの工場化」へ転換するなかで叢生した制度のひとつ、といえよう。

だが、その根を丹念に洗っていくと、
GHQが公職追放、財閥解体、地方自治と警察制度の改正を経て断行した
「内務省解体」と微妙に響きあっていることに気づく。

母体を失った建設官僚たちが、生き残りをかけて編み出した苦肉の策でもあった。

内務省が四分五裂して生まれた建設省は、いまからは想像もできないほど弱々しかった。
わけても住宅局は河川局や道路局に比べればはるかに予算規模が小さく、存在感が薄かった。
他の省庁は、旧内務省の権限をかすめとろうと鵜の目鷹の目で狙っていた。

誕生したばかりの建設省は、GHQの「虎の威」を借りる術もなく、孤立気味だった。
権限を培うには地道に法を定め、制度を立ち上げなければならない。
民主化によって、曲がりなりにも国会は国権の最高機関となった。
代議士との関係が立法の鍵を握る。

建設省は、塀の向こう側から帰ってきた土建屋議員、田中角栄に白羽の矢を立てた。

キティ台風の爪あとも痛々しいなか、
衆議院建設委員会に「地方総合開発小委員会」が設置された。

名前は小委員会だが、
建設省は、将来の日本全土を対象にした国土計画、総合開発を進める法案の骨格づくりを
この委員会に託していた。

建築基準法や建築士法など現業を細かく規定する法案整備を進める一方で、
国土計画という広大な権限を掌中に収める突破口を開こうとしていたのである。

委員長の椅子に座ったのは、31歳の田中角栄だった。
田中委員長は、2週間足らずの間に4回、小委員会を招集している。

議論は、焼け跡の再建にとどまらず、
全国的な産業復興の要である電源ダム開発、農村の工業化、行政区域の変更にまで及んだ。
田中は土木開発、資源エネルギーのエキスパートを集め、
活発な討論を導いた。

田中の意識は「復旧」ではなく「復興」、国力の増進、発展に集中している。

その復興へ一直線に突き進もうとする姿が、GHQの逆鱗に触れた。

アメリカは、お人よしではない。

現地のGHQは、日本が国力をつけることを軍事国家の再現と嫌った。

まして経済顧問のデトロイト銀行頭取、ジョセフ・ドッジの勧告で
財政金融引き締め策「経済安定9原則(ドッジ・ライン)」を示したばかりである。

ドッジ・ラインの趣旨は、インフレと国内消費の抑制だ。
日本人は耐乏生活を送りながら、輸出に励め、食べ物はなくても工場で糸を紡げ、
というものだ。
まさしく 菅の消費税増税と瓜二つだわなwwwwwwwwwww
そんな時期に莫大な資金が必要な国土開発論議に熱中するとは反逆にも等しい、と怒った。

田中は「絶対者」とぶつかった。

GHQは、地方開発小委員会の議事録をすべて抹消してしまう。
「なかったこと」にしたのである。


10月24日の衆議院建設委員会で小委員会の報告を求められた田中は、
淡々と経過報告するなかで、技師の見解に託して、次のように語った。
田中
「アメリカでは最近テネシー、ミズーリ、インペリアル河のごとく、
 河川総合開発には、洪水防御、灌漑、水力発電、工業用水、航運等、総合的に企画されている。
 ソビエトにおいても、ドニエルブル河には航運と水力とを考慮している。

 現在自分(技師)の研究している熊野川は、大阪に近く、総合的に開発してしかるべき地点である。この小鹿のダム地点は砂利層が百二十尺もあり、深過ぎるとの反対があるが、フーバー・ダムのごときは百三十尺も堀鑿しており、日本の従来の考え方が小さ過ぎるのである。また水元へ落す流域変更等は、河口の状況をよほど考えない限り疑問である。またダム築造に当たっては、同時に砂防工事を行わねば、土砂の堆積により、その機能を失い、さらに上流に被害を及ぼすものである。

 かかる観点よりして、河川の開発は
 これを一会社で行うと、発生電力の損得のみを考え、総合的に実施しないので、
 熊野川とか只見川とかの高度の開発は、
 TVA(テネシー河流域開発公社)式に
 特定の官庁で、国家の力でこれを行うことが絶対に必要である、
 との意見でありました」(国会議事録より)

よほど悔しかったのだろう。GHQへの皮肉も込めて、
国土開発は地方ごとバラバラに行うのではなく、
国家的見地から総合的に進めるべきだとの持論を口にしている。

少し話が戦前からの部分に飛ぶが 此処も入れる
日本は、三国同盟の締結を機に、
ドイツ流の国土計画を満州国に移入し、それを本国に還流させ、
さらには「大東亜共栄圏国土計画大綱素案」へと膨らませる。

しかし陸軍が牛耳るプランニングは国土計画とは
名ばかりで軍需資源の流通計画が主眼。
軍都の建設を除けば、土地の利用計画も無に等しかった。


戦時国土計画の策定機関、企画院の調査官だった酉水孜郎(すがいしろう)は、
真珠湾攻撃直前の状況を絶望的な口調で述懐している。
「私は(企画院の)廊下を歩いていてびっくりしたのは、
 これで戦争は大丈夫だというのを耳にしたのです。

