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2010年08月24日

日本人を150年間も騙し続けた連中の正体。
赤松小三郎と坂本龍馬を暗殺した者達と その末裔達が支配する日本。

誠天調書 2010年08月20日 「民主主義的でない」と思われている方法が「民主主義を強くする」唯一の方法となる
誰も言わない龍馬伝 (田中良紹の「国会探検」)
やはり この話の続きを追わなければなるまい
 ↓
http://plaza.rakuten.co.jp/tanpakumeisi/diary/201008200000/
書評: 江宮隆之著『龍馬の影 −悲劇の志士・赤松小三郎』河出書房新社、2010年1月刊
まずはプロローグに この記事を

いつの日か誰かが書いてくれるだろうとは思っていたが、ついにその日が訪れたのである。

 著者の江宮隆之氏は、赤松小三郎という、薩摩藩の陰謀によって歴史から抹殺された悲劇の天才学者 ―数学者であり、科学者であり、兵学者であり、蘭学者であり、英学者であり、そして何よりも、日本で初めて出身に囚われない民主的議会制度の創設を幕府に対して建白した政治思想家であった― の生涯を、歴史の闇の中から救いだしてくれたのだ。

 よほどの歴史好きでもその名を知らない赤松小三郎を主人公とした、初の一般向けの歴史小説である。この人物が広く世に知られる契機を生み出してくれたという点で、これが書かれた意義はあまりにも大きい。私は、赤松小三郎と同じ信州上田の出身者として、一人でも多くの日本人にこの本を読んでもらいたい、心からそう願うものである。また、上田の人間として、著者の江宮隆之氏に心からの感謝の気持ちを表明したい。

 この小説は、1864年9月11日、第一次長州征伐戦争の最中に行われた勝海舟と西郷隆盛の会談から書き起こされる。そして小説は1868年3月14日、新政府軍による江戸城総攻撃を前にして行われた歴史的な西郷=勝会談で幕を閉じる。
 その二つの西郷=勝会談の章のあいだで、勝海舟と赤松小三郎の、そして西郷隆盛と赤松小三郎のあいだの数奇な、そして残酷で悲劇的な関係が描かれている。
 
 小説のタイトルは『龍馬の影』だが、当の坂本龍馬はほとんど出てこない。しかし、坂本龍馬が起草したとされる「船中八策」は、赤松小三郎が、幕府顧問の松平春嶽に提出した上下二局の民主的議会制度の開設を求める建白書『御改正之一二端奉申上候口上書』を、そのまま箇条書きにしたものであるという事実は明らかにされる。

 赤松が構想した二院制議会は、定数30人の上院こそ公卿と諸侯と旗本から構成されるという内容であったが、定数130人の下院は各藩を選挙区とした普通選挙によって議員を選出するという内容であった。これこそ、我が国において初めて時の政府に提言された民主的な議会制度の設立建白書だったのである。本来であれば、高校日本史の資料集にくらいは載ってもおかしくない文書なのだが、何故か無視されている。坂本龍馬の「船中八策」は、この要約版のレジュメのようなものである。

 赤松小三郎がこの建白書を松平春嶽に提出したのが1867年(慶応3年)5月17日、そして長崎から船で上洛の途上、龍馬が後藤象二郎に提示したとされる船中八策は、文書化されたのは上洛の後、6月15日の京都の酢屋においてであった。この間に、誰かの手によって小三郎の建白書は龍馬に見せられていたのではないか? 著者は断定していないが、そのような推測が成り立つと言っている。その理由は、「上下議政局」という訳語を含めて、あまりにも両者が似ているからである。

 赤松小三郎を幕末維新史の中に正当に位置付けようとすることは、幕末維新史の書き換えにもつながろう。「船中八策」の由来といったレベルに留まる問題ではない。

 例えば、薩摩閥が主導した日本海軍の合理主義的精神の由来である。幕末の段階では、長州藩の方が自由闊達でリベラルな雰囲気が支配しており、薩摩藩の方は頑迷・固陋な保守的な性格が濃厚である。しかし明治になると、長州閥が支配した陸軍が次第に非合理な精神主義と形式主義に毒されていくのに対し、薩摩閥が支配した海軍は、陸軍に比べればはるかに近代的で合理的な思考が支配するようになっている。これは幕末における薩長両藩の性格を知る者にとっては、ある種の奇妙な逆転現象に思える。

 赤松小三郎の存在は、その理由の一端を説明するかも知れない。東郷平八郎、樺山資紀、上村彦之丞など明治海軍の重鎮たちは、いずれも京都の薩摩藩邸において赤松小三郎から英国式兵学を叩き込まれた赤松の門弟なのである。卓越した数学的能力に裏打ちされた、徹底的に合理的で計算づくの戦術論を、前途有為な若き薩摩藩士たちに教え込んだのは赤松小三郎だったのだ。そして、薩摩の恩人である赤松を暗殺したのも薩摩であった。



勝海舟と赤松小三郎の師弟関係
 
 これも謎が多い。著者の江宮氏は海舟には好意的な書き方をしている。勝海舟と赤松小三郎は共に長崎海軍伝習所の設立から閉鎖までの4年を、そこで学び、苦楽を共にした。龍馬と海舟の比ではないくらい、海舟と小三郎の師弟関係は深いのである。身分の低かった小三郎は、正規の伝習生(学生)にはなれず、「組外従士」、つまり師である勝海舟の従者のような形で、ようやく参加できたのである。

 著者によれば、勝海舟のオランダ語能力では、とても海軍伝習所のオランダ人教授たちとの議論を単独で十分にこなすことはできず、卓抜した語学能力を持つ赤松の通訳を必要とした。また航海術や測量術などの授業も海舟の知識ではついていけず、赤松の数学や科学の知識による補佐があってはじめて理解することができた。海舟は実際に、長崎に行くまで掛け算、割り算も満足にできなかったというから、この著者の小説上での解釈には、「さもありなん」と思うのである。この説にも、真剣な歴史学的検討が必要であろう。

 小説の中で、勝海舟はオランダ人教師のカッテンディーケを夜な夜な訪れて、「国民国家とは何か」などヨーロッパの政体と歴史について聞きとっていく。この際も、いつも勝の傍らにいて逐一通訳したのは小三郎であった。

 小三郎は長崎にいた4年間でオランダ語の原書を74冊も読破し、さらには他の伝習生たちの学習を助けるために何冊もの翻訳も手がけている。疑う余地なく、幕府が派遣した正規の伝習生たちに比べ、勝の従者でしかない赤松の能力の方が卓越していたのだ。正規のエリート伝習生たちが、授業のあまりの難解さに根をあげて、長崎の遊郭に入り浸るようになる中、小三郎は黙々と航海術の習得と蘭学研究に打ち込むのである。

 小説では、長崎海軍伝習所が閉鎖された際に、小三郎と海舟の師弟関係は、ある一点において思想的に相いれなくなり、いったんは断絶に近い状態になった。小三郎から見れば、長崎時代にはさんざん利用するだけ利用されて、勝からお払い箱にされた感じなのである。咸臨丸の渡米の際も、咸臨丸の操縦にもっとも熟達していたのが小三郎であるにも関わらず、そして小三郎は蘭語のみならず英語も理解するという稀有な能力を持っているにも関わらず、海舟は小三郎を咸臨丸に乗船させてくれなかった。小説では、咸臨丸への赤松の同乗を、勝が幕府に必死に懇願したにも関わらず、幕府から拒絶されたことになっている。この辺も実際の真相は分からない。

 小説では、その後、神戸海軍塾が閉鎖され、龍馬たちと別れて失意のうちに海舟が江戸に蟄居していた際、小三郎が海舟の自宅を訪れて関係が修復されたことになっている。しかし、この辺の真相は実際のところどうなのであろう? 小三郎が海舟を訪れたことは、海舟の日記に現れるので事実であるが、両者の関係は本当に修復されたのだろうか?
 
 海舟は、明治になってから、龍馬に関しては比較的多く語っている。しかし小三郎に関しては黙して語らずであった。卓越した頭脳の持ち主であった小三郎について語ることは、自分の恥の部分をさらすことにもなり、あまり語りたくはなかったのではなかろうか。海舟が小三郎について語らないこともあって、松浦玲氏のような非常に優れた勝海舟研究の第一人者でさえ、赤松小三郎の存在には注目していないのである。そして、小三郎は歴史の闇に葬られたままとなってきた。

 この本はあくまでフィクションも交えた一般向けの小説であるが、著者が突き付けた問題提起は奥深いのではないだろうか。今後は、歴史学者の手による本格的な赤松小三郎の研究書の出版も期待したい。
 死後142年がたっても、まだ赤松小三郎が日本史上に正当に位置づけられることはない。赤松の悲劇は、死後もなお続いている。著者は次のように言う。「小三郎は、龍馬の二歩も三歩も先を歩いた。しかし、歴史の神は、龍馬にはスポットライトを当てるが、小三郎にはピンライトさえ当ててはくれない」
歴史の神?w
神と同異議な権威を背景に 情報を改竄し続ける連中ならゴマンと知ってますがねw


赤松小三郎に光を @

 赤松小三郎暗殺事件の真相を明らかにし、赤松の業績を正当に評価し、その名誉を回復することは、単に、歴史オタクの「埋もれた人物発掘」というような次元の話にはとどまらない。日本という国の近代の「始まりの始まり」を問い直し、近代日本が原罪として背負ったもの ―それは結局のところ、靖国神社の建設と愚かな15年戦争へとつながってしまうところの原罪であった― を明らかにすることにもつながると思うからだ。そしてその原罪は、今に至るまで、住民を排除しながら行われる密室政治や、目ざわりな異論は恫喝によって黙らせるといった、永田町や霞が関の「文化」となって引き続いている。
 新しい「維新」を起こすためには、前の「維新」の、そもそものつまづきの元を明らかにする必要があるだろう。
 私の中には、赤松の「無念の想い」が宿っている。まず以下のことをどうしても書かずにはいられなくなった。

 今から22年前。私が、京都に移り住んだ当初、ヒマがあれば史跡めぐりをしていた。下宿をはじめて2〜3日後だったと思う、少し身の回りが落ち着いてきたので、夕暮れどきに、下宿の近くの黒谷の金戒光明寺を訪ねてみた。

 山門脇の参道に立派な石積みが連なっているのを見て圧倒される。「これが会津藩の本陣があった金戒光明寺かぁ。さすがに、これは『寺』というよりはちょっとした城郭だなぁ」と感心しながら、城の大手門のように立派な山門をくぐり抜け、境内に入った。
 「あ、あんなところに三重塔がある」。境内の一番高いところには文殊塔という重文の塔があり、そこに自然に引き寄せられていた。夕焼けを浴びて三重塔は紅く染まっていた。幻想的な光景だった。次いで、鳥羽伏見の戦いで戦死した会津藩士たちの墓地を見つけたので、そこに足を運び、黙祷を捧げた。

