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2013年05月22日

長いナイフの夜

RT @Godonof
昨今の情勢をつらつら眺めて行くうちに、思う所あって「長いナイフの夜」について調べている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E3%81%84%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%95%E3%81%AE%E5%A4%9C
posted at 04:00:49
これを ウツクシイ とするか キチガイ沙汰 とするか、で 其の人の生き方や価値観や美意識が計れる。
・ウツクシイ と言うのが一神教で野蛮人
・ウツクシイけどキチガイ沙汰 とするのが 一神教で文明人 や 多神教で野蛮人
・キチガイ沙汰 とだけで終わってしまう のが 下士官層の居ない多神教で文明人の社会共同体

それはともかく、俺も気になった。
そういう事件が有った事は知っていたけど 詳細を読んだ事は無かった。



長いナイフの夜 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E3%81%84%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%95%E3%81%AE%E5%A4%9C
という名称って何なんだろう? と むしろ疑問に思う。
っていうか ↓ のリンクが無いのね

長いナイフの夜 (小説) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E3%81%84%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%95%E3%81%AE%E5%A4%9C_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
小説の題名かぁ。 

ハンス・ヘルムート・キルスト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88

http://www.h2.dion.ne.jp/~yacinema/Wehrmacht/contents/honbun/prologue/prologue5.htm
長いナイフの夜


http://narazumono20-21.seesaa.net/article/232920619.html

http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/yougo/nagai.html


もう一つ
事件名は、
 5世紀ウェールズでのザクセン人傭兵による、
 ブリテン人への宴席での騙し討ち(隠し持った長ナイフによる殺害)
に ちなむ。
の話が 気になった。
すぐに見つけられなかったので。

ザクセン人 サクソン人 ブリテン島の歴史 等々で調べても イマイチに分からなかった
そもそも5世紀のブリテン島の歴史は 良く分かって無い だと記憶していた。

帝政ローマ末期 ラインの向こうの野蛮人なゲルマンに押されまくるようになったローマ帝国は
407年にローマ軍団がブリテン島から完全に撤退をする、
撤退する というよりも 内部の権力闘争を優先して統治を放棄しただけ という
一神教で野蛮人な性癖が丸出しとなっただけ なのだが。
なので 此の場合の撤退と言う のは 転進と言う意味 な内実に等しい。

その後のブリテン島の5世紀の歴史は アーサー王の“伝説” という形になっている。
そういう人物が居た という事になっているが 完全確定では無い つーか 殆ど証拠は無い ので
どうしても“伝説”と歴史の境目に有る。 邪馬台国よりはマシか。


http://www.vivonet.co.jp/rekisi/a10_england/norman.html
407年、ついにローマはブリタニアを放棄し大陸に引き上げた。
ローマが撤退すると、残されたケルト人が小国家を作るが、
デンマークや北ドイツにいたゲルマン人の一派アングロサクソン人の進入が相次いだ。

一時ブリトン人の伝説の王アーサーが侵略者を押し戻すが、
7世紀頃にはアングロサクソン人の7つの王国(七王国:ヘプターキー/Heptarchy)が
イングランドを支配した。
彼らの言葉が英語の基礎となった。

追われたブリトン人は、西部のウェールズや南西部の不毛地帯コーンウォールに移り住んだ。
また、海に逃れたブリトン人は、小ブリタニア(フランスのブルターニュ地方)に移り住んだ。
ブリテン島は、小ブリタニアと区別して大ブリテン(グレートブリテン)と呼ばれるようになった。


http://www.ne.jp/asahi/gwyns/garden/history-england1.htm
帝国末期に、辺境から皇帝の名乗り兵を上げる自称皇帝が何人も現れました。

キリスト教を容認したことで有名なコンスタンティヌス1世も、
ブリテン島中部のヨークで皇帝へ名乗りを上げています。

406年12月に
凍結したライン川を渡ってゲルマン諸族が大挙してガリア地域に押し寄せてきました。

混乱したガリア地域を制圧するため、
ブリトン人ローマ兵が、407年にコンスタンティヌス3世の名乗りを上げ
ブリテン島に残っていたローマ軍の正規兵を勝手に引き連れて大陸へ渡り 撃退はしました。
しかし その後に 正規兵がブリテン島へ戻る事は有りませんでした。

ここから、ブリテン島はローマの支配から離れてゆくことになります。

ローマ軍とは
・ローマ人(ローマ市民権を持つ者 此の時代の頃は 極めて多民族性が強くなっていた)
 で構成される正規兵
・非ローマ人(ローマ市民権を持たない者 此の場合に現地登用をしていた)
 で構成される非正規兵
の2種類が居て
・最前線で戦うのが正規兵
・補助的な任務に従事する非正規兵
という役割分担が為されていた。