 目標の計画を立てただけで安心感があったんですね。
 そういうことを田辺先生(田辺忠男東大経済学部教授―戦時国土計画の指導者)が耳にして、
 バカヤロー、というわけです。
 そんなことができるか。

 日米戦争を目前にして
 いまから石炭を集め、鉄鉱石を集めてそれを精錬して、粗鋼をつくって、
 それで鉄砲とか大砲をつくろうというわけですから
 少々に泥縄的ですね。

 アルミについても、商船隊をつくって南方から輸入するというのですが、
 そんなことができるかというわけです。

 資料が不足しているから、
 (計画も)ただたんなる予測ということになります」
(大本圭野『証言 日本の住宅政策』日本評論社)

 理論的支柱だった人物が「バカヤロー」と怒鳴った戦時国土計画は破綻した。
うん そうだよねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
つまり、あんなのは戦争ではなく 戦争ごっこにすぎない、
と言った方が正確なのかもしれないね




そして、敗戦とともに流入したのがアメリカの計画システムである。
中央集権型のドイツ方式に比べれば、アメリカの計画は「分権型」だった。

田中も言及したTVAは、アメリカ方式の典型。
世界恐慌後にフランクリン・ルーズベルト大統領がニューディール政策の一環として創設した
TVAによる総合開発は、テネシー河の流域に32もの多目的ダムを建設するものだった。

TVAの開発は、大量の失業者を吸収した。
規模の大きさでは日本の国土計画をはるかに凌ぐ。
が、しかし手法的にはあくまでも「リージョナル・プランニング(地域計画)」。
国土の部分的な開発であった。

このアメリカ方式に、
国土計画の立案を内務省から移された経済安定本部(のちの経済企画庁。内閣府に統合)の官僚たちが飛びついた。
なかでも東大電気工学科出の新進官僚、大来佐武郎は「TVA協会」なる組織を立ち上げ、
アメリカ式の開発を看板に打って出た。

だが、民主化で統治の中枢は変わっても、行政の末端、手足はすぐには動けない。
頭に体がついていけない。

そもそも連邦制国家で各州が自立的権限を持つアメリカの方法を、
領土が狭く中央と地方の関係が垂直的な日本に移植するのは容易ではない。

自給自足のドイツ学説で育った国土計画家たちには
アメリカの流儀を取り入れるのは、木に竹を接ぐ行為と映った。
「TVAだとか、
 あるいはカナダの国境のセントローレンス・シーウェイとかコロラドの水資源をカリフォルニアにもっていく
 というようなことと、
 日本の(国土計画)とは違うんです。

 日本は国全体でバランスをとろうというわけですけれど、
 アメリカは大きい国だから、地方、地方で一応バランスをとっていけばいい。
 (中略、大来たちは)行政のやり方もアドバイザリー・コミッティのような形、外に本拠を置く、
 いわゆる勧告機関のようなものをつくってやろうとしたわけですが、
 日本ではそういう前例がなくて、日本の風土に合わなくてできなかった」
と酉水は語っている
(前掲『証言 日本の住宅政策』)。
どのくらい違うのかというと 俺も知らなかった当時の日米ギャップ、
今は どうなんだろうね

GHQの将校たちの日本の行政知識の乏しさも、木に竹を接ぐ行為を更に招いた。
かれらは自国の理想は語れるが、日本の実情には疎かった。

たとえば、内務省の文書課長がGHQに呼ばれて日本の地方制度の説明を求められ、
府県の下に市町村がある、と言うと
「市町村のないところではどうなっているのか」と質問が返ってきたという。
はぁ??? ワケワカランだよねw でも次を読むと分かる

「当時のアメリカでは市町村のある区域が全国土の2%で、
 ほとんどが住民の自治組織になっていたためである。
 日本人はそんなことは知らないから、
 アメリカ人がどうしてそんな質問をするのかわからない。

 一方、アメリカ人の方は、
 日本全国が国・都道府県・市町村で組織化されていることなど、
 ほとんど信じられない」
(前掲『内務省対占領軍』)。

認識のギャップは埋めがたい。
そら あり得ないわwwwwww お互いにね
民主化を仕切るGHQ民政局(GS)は、地方分権を改革の旗印に掲げた。

すると日本の官僚たちは、日米の根本的な違いを突き、
すさまじい粘着力を発揮して権限の拡張を図った。

一例を挙げれば、
GSの指導のもと「地方自治法」が成立すると、
各省は地方事務所を増やし、より一層地方支配を強めた。

元内務省文書課長は、各省がそのような行動をとるとはGSも予想していなかっただろう
と述べている。
「(GSは)予測できなかったでしょうね。
 地方自治さえ整備すればよいということでしょう。