 その帰路のことである。会津藩墓地からの下り坂を下りてくると、何か磁場のような、私を呼びとめるような何かを、確かに感じた。その、何かを感じた方向を見たら、そこには何と「赤松小三郎墓」と書いてあったのである。
 「えーっ、何でこんなところに赤松小三郎の墓があるんだ!」
 びっくりしたなんてもんじゃなかった。私は赤松と同郷の上田の人間なので当然、中村半次郎(桐野利明)に斬殺され、無念の最期を遂げた郷土の偉人を知っていた。しかし赤松の墓が金戒光明寺にあるという知識は全くなかった。自然に引き寄せられて、気がついたら墓石の前に立っていたのだった。
 私は合掌して墓石を拝んだ。すると、「無念だ、無念だ」という赤松の声が聞こえたような気がした。

 墓石の壁面に書いてあった墓誌を読んだ。判読しにくかったし、私の能力では、全文を理解することはできなかった。しかし、赤松を暗殺した当の薩摩藩がこの墓石を建て、赤松の業績をたたえ、「赤松が暗殺されて残念で仕方ありません」といった破廉恥きわまりない弁明をしていることは容易にわかった。「こいつら、しらじらしいなー」と怒りがこみあげてきた。

 それにしても、何でこんなところに赤松の墓があるのだろう? ここは会津藩の本陣。ということは、薩摩にとっては敵の陣営ではないか。何で敵の本陣の中に、薩摩が墓を建てられたんだ??
 あ、そうか赤松が暗殺された時点では、薩長同盟はまだ極秘であり、薩摩も表面的には会津とは敵対していないことになっていたのか・・・・。しかし、会津藩の側は薩摩の様子がおかしいとは感じなかったのだろうか? だとしたらノンキなものだなあ。
 それにしても薩摩藩め、しらじらしいなあ。再度、怒りがこみあげてきた。やはり、こんな破廉恥なことを平気でできる連中がつくった「新政府」なんて、最初からろくなもんじゃなかったのではないか、そう思わざるを得なかった。

 墓石は剥離しかかっていて、それを抑えるためか、何重にも鉄線が巻かれていた。痛々しいなんてもんじゃなかった。まるで誰かが、赤松の無念の魂が解き放たれないように、鉄線で巻いて封じ込めようとしているかの如くであった。
 墓石の下の赤松が「ここから出してくれ」と訴えているような気がして、自然に涙があふれてきていた。死してなお、鉄鎖によって呪縛されている。何てかわいそうなのだろう。

 私は、地下の赤松小三郎に呼び寄せられてここに来たのだ。 ――そうとしか解釈しようのない不思議な感覚だった。
 「赤松小三郎の名誉を回復するために、自分に何ができるのだろう?」
 自分は理系だったので歴史学者になどなれるわけもないし、赤松を主人公にした小説を書こうと思っても文才は全くないし・・・・・。
 目の前で「無念だ」と叫んでいる赤松の霊を前にして、私は何をしてあげることもできない・・・そう思って途方にくれた。日はドップリと暮れて、あたりはもう暗くなっていた。私は赤松の墓石に向かって30分以上も対話をしていた。

 「私はあなた様のような優れた才能を持たないけれども、あなた様の同郷人として恥ずかしくないよう、精一杯学問に励みます。今の私では何もできません。学成り、何がしかの人間になったら、あなた様の名誉を回復するために何かができるかも知れません。それまでどうか待って下さい。今はお許しください」
 心の中で、墓石にそう語りかけて、その場を辞したのだった。

 ああ、できることならば、薩摩が造った欺瞞の固まりのような墓石の中から、赤松の遺骨を救い出してあげたい。赤松の遺骨を取り出し、あらためて供養し、故郷の上田の月窓寺にある赤松の遺髪墓へ再埋葬してあげたい・・・・・。薩摩の汚らしい陰謀で塗り固められた墓石の中では、いつまでたっても小三郎の霊は成仏できないだろう。
 
 あれから22年。作家の松宮隆之氏が赤松小三郎を主人公とした小説『龍馬の影 −悲劇の志士・赤松小三郎−』を出版したのを書店で見つけ、手にとるなり涙があふれてきたのは、このような原体験があったからだった。

 何故か、プロの歴史学者たちは赤松小三郎に冷たいように見える。いまだに、上田地方の郷土史家を除けば、歴史学者は赤松を題材にした論文もろくに書いてくれないし、いわんや赤松小三郎の評伝が書かれることなどないのである。

 ネットで赤松小三郎について検索すると、非歴史学者の在野の方々で、事件の真相をつかみ、赤松の業績を評価し、その死を惜しんでいる方々が多いことがわかる。やはり、分かる人には分かるのである。



赤松小三郎に光を ―その2
以下は非常に細かく記述されている。
幕末〜明治大正昭和平成の近現代史を書き換えるに充分で重大な要素が含まれているので
丁寧にリンク先一つ一つを追っていくべき と極めて強く推奨する。

 「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  1 鏡川伊一郎

 慶応3年9月3日の夕刻だった。赤松小三郎は洛中で暗殺された。ちなみに大政奉還の40日ほど前、さらにいえば坂本龍馬暗殺の70余日前の出来事となる。

 東洞院通りの現和泉町辺りで、赤松は前に立ちふさがった刺客のひとりと対峙する。刺客が抜刀したから、とっさに懐のピストルに手をやったが間に合わなかった。左肩から腹にかけて太刀をあびた。よろめくところを後ろから別の刺客がなぎはらうように斬った。倒れたところを、ふたりの刺客がそれぞれとどめを刺した。

 前から襲った刺客が薩摩藩士中村半次郎、のちの桐野利秋、後ろから斬りつけたのが同じく薩摩藩士田代五郎左衛門である。

 なぜ暗殺の状況がわかっているかというと、当事者の中村半次郎が日記に克明にそのときのことを書いているからである。

 奇妙な克明さなのだが、そのことは後でふれよう。


 「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  2 鏡川伊一郎
 暗殺されたとき37才だった赤松小三郎の経歴を見ておこう。今日的な言い方をすれば、理系の、いかにも学究肌の人物であることがわかるはずである。

 天保2年(1831)、信州上田藩士芦田勘兵衛の次男として生まれた。
 通称清次郎。だから、もとの姓名は芦田清次郎である。
 叔母の夫に算法の学者がいた影響か、幼少のころから算学好きだったという。

 18才のとき江戸に出て、大久保の内田五観(いつみ)のマテマチカ塾に学んだ。

 マテマチカすなわち数学である。つまり数学を基礎とした測量学、天文・暦学、航海術などを学んだのである。内田五観は高野長英の弟子で、「微分」「積分」は彼の名づけた用語だとされている。 


 「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  3 鏡川伊一郎
 赤松小三郎は、慶応2年には京、大坂と江戸を行ったり来たりしていた。兄の方は第二次征長で早くから上田藩兵とともに大坂に来ていたのであった。
 勝に会って間もなくのことだと思われるが、赤松小三郎は京都で塾を開く。
 11月、幕府から赤松小三郎を開成所教官兼海陸軍取調役に採用したいという打診があった。しかし、上田藩京都留守居役の赤座寿兵衛がこの話を断った。まずは藩の銃隊指導と兵制取調のため必要な人材だからという理由であった。

 赤松小三郎はといえば、薩摩藩から『英国歩兵練法』の完訳と実際の練兵を依頼されていた。
 小三郎の塾のうしろに薩摩藩がいることは他藩にも知られていた。このあたりの事情は、なぜか桐野利秋の日記からは消し去られている。このこともあとで触れよう。  


 「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  4 鏡川伊一郎

 赤松小三郎の私塾には、福井藩も7名を入塾させたが、その福井藩の元藩主松平慶永(春嶽)に、小三郎は意見書を提出している。意見書は400字詰原稿用紙に移せば6枚にも及ぶ長文だが「東京大学史料編纂所の「維新史料綱要データベース」の「綱文内容」を要約として、そのまま以下に引用する。

 朝廷を政治の府とし、宰相は将軍・公卿・諸侯・旗本より人材を選び、別に上・下議政局を設け、議員を公選「上局員は堂上・諸侯・旗本より選び、下局員は諸国より選ぶ」して国事を議せしむべき事。其他教育撫民・幣制・軍備・殖産に関し、所見を陳ず。

 これとほとんど同じような内容を記した文書を私たちは知っている。
 そう、坂本龍馬の「船中八策」であり、「新政府綱領八策」である。小三郎は龍馬よりも早く議会政治と宰相を選挙で選ぶという新政府綱領を提唱していたのであった。小三郎が春嶽に意見書を提出したのは慶応3年5月、暗殺される4か月前である。
 さて、彼はなぜ暗殺されたのであろうか。
 桐野利秋が日記に記してある斬奸状には、「罪状如左」とこう書かれている。(四条通東洞院角に一枚、三条大橋に一枚それぞれ貼りつけたというものである)
  
 此者儀兼て西洋ヲ旨とし、皇国之御趣意を失ひ、却て下を動揺せしめ不届之至、不可捨置之多罪ニ付、今日東銅院於五條魚棚上ル所に、加天誅ヲ候ニ付、即其首を取り、さらすべき之処に候得共、昼中ニ付其儀ヲ不能、依テ如此者也。

 なんともしらじらしい文面だが、嘘っぱちといって過言ではない。桐野自身、日記の本文では赤松が「幕奸」であるから斬ったと書いてあるからである。つまり幕府のスパイだから斬ったというわけだが、これまた嘘である。



 「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  5 鏡川伊一郎
 赤松もまた薩摩にとっては、士官を育ててもらった恩人であった。暗殺者のひとり、桐野利秋は、赤松の門下生であった。 


 「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  6 鏡川伊一郎
 かの有名な東郷平八郎も赤松の門下生だった。

 話は昭和に飛ぶ。
 昭和17年5月、赤松小三郎を顕彰する碑が信州上田城址公園に建立された。「贈従五位赤松小三郎君之碑」は東郷平八郎の直筆である。
 碑の裏面の略伝によれば、赤松は「帝国軍制の創始に寄与貢献」したから「感謝追慕の念」から建立したという。
 注目すべきは、次の文言である。
「…薩藩の京邸に聘せられ其師となる 門下生実に八百名 桐野 篠原 野津 樺山 後の東郷元帥上村大将等其中に在り」
 桐野利秋はまぎれもなく赤松の門下生であったことが明記されているのだが、しかも800名の筆頭にその名があげられているのだ。くどいようだが、その桐野が赤松斬殺の下手人である。