非正規兵は現地登用をして「25年の満期除隊をするとローマ市民権が貰える」という形式により
共同体をローマ人と現地人が一緒に担う を構築していた。

けれども正規兵は こうして権力の道具に使われる事も多かった。

ホノリウス とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E3%83%9B%E3%83%8E%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9
ローマ帝国西帝。在位393‐423年。テオドシウス1世の次子。父帝の生前,すでに正帝に挙げられていたが,統治の実権は後見役のスティリコが握り,スティリコ処刑(408)後は,オリュンピウスや将軍コンスタンティウスらが実力者となった。その治世には,ゲルマン諸族のライン渡河(406‐407),西ゴートによるローマ市略奪(410)などゲルマンの災禍が深刻化し,簒奪帝の相次ぐ興亡,ブリタニアにおける実質的な支配権喪失など危機的状況が続いたが,ホノリウスは主体的行動力・気力を欠き,ラベンナの宮廷を離れることはほとんどなかった。

410年
皇帝ホノリウスはブリタニア属州の放棄を宣言し,ここにローマン・ブリテン時代は終わった。

結局に 正規兵を戻す どころか もうブリテン島は維持できない として放棄をしてしまう。
こうなると 元々にブリテン島への民族大移動を続けていた
 北部のピクト人、
 アイルランドのスコット人
 大陸からゲルマン系のアングル人、サクソン人
の連中を押し止める兵が居なくなる。

そうは言っても ブリテン人 だって 為すがままのはずが無い。
という訳で
 残された非正規兵な補助兵の者達が 奮戦を始めたのではないか?
 其の話の先に アーサー王の伝説 が生じた
という説を俺も考えている。


アーサー王 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E7%8E%8B
アーサーの歴史性を証明する、信頼できる初期の史料は非常に乏しい。

そのため現代の多くの歴史家がローマ影響下時代のブリテン島の歴史叙述でアーサーを除外している。
歴史家トーマス・チャールズ=エドワーズは、
「現段階では、アーサーという人物はいたかもしれない、としか言いようがない。
 歴史家としてアーサーを評価することは不可能である」
としている。

このような見方が最近の比較的一般的な見解である。


ギルダス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%80%E3%82%B9
ギルダス(Gildas、494年または516年生-570年没)は6世紀、イングランドのケルト系キリスト教の高位僧。

年代など不確実な点も多いが、
史料の少ない七王国時代の同時代史としての情報を現在の我々に提供している。

ギルダスの『ブリトン人の没落』は、直接に歴史事項を書かれていたわけではないが、
歴史学者から非常に重要なものとしての位置づけをされている。

これは この時代の同時代人の近いブリトン人として書かれた、
5世紀、6世紀を記した現存する資料としては唯一のもの
 である。

通常この書物が書かれた時代は540年代の内とされていたが、
現在ではもっと早い時期のもの、すなわち6世紀初頭以前、の可能性もある事が分かっている。

この書に書かれた描写、国土が侵略者に荒らされ、腐敗、堕落した指導者の無法さ
といった描写は何世紀もの間学者たちの間で現実にあった事であるとして受け入れられてきた。

後世の人々はこの時代に蛮族がローマ人の築いた文明を侵略、破壊したと当然に思っていたし、
またこの時徹底的な破壊がイングランドにロマンス語が根付かなかった理由付けにもなった。

すなわちローマの支配を受けていたはずのイングランドが
ラテン語とは言語学的にそれほど近い関係でない英語を話すようになった理由の説明もできた。

しかしながらギルダスが このように描写した意図として
 旧約聖書の預言に即して同時代の出来事を書いており、
 決して後代の資料のために書いたものではなかった
事は留意しなければならない。

ギルダスはハドリアヌスの長城を記述しているが、非常に不正確な描写をしており、
また彼の伝えたい事とは関係ない詳細は記述されてはいない。

そのような短所は見受けられるが、
『ブリトン人の没落』は中世の資料としてだけではなく、
6世紀から現存しているブリテン島で書かれた数少ない資料として
イングランドの歴史としても重要なものである事には変わりない。

またギルダスは著述の中で、彼の生まれた年にバドン山の戦いが起こったと書いている。
カンブリア年代記には彼の死は570年とされている。
しかしティゲルナッハ年代記(Annales of Tigernach)には569年となっている。
厳格な一神教の下僕からすれば ローマとブリテンという多神教の関係 だけでも邪悪に見えるだろうし
その後の混乱の時代を考えれば 如何なる書き方をするのか? は
311以降の極東の一諸島の情報流通を知る者ならば 簡単に想像できると思う。


http://www.ne.jp/asahi/gwyns/garden/history-england1.htm
5世紀初め頃にローマ正規軍がいなくなった後のブリタニアは、
北部のピクト人、アイルランドのスコット人の侵攻に苦しんでいました。
その頃から、大陸からゲルマン系のアングル人、サクソン人がブリテン島に来始めたとされています。