 これは向こうの役所セクショナリズムというのは
 日本に較べて輪をかけて強いですからね。

 おそらくGSは この地方制度をやったやつは
 地方制度さえ立派に出来ていればいいということですね。

(中略)

 それで今度は その地方制度が改革になった。
 ところが完全自治体になったんなら国家的な事務は任すことはできないというので、
 各省が皆 大がかりな事務所を作ってしまったんですね。
 商工省、農林省、運輸省、みんなですよ」
(前掲『内務省対占領軍』)
上意下達に対する恐怖に近いまでの観念が 実は下側の責任転嫁に利用される
そういう共産主義的な感覚を GHQに属する者が肌身の感覚として理解できている
とは思えないからなぁw

地方自治改革を逆手にとった官僚が権限を漁り合う渦中で、
田中角栄は国土計画法案の旗振り役になったのである。

田中は官僚の掌の上で踊らされていた、ともいえよう。
ただ、踊りながらも田中の視線は焼け跡に響く槌音、建設現場に向けられていた。

小委員会の報告を行った建設委員会で、
田中は、「建設業法」で定めた土建業者の書類届出期間を官僚が無期延期したことに批判を浴びせた。
建設業法は、野放し状態だった土建業者の資質を高め、工事契約の適正化を目的に定められた法律だ。
田中は演説する。
「御承知の通り、建設業法が建設当局より本委員会に提出されたときに、
 与党である民自党の中にも相当の反対があったのであります。

 しかし現在の日本の状態において、終戦後の国土の効率的利用という面から、
 土建業者の育成強化という問題も、当然論議の焦点にならなければならぬ。
 しかも現在まで土建業者というものが、
 屑物統制規則の中の一つのものであって、くず屋と一緒であった。
 こういうようなことでは、大きな建設工事は行われるものではない。

 敗戦の原因の一つは、建設業というものを軽視した、
 建設業というものが法律的な裏づけがなかったというところにもある。

 だから多少 建設業法に対して異論があっても、
 戦時中の統制をやるのではなく、
 建設業者の育成、国土計画の大きな一環としての建設業法の設置ということで、
 相当の反対をまとめて、建設業法が上程可決されたような次第であります。
 (中略)
 率直に私の考えを申し上げると、
 法律はよろしいが、法は常に運用する者によって その価値が決定されております。
 現在建設業法を運用しておる担当官の運用は、よろしきを得ておりません

わはwwwwwwwwwwwwwwww

31歳の田中がタイムスリップしていまに現れたら、
冒頭で紹介した耐震偽装事件後の「官の暴走」にどう対抗しただろう。
ふと そんな想いに駆られる。
一方
耐震偽装の頃の権力中枢を握っていた自公政権と清和会は 
トカゲの尻尾切りの如く その尻尾に全ての罪を擦り付けては
カネを流し落とす構造の温存へ走った。


GHQから「なかったこと」にされた小委員会は、
しかし国土開発政策を進める起点となった。

49年11月24日、国土開発を実行する「国土総合開発法案」が建設委員会で審議された。
田中は法案の弱点を突く質問を官僚に投げかけている。

まずこの法案に盛られた国土開発審議会の「勧告」に基づいて
政府や地方公共団体は開発事業を行うとされているが、
勧告は行政権を拘束するのか、と問う。

これに対して建設官僚は、勧告が行政権を拘束するわけではないが、
まったく効力がないわけでもない、と白とも黒ともつかない返答。

田中は、
開発事業が建設、農林、運輸など各省のセクショナリズムで分断され、
おまけに各都道府県が独断で予算をつけて行っているために非効率的だと糾弾し、
得意の建設行政一元化論を説く。

抽象的な議論ではなく、省庁のドコとドコを統合せよ、と具体的に語っている。

田中
「経済安定本部というものを、
 完全なる実施のデーターをつくるところの、こまかい技術的な、科学的な総合的なものをつくって、
 各省間のセクショナリズムに災いされないで、
 日本のあらゆる面の総合調整を行える機関に改編をしまして、
 その一部門として本法案が適用されるような行政機構に持って行ったらどうか、
 こう考えておるのです。
 (中略)
 仏つくって魂を入れろということです。
 (中略)
 端的に申し上げれば
 現在の建設省管理局企画課、
 それから経済安定本部の建設交通局、
 なかんずく開発課、
 もう一つ経済安定本部の資源委員会事務局、
 これに、この法律を審議された総合国土開発審議会のごときものが、
 全部一つになって この法律の裏づけをした場合、
 初めて魂が入る、
 こういうふうに私は考えております」
うわ 今の土建行政の基礎そのものじゃん 田中からできたのか

この日の田中の発言は、日本の開発行政の筋道をほぼ決定づけるものとなった。
その後、経済安定本部は経済企画庁に格上げされ、
高度成長期の開発事業を牽引する「全国総合開発計画(全総)」の立案を受け持つ。

田中は自ら政権をとると、建設行政の一元化を実行すべく内閣に国土総合開発本部を設ける。
これが「国土庁」に変わる。
田中が「仏つくって魂をいれろ」と言った方向で組織面は統合されていった。