 むろん碑は、赤松が藩命黙しがたく、まさに東帰せんとしたとき、刺客の害にあったと書くけれど、どこか鼻白む文面である。
 東郷平八郎は、桐野が赤松を暗殺したことを知らなかったのであろうか。いや、知っていて贖罪の意味で碑を建てたという見方をする人もいる。(地元の人のブログで、そういう見解を書きつけた方がいる)

 赤松が殺された翌日すなわち9月4日夜、上田藩邸では彼の通夜が行われた。なんと薩摩藩士が30人ほど参集していたという。
 門下生なら通夜に集うのは当たり前で、むしろ少なすぎるのであるが、この30人は、おそらく赤松殺害の下手人が身内の桐野らであったことを知らなかったのであろう。そう思いたい。

 桐野はといえば当日の日記には、仲間8人と叡山で猪狩りをして、暮れに帰邸したと書くのみである。

 師を殺しておいて平然としていられる神経が桐野にはある。

 さて、前にも書いたが桐野の日記には奇妙な克明さがある。けっして、たんなる自分用の覚書のたぐいではない。明らかに誰かに見せるために書かれている。あるいは誰かに読まれることを前提として綴られている、と言っても同じことである。


 「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  7 鏡川伊一郎
 桐野の日記によれば、当日の赤松暗殺は、あらかじめ計画されたものではなくて、偶発的に実行されたようなおもむきになっている。
「小野清右ェ門、田代五郎左ェ門、中島建彦、片岡矢之助、僕(桐野)より同行、東山散歩、夫(それ)より四条ヲ烏丸通迄帰り掛候処、幕随の賊信州上田藩赤松小三郎」の姿を見かけ、斬る気になったというのである。
 それにしても赤松を形容するのに「幕随の賊」とはなにごとか。もし本気で彼がそう思っているのであれば、以後の彼の行動は矛盾に満ちている。
 桐野らは5人で「散歩」(男が5人で散歩でもあるまいに)していて藩邸に帰るところだった。
 赤松の姿を見つけた桐野は、しかし小野、中島、片岡の3人を烏丸四条南角の「まんじゅう屋」に待たせ、東洞院通りを南下する赤松を田代とふたりだけで追っている。
 なぜ3人を外したのか。
 赤松は仏光寺通りと交錯するあたりで、薩摩藩士野津七次ら3人と出会い、どうやら立話をしたようだ。ここで桐野が躍り出ると思いきや、暗殺をためらっている。いったんやりすごし、「魚棚上る所」で待ち伏せ、そして田代と挟み撃ちにするのだった。
 なぜ味方である薩摩藩士がいては赤松を斬れないのか。「幕随の賊」であり「幕奸」であるなら、みんなで天誅を加えればよいではないか。

 不自然さと矛盾の目立つ日記であるが、なぜそうなるかというと、本音を隠しているからである。

 赤松の帰藩が決まり、伏見で送別会が開かれたとき、桐野が師弟の縁を切るといきまいたというエピソードがある。真偽のほどはわからないが、桐野が日記で赤松のことを師あるいは師であった人として遇することのできなかったことを、私はいぶかしく思うものである。


 「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  8 鏡川伊一郎
 内心、桐野はうしろめたい行為をしようとしている自分を認めていたのである。

 赤松が「幕奸」ではないことは、多くの薩摩藩士たちが認識していたはずだ。上州藩からのかねてからの帰藩命令をのらりくらりとかわしていた赤松だった。そのことは皆よく知っていたはずなのである。断りきれずになっての帰国だったのである。


 赤松暗殺の真の理由は、薩摩藩の軍備事情が幕府筋へ洩れることを防ぐのと、赤松の思想の抹殺にあった。

 赤松の思想とはなにか。彼は「英国歩兵練法」を翻訳して外国の軍制に詳しいから、薩摩藩はその面をもっぱら引出して、軍事顧問のようにみなしていた。しかし、赤松自身は武力で権力を奪うということには否定的な考えの持ち主だったのである。

 慶応3年9月10日付の兄の芦田柔太郎宛の手紙に、赤松の思想の一端があらわれている。
 「各藩、兵を募り兵力を以て権を取り候なる形勢」であるが、これではとても日本は「良国」にはならないだろう、「只各万国普通之道理を学び候のほか、これ無き事と存じ奉り候」
 と彼は書いている。

 ここで「万国普通の道理」というのが議会政治や選挙で宰相を選ぶということであるのはいうまでもない。赤松小三郎は、あたかも信州の坂本龍馬である。

 その赤松が武力討幕を標榜する薩摩藩士の練兵の師となったのが、悲劇のはじまりだったのである。

 ところで桐野の日記が誰かに読ませるような印象を与えることは前に書いた。その誰かは薩摩藩の者ではありえない。嘘がばればれだからだ。私の推測にしか過ぎないが、長州藩の山県有朋あたりに赤松暗殺のいきさつを報告し、その文面が日記に転用されているのではないだろうか。

 ぞっとするようなエピソードがある。明治になってからの山県有朋と桐野利明の会話。
「あんなに簡単に幕府が倒れるなら、赤松を殺すのではなかった」
 小林利通氏が『松平忠固・赤松小三郎 上田に見る近代の夜明け』(上田市立博物館発行)で紹介している。




 「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  9 鏡川伊一郎
 いわゆる薩長同盟が成立したのは慶応2年正月のことだった。

「いわゆる」と書いたのは、最近では「薩長盟約」と呼ぶ学者が多くなったからである。厳密な意味では討幕のための軍事同盟とはいいがたいから「盟約」の方が妥当であろうという見解からである。しかし、「薩長同盟」の用語まで変える必要はないという松浦玲氏のような意見もある。私なども松浦氏の考えに同感である。薩長同盟の端緒はここにあり、それを調停した坂本龍馬の意義が薄まるものでもない。

 薩長同盟の成ったこの年の9月、薩摩藩は小銃1万挺の購入を企図する。なんと1万挺である。これは薩摩の動員可能兵士のほとんどが小銃を持てるような数字である。むろん一回の取引で購入可能な数字ではないが、こうした軍備拡張路線の根底にあるのは「武力討幕」でしかありえない。
 この時期の「武力」というのは、かっての武士たちの「武力」と概念がまるで違う。弓や槍や火縄銃から、戦争の道具は新式の銃砲に変っている。戦争の概念が変わっていると言い換えてもよい。


 たとえば家近良樹氏は「幕末・維新の新視点」というサブタイトルのある『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書)の結語部分でこう書いている。
「私は武力討幕派なる言葉を使って幕末史を説明する必要はない(対幕強硬派もしくは抗幕派といった言葉で十分だ)と考えているが、もし武力討幕派なるものが成立したとしたら、鳥羽伏見戦争直前の時点だと思っているくらいである」
 いま書き写しながらも、なんとアホなことをいう学者だろうかという思いがわく。
 言葉遊びではないのである。対幕強硬派?こんなふやけた用語で幕末史を語られては志士たちが浮かばれないではないか。

 武力討幕をたんなる観念論のままとらえていては事実の進行と齟齬をきたすのである。戦争直前に、はい今日からは武力討幕派です、といって間に合うようなものではないのである。軍備の拡充と軍制の改革のプロセスが、そのまま武力討幕のプロセスである。薩摩が赤松小三郎を「兵学者」として招聘したのも、軍拡路線の一環であった。

 薩摩はもう後戻りができないところとに来ていた。
 


「薩摩」に暗殺された赤松小三郎  完 鏡川伊一郎
 赤松小三郎が暗殺される直前の慶応3年8月、薩摩藩は具体的な武力蜂起の「秘策」を長州藩に明かしていた。

 それは島津久光、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀の4人のみが関知する極秘の事項だとも説明された。

 井上勝生『日本近現代史@幕末維新』(岩波新書)から、その「秘策」の概要を以下に写す。
「京都御所に藩兵を入れ、討幕派の公家が結集して制圧、会津藩邸と幕兵の陣営を『急襲』し、『焼き払う』。天皇を男山(京都市南部、八幡市)に移した上で、『討将軍』の布告を出す。藩兵3000で大坂城を制圧し、大坂湾の幕府艦隊を『粉砕』する。関東方面では甲府城に『立て籠もる』という壮大な武力蜂起計画だった」

 さて、赤松小三郎は薩摩のいわば軍事顧問であった。この奇襲作戦を知りうる立場にあったとは考えられないか。
 知りすぎた男として殺されたというのが私の推測であるけれど、ついでに推測すれば桐野利秋の個人的判断による凶行とは思えない。前記の4人のうちの誰かの指示によるものであろう。

 井上氏の文章はこう続く。
「翌9月に、薩摩藩と長州藩はあらためて、出兵『契約書』を結び、芸州藩も加わる。薩摩藩が、9月中に武力蜂起して、天皇を奪い、大坂城へ攻め入ることも、再度、予定された。このように薩摩藩の初めの計画は、京都の政変と同時に挙兵するというもので、12月に実際に起こされた王政復古クーデターより、はるかに武力に頼った、まさに討幕の計画であった」

 この9月の共同出兵「契約書」は、まぎれもなく討幕の薩長軍事同盟であった。
坂本龍馬の調停した「薩長同盟」が、ここで確然としたものになっているのである。
龍馬とからめると、きりのない話になるから、このあたりでおしまいにしよう。

 故赤松小三郎に対して明治の新政府はなにもしなかったが、大正13年に皇太子御成婚贈位内申書に彼の名があげられた。ずっと、たぶんうしろめたく思っていた人間のいたことはたしかだと思われる。そのことを最後に付記しておきたい。 



赤松小三郎に光を ―その2
 鏡川氏は、坂本龍馬研究者でもある。やはり赤松小三郎への関心は、坂本龍馬暗殺の犯人を探していく過程で生じるらしい。その点に関しては、前の記事で引用した龍馬研究者の菊池明氏も同様であった。
 歴史学者の間では、「坂本龍馬暗殺は見廻組の犯行」ということで「決着」しているらしいが、龍馬暗殺の謎に関してネットなどで延々と議論が続いているのは、多くの人々がその結論に納得していないからだろう。私も、見廻組の単独犯行説を支持できない人間の一人で、薩摩が関与した疑念をぬぐえないでいる。見廻組では、暗殺の動機はあまりにも弱い。

 赤松小三郎は、幕府と朝廷と諸藩の対立を、「民主的議会制度」という高次の政治システムの導入によって解消し、不毛な内戦による流血という悲劇的事態の発生を回避しようとした。そのため武力討幕派は、暗殺という手段により、その思想の抹殺を図った。赤松の構想を引き継いで、その実現を目指したのが坂本龍馬であった。赤松の思想が邪魔で抹殺しようとした人々にとっては、龍馬の思想も同様に邪魔であり抹殺されねばならないことになる。