 敵に対抗する為に 敵のサクソン人を傭兵を雇う ということもしましたが、
 これは大陸からサクソン人の侵入を許すきっかけにもなった

ともいわれます。

こうして 5世紀から6世紀にかけて、
大陸からアングル人、サクソン人を中心としたゲルマン系諸族がブリテン島へ渡り、
先住者のブリトン人と争いながら しかし定着をしていきます。

ローマン・ブリテン(ローマ文化を背景としたブリテン)は、
このような状況の中で徐々に失われていきました。

アーサー王伝説の最も古い原型は この頃のあると考えられています。
サクソン人の侵入と戦うブリトン人のローマ兵 という像です。



しかし、それを裏付ける資料は少なく、真偽のほどは定かではありません。

文字による記録がない混乱の時代が どうなっていたのかを知るのは難しく、
文字文献に頼る歴史学において この時代は、文化の灯火が消えた暗黒時代とされてきました。

つまり
5世紀ウェールズでの
 ザクセン人傭兵による、ブリテン人への宴席での騙し討ち(隠し持った長ナイフによる殺害)
に ちなむ。
この話に繋がる背景が見えてくる。



http://aitech.ac.jp/~yoshiga/WALES/HISTORY.html
5世紀初頭、ローマがウェールズから撤退すると、
ヴァイキングが海岸地帯を襲撃し、サクソン人が東方より迫って来た。

このサクソン人に対し、
 ブリトン人の王アーサーがバドニクスの丘で大勝利を収め、
 サクソン人の来寇をくい止めた
という伝説が生まれた。

しかし実際のウェールズのブリトン人は
577年のディラムの戦いと616年のチェスターの戦いで敗れ、
同胞であるコンウォール地域のブリトン人や北イングランド地方の北ブリトン人との関係を絶たれてしまった。


http://www5e.biglobe.ne.jp/~t-shibu/sub2.htm
ローマ軍が撤退したというニュースは直ぐに広がり、
早速に北方よりスコット族やピクトン族が攻め込んできた。

ブリトン人の首長達は
この侵略にたいして大陸のサクソン人やアングロ人の部隊を傭兵として雇い対抗した。

アングロ・サクソンの兵は強く、たちまちピクトン族を打ち破った。
しかし、今度はこのアングロ・サクソンの部族が戦争が終わっても引き上げようとしなかった。

それどころか、次々と大陸から渡ってきてブリトン人の土地を奪っていった。
そしてブリトン人とアングロ・サクソン人の間に激しい戦いが繰り広げられていった。

このような戦いの中で 各部族には英雄が生まれていった。
中でも有名なのが ブリトン側の英雄、アーサー王である。



彼にまつわる遺跡はウェールズやイングランド各地に点在する。
しかし、あまりに有名となりその名声が神話や神懸かり的な話となった為に
実在の人物ではなく伝説上の人物の如く誤解されている。

しかし最近の研究ではアーサー王、もしくは王に類した人は実在し、
その優れた軍事的才能sで数々の勝利を収め、
約半世紀に渡ってアングロ・サクソンの侵略を跳ね返していたと考えられている。

これらアーサー王等の英雄の頑張りも空しく、
アングロ・サクソン人は徐々にイングランドの平野部を征圧していき、
土着のブリトン人をウェールズのやコンワォール地方へ押し込めていった。

一部ブリトン人は海を渡り、今日のフランス・ブルターニュ地方へ逃げ延びていった。
この地方が現在も小ブリタニア( Little Britain )と呼ばれ、
イギリスの( Great Britain )と相対している。


こうして読む限り
 5世紀ウェールズでの
 ザクセン人傭兵による、ブリテン人への宴席での騙し討ち(隠し持った長ナイフによる殺害)

とは アーサー王の伝説 もしくは 其れらに近いは何かの話 なのだろう
という推察は出来る。
 ブリテンを守ろうとする者達は敵をも味方にして戦うも その「味方にした敵」に裏切られる
という事が起きた背景が見えてくる。


http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/briship/page006.html

http://www.sonicteam.com/arthurpedia/ka/ka_32.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A_(%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9)

http://blog.goo.ne.jp/qwer0987/e/bce2398dfac910b438c8b28f74697fae


ただ アーサー王とナチスを結ぶ直接の線 となると 簡単に思いつくのは 聖杯伝説 くらいだが
それだと よっぽどにドーデモイイな話 となりそうだしなぁw



http://yaplog.jp/aimi1123/archive/169
長いナイフの夜 はアーサー王伝説について(本編じゃなくて)調べたら出てくると思います。
書きにくいんだもん。
簡単にいえば自分の頂点のために約束を破る話。