ただし、アメリカ式の地域開発手法を採り入れながらも、
分権化は実現せず、
官僚の中央統制が強化される現実は一向に変わらなかった。

一気呵成にワンパターンで攻めるやり方は、経済成長を早めた。
しかし、大都市圏への集中を加速させ、さまざまな矛盾を生み続けているのも事実だ。
全国総合開発計画といい、地域総合開発計画といおうが、
中央政府のプラン、地方の計画、いずれにも重要な もうひとつの柱が欠けていた。
それはドイツを含むヨーロッパの「自給自足」「定住圏」に軸足を置く開発思想である。
敗戦によって、価値観がアメリカ一辺倒へ傾くなかで、
官も民も地域の共同体に安定と幸いをもたらす「青い鳥」を殺してしまったのかもしれない。

酉水は、戦後の国土計画が失ったものは「農業」と断言している。
「国際関係のなかで日本人がどんな場合にも対応できるのはなんだと思いますか。
 やっぱり、食糧において国民生活が安定していることです。
(中略)
鉄をつくって自動車をつくるとか、
そういうことが戦後の大きな課題だったわけですから、それは成功しました。
そこから、先端産業も成功しました。
だけど、いちばん成功しなかったのは農業政策です。

 (中略、東北の総合開発計画で)私が引っかかるのは、
 たとえば東北地方でも西側と東側とぜんぜん違うんです。
 岩手、青森の東部と西部ではぜんぜん違う。
 西側は相当な冷害のときでも安定しています。
 東側はしょっちゅうやられます。

 それでも減反政策をとるときは、全国一律ですね。

 その意味では、農業の国土計画はないと思うんです。
 (中略)
 つまり東北の西側の八郎潟干拓みたいなところは、専業の米作一本でやっていく。
 減反はしない。その代わり、東側のほうではできるだけ畜産に転換する。
 そうすれば、お互いに安定していくんじゃないかという考え方があるんです」
(前掲『証言 日本の住宅政策』)

 豪雪地帯の怨念を背負って政界に飛び込んだ田中に
 農業を相対化し、国土計画の根幹にすえよ、と注文するのはないものねだりだったのか……。
少なくとも そういう観点そのものは民主党政権は掲げ続けていたし
その観点をも踏まえて 農家の戸別保障制度んも有るよね

 田中はGHQと官僚に挟まれて悪戦苦闘した。占領期の法案作りを こう総括している。
田中
今の法律や制度、仕組みというのはね、
 戦後これだけ長く経った今なお、占領軍時代につくられたままのものが多いんだ。
 だから、そうした法律が制定された当時の背景や目的がわかっていないと、
 法律の運用を間違う。

 一つ一つの法律を、文面だけからの解釈で改正しようといってみても、
 議論が百出してまとまるもんじゃない。

 この法律は日本政府の原案ではこういうものであった、
 それが占領軍メモが届いてこう変わった。
 その間にこういう事態が起きたので現行法に修正されたと。
 もって如何となす、となれば議論の土台がきっちりして、コンセンサスを得られる(中略)。

 ともかく占領軍は、わが国を弱体化し細分化し、
 非戦力化するために現行憲法や多くの法律をつくって、
 日本政府に呑ませたんだ。

 にもかかわらず、
 戦後、幾星霜を経て、わが国は世界でも指折りの経済大国に発展した。
 これはね、日本人が強い同属意識をもち、
 英知と努力によって現行憲法や占領時代につくられた諸制度・諸法規を消化して、
 わが国の風土に定着させたからなんだ

(前掲『早坂茂三の「田中角栄」回想録』)