赤松小三郎に光を ―その3 

慶応2年から慶応3年にかけての政局で、赤松小三郎の存在がいかに重要であったかを示唆するものなので、引用したい。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1229791987
aizu_justiceさん
「戊辰戦争時、會津藩の軍制改革後の軍事力や統率力は、薩長に比べて何年位遅れていたと思われますか?」
質問日時: 2009/8/24 01:11:28
解決日時: 2009/8/28 02:52:58


ベストアンサーに選ばれた回答
suidoukankoujiyaさん

薩摩藩は当初蘭式兵制を導入していましたが、薩英戦争の教訓から1866年にそれまでの蘭式の軍備から英式兵制への変更を行います。

英式への変更に当たり上田藩出身で当時の英式兵制の第一人者赤松小三郎を藩邸に講師として招き、桐野利秋や東郷平八郎など将来有望な藩士多数を受講させると共に、当時最新版の「重訂英国歩兵練法」の翻訳を依頼するなど急速に英式の兵制(前装施条銃を用いた戦闘方法)に改め、1867年にはほぼ改変を終了しています。

(なお赤松は上田藩からの相次ぐ帰国命令に従い上田に戻ろうとしたところを教え子の桐野らの手に掛かり死亡しています。理由は赤松が幕府側についたからだとしていますが、早期から幕府陸海軍の創設や松平春嶽にも認められ議会制による国家など先進的な政策を提言してきた人物を自藩の都合だけで暗殺したこの一件はあまり語られない薩摩藩の恥部の一つです。)

(中略)

さてこれらと相対する会津藩は装備や兵制の変更に出遅れ、京都守護時代でも火縄銃と少数のゲーベル銃といった他藩より一世代遅れた装備でした。

 (中略)

以上が薩長と会津の軍制の遍歴と戦闘結果ですが、まともな兵学者について装備の更新を行えば数年で兵制改革は可能であり、このことから見ても会津の兵制と装備は薩長から2〜3年遅れていたと思われます。



 この議論などを読むと、仮に、薩摩藩より先に会津藩が赤松小三郎を教授に招いていたら、その後の歴史は全く変わっていたのではないかとすら思わせる。まさに赤松小三郎は、時代を動かす鍵を握る「キーパーソン」であった。これをネタに、『大逆転! 鳥羽伏見』といった歴史シミュレーション小説など書いたら面白いかもしれない。

 赤松小三郎はとくに薩摩藩のみに英国式兵制を伝授したわけではなかった。薩摩塾とは別に、私塾の「宇宙堂」を開いており、そちらには越前、肥後、会津、鳥取などの諸藩から、何と新選組の隊士まで聴講に来ていたという。まさに赤松塾は「呉越同舟」状態だった。人によっては「そんな危険な、無節操で政治感覚のないことをやっていたから暗殺されたのだ」と言われるかもしれない。

 しかし赤松は、政治オンチだったからそのようなことをしていたわけではない。
 現代に置き換えれば、例えば佐藤優さんなどは、右の雑誌にも左の雑誌にも頼まれればどこでもホイホイと書き、「無節操」と批判する人もいる。しかし佐藤さん本人が、「右と左の『バカの壁』を崩したい」と言っているように、日本の左右の不毛な対立をより高次の次元で解消したいという構想の下に、戦略的に「無節操」をしているのである。

 おそらく当時の赤松も同じ気持ちだったのだ。天文学を究め全宇宙にまで視野を広げている赤松にしてみれば、会津だ長州だ薩摩だといった、狭い日本の中の不毛な対立などアホらしくて仕方なかったのだ。塾の名前の「宇宙堂」は、大宇宙の中のチッポケな惑星の中で諸国が対立し、さらに狭い国の中で幕府だ朝廷だなどと争っているのはじつに不毛なんですよという、赤松のメッセージが強く込められている。



 赤松小三郎の中では、幕府と朝廷と諸藩の対立は、「民主的議会制度」という高次の政治システムを導入しさえすれば、自ずから解消するはずのものであった。薩摩も肥前も会津も新選組も平等に扱って軍事教練を施したのも、いずれ諸藩の軍隊も新選組のような諸隊も「国民軍」の中に統合されると考えていたからである。だから、私塾でも薩摩藩邸でも、英国式兵学のみならず、英国式民主的議会政治の導入の必要性をあわせて説いたのである。

 私は思う。赤松が生きていれば、陸軍や海軍が長州や薩摩の藩閥によって不当に支配されることもなかったのではないか、そうであれば、昭和になって軍部が愚かな暴走をすることもなかったのではないか。それほどまでに赤松の暗殺は、日本全体にとっての痛恨事であった。

 現在、赤松小三郎は、坂本龍馬暗殺事件に連なる伏線としての暗殺という事件的興味で語られることが多い。私は、あくまで赤松本人の生涯と、議会政治の先駆者という業績に関して、十分な視線を注いで欲しいと願うものである。


見事なまでに 田中良紹と同じ結論へと結びついている。
今の政治状況から帰納的に語ろうが 過去の歴史から演繹的に語ろうが
そして その両方を混ぜて語り続ける俺であろうが 結論は其処へ辿り着くしかないのだ。

この150年、
如何に虚構で満ち溢れた歴史の改竄が行われ続けたか?
情報の改竄 嘘デマ扇動が引き起こされ続けてきたか?
その事によって美味しい生き方を享受し続けた連中とは如何なる連中なのか?
今 何が起きているのか?

排除させられる者達は 暗殺させられる者達は 如何なる連中から狙われてきたのか?
ネットによって情報は平等に届く可能性が生まれ、やっと その150年の頸が解かれるへ至っている。

今、まだ その改竄と嘘デマ扇動を繰り返しては
美味しい生き方を享受したがっている連中は 何処に居るのか?
下衆な連中は 今もって何を叫び続けているのか?
売国奴達は まだ 何を繰り返そうとしているのか?

それでも一般民衆の圧倒的大多数を構成する馬鹿で豚にすぎない民衆は
まだまだ改竄を信じ 嘘デマ扇動に煽られ
自らの子ですら奴隷や家畜へと歓んで供出し続けるだろうね。



赤松小三郎「御改正口上書」と坂本龍馬「船中八策」の比較 ―その1

赤松小三郎に関する記事を連続して投稿し、赤松小三郎が慶応3年5月に越前福井藩の前藩主で幕府顧問の松平春嶽に提出した「御改正之一二端奉申上候口上書(以下、御改正口上書)」が、坂本龍馬の「船中八策」よりも早い、日本で最初の、選挙による民主的議会政治の建白書であり、もっと評価されるべきであることを論じてきた。

 現在、ネットで検索しても、赤松の「御改正口上書」を読むことはできない。そこでこのブログに掲載することにした。出所は『上田市史』(下巻、1251〜1253頁)である。赤松直筆の原本は失われているが、全文が松平春嶽の政治記録書である『続再夢紀事』に転載されているので、この文書の存在は確かのものである。

 管見の限り、幕末維新関係の史書を読んでも、この赤松の歴史的文書の存在は無視されている。とてつもなくおかしなことだと思う。信じられないことだが、文献の中で探そうとすると、『上田市史』や『長野県史』といった郷土史の書籍の中にしか見られないのだ。「いったい歴史学者は何をやっているのだろう」と不思議に思う。
 私は、たまたま上田出身なので、高校時代に『上田市史』を読んでいて、赤松の「御改正口上書」に接することができた。それを読んで、「これは『船中八策』などよりはるかにすごいじゃないか」と衝撃を受け、翌日、高校の日本史の先生に、「何でこんなすごい人物が全く無名なんですか! おかしいじゃないですか!」と抗議しに行ったものだった……。

 長野県外の人では、おそらくよほど歴史に詳しい人でも、赤松の「御改正口上書」を読んだことはないだろう。一般の人は、この歴史的文書に接することはできないのである。従って、拙ブログごときが紹介するのも意味があることだと思う。

 私の推測では、この「御改正口上書」が、おそらくは福井藩士の手を経由して京都に潜伏中の坂本龍馬に見せられ、「船中八策」および「新政府綱領八策」となった。また、「五箇条の御誓文」の起草した由利公正も、福井藩士であるから、当然、赤松の「口上書」を読んでいたものと思われる。由利公正が御誓文の原案を考える際にも、赤松の文書が影響を与えたのであろう。
 しかし、「御改正口上書」に比べると、「船中八策」、「五箇条の御誓文」とも、はるかに内容的に曖昧で、後退したものとなっている。

 赤松の「御改正口上書」は全部で七箇条あるが、まず最も重要な第一条を紹介したい。この条は、天皇、内閣(首相と大臣)、そして上下両院の二院制議会の役割を論じたものである。これは坂本龍馬の「船中八策」との対応で言うと、以下の三カ条の内容に相当する。

****<坂本龍馬「船中八策」より引用>***********

一策 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
二策 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
三策 有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ、官ヲ除クベキ事

***********************

 坂本龍馬の構想は、内容的に赤松小三郎の「御改正口上書」と重複するが、以下に示すように、その子細は赤松案よりも後退してしまっている。おそらく龍馬の意見は、もっと小三郎に近かったのかも知れないが、薩長や土佐の勤皇派の人々でも受け入れ可能なように、天皇の権限を強化し、新政権の民主的性格を損なう方向に、内容的に妥協させてしまっているのだ。

 龍馬は、赤松の論を継承して実現のために奔走することは自分の生命を危険にさらすことも当然承知していただろう。「船中八策」の段階では小三郎はまだ存命であったが、龍馬が慶応3年11月、福井藩で由利公正らと議論した後にまとめた「新政府綱領八策」の段階では、既に小三郎は薩摩藩によって暗殺されていた。
 龍馬は当然、内容的に薩長でも納得可能なように妥協させることはやむを得ないと判断したのだろう。しかし薩摩にとっては、小三郎に比べて内容的に後退している龍馬の「船中八策」であっても、同様に許せる内容のものではなかったのである。

 それでは赤松の論を見てみよう。赤松は、大政奉還について以下のように論じる

*****<引用開始>***********

「御改正之一二端奉申上候口上書」     慶応三年 丁卯五月
                     松平伊賀守内 赤松小三郎

一、天幕御合体諸藩一和御国体相立候根本は、先ず天朝之権を増し徳を奉備、並に公平に国事を議し、国中に実に可被行命令を下して、少しも背く事能はざるの局を御開立相成候事。蓋し権の帰すると申は、道理に叶候公平之命を下し候へば、国中之人民承服仕候は必然之理に候。