「長いナイフの夜〜アーサー王伝説前夜〜」
統合しても 三日坊主

血判押しても 拭いとれ

口は信用するな

表理由を振りかざし

合理に合えば 同志と契約

信用交渉承諾条約

特別に見下すため 握手を払いのける

ブーツに収められた約束

勝利への確信

「さあ、サクソンよナイフを抜け」

そういう話が有ったんだろう というのは見えてくる。
そんな風に調べていくと、これは 欧州における故事の表現の一つ なのかな、なんて気がしてきた。


http://wikipedia.qwika.com/en2ja/Night_of_the_Long_Knives_(original)
(元の) 長いナイフの夜
長いナイフの夜 名前はある Monmouth のGeoffrey に与えた(多分 外典) 虐殺の イギリス チーフテン ジュート、 角度 そして Saxon 傭兵 a 修道院 (または多分 Stonehenge) ソールズベリー平原 カリフォルニア。 460。

従来 図 Vortigern、 高いイギリス王に似合ったかだれがによって英本国の放棄の結果として ローマ帝国、 角度そしてSaxons をからの誘った ドイツ 解決するため ケント として侵略を離れて保護の方法 Picts そして Scots。 解決者、 但し、 数で育った、 そして論争が支払に起こった時、 彼ら自身をイギリスの村を空襲し、独立した確立し始めた 王国。

長いナイフの夜、 Monmouth のGeoffery に従って、 a で起こった 宴会 現代日 Wiltshire 表面上にシールa に整理した 平和条約、 の譲与があるようにかどれ Essex そして サセックス と交換 近親結婚 間 ケントのRowena、 Saxon のチーフテンの娘 Hengest、 そしてVortigern 。 言われる、 物語はおそらく宴会で着かれた角度及びジュートを含んでいる"Saxons" が- - 武装したことを主張する、 意外イギリス、 虐殺されたかだれが。 様々にVortigern 彼自身は逃亡者だけとして記述されている、 そして St. Abbas。

歴史的 これらのでき事か人の何れかの存在はある 推測的。 原文の証拠は弱く、で始まる 第7 世紀。
↑これ “「英語のwikipedia」の曖昧さの回避の項目”の和約だよね、
と思って 此処から追い掛けたら ようやくに出てきた。

 ↓
http://en.wikipedia.org/wiki/Night_of_the_Long_Knives_(original)
Night of the Long Knives (Arthurian) - Wikipedia, the free encyclopedia

 ↓
Long Knives(アーサー王の)の夜−ウィキペディア、無料の百科事典
http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,een_ja,bT,uaHR0cDovL2VuLndpa2lwZWRpYS5vcmcvd2lraS9OaWdodF9vZl90aGVfTG9uZ19Lbml2ZXNfKG9yaWdpbmFsKQ==,qfor=0

Long KnivesのNightは、ジェフリーが5世紀にソールズベリー平原でアングロサクソンの傭兵によって現地の英国の族長の(おそらく出所の怪しい)裏切りの殺害に伝えた名前です。イベントはウェールズ語のブラッドy Cyllyll Hirion(「Long KnivesのTreachery」)として知られているようになって、サクソンの裏切りの突出した象徴になりました。


 ↓
ジェフリー・オブ・モンマス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%82%B9

ジェフリー・オブ・モンマス (Geoffrey of Monmouth , 
ウェールズ語表記:Gruffudd ap Arthur または Sieffre o Fynwy , 1100年頃 - 1155年頃)は、
イングランドの聖職者、中世イングランド史家。

アーサー王伝説の語り手の一人として知られる。
彼の作品の殆どは歴史を題材としたロマンチックなフィクションである。

ジェフリーは著作『ブリタニア列王史』の中で、ウェールズ地方モンマスシャー州のカーリアン(en)について度々言及しており、また自らをGalfridus Monumetensis(ジェフリー・オブ・モンマス)と名乗っていることから、モンマスと何らかの縁があった人物とみられている。しかし彼にウェールズ語の知識は殆どなく、彼がウェールズ人か、あるいはウェールズ在住のノルマン人の子孫という証拠は見つかっていない。また、ノルマン征服と共に来英し南ウェールズに定住したブリトン人の出身とする学説もある。
ジェフリーの作品は、全てラテン語で描かれた。

マーリンの預言
『マーリンの預言(英語版)』(Prophetiae Merlini)は、1135年以前に書き始めたとされる。この話に登場するマーリンは、ウェールズの伝説に登場する賢者ミルディンがモデルといわれる が、当時のジェフリーは伝説についてさほど知らなかったとみられている。ウェールズ語以外で始めて描かれた預言者マーリンの物語は、数世紀後に出たノストラダムスの大予言と同じように広く知られ、信じられてきた。