「国土総合開発法」制定の目処が立つと、
田中は、より具体的な建築関連法案の成立に向けて縦横無尽に駆け巡る。

自ら法案の提出者となる「議員立法」は、田中の武器になった。
けれども
その陰には田中に法案を預ける官僚たちの権謀術数もまた隠されていた。

田中角栄を歩く 第6回 占領軍と官僚の狭間で……(後編) 都市の魔性| Web草思
 田中角栄は生涯に46件の法案を議員立法で提案し、33件を成立させた。31歳から36歳の「下積み時代」に何と26件もの法案を提出している。党幹部、閣僚として深く係わった法案も含めれば、田中の尽力で日の目を見た法律は120本を越える。他の政治家が足元にも及ばない数である。
 戦前、戦中の明治憲法下では立法権も天皇に属しており、帝国議会は協賛機関にすぎなかった。実質的に立法権を握っていたのは藩閥、政党、軍部と結びついた官僚と特権階級だった。だが、敗戦を機に新憲法が公布され、主権在民、国会は立法の府に変わる。その気になれば国会議員は誰でも法案を提出できるようになった。
 「一土建業者」だった田中がこれだけの議員立法をものにした。彼が戦後民主主義の申し子といわれる所以である。
 と、教科書的にはひとまず説明できるだろう。
 しかし、冷静に考えれば、いかに田中が天才的な洞察力を発揮し、虐げられた民衆の怨念を背負って復興から建設へと情熱をたぎらせたにしても、ひとりで法案が作れるはずもない。建設委員会で「国土総合開発法(閣法)」の旗振り役となった1950年には「首都建設法」「建築士法」「京都国際文化観光都市建設法」「奈良国際文化観光都市建設法」を議員立法し、「住宅金融公庫法」「建築基準法」の立案にも首を突っ込んでいる。土木、建築に関する法律にはどん欲に片っ端から手をつけた。
 法案づくりは神経をすり減らす作業だ。過去の厖大な法令集を引きながら「又は」の一語をどこに入れるかにも脳漿をしぼる。「and」か「or」か、で大激論となる。法案策定のプロである官僚の手を借りなければ、とてもまとめきれるものではない。
 田中に議員立法が集中した背景には、GHQと向き合いつつ、法律をテコに自己増殖を狙う建設官僚たちの思惑があった。
その辺りを 小泉 竹中 財務省 という風に重ね合わせながら コイズミカイカクを眺めれば
何故に小沢が議員立法を止めさせる という所まで突き進もうとしたか が読み解ける。
どんな制度やシステムや機構や機能も 完全無欠ではない、必ず後から悪用される時が来る。
それを しっかりと見極めればこそ 止める時は止めなければならない。

当時、建設省住宅局企画課課長補佐として公営住宅法案を立案した川島博は、あきれるほどあっけらかんと田中に議員立法を依頼した理由を語っている。以下、『証言 日本の住宅政策』(大木圭、日本評論社)所収の発言より抜粋してみよう。
 「議員立法であれば内閣法制局の厳重な審査ではなくて、衆議院法制局の簡単な審査ですむし、時間も比較的かからない。なによりもGHQがノーマークでフリーパスにしてくれるんです。そこで田中角栄氏に頼んだんです」
 「(田中角栄は)土建屋ですから建設行政に理解があったのです。」

「あの人(=田中角栄)に頼めば早いから。そこで各党にわたりをつけて、野党の頭もなでて、全会一致ということにしてもらったわけです。共産党もたしか賛成したはずですよ。要するに国会のまとめ役には最適だったんです」
 つまり建設省と厚生省との調整がつかず、政府案としての法案を出せない。そこで田中に頼む。田中は貧困層への住宅供給を党是とする社会党に参議院で花を持たせて可決させた、というわけだ。三十そこそこで老獪なまでの調整力を身につけていた。裏でカネが動いたのかどうか……そのあたりは定かではない。

 議員立法はGHQの受けもよかった。大統領制の米国では政府に法案提案権がなく、立法権は上下両院に委ねられている。議員は法案を提出するのが仕事である。議員立法こそ「本筋」の考え方が根強かった。議院内閣制で近代化を遂げた日本とは「歴史的現実」が大きく異なっていた。占領下ではGHQの目が光っていて法制化の仕事がやりにくかったのではないか? との質問に川島は次のように答えている(「前同」)。
ところがw
「逆です。アメリカは大統領制のもとにおける議員優位主義のお国柄から、およそ政策というものは議員が立法化を行って、それにもとづいて公務員は忠実に実行する。これが正しい民主主義国家のあり方だという慣行がある。そういうアメリカの思想から見ると、日本はあまりにも法律が少なすぎる。だからアメリカはむしろ法律をつくることを奨励したわけです、それも議員立法の形で。
 ところが、日本の議員にもスタッフにも、残念ながら立法能力がない。それで戦後あわてて(経済)安定本部から派遣された職員で調査部を各委員会ごとにつくったわけですが、その職員たるやなにしろお茶くみというかクラークみたいな人ばかりで立案能力がない。それで政府各省のベテラン事務官が中心になって立案全部をやったんです」

 田中は議員立法に忙殺された。

「角さん、ガリ版切ってよ」と官僚に頼まれ、
「よっしゃ、よっしゃ」と額に汗を浮かべ、ちょび髭をヒクつかせながら謄写版に向かう。

官僚が作成したメモを見ながら、鉄筆で原紙に一文字、一文字、草案を書き込んでいく。
ガリ版刷りの原案ができると、GHQに走る者、各省折衝に向かう者、法制局に持ち込む者
と官僚たちは四方八方に散る。
そこでまた、脳みそをキリでうがつような駆け引きが展開され、手直しに次ぐ手直し。
ひとつの法律を改正するにも文学全集を出すほどの作業量が生じた。

 そのなかで、田中は脂汗を滴らせながら、じっと官僚という生き物を観察した。

こいつらは頭脳が肥大した化け物だ。
明治維新の太政官布告以来、国家経営のノウハウが年代別、項目別に整然と頭のなかに叩き込まれている。
まるで動く図書館のようだ。
スイッチひとつ押せば、法律の背景から及ぼす影響までたちどころに回答が出てくる。

こいつらをどう使いこなせばいいのか。
田中は官僚に利用されながら、立場を反転する機会をうかがった。
やつらに信頼され、やつらを働かせるには何をすればいいのか……。