*****<引用終わり>*********

 赤松小三郎は、天皇家と幕府と諸藩の融合を説いている。もっとも、「天朝の権を増し」と主張しているのを見ても明らかなように、公武合体の末に天皇の権力を増し、幕府に関しては自然消滅を考えていた。この点で、「天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ」という坂本龍馬の大政奉還論と同様の内容である。
 
 しかし、小三郎らしいのは、勤皇派の志士たちの考えとは違い、天皇に対して神聖な絶対的権威を認めていない点である。天皇に「権の帰する」は、天皇が「徳を備え」「道理にかない」「公平の命令を下す」という三条件を満たさねばならない。そして、誰が見ても道理にかない、「公平に国事を議す」ために、天皇は「少しも背く事能はざるの局」を新たに設置せねばならない。この「局」とは、後に述べられるような二院制議会なのである。これをして「国中の人民は承服」するのであって、それなしに無条件に天皇の絶対的権威を認めているわけではないのである。

 龍馬の「船中八策」では、天皇の権威が何に由来するのかに関しては何も論じられていない。朝廷の権威は、無条件に与えられることになっていた。小三郎にあっては、あくまでも天皇の権威は、人民の信託に基づいて発生するものであった。この点、龍馬の論が小三郎に比べ後退している。



赤松小三郎「御改正口上書」と坂本龍馬「船中八策」の比較 ―その2

 ついで、小三郎は天皇を補佐するところの内閣と閣僚について論じる。

*****<引用開始>**********

第一天朝に徳と権とを備へ候には、天下に侍する宰相は、大君、堂上方、諸侯方、御旗本之内、道理明にして、方今の事務に通じ、萬の事情を知り候人を選みて、六人を侍せしめ、一人は大閣老にて国政を司り、一人は銭貸出納を司り、一人は外国交際を司り、一人は海陸軍事を司り、一人は刑法を司り、一人は租税を司る宰相とし、其以外諸官吏も、皆門閥を論ぜず人選して、天下を補佐し奉り、是を国中の政事を司り、且命令を出す朝廷と定め、

*****<引用終わり>**********

 小三郎は国政を担当する6人の大臣の必要性を論じる。現代の言葉に置き換えれば、首相(大閣老)、大蔵大臣、外務大臣、軍務大臣、法務大臣、国税局長となる。以上6省の大臣は、将軍、公卿、諸侯、旗本の中から「道理明らかなる」人物を選出するとしている。後で書かれるように、各大臣を選出するのは議会である。

 よく、小三郎は幕府よりであったから暗殺されたように言われる。しかしこれを見れば、そうでないことは明らかであろう。小三郎の構想では、徳川将軍家は、その特権的地位を失うことになる。道理が明らかであれば将軍が大臣に選出される可能性もあるが、将軍でも自動的に国政に参与できるわけではないのである。小三郎の構想の中では、将軍は天皇を補佐する諸侯の一人という位置づけになろう。よって「将軍」という存在は消滅する。

 以上6人の大臣の下で働く各省の官僚は、門閥を論ぜずに人選する。つまり士農工商の身分制度はなくなり、能力があれば誰でも官吏になれる。赤松は、おそらく現実的妥協として、大臣クラスは貴族から選出されるが、各省の実質的事務は、一般の人民から選出した官僚によって担わせ、貴族政治の悪弊に陥ることなく、公正で迅速な行政が遂行可能であると考えていたのだろう。
 坂本龍馬の「船中八策」では、首相と大臣については何も述べられていない。「有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ、官爵ヲ賜ヒ」とあるが、「顧問」というのはいかにも曖昧である。

 さて、いよいよこれからが、小三郎の論じる議会政治である。小三郎の中では、民主的な選挙で選ばれた議会こそが国家の最高機関と位置付けられており、この建白書の最も重要な核心部分になる。
 
*****<引用開始>***********

又別に議政局を立て、上下二局に分ち、其下局は国の大小に応じて、諸国より数人の道理の明かなる人を、自国及隣国の入札にて選抽し、凡百三十人に命じ、常に其三分之一は都府に在らしめ、年限を定めて勤めしむべし、其上局は、堂上方、諸侯、御旗本の内にて、入札を以て人選して、凡三十人に命じ、交代在都して勤めしむべし。

*****<引用終わり>***********

 議会(議政局)は、上院(上局)と下院(下局)に分けられる。上院は貴族院、下院は衆議院に相当する。小三郎が、定数130人の下院から先に書きはじめ、定数30人の上院を後で論じていることは、衆議院に相当する下院を重視している姿勢の表れであろう。

 定数130人の衆議院である下院は、身分は一切問わず、「入札にて選抽」、つまり普通選挙によって選出される。選挙区は、「諸国及び隣国」となっている。これは基本的に各藩を選挙単位とするが、人口に応じて選挙区割をするため、数万石程度の小藩は、いくつか束ねて一つの選挙区とするということである。

 定数30人の貴族院としての上院は、朝廷と各藩と幕府の融和の象徴として、公卿、諸侯、旗本の中から選出されるが、これも選挙である。門閥さえあれば誰でもなれるわけではなく、選挙の洗礼を受ける必要があるのだ。

 坂本龍馬の「船中八策」では、「上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事」となっている。先進的な内容であるが、議員がどのように選出されるかについては何も述べられていない。赤松は明確に「入札(選挙)」と述べる。



赤松小三郎「御改正口上書」と坂本龍馬「船中八策」の比較 −その3

 さて、いよいよ次の箇所がすごい。以下の箇所は、議会こそが国権の最高意志決定機関であり、唯一の立法機関であることを明確に述べる。議会の権限は、天皇の権限より強い。「主権在君」の「明治憲法」よりも、戦後に制定された「主権在民」の「日本国憲法」の内容にはるかに近いのである。慶応3年にこれを主張していたのは、本当に驚くべきことである。

 赤松は、「天皇の意見と議会の意見が異なる場合にはどうすればよいのか」という点に関して、以下のように述べる。

*****<引用開始>************

国事は総て此両局にて決議の上、天朝に建白し御許容の上、天朝より国中に命じ、若し御許容なき箇条は、議政局にて再議し、弥公平の説に帰すれば、此令は是非共下さざるを得ざる事を天朝へ建白して、直に議政局より国中に布告すべし。其両局人選の法は、門閥貴賎に拘らず道理を明弁し私なく且人望の帰する人を公平に選むべし。其局の主務は、旧例の失を改め、万国普通の法律を立て、並びに諸官の人選を司り、万国交際、財貨出入、富国強兵、人才教育、人気一和の法律を立候を司り候法度、御開成相成候儀御国是の基本かと奉存候。

*****<引用終わり>*************

 
 赤松は問う。議会での決議事項の中で、もし天皇がそれに反対の場合(御許容なき)はどうすればよいのか。その場合、議会は持ち帰って再議し、いよいよ実行すべき確固たる根拠をもって再決議すれば、天皇にその事を述べるのみで、天皇の賛否を問わず、直ちに議会より「国中に布告すべし」というのである。つまり天皇は、議会の決定に異議をはさむことはできても、その最終決定を覆す権限を持たないのである。

 これは、議会こそが国権の最高機関であるということを明確に述べたものである。明治憲法などはるかに飛び越えて、現行憲法の精神により近い内容なのである。

 龍馬の「船中八策」では、「政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事」となっているので、全ての政令は天皇の名で出されることになる。小三郎の「御改正口上書」では、議会が決議し、天皇が同意したものは、天皇の名で布告されるが、天皇が同意しなくても「議政局」の名で国中に布告できることになっている。また「国事は総てこの両局にて決議」とあるので、議会の決議を経ずして、天皇が単独で政令の類を出すことはできないことになる。

 龍馬の「八策」では、議会と朝廷の力関係に関しては何も述べられていない。小三郎にあっては、明確に議会の権力が天皇よりも上に位置づけられていて、天皇は議会の同意なしには政令も出せない。
 
 「明治憲法」では、天皇が唯一の立法機関であって、議会は立法を協賛する組織でしかなかった。また大臣は天皇を「輔弼」するものでしかなかった。また天皇には、議会や内閣のコントロールを受けずに陸海軍を直接指揮する「統帥権」が付与され、軍部の暴走の原因をつくった。

 小三郎の構想では、議会が国家の最高機関であって、立法だけではなく、「諸官の人選を司」る。つまり議会が、首相も大臣も任命するのである。これは議員内閣制である。当然のことながら、陸海軍を統括する軍務大臣も、議会の下位に置かれることになり、軍は完全に文民によって統制されることになる。予算を決定するのも議会である。

 「明治憲法」では、陸海軍は、議会や政府の統制から逃れて、天皇に直接統帥されることになっていた。この「統帥権」は、実際のところは、「天皇」を名目にしつつ、薩長の軍閥が国家を恣意的にコントロールしようという利己的欲望に基づいて設けられたのであろう。これが軍部の暴走と15年戦争の原因となったのであった。

 薩摩藩が赤松小三郎を暗殺したのには、この赤松の民主主義思想を何よりも憎んだからであろうことは容易に想像がつくのである。日本の歴史をみると、きわめて残念なことに、国家のグランド・デザインを明確に描ける聡明な人物が政治権力を握ることは滅多になく、権謀術策を弄し、反対派を闇に葬るようなことが平然とできるような愚劣な人間が権力につき、長期ビジョンのない政治を行う。今でもそうである。

 赤松小三郎が生きていれば、明治の歴史は全く違っていたかも知れないと私が残念に思うのは、こういう点にある。赤松小三郎が生きていれば、福井藩や会津藩の賛同の下に、幕府の側が率先してこうした改革を実行することが可能になっていたかもしれない。

 あるいは薩長にもう少し人物がいれば、武力を背景にしながら、小三郎の論を幕府と朝廷に実施させることもできたであろう。この点で、高杉晋作が若死にしたのは返す返すも残念だった。高杉であれば、赤松の論を採用できたかもしれないと思うのである。ちなみに、赤松小三郎は高杉晋作の能力を高く評価し、敬愛していたようである。赤松は、高杉のつくった漢詩を転写して座右に置いていた。そして、第二次征長の役に関しては、「勝算がなく、負けるのは当然だ」と幕府に向かって堂々と主張し、幕府改革の必要性を説く建白書を幕府に出している。

 いずれにせよ、赤松の論が採用されれば、武力討幕路線を封じこめ得ただろう。さすれば、内戦の悲劇もなく、靖国神社もなかったことになる。腐敗した藩閥政治もなかったし、主権在君の明治憲法ではなく議会の権限が強い憲法になったであろうし、もちろん天皇の統帥権などはなく、従って軍部の暴走もなかったことになる。

 さて、赤松の「御改正口上書」はまだまだ続く。あと6箇条も残っているのである。他の条項では、主要都市への国立大学の設置と全国民への教育機会の提供、金銀交換レートの国際基準に合わせた適正化、人民平等、税負担の軽減、軍備の拡充、食生活の改善による日本人の体格の改善、家畜の品種改良などが建白されている。
 残りの六箇条も、追って時間があったら、全文を掲載したい。

まさに 歴史的な文書は 此処にある。

この決定的な意味合いを
歴史考証を大事にして大河ドラマを制作するNHKが 知らないとは言わせないけどねぇw

この150年 如何に改竄と嘘デマ扇動が繰り返されてきたのか?
そして今尚 改竄と嘘デマ扇動が繰り返されているのか?