ブリタニア列王史
ジェフリーの最も知られた代表作は、『ブリタニア列王史』(Historia Regum Britanniae) である。彼はこの本について、「イギリスの全英雄について整然と記したブリテン語の古書」を翻訳したものだと主張しているが、今日その内容の殆どは、幾つかの神話や古書を基に、ジェフリー自身が創作した物語と考えられている。このことは既に12世紀のウィリアム・オブ・ニューバーグ(en)が、「(ジェフリーが)戦士ヴォーティガーンや彼以降の英雄たち、またアーサー王やその後継者について描いた物語は、一部は彼自身、一部は他の者(ジェフリーが参考とした本や神話)によって創作されたものである」と看破しているとおりである。

物語はトロイのブルータスによる最初の移住に始まり、紀元前5世紀頃のレイア王の物語、紀元前1世紀のクノベリヌス王の物語、ユリウス・カエサルのブリタンニア侵攻、5世紀後半のアーサー王の伝説、7世紀のグウィネズ王(英語版)・カドワラドルス(英語版)の死などが描かれてゆく。

一部で囁かれた偽書説に反して、『ブリタニア列王伝』の物語は、後世の歴史書に事実として頻繁に引用された。


マーリンの生涯
また、ヘクサメトロス形式で書かれた詩『マーリンの生涯』(Vita Merlini)には、よりウェールズの伝説に近い形でマーリンが登場する。この本の中でマーリンは、「森のマーリン」や「スコットランドのマーリン」と呼ばれ、見捨てられ、悲しみに打ちひしがれて狂った森の老人として描かれる。『マーリンの生涯』は一般には出回らず、この詩がジェフリーの作品であるという記述は13世紀の一書籍に見られるに過ぎないが、構成や内容などの特徴から、彼の作品であるとほぼ断定されている。


ミルディン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3
ミルディン(ミルディン・ウィルト, Myrddin Wyllt)は、中世ウェールズの伝説に登場する予言者とも狂人ともいわれる人物。あるいはラテン語風にメルリヌス・カレドニス(Merlinus Caledonensis )とも。
時期的に、ミルディンはアーサー王より後の時代に活躍した人物だが、
後世において、アーサー王伝説に登場するマーリンのモデルとして重要な人物とされる。

ミルディンは6世紀のブリテンに存在したらしい。
おそらく西暦540年ころに生まれ、
双子の姉妹、グェンディーズ(Gwendydd、あるいはGwenddydd)がいたと言われている。

573年のアルスレッドの虐殺を経験したミルディンは発狂し、
森を住みかとして動物たちと暮らすようになった。

彼はそこで予言の力を得たと言われている。

また、ミルディンは自分の死を予言していたと言う。
その死に方とは、「墜落死する」、「貫かれて死ぬ」、「溺れ死ぬ」というものであった。
この奇怪な予言は、最終的に成就することになる。

羊飼い達が崖でミルディンを駆り立てたところ、
ミルディンは転落し、漁師が放置していた杭に体を貫かれ、
そして頭が水中にある状態で命を落としたのである。

この予言は、いくつかのバリエーションが見られ、
他の魔法使いにも同種のエピソードが残っている。

ミルディンの墓はツイード川の周囲にあると考えられているが、その辺では何も見つかっていない。

モンマスの著作

近代において描かれるマーリン像は、ジェフリー・オブ・モンマスにより始まった。
モンマスの『マーリンの予言』(Prophetiae Merlini)は
ウェールズの人物であるミルディンの予言を集めたものであるが、
著作中ではこの予言者の名前はマーリンとされている。

モンマスは『マーリンの予言』を『ブリタニア列王史』に反映させている。
だが、『ブリタニア列王史』では、若干に設定が異なっており、
マーリンはミルディンが生きていたころより時期的に数十年ほど前、
ブリテンの王がアウレリウス・アンブロシウスやアーサー王だった頃の人間としている。

また、モンマスは
アンブロシウスに起源をもつ逸話と、
モンマス自身が創作したと思われるエピソードを追加している。

後々、モンマスはさらに『マーリンの生涯』を作成した。
この書物はミルディンについて初期のウェールズの伝承とアルスレッドの戦いを題材にしており、
これら事件はマーリンがアーサー王と関わりを持った以後の出来事だと説明している。

しかしながら、『マーリンの生涯』は
『ブリタニア列王史』におけるマーリン像を覆すほど知名度を得ることはなく、
『ブリタニア列王史』のマーリン像が後世に大きな影響を与えることになった。