政治家、いや人間の情を操る叩き上げの経営者としてのひとつの回答が
「体を張る。泥をかぶる」ことだった。
52年、角栄はGHQを相手に最後の大喧嘩を吹っかける。

 「電源開発法」の議員立法である。

この法律は、火力や水力の発電施設を整備して、
「産業のコメ」である電力の供給を増やし、産業の振興を図る目的で立案された。

ところが、朝鮮戦争の勃発で日本の軍事的、経済的存在価値が高まりつつあったが、
GHQは真っ向から反対した。

すでに再軍備の潜在的脅威となる重化学工業や精密機械工業を
賠償施設として東南アジアに移す方針を打ち出していた。
軍需産業に転換できる基幹産業の振興には難色を示す。

田中は「公職追放するぞ」と脅かされながらも占領軍に抵抗した。
御大・吉田茂のバックアップを受け、重工業の振興は経済発展のためであり、
再軍備とは無関係と言い切って法案提出にこぎつける。

時勢は田中に利した。
七年に及ぶ米軍の占領が、52年4月、サンフランシスコ講和条約の発効で終止符を打った。
ようやく日本は独立する。
その年の7月、電源開発促進法は成立し、
政府出資の特殊法人「電源開発株式会社」が設立されたのだった。

電力不足の解消に向け、一気に大規模なダムの建設が進む。
佐久間ダム(56年)、田子倉ダム(59年)、奥只見ダム(60年)、御母衣ダム(61年)と
水力発電ダムが操業を開始。

政官財の癒着による大疑獄も持ち上がる。
石川達三の長編小説『金環蝕』(岩波現代文庫)には
ダム建設にまつわる野望と欲にまみれた人間の姿、政治腐敗、国費の濫費が鮮やかに描かれている。
経済発展の「光と影」のコントラストは、より一層強くなった。

50年代半ばから70年代初めの石油ショックまで、
工業発展に伴う電力需要は急拡大し、いつ電力不足、停電が起きても不思議ではなかったが、
安定供給が維持された。
電源開発法が経済の高度成長への発射台となったのは間違いないだろう。


「役人たらし」角栄

角栄は一瞬たりとも立ち止まらない。
「攻撃は最大の防御」を信じて疑わない。電力供給の見通しが立つと、新たな狼煙を上げた。

「ともかく、電力拡大のめどはついた。
 それでは、次に、敗戦で崩壊した日本経済を復興させ、
 自立から成長に向かって牽引車になるものは何か。

 交通網である。

 明治以来、わが国の国民総生産は鉄道の建設テンポにだいたい比例して拡大してきた。
 鉄道に次ぐ第二の交通網は道路だ。道路とともに経済は発展する」

田中は、道路法を改正した。
大蔵省の反対を押し切って、道路の有料化、ガソリン税の導入で財源を確保。
ガソリン税の導入では100日間の長期審議を、ほとんど一人で受けて立った。

54年からの10年間、日本経済は平均10.4%の成長率を示した。
これは、道路費の伸びにほぼ比例している。
まさに道路とともに経済は発展している。
攻めに徹したときの角栄の空恐ろしいほどの力強さを物語る数字である。

そして、国土開発関連法案の策定を切り盛りするうちに田中は官僚を使いこなすコツをつかむ。
いつの間にか立場は逆転していた。

23年間田中の秘書を務めた早坂茂三は、
インタビュー(『戦後国土政策の検証・下』総合研究開発機構)に応えて
「オヤジ」の官僚操縦法を次のように要約している。

「役人の目線の高さは、いつでも現行法体系の枠の中に閉じ込められている。
 そしてこれを超えようとする役人は危険な役人だ。

 ではどうするか。
 政治家が鳥になって、地べたから上に飛んで、上から下を見て、鳥瞰的、俯瞰的に全体を見渡して、
 政治の進むべき方向を具体的に、簡潔に、明快に、
 一点の誤解の余地もないように役人たちに示すことである。
 そうすれば、役人たちが一気に動き出す」

 「ふたつ目は、
 日本の役所は世界に冠たる割拠主義、セクト主義の総本山である。

 横の連絡ゼロ。
 省あって国なし、局あって省なし、課あって局なし、
 これが日本の役人だ。

 だから、連中を結びつけていくのが政治の役割だ」

 「役人の属性の三番目は、
 とにかく自分の経歴に瑕疵がつくこともいやがる。
 だから、役人に思い切って仕事をさせて、
 失敗したときの泥は全部、政治家がかぶる。
 これを保証すれば、彼らは動き出す」

田中の通産大臣時代(71年)、秘書官として付いた小長啓一(元通産事務次官・アラビア石油社長)は、
当時をこうふり返っている(『前同・下』)。
「あの頃、田中さんとの付き合いで、
 毎朝6時頃田中さんは起きて業界新聞を含めて7,8種の新聞を全部目を通していて
 ──私どもが秘書官として田中さんの家へ行くのは大体7時半頃だったですけれども、
 全部の新聞を読んでおられましたから、
 一面トップに通産関係でこんな記事が出ておったけれども、
 これはどういうことかねといきなり聞いてくるわけです。
 こっちはまだ読んでなかったときもありましてね。