改竄され続けた歴史の その入り口は此処にある。
書き換えられ続けた歴史を元に戻す第一歩は 此処にある。
そして まだ此処は入口にすぎない、
此処から先こそ 本当の道がある。




で、話は少し離れるけど この話を再掲してみる

誠天調書 2005年08月27日
正岡子規 余命十年で日本語を革新した男
文芸誌「ホトトギス」(東京版)の発刊 明治の文学者、正岡子規。
俳句・短歌を革新、さらに「写生文」を提唱し、近代日本語の確立を試みた。
23歳で結核という当時の不治の病に冒され、余命10年と自覚。
そこから子規の文学革新の挑戦が始まる。
病床から創刊した「ホトトギス」で、子規は“写生文”を提唱。

日常生活の何気ない風景を目で見たまま写しとる「写生文」は、

それまで一部文学者のものだった日本語を、

誰にでも書ける平易な日本語に変するものだった。

誰もが身近な出来事を表現できるようになり、

「写生文」は全国の人々に広がっていった。 

やがて写生文の精神は、子規の盟友、

 夏目漱石や森鴎外の文章にも取り入れられてゆき、

近代日本文学の礎となったばかりでなく、


現代、私たちが話している日本語の原形を形作っていった。



番組は、病床の中から、近代日本語を生みだした若き文学者、正岡子規の格闘の軌跡を描く。
2004年02月05日 http://blog.livedoor.jp/up_down_go_go/archives/92826.html
子規が雑誌「ホトトギス」で、写生文で綴った日記を提唱、
広く日記などの募集していたことが紹介されていました

その日記を見て驚きました 
どれも自分の言葉で、自分の世界を書いています

 これって、今、このLivedoor Blog などで展開されている「Blog」と同じじゃないですか 

 まさに原点だ、と思わずつぶやきました
 なにか新しい発見をしたみたいで、久しぶりにエキサイトしました

番組の中で松平アナウンサーがナレーターとして言っていましたが、この時代の象徴的な言葉だった「国家」とか「大儀」などという「公(おおやけ)」の言葉でなく、どれも自分の言葉で自分の世界を書いていることです
 まさに子規が提唱した写生文そのものです

※漱石の「我輩は猫である」もこの写生文の依頼に応じて執筆、「あららぎ」に掲載されたものが最初の部分です

●これぞ「Blog」の原点●

 もう、ここまで書けばおわかりだと思います
 自分の言葉で自分の世界を書く、これ、「Blog」そのものではありませんか
 
 「通勤日記」「牛舎の日記」「田植日記」はどれも、そのまま、今の Livedoor Blog にアップしても、まったく時代を感じさせないし、ちっともおかしくありません
 とりわけ、「牛舎の日記」や「田植日記」あたりは、そのほのぼのとしたユーモアが人気を呼び、自然回帰の時代の要請に見合ったものとして、きっと「Blog」ランキングの上位になると思うのですがいかがでしょうか?
 
 ただ、子規が募集した写生文の日記と、現代の「Blog」との大きな違いは、デジタル時代の日記であるということでしょうね
 「Blog」では、アップした日記に直接コメントでき、見知らぬ大勢の人がほぼリアルタイムで集うこともできます 
 さらにはランキングのようにその人気が数量化され、一定の時間がたてば発表もされます

 逆に、子規の時代にこうした「Blog」があったら、写生文日記の大ブームが起き
子規もその面白さに病も吹っ飛んで、もっと長生きできたかもしれませんね
(子規は明治35年36歳の若さで早世しました)
正岡子規は その頃に何を眺め 何を思い
そして こういうことを始めたのだろうか? と いつも思う。

文語による文章の時代にあって 私的な文書ではなく
公的に近い文語の文書を綴れる実数的には極めて乏しい者達が
その文語の文書を綴る時などなどは どんな意図が込められていたのだろうか?
正岡子規は そういう事は考えたりはしなかったのだろうか?

更に考えれば
広く流布される事を前提に文書を綴ろうとした者達は 何を考えていただろうか?
明治期の新聞社で働いた事もある正岡子規は そういう事も考えたりはしたのだろうか?

そして21世紀の今、
赤松小三郎の暗殺の異様なまでの詳細において
明らかにおかしい その暗殺の当事者とされる中村半次郎の日記の詳細ばかりが
ネットの日本語圏では容易に見つかるのに、
本来は もっと重要に極まりないはずの
その赤松小三郎の「御改正口上書」は その詳細が何故に此処まで徹底的に出てこないのか?

全く同じような経験を ウチのブログも つい最近にしましたね。
誠天調書 2010年08月13日: 浜田幸一 の向こうで流れるカネ。 三井埠頭事件 その1。
誠天調書 2010年08月14日: 三井埠頭事件 その2。 コイズミ改革の原点?
わずか四半世紀前の大きな事件なのに 此処まで圧倒的な情報量不足がネットの日本語圏で起きる。

しかも両者には 極めて密接な共通点がある。




俺は自殺をしないけど
俺や俺の周囲に不可思議な事件が起きないと良いなぁ、
って いつも すごく思う。
ただ それだけ。


ウチのブログへは 様々な人達が御来訪して頂けてます。
分かりやすい工作員が 猛烈に押し寄せては IPを晒し続けてきたので 随分と減りましたがねw
分かりやすい工作員達は 嘘デマ扇動を何度でも何度でも何度でも執拗に繰り返し続けてきましたね。
そういうのを ウチのブログ以外でも
ネットの日本語圏のアチコチで 分かりやすい形で 今日も続けていますねw

そして 以前にウチのブログで
似非右翼ヤクザの街宣車が不思議と何十年も千葉県警に駐車違反されない
とググルのストリートビューを使って書いたら 何故か程なくして居なくなりましたね、
まぁ そういう所も見てるんだなぁ、という訳で。

特に接点がある訳でもないですが 元自民党議員の関係者も近辺に居たり居なかったり でもあり
なんか最近 急に その手の分かりやすいチンピラを よく見かけるなぁ でもあり、
つい先日に
寺澤有 THE INCIDENTS 2010年 8月 12日(木曜日)  長崎県警鑑識課はハメ撮り写真の現像所だった
http://www.incidents.jp/news/
なんてのも平然とあったりするので、
誠天調書が いきなり消えたり いきなり更新が止まり続ける
つーのも全く不思議じゃないですね。

俺は 本当に 後ろ盾の全くない下層民の一人にすぎないですからね。虫を踏み潰すより簡単でしょうね。



さてNHKは 大河ドラマ「竜馬伝」の中で
やっぱり当然にw 赤松小三郎を全く描いてきていませんが、
ウチは色々な不思議な人が御来訪して頂けてますので 何が起きるかは存じ上げませんが
これから急に赤松小三郎を描くのかもしれませんが まぁ どうでも良いですね、
NHKの正体なんざ 今更ですしねw





誰も言わない龍馬伝 (田中良紹の「国会探検」)

 坂本龍馬は今や国民的英雄である。幕末維新の激動期に一介の浪人でありながら薩長同盟を実現させ、大政奉還を図った話を知らない人はいない。しかし龍馬に「閑愁録」と「藩論」という二冊の出版物があることを知る人は少ない。

 あの司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」では、「竜馬は『藩論』という新国家構想についての評論を口述して長岡謙吉が文章にし、長岡自身も『閑愁録』という宗教問題をあつかった評論を書き、いずれも著者名をいれず、『海援隊蔵版』という名目で出版した」と簡単な記述があるだけで、その内容や意味するところには言及していない。

 因みに司馬氏は「閑愁録」を長岡謙吉の著作としているが、「閑愁録」は「キリスト教を禁じてはいけないが、日本人が古来から信じてきた仏教を捨ててはならない」という内容で、キリスト教信者として土佐藩から蟄居を命ぜられた事のある長岡謙吉の書というより、これも龍馬の思想的影響によって書かれたと考えるのが妥当だと思う。

 「閑愁録」は慶応3年5月に出版された。その翌月に龍馬は夕顔丸に乗船し、長崎から上京する船中で長岡謙吉に「船中八策」を口述筆記させている。ここに徳川幕府に代わる近代国家の構想が初めて提示された。

 それによると、まず徳川は政権を朝廷に返還し、次に二院制の議会を設置してすべてを議論で決し、有名無実の官を廃して天下の人材を登用し、外交の確立と憲法の制定を行い、海軍の強化など兵制を確立し、さらには外国と対等の為替相場を実現する事を提案している。龍馬は封建的専制政治から二院制議会による立憲政治への転換を指し示した。

 その後、龍馬の考える大政奉還の方針と薩長の武力倒幕の方針とが激突する。龍馬は力による政権交代を徳川の権力が薩摩や長州に移るだけだと捉え、「公武合体」、言い換えれば「大連立」による平和的政権交代に情熱を注いだ。実際、慶応3年10月に徳川慶喜が大政奉還を決断すると「慶喜のために一命を捧げる」とまで言って涙を流し、ただちに新政府の人事案作成に取りかかっている。

 内閣総理大臣に当たる関白に公家の三条実美、副総理に当たる副関白に徳川慶喜を充て、それを支える重役には四賢候と呼ばれた藩主や岩倉具視らの公家、さらに西郷、大久保など薩長の藩士と学者の横井小楠も内閣に参加させている。いわば幕末日本のドリームチームとも言える布陣を考えた。

 ところが武力倒幕を準備していた岩倉や薩長にとって龍馬の大政奉還論は障害であった。西郷の命を受けて江戸市中を荒らし回る「御用盗」が組織され、徳川幕府に対する挑発行為が始まる。その頃に京都で龍馬は暗殺された。挑発に乗った幕府が江戸の薩摩屋敷を攻撃した事から、大政奉還したにも関わらず、戊申戦争の幕が切って落とされ、賊軍となった幕府と官軍との戦いが始まるのである。