アンブロシウス・アウレリアヌス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B9
アンブロシウス・アウレリアヌス
(Ambrosius Aurelianus、ウェールズ語:エムリス・ウセディグ, Emrys Wledig)
は5世紀ごろアングロ・サクソン人と戦ったブリトン人の指導者。
『ブリタニア列王伝』などの文献に登場する。
また、ペンドラゴンとも呼ばれる。

学者の中には、
アンブロシウス・アウレリアヌスはベイドン山の戦いでも軍を率いて戦ったと考える者がいる。
アーサー王のモデルとなった人物ではないかと考える者もいる。

9世紀初めに書かれた『ブリトン人の歴史』では英雄とされている。

ギルダスは著書、『ブリトン人の没落』では殆ど個人名を表記しないのだが、
アンブロシウス・アウレリアヌスは例外的に名前が表記されている。

特に、5世紀の人物についてはアンブロシウス・アウレリアヌスのみが名前が記載されているのである。
サクソン人の攻撃を生きのびた人々はアンブロシウスの指揮下に集まったと推測されている。

彼の両親は皇族だったと思われており、以下のような記述がある。
(アンブロシウスは)この凄まじい嵐を生きのびた、
おそらくは唯一のローマ人である。
彼の両親は紫色を着用していたが、それによって殺されてしまった。
彼の子孫は、現代においては祖先(avita)より偉大さにおいて かなり劣るようになってしまった。

このギルダスの記述により、
アンブロシウスの祖先はローマ貴族であり、おそらくはローマ帝国の領土の どこからかやってきた、
というより現地でローマ化したブリトン人であったと考えられる
が、それを証明できる史料はない。

また、ギルダスが
 戦争において「神の助けで」勝利したと記述している
事から 、アンブロシウスはキリスト教徒であったとも考えられている。

また、戦争に関して言えば、
 生き残った人民から武装した軍隊を組織し、
 初めて侵入者であるサクソン人から勝利を奪った、
 しかし、この勝利は決定的なものではなかった。
史書には、「あるときはサクソン人が、あるときは市民(ブリトンの住民)が勝利した」とある。

上記の記述は、多くの学者にとって議論の対象になった。
第1に、ギルダスがアンブロシウスの家族について、
「紫色の衣服を着用していた」と記述した点である。
可能性は低いが、
テオドシウス家(テオドシウス1世などが所属)、
あるいはコンスタンティヌス3世(en:Constantine III (western emperor))の親戚・血縁だった
と考えられなくもない。

古代ローマ貴族は身分を証明するため、紫の帯とともに服を着ていたからである。
そのため紫への言及が、貴族階級出身の根拠となるのかもしれないのである。

また、ローマ軍団の上官である司令官(トリブヌス・ミリトゥム)も紫色の帯を着用していた。
そのため、アンブロシウスの家族について紫が記述されているのは、
軍についてを表している可能性もある。

さらに、「紫」は「血」を表す婉曲表現であることが示唆されており、
「紫色を着用していた」は苦難にあったことを表現していると解することも可能である。

第2の論点は、「祖先」(avita)という語の意味である。
「avita」は通常の場合は「祖先」を意味するが、
ギルダスは特に「祖父」を意味する言葉として使う傾向がある。
そうだとすれば、アンブロシウスは世代的にベイドン山の戦い以前の人間と言うことになってしまう。
この期間の情報が不足している事から、正確な解答は得られていない。

『ブリトン人の歴史』では、アンブロシウスの伝説について断片的な記述がある。
そのうち、もっとも象徴的なものは
第40章から42章で語られる「アンブロシウスの要塞」であり、
アンブロシウスの他、ヴォーティガーンや2匹の竜が登場する。

この伝説は、
ジェフリー・オブ・モンマスによる創作を加えた形で『ブリタニア列王史』においても収録されている。
こちらでは、アンブロシウスはウェールズで知られていたマーリンの伝説と混同されており、
土着のブリトン人が侵入者であるサクソン人・ノルマン人に勝利を治めることを予言させている。

そこで、モンマスは「アンブロシウス」の名前をコンスタンティヌス3世の息子にも与えている。
そのアンブロシウスには、
兄弟にコンスタンティン2世と、ウーゼル・ペンドラゴンがいる
という設定になっている。


ブリトン人の歴史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%B3%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
『ブリトン人の歴史』(ブリトンじんのれきし、ラテン語: Historia Brittonum)とは、
英国アングロサクソン朝の七王国時代に編纂された、
先住民のケルト系ブリトン人が国を支配していた時代についての歴史書。
原書は828年後まもなく成立。伝ネンニウスの著。
アーサー王伝説に関する最古級の資料として珍重される。

従来出版されてきた編書・訳書では伝ネンニウス作としてきたが、
これに関しては疑問符が持たれており、
近年では作者不明の著書として扱う傾向が顕著になっている
(#作者と年代の特定の節は後述する)。