 だんだん、これはということで私も7種類くらい全部とりまして、
 車のなかで全部読みまして、田中さんと会う前に一面トップで変なのが出たりしますと、
 担当局の責任者に話を聞いて、
 あらかじめタマを仕込んだうえで田中さんと会うと。

 そのへんで田中さんと付き合う要領を覚えまして。

 それから、長々と説明しちゃいかんと。
 三つの、1、2、3というくらいで要点を絞ってやる
 という手順もその頃、覚えさせられました」

田中は秘書や官僚の報告に厳しい注文をつけた。
早坂は
「いつも紙一枚、その一番はじめに何々の件と案件名を書く。
 その次に対応を簡潔に書く、
 それから最後に理由を三つ、箇条書きにして書く。
 角栄は、どんな案件でも必ず理由は三つ存在する、
 またそれ以上の理由は必要ないと言って、われわれは厳しくしつけられたもんです」
と述べている。

一般からの陳情や政局運営、選挙、政策立案と
厖大な案件を瞬時にさばいた角栄コンピューターは、
「要点を簡潔に、理由は三つ」という独特の情報処理方法を貫いたようだ。
「ミスター全総(全国総合開発計画)」と呼ばれた建設官僚、下河辺淳(元国土政務次官)は、
仕えた歴代総理のなかで吉田に次いで田中が面白かったと回顧している。

「岸さんとか、池田さんとか、佐藤さんというと、官僚にわかりやすい話なのです。
 それだけに、おもしろさを感じないのです。
 非常にきっちりとした政策論だし、六法全書に対して忠実ですし、

 それに対して田中さんとか吉田さんは、
 やりたいなら法律をかえればいいという人たちだから、
 随分ニュアンスは違うかもしれません」
(『戦後国土計画への証言』日本経済評論社)。

 田中は人後に落ちない「役人たらし」となった。
何故に 財務省とコイズミ一派の結びつきが切れないか
それは 理や論だけなものではない
官僚にしてみても 仕事のしやすさという点では 民主政権より小泉政権の方が上だった
という観点は あり得ない話なのだろうか とも思ったりもする。
それが良いにせよ悪いにせよ ね。
つまり官僚を敵に回し過ぎるは やはりキツイんだよね。

そう思うと 今の民主政権の鳩山政権時の閣僚たちは 各々に
 そういう観点では かなり良くやっている と つくづくに思う。



 田中が「天下盗り」を意識したのはいつだったのか?
 生前のかれを知る人たちに尋ねても、あるいは汗牛充棟の田中文献を当たっても、明確にそのときを画するのは難しい。本人も語っていない。あれよ、あれよという間に政権の座に駆け上っていた、というのが大方の見方である。
 おそらく、39歳で岸内閣に郵政大臣で初入閣し、NHKのラジオ番組に出て「賭場に小判が乱れ飛ぶー」と浪花節をうなってミソをつけた頃は「天下盗り」など考えてもいなかっただろう。

 66年12月、自民党を中心に発覚した「黒い霧事件」の余波で田中は幹事長を更迭される。久しぶりの浪人生活である。党内の同期議員たちが、角栄を遊ばせておくのはもったいない、あいつは国土政策面で議員立法の経験がある、これを機に党内で田中を先頭に体系的な具体策をつくってはどうか、と声を上げた。

 秘書の早坂が、そうした党内の動きを角栄に伝えると、「よし、そのとおりだ。建設省の下河辺を中心に活きのいい役人を二、三十人集めろ」と号令が下った。ほどなく東京・平河町、砂防会館四階の田中事務所に官僚たちが集合した。田中は、一切メモも見ず、これまでの国土政策の流れと今後の政策課題について四時間ちかく滔々と弁じた。田中は独演会のなかで「過疎と過密の同時解消」「水は低きに流れ、人は高きにつく」と何度もくり返した。あの濁声が響き渡る。

田中
「地方の過疎、都会の過密、これはつながっている。いっぺんに解消せねば、手遅れになってしまう。ね、諸君もわかっておるだろう。水は低きに流れ、人は高きにつく。いいか、社会資本が整備され、環境が整った高きところに人は住むのだ。同じ日本人に生まれながら、東京に住んでいる人と北海道に住んでおる人に差があってはいかんのだ。東京では、真冬に酔っ払って道に寝転がっていても、救急車がきて助けてくれて、ひと晩、どこかで介抱されるかもしれん。翌日には身体安全で解放されるだろう。まぁ、お灸のひとつ、ふたつはすえられるだろうがね。しかし、同じ人間が、北海道で倒れていたら救急車は来てくれず、凍死する。それではダメだ。日本列島どこにいても、シビルミニマム(市民レベルで維持すべき最小限度の生活水準)が整っていなくてはならない。
 そうでなければ、東京へ、東京へ、集中現象は加速して、将来的には東京は高齢者人口のたまり場になる。そうなれば、社会保障負担からも耐えられなくなる。過疎、過密の同時解消をすべく、思い切った国土政策を断行しよう。諸君は、全身全霊、知恵を絞って打ち込んでくれ。全責任は、わしが持つ」
政治手法の手腕の力は別にして
その政治姿勢そのものは 今の民主党の大勢との差は 殆ど無い。