 「藩論」は戊辰戦争がまだ終わらない明治元年12月に出版された。木版16頁の小冊子だが新時代に藩が行うべき政治の在り方が書かれている。そこには、藩にあって領民は全てが平等であり、武士階級以外の町人や農民にも選挙権を与え、しかし衆愚政治に陥らぬよう一回の選挙で選ばれた人々がさらに互選によって有能な人物を選び出し、議会制度で政治を行うべきだと書かれている。

 「藩論」の内容に衝撃を受けたのは日本人ではない。日本に駐在していた英国公使パークスである。英訳された「藩論」が英国外務省に送られた。英国外務省公文書館に保存されていた「藩論」が世に出たのは明治43年である。貴族院議員の千頭(ちかみ)清臣が英字新聞「ジャパン・クロニクル」に「日本に於ける立憲思想の原点」として英語版「藩論」を掲載した。こうして世に出た「藩論」の思想を日本人が知らないのは何故なのか。

 坂本龍馬の「船中八策」は明治天皇の「五箇条のご誓文」にある「広く会議を興し万機公論に決すべし」の原型になったと言われる。しかし「藩論」を読むと全く違うと私は思う。幕末に議会制の導入を考えていたのは龍馬だけではない。幕臣の勝海舟や西周(あまね)らも考えていた。特に西周は英国型の二院制を日本に取り入れ、上院議員には藩主、下院議員には藩士がなり、上院議長に徳川慶喜が就任すれば、徳川体制は温存されると考えた。

 「五箇条のご誓文」を書いたのは木戸孝允らだが、龍馬のように庶民にまで選挙権を与えようとした訳ではない。あくまでも武士階級による合議制が言われたに過ぎない。国民から選ばれる民選議会は明治23年にようやく実現するが、それも国民の1%程度に選挙権が与えられただけで、普通選挙法が実現するまでにはさらに35年を要した。

 徳川時代の身分制は廃止されても、明治2年には「皇族、華族、士族、平民」という新たな身分制が生まれ、明治3年には絶対的な天皇権力をうち立てるため天皇を神格化し神道を国教とする祭政一致の国家方針が示された。そのために古来からの仏教施設を破壊する「廃仏毀釈」が行われる。この愚行も仏教を捨ててはならぬとした「閑愁録」の思想と反する。

 明治4年に欧米を視察した岩倉使節団が強く影響を受けたのはプロシャの鉄血宰相ビスマルクで、議会嫌いのビスマルクから絶対君主と官僚による国造りが進言された。こうして薩長藩閥政府による官僚政治が始まり、士族以上の階級が官僚となって平民を支配し、「官吏侮辱罪」と「公務執行妨害罪」によって「官尊民卑」の思想が育まれた。

 このように龍馬の思想は明治政府に生かされる事はなかった。薩長藩閥政府に対抗した自由民権運動の中に龍馬の夢は甦るが、しかし官僚政府はこれを厳しく弾圧し、ようやく国会が開設されると、今度は選挙で選ばれた政治家を無力化する施策が打ち出された。「超然主義」を宣言した政府は国会が決めた事を「超然と」無視する姿勢を貫き、力のある政治家が現れると必ず「金権」のレッテルを貼って国民の怒りの対象にした。

 国民が選挙によって権力を作る。龍馬が夢見た基本的な原理を明治以来の官僚権力が阻んできた。そのため薩長倒幕派に都合の良い龍馬像に光が当てられ、龍馬の思想は封印されてきたと私は思う。戦後民主主義と言ったところで、占領下ではアメリカという絶対権力に支配され、独立後は選挙で過半数を超える候補者を立てない「野党」の存在によって国民は権力を作ることが出来なかった。

 初めて龍馬の夢が叶ったと思わせたのが昨年の選挙である。初の政権交代は海外からも注目された。ところが1年を経て見えてきたのは衆参の「ねじれ」が付きまとうこの国の政治構造である。今後民主党が政権を続けても自民党に政権交代をしても両党とも「ねじれ」を解消するのは容易ではない。つまり国民が選挙で作る権力は常に非力にしかならない。これは官僚権力にとって望ましい状況である。

 この大本を変える事が出来るのは従って選挙ではない。日本国憲法に関わる話だから民主党と自民党とが手を組まない限り実現しない。龍馬が情熱を注いだ「公武合体」のように「大連立」的状況だけが国の構造を変え得る手段となる。妙な話だが「民主主義的でない」と思われている方法が「民主主義を強くする」唯一の方法となるのである。


投稿者: 田中良紹 日時: 2010年8月18日 11:36


田中様の説納得しました。

私は明治維新は市民革命でなく、冷や飯食いの下級武士と貴族の反乱とみています。
だから民主主義など最初から念頭にはなかったのです。

江戸時代は士農工商という身分制とあったが、
米経済から貨幣経済に移り、欧州のような厳格な身分制度でもなく、金が全ての世になっていた。
金で商人は武士になり、武士の娘を嫁にもらった。

参勤交代の都度西日本の大名は大阪の豪商に家老が下座で挨拶に伺っており、
格式の高い吉原、新町や島原は金のない下級武士は断っていた。実質は商人の天下でもあった。

赤穂浪士の討ち入りが大阪ですぐに上演され、町人が観劇する、曽根崎心中に大阪中の町娘が涙する
という非為政者など、当時の世界ではないのである。

ジパングと言われた金、銀の世界一の輸出国日本は幕府が大奥で大散財して、
町人が流通を握り、文化の花を咲かした時代である。

江戸では将軍の奥方に衣装比べを仕掛けた商人の嫁もいたほどで、
さすがに蟄居追放されたが、その心意気はすざましい。

これに対して武士は貧しく不満が鬱積していたのではないか。
それが攘夷、勤皇という大義で爆発したが、
主導権を取ったのは密貿易で豊かな薩摩藩と長州藩であった。

土佐藩出身の竜馬は
関ヶ原で西軍の被支配者長宗我部藩の出身で郷士として武士以下で
薩摩の武士とは違ったのであろう。
だから民主思想を持ったのではないか。

明治維新後の政府は維新に功績があった薩長藩閥政府で とても市民革命ではない。
竜馬がそういう考えであったとは初めて知った。
暗殺されるのも当然だったのか、
その後大久保の官権に対して江藤が民権を訴えたが退けられ、
薩長藩閥政治が続き、戦時体制時にプロパーの官僚が台頭して戦後更に官僚体制が強化されて
今日に至っていると理解している。

戦時体制以前は一方で江戸時代の豪商による資本家層が厚く、
薩長の修羅場をくぐり抜けた武士とともに官僚など事務方と馬鹿にされたものである。

それが戦時体制で一変し、戦後資本家層が失脚し、薩長組も消滅して、官僚の大天下となったのである。
それを崩そうとするのは並大抵のことではなく、
与党のオリジナル民主党を嘯く者達などは簡単に軍門へ下ってしまった。

投稿者: 奥野 | 2010年8月18日 14:28


明治維新については美名ばかりが聞こえますが、
私は単なる下克上にしか思えません。

西欧の植民地政策に竜馬等志士らが藩主を口説き維新を成し遂げたように言われますが、
出島というキーワードを思えば薩摩・長州・肥後が官軍の中心であった事も納得出来ましょう。

しかし、幕臣の勝安房や小栗上野介、長岡藩の河井継之助のように
重臣クラスで西欧の強大さと脅威を理解し将来に備えた者がいたことを思うと
真実は違うと思えます。

東郷平八郎が日露戦争の日本海海戦での勝利が小栗のおかげと言ったことは有名な話のようだ。
小栗は幕臣として失脚させられ上野国群馬郡権田村に引きこもるが
戊辰戦争の最中、官軍に捕まり評定無しに斬首された。
有能というものは悲劇を呼ぶ、
武士を切腹でなく斬首とは官軍にとって小栗は脅威でしかなかったのだろうか?

このことを知るに戊辰戦争は竜馬の想いとは別に
薩長の下克上である臭いが強くなる。

竜馬が勝安房の弟子であることは周知の事実であるが、
勝が渡米した折、小栗と福澤諭吉も一緒だった事を考えると
島津斉彬と老中・阿部正弘の死が維新をなさしめたのかも知れない。

島津斉彬が佐幕派であった事を思うと
やはり維新は権力争いの下克上でしかなかったと言えよう。
卑しい欲望の前に純真な竜馬の想いは暗殺、倒幕と踏みにじられた。

その後の明治政府のあり方は
邪な薩長土肥の奴等の強欲さを表し そして現代の官僚に引き継がれている、
そう思うと妙に納得が行くと思いますが、いかがでしょう?


投稿者: あらいぐま | 2010年8月18日 17:32

あらいぐまさんも言及されているが小栗忠順の可能性にもっと注目すべきである。
竜馬でも龍馬でもどっちでもいいが、
この男が出てくるだけで幕末が固定化されて語られてしまうので
いつまでたっても佐幕派からの答えに灯が当たらない。

惹かれものの小唄のように小栗や西周に注目すると変人みたいな扱いで、脇に押しやられるのが関の山だ。
明治維新を革命であると言い切った(かなり意図的に)司馬遼太郎は
おそらく明治維新は革命でないことを知っていただろう。

ひたすら辛い戦争従軍体験のトラウマから昭和の暗さと対置させ
明治日本近代勃興期の息吹を活き活きと書き上げたかった司馬は
資料魔でもあったから小栗のことも当然知っていたはず(小栗は明治の父と評している)だが、
司馬にとって幕末は幕府の消滅で維新成就の立役者で終わるべき存在である以上、
幕府の亡霊が明治に甦って影響力を及ぼすなどという物語は書けなかったのだろう。

龍馬を必要以上に快男子に描いたのもそういうところからだろう。
小栗のエピソードは龍馬以上に面白い話が山とあるのに
佐幕派というだけで振り返られることがまずない。
数年前、NHKでドラマになった。勝海舟が相変わらず小栗のライバル扱いとして描かれていたが
勝ごときが小栗とライバルとは…ムム…!!