原作の手稿は、11世紀以降、40点ほどの写本に現存する。

この作品はまた、アーサー王に関する具体的な内容を求められる最古の資料としても重要視され、
アーサー王が戦ったという十二の会戦を記録する
(うち二つの会戦は『カンブリア年代記』で年代が特定される)。

『ブリトン人の歴史』の作中では、
伝説のアーサーは一介の「軍の指揮官」 (dux bellorum) または「戦士」(militis) にすぎず、
「王」とされてはいない。

アーサー「王」伝説

『ブリトン人の歴史』では、
アーサーは王とされず、軍事指揮官であり、身分もそう高くはない
と説明されている。

編者モムゼンの分類では、アーサー本人に関する記述は、たった一章(§56章)のみである。
だが広義的にみれば、
作中に登場する「マーリン・アンブロジウス」(§42章)(もっとも「マーリン」の名は使われないが)や
もちろん、ヴォーティガン王(§31-49章)も、立派なアーサー王伝説の重要人物らである。

アーサー王の戦い
56章にアーサー王が関わったとされる12の戦いを並び立てた詩の要訳と思われるものがあるが、
いくつかはアーサー王との関連性が はっきりとしない ものもある。

アーサーが、ブリテン島の諸王と総力をあげたなかにくわわり、
サクソン人と戦ったのもこの頃である。

より高貴な者も幾多あるなか、アーサーが12回において軍事総統(dux bellorum) に選ばれ、
同じ回数において勝者となった。

最初におもむいた会戦はグレイン(Glein)川河口にて。

第2、第3、第4、第5の会戦は、これとは別の川、リンヌイス(小国)(Linnuis)にある、
ブリトン人の呼び名でドゥブグラス(Dubglas)という川のそばだった。

第6はバッサス(Bassas)川。第7はケリドン(Celidon)の森でおきた、
ブリトン人が「カト・コイト・ケリドン(Cat Coit Celidon)」と呼ぶ会戦だった。

第8はグルニオン(castello Gunnion; Gurnion castle)城ちかくだったが、
ここでアーサーは自らの肩に聖処女、神母の御神像を掲げ、
イエス・キリストと聖マリアの御力を通じてサクソン人たちを敗退せしめ、
彼奴等をまる一日追討し大殺戮をおこなった。
近代の解説者は、アーサーの盾にマリア像が掲げられていたという意味であるはずを、
ウェールズ語では「肩」と「盾」の単語が近似するため取り違えのだ、と考察している。


第9はカイル・レオン(Cair Leon)と呼ばれる「レギオンの都市」。

第10はトリブルイト(Triburuit)川。

11回目は我々がカト・ブレギオン(Cat Bregion)と呼ぶ会戦で、
ブレグオイン山(Breguoin; 異本ではアグネト山 Agnet)で行われた。

12回目は最も激戦で、アーサーがベイドン山中まで突破したであった。
この会戦では940人が、神以外の何者も手を借りず、彼のひとりの手で斃された。

ブリトン人は、これらすべての会戦で勝利した。
全能の神の思召しに抗がう力などないゆえに。

− 56章

ここに書かれる戦場は、ほとんど場所の特定ができていない。
コイト・ケリドン(英語版)は、スコットランド南部をかつて覆った広大森を指すとされる。
グルニオンとはウィンチェスターの事ではないかとしばしば指摘される。
「地域(レギオン)の都市」が指すところとしては
現イングランド北部のチェスターないしウェールズ南部のカーレオン(Caerleon)だと思われている。
ブレグオインとは英語に直すと「白き丘」、
すなわちダービーシャーのホワイト・ピーク(White Peak)の可能性が挙げられている。
バドン山についてはイギリス国内でいくらでも候補が挙がっている。


ブリタニア列王史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%88%97%E7%8E%8B%E5%8F%B2
此の史書は 歴史書としての独立した価値が無い。
1136年頃にジェフリー・オブ・モンマスが
ラテン語で書いたブリテン(グレートブリテン島)に関する偽史書とされている。
その時代の歴史で補強することも可能だが、ジェフリーの記録は甚だ不正確である。
しかし、中世文学としての価値はある。
レイア(リア王)と3人の娘たちの話のわかっている限りで最古のヴァージョンがこれに含まれ、
また、非ウェールズ語圏にアーサー王伝説を紹介した。