 67年3月、自民党都市政策調査会が発足した。与党が都市問題に本格的に取り組んだのは、このときが初めてだった。喋りだしたら止まらない田中会長は、早坂たちの配慮で最初と最後の総会にだけ顔を出した。その間、共同通信政治部記者から田中の私設秘書に転じた麓邦明と早坂が、おびただしい数の分科会に出席し、オヤジに代わって国会議員たちの質問に答えた。
 翌年2月、砂防会館に小型トラック一台分の資料が運び込まれ、麓と早坂は草稿執筆にとりかかった。徹夜に次ぐ徹夜。ふたりは63回、草稿を書き改め、眼底出血と血尿に悩まされながらまとめ上げた。5月、約6万語に及ぶ「都市政策大綱」が発表された。国土建設をライフワークとしてきた田中にとって「都市政策大綱」はひとつの到達点であった。
 その骨子は大きくわけて、次の5項目から成り立っている。
 (1)「新しい法体系と中央行政機構の設置」。(2)「職住近接の原則に基づき、立体高層化で都市を再開発」。(3)「広域ブロック拠点都市の育成」。(4)「国土改造の資金確保のための国民全体の資金と貯蓄の活用」。(5)「公益優先の基本理念のもとに土地利用の計画と手法を確立」。これらの項目のなかで、(5)の土地政策は、自民党の政策案としては画期的なものだった。公共の福祉の前では私権制限もやむなしとの考え方が盛り込まれたのである。5月28日付けの朝刊各紙は、一斉に都市政策大綱を報じた。とりわけ朝日新聞は、一面トップで要旨を紹介したうえに社説で「自民党都市政策に期待する」と持ち上げた。

「……『過去二十年にわたる生産第一主義による高度成長が、社会環境の形成に均衡を失い、
 人間の住むところにふさわしい社会の建設を足ぶみさせた』と反省し、
公益優先の基本理念のもとに、各種私権を制限し、公害の発生責任を明確にした
ことなど、これまでの自民党のイメージをくつがえすほど、
率直、大胆な内容を持っている。
(略)
むろん個々の政策についてはいろいろな批判がある。一例をあげれば過密と過疎を同時解決するために、都市再開発と地方開発を並行的に実施しようとしているが、大都市集中を強く抑制することなしに、都市問題が解決するのかという点である。(略)また民間デベロッパーに利子補給や融資を行って、都市改造をやらせるといっても、いまの不動産業者が、公益優先的立場にたって動いてくれるのかどうか……(略)。われわれは、政府・与党が勇気をもって実現に努めることを期待する」


秘書の早坂は、この朝日の社説を見て「勝負あった。これで勝った」と快哉を叫んだ。
土建屋角栄が、一皮もふた皮も向けた新感覚政治家のイメージをまとったのである。
田中自身が「天下盗り」を強く意識したとすれば、
この都市政策大綱が発表されたときではなかったか。

現実の「天下盗り」まではさらに4年ちかくの歳月を要するが、
権力の座に手をかけた角栄は早坂に
「都市政策大綱は抽象的すぎた。もっと一般の人にわかりやすくして、
 俺の名前で本にしろ」と命じる。
それが田中の一枚看板ともいえる「日本列島改造論」へとつながる。

 都市政策大綱は、紛れもなく田中の「天下盗り」の起点になった。

と同時に国土建設に突き進んできた田中が、
都市の魔性「土地問題」にとり憑かれる契機にもなった。

早坂は語っている。
「都市政策大綱を報告する際には、土地政策のくだりについて、
 角栄は大変、嫌がったね。
 もともと角栄は土地政策なるものが苦手であった。

 特に、公共の前に私権は譲らねばならない、公益優先という考え方
 には反発を示してました。


 しかし、公共事業を実施するには用地買収費が高いことがネックになるということで、
 我々が必死に説得して、最終的には納得させました」
(『戦後国土政策の検証・下』)。

 土地を開発して巨大な権力を手にした田中は、日本列島改造論をひっさげて政権を奪取する。しかし公的なコントロールの利かなくなった土地の値段は、火の粉を吹き上げて舞い上がる。やがて土地の魔性にとり憑かれた田中は、権力の座から転落する。
 土地に始まり、土地に終わった。
 日本列島改造論が描いた夢と、その失敗の間に横たわる土地問題とは、いったい何だったのだろうか。


→ 誠天調書: 田中角栄から 今の民主政権を読む 3 へ続く



posted by 誠 at 05:03| Comment(0) | TrackBack(0) | (゚∀゚) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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