投稿者: 伊藤ゆうき | 2010年8月19日 00:02


田中論説で、新たなる歴史認識が深まって改めて感慨深く拝読させていただきました。

>初めて龍馬の夢が叶ったと思わせたのが昨年の選挙である。初の政権交代は海外からも注目された。ところが1年を経て見えてきたのは衆参の「ねじれ」が付きまとうこの国の政治構造である。<

龍馬さんも、昨年の政権交代を喜んで、
そして今は居た堪れない思いで日本を見ているのでしょうね。

「ねじれ」が良いなどというマスコミは相変わらずの御用振りです。

国民側からしてみれば、改革を望み、国民生活が第一の政策を望んでいたのが、
全てに反対と妥協を迫れれた、骨抜きの改革しか出来ない。

いわば既得賢者が今回の参議院選挙で守られたと言うこと。
民主党内の改革本気派は落胆し、消極派はホッとしたのだと思います。


田中さんの言われる
>この大本を変える事が出来るのは従って選挙ではない。日本国憲法に関わる話だから民主党と自民党とが手を組まない限り実現しない。<

大筋では正しく、本来は憲法改正し、衆議院の議決のみが国を運営し、参議院は違う政策を審議する役割分担を変えるというのが望ましいと思います。

信任された政権が、次期選挙まで数年間、政権担当し政策を実現する。その信任を選挙で賛否すると言う当たり前のことを出来る国にして欲しい。

しかし、現実に無理があり、大連立自体、地方自治選挙を考えれば
夢物語ではないですかね。

残された選択は、参議院の多数派に成る連立しかないのだと思います。その連立が長くなり、一方の大政党を無くすぐらいに成らなければ憲法改正など出来ないとの認識ですが・・・

投稿者: ウー | 2010年8月19日 11:00



田中様

連立大賛成です。法案ごとに相手が代わるということは、論理的に成り立っても、実際には機能しません。時間と労力の無駄だけでなく、日本がどちらの方向に向いていくのか、皆目わからなくなってしまうからです。特に気をつけなければならないのは、法案ごとに、マスコミがアンケートなどをとって、方向付けしかねません。

連立を組むときは、あくまでも政策をすり合わせ、共同党体制が組めなければなりません。また、現在の議員が次の選挙に安心して取り組める相手でないと、政策実行に魂が入りません。
気が早いとは思いますが、小沢氏が総理になれば協力する党が多く出てくると思いますが、政策第一、国民第一、行財政改革、地域主権に同意できる党と手を結んでほしい。

投稿者: yamadataro | 2010年8月19日 11:30
大連立を 今までの慣例のみで捉えては 進む話も進まないだろうねw

俺なら 有無を言わさず
とりあえず自民党やみんなの党や公明党から政務官を何人か指名するね
自民へは副大臣枠ですら与えるね。
最初のうちは与党側のみで大臣は抑えるけど、
状況次第では 大臣枠だって開放するね。

連立協議?知らねーなw
1. ともかく内閣に取り込む
2. 国会運営は できる限り党議拘束を外して を軸に投票を行わせる、

この2点のみで充分だ。
まず 明治政権以降の国政運営の慣例を打破し そういう先例を作る事が 小沢政権の仕事となろう。

内閣で一緒になり 党議拘束を外した投票を増やす
連立協議をするしないに関わらず これもまた緩やかな形の大連立である。
既に その布石すら打たれている
党議拘束 臓器移植 - Google 検索
政権交代直前の麻生政権の末期の その最後の解散直前になって この投票は行われた、
その不自然さを 俺は今でも思い出す。この一手を打ったのは誰だ?ww
あの時の姿は 緩やかな大連立の第一歩でもある とか思う。

公武合体の大連立を夢に見た幕末の者達の その先の第一歩をも小沢が踏み出す
それもまた面白いと思う。

大連立という言葉に囚われ過ぎれば 既存の政治的慣例に囚われすぎれば
其処こそが嘘デマ扇動という落とし穴への一本道となる。

党議拘束を外す のみでは駄目なのだ、内閣に取り込む だけでも駄目なのだ。
両方が合ってこそ 初めて「緩やかな大連立」の第一歩となる。

つーか
この程度の事すら出来なかった安倍福田麻生政権や
この程度の事すら切りだせなかった菅政権 は
どんだけ頭が悪いか って事の証明だわな。


まぁ 犬畜生に知性を求める俺が馬鹿なんだろうけどさw




追記
http://plaza.rakuten.co.jp/tanpakumeisi/diary/201008240000/
横井小楠 - Wikipedia
横井小楠は私塾「四時軒」(しじけん)を開き、多くの門弟を輩出した。
また、坂本龍馬や井上毅など、
明治維新の立役者やのちの明治新政府の中枢の多くもここを訪問している。
元治元年(1864 年)2月に熊本で龍馬は横井小楠を訪ね、
横井小楠はのちの龍馬の船中八策の原案となる『国是七条』を説いた。
横井小楠に関する情報は 圧倒的に多いよねw
儒教思想家の人のようです、それゆえに難解に極まりないですw
そういう点では赤松小三郎の方が政治思想家なので話は分かりやすいですね。
でも何故か不思議に横井小楠の名前の方が有名です 不思議だなぁwwwwwww

書名 横井小楠 著者名 松浦玲 朝日評伝選
 徳川幕府の利害のみを考える「御一家の私事を経営するのみ」と幕政を批判し、
英米諸国が発展した姿はより夏殷周三代の治政に近いと評価する。

華盛頓(ワシントン)は三つの方針を立てたと語る。
それは、争いをしない。
知識を世界中から集め、
そして大統領の権限を
「賢に譲りて子に伝えず」
「君臣の議を廃して一向公共和平をもって務めとし」としたことである。

先帝三代が親子相伝をしなかったことからも血統による相続を重んじてはいない。
ただし、西洋民主主義を礼賛しているわけではない。
儒教に照らして正しい道であると評価しているだけである。
従って、西欧的な近代個人主義を横井小楠は評価しているのではない。


この点が,貴重でありまた思想的に複雑で大衆的に浸透しなかった点である。
あ コレは早すぎるわw
当時の幕末期の日本で コレを飲み込められる奴は殆どいないわなw
21世紀の今ですら 馬鹿で豚に過ぎない民衆へコレを飲み下すを 期待はできないだろうねw

ただし どっちにせよ血統の相続を否定しながら
民主主義の必要性も説きながら絶対性をも否定するまで透徹した思想の持ち主が
薩長政権から如何に思われるかは 想像に難くないだろうw

で 面白いのが 坂本竜馬の船中八策の元になったモデルとは赤松小三郎ではなく
横井小楠 - Wikipediaとなっている点
横井小楠を演じた役者 [編集]
菅井一郎(NHK大河ドラマ『竜馬がゆく』、1968年)
林孝一(NHK大河ドラマ『勝海舟』、1976年)
高橋長英(NHK大河ドラマ『徳川慶喜』、1998年)
山崎一(NHK大河ドラマ『龍馬伝』、2010年5月16日)
俺からすれば
政治家的な考え方をする坂本竜馬は
様々な人に出会い 横井小楠や赤松小三郎や他の人々の言葉を自分の中で消化させて
そして船中八策とした ように思える。
当時の海外にある政治情勢を知る人は やはり当然にいる訳であり
たった一人の人間の思想に偏るのみではなく 様々な人間の意見を坂本の中で咀嚼して船中八策とする、
というのは至極に自然な事だからね
俺のブログだって 似たようなもんだしw

だからこそ更に思う、
なのに 船中八策に関わる人物を不思議に横井小楠へと絞り 赤松小三郎を排除する理由は何か?

明治元年(1868年)、新政府に参与として出仕するが、
翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で暗殺される。
享年61。

殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったと言われている。
しかも弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が
裁判において横井が書いたとする『天道覚明書』という偽書を作成して
横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発する
など、大混乱に陥った。

紆余曲折の末、実行者であった十津川郷士ら4名が明治3年に処刑される事となった。

http://www.geocities.jp/npowaro/raku-13.htm
1867年、慶応3年12月、明治政府から横井小楠登用の知らせが来る。
年が明けて4月制度局判事。更に制度改正によって太政官の元に7官が置かれ、
参与は議定とともに議政官の上局を構成する。
その新しい参与制度(7名)には大久保利通、木戸孝允、後藤象二郎らとともに横井小楠も任命される。

しかし、京都に上がった横井小楠が力を振ることはなかった。
横井小楠自身は幕府との接点の方が強く 先に勝海舟が幕府へ招き入れた、
もっとも 予想通りに上手くいかなかったけどねw 学者≠政治家だからね。

勝海舟が怖れたのは横井小楠の思想を西郷南洲が政治実践することであった。
恐ろしいとは徳川幕府にとっての文脈であった。

けれども、明治政府にあっても「尋常の物差しでは分からない」小楠を使うのは困難であった。

同じく「氷川清話」で
「維新の始めに大久保すら、小楠を招いたけれど思いのほかだ、といつて居た。」と語る。
日本のみの利益を優先させ、富国強兵に走ろうとしていた大久保利通には、
「思いのほか」という違和感があったのだろう。

1869年、明治2年正月5日。
太政官より帰宅途中、御所寺町門から出てきた横井小楠の駕籠は、
寺町丸太町を下ったところで襲われる。
61歳。

「夷賊に同心し天主教を海内に蔓延せしめんとす」との理由で暗殺された。
天才的な思想家は珍妙な誤解により志を断たれた。
その難解で天才的思想家という名前 と 坂本竜馬という接点だけは残して
皇族の権威を後ろ盾にしながら薩長という「権力を握った者達」とは直接に関わらない者による
珍妙で不可思議な暗殺が起きて、
なおかつ薩長明治政権が その暗殺者をキッチリ処刑しきる。

いやいやいや 素晴らしいなぁwwwwwww
21世紀へ至って なおも同じような事が繰り返し繰り返し起きてる気がするのは
きっと俺の気のせいですねwwwwwww

ま 俺が これ以上に言うまでの話でもないかw


http://plaza.rakuten.co.jp/tanpakumeisi/diary/201008240000/
竜馬以上の先見の明を持つ赤松小三郎は、薩長の「藩閥田舎サムライ」の邪魔者になって殺された。

似たような末路は、
「ここで日本にも仁義の大道を起さねばならぬ、強国になるのではない。
 そして此の道を明らかにして世界の世話やきにならねばならぬ。
 一発に一万も二万も戦死すると云う様なる事は必ず止めさせねばならぬ。
 そこで我日本は印度になるか、世界第一等の仁義の国になるか、頓と此の二筋の外には無い。」
と説き、民主政治も主張した横井小楠も、不明な暗殺で死ぬ。

維新は、暗殺とテロでなされた「ペテン」と「下克上」での、クーデターに過ぎない。
三傑の内治の柱・大久保利通や大村益次郎も暗殺に倒れる。
あまりに惜しいとはいえ、因果応報・・・。

その弊風が、515・226・満州事変等、軍隊の暴走や国内のテロで混乱した日本が、
あの敗北へ突き進む。
その末裔達が同じ事を繰り返しては 21世紀初頭の日本の末路へと突き進めさせた訳で、
この点を 未だに省みさせようとしない者達を 未だ省みようとしない者達を
だから俺は 大馬鹿野郎かパラノイアか詐欺師か と決め付けているんだけどね。








ゲンダイ的考察日記 官僚の操り人形と化した菅政権の醜態

http://www.asyura2.com/10/senkyo92/msg/825.html
ゲンダイ的考察日記 なぜ闘いを棄てたのか菅政権





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