コンティアヌス2世(コンスタンティヌス3世)(Constantine III) - 実在の西ローマ帝国皇帝(統治:407年 - 411年)。
・コンスタンス(Constans II) - 実在の西ローマ帝国簒奪者(在位:407年 - 411年)。
・ウォルティギルヌス(ヴォーティガン)(Vortigern) - ローマが去り、ブリテン人の王が権力を取り戻す。ヘンギストゥス(ヘンジスト、Hengest)とホルサ(ホーサ、Horsa)に率いられたサクソン人を傭兵として招くが、サクソン人たちはウォルティギルヌスに対して蜂起する。以後、ブリテン人とサクセン人との戦いは続く。
・ウォルティメル(Vortimer)
・ウォルティギルヌス(復位)
・アウレリウス・アンブロシウス(アンブロシウス・アウレリアヌス) - ウォルティギルヌスの子。
・ウーテル・ペンドラゴン - その弟。魔術師メルリヌス(マーリン)が補佐。
・アルトゥールス(アーサー) - ウーテルの子。サクソン人を破る。アルトゥールスは北ヨーロッパの大部分を征服し、平和の時が訪れる。ローマ皇帝ルキウス・ティベリウス(Lucius Tiberius。架空の人物)がブリテンに対してローマに貢ぎ物をするよう要求する。アルトゥールスはルキウスをガリアで破るが、甥のモードレドゥス(モルドレッド)がアルトゥールスの不在中に王位を簒奪する。アルトゥールスは帰国し、モードレドゥスを殺害。しかし自分も傷つきアヴァロンの島に運ばれる。

義経伝説を追っかけてる気分になってきたw

アーサー王伝説(物語編)(1/5)
http://www3.ocn.ne.jp/~kenro/history/arthur_story/1.html
物語のあらすじは大まかには こんな感じ。
他にも色々と読んでみたが、かなりエグいよね。
勝ったもん勝ち 勝てば官軍 みたいな意味合いの話が多い。
俺達な感覚の 英雄とか勇者とか という観点からすると違和感を覚えやすい。

なぜならアーサー王の伝説 とは
 その元が 多神教で文明人のローマ社会とブリテン人 に依るモノだとしても
 伝承と編纂が 一神教で野蛮人 や 一神教で文明人 によって伝えられてきた
という観点を欧米人が当然に感覚的な理解を出来ないまま に 今へ伝えているからである。

これでは 極東の一諸島の大多数の者達の美意識 すなわち 多神教で文明人 からすれば
かなり違和感を覚えるモノとなる。 


http://www3.ocn.ne.jp/~kenro/history/arthur_story/5.html
遠征中に摂政として残してきた甥のモルドレッド
(実は近親相姦で生まれたアーサー王の息子でもあった)が王位を奪い、
グウィネヴィアを妻にしようとしているとの知らせが入る。

アーサーは強行軍で引き返し、
ソールズベリ平原で、異教徒であるサクソン人と手を組んだモルドレッドに戦いを挑む。
この凄惨な戦いの末、酒倉長リュカンとグリフレット(ジルフレ)を除く全員が死んだ。

そして、モルドレッドはアーサーに致命傷を負わせ、アーサーはモルドレッドを殺す。
『ランスロ=聖杯物語群』作者不明、13世紀)

此の話は 何か別の事象を象徴する話に思える。
5世紀ウェールズでのザクセン人傭兵による、
 ブリテン人への宴席での騙し討ち(隠し持った長ナイフによる殺害)
に ちなむ。

ローマ軍という正規兵 と ブリテン人という補助兵 という共同戦線で防衛を担ってきた が
ローマの力の低下に伴う権力闘争で ブリテン人だけで防衛を担わざるを得なくなる。

多民族の共同体なローマとしてのブリテン島での歴史は この時点で数百年に及んでいた、
つまり防衛を担う軍が多民族で構成される が 自然で普通な感覚となっていたとしても不思議ではない。

だからこそ 敵でも有るサクソン人で有ろうとも自軍に使う も普通な感覚だったのだろう。
多神教で文明人 という感覚を持つ者達ならば「将棋の感覚」になるからね。
そういう感覚からすると「アーサー王 と 円卓の騎士達」というのは
現在の欧米の感覚とは全く別の視点で見えてくるモノが有る なんて思ったりもするんだよね。
武田信玄の統治 徳川幕府の統治 にも似た印象を受ける。

しかし 相手は 多神教で野蛮人 もしくは 一神教で野蛮人 である。
力が均衡 もしくは 相手の方が力が上回っている場合、どうなるか?

こんな事を考える。
「多神教で文明人」からすれば「将棋の感覚」なんだけど
「多神教で野蛮人」もしくは「一神教で野蛮人」は「チェスの感覚」なんだよね。

しかも「多神教で文明人」は
「裏切り」や「一線を越える悪逆非道を用いる」をしても勝つという選択肢を使う事が出来ない。

だけど「多神教で野蛮人」もしくは「一神教で野蛮人」は
「裏切り」や「一線を越える悪逆非道を用いる」をしても勝つという選択肢を使う事が出来る。
むしろ それが当たり前 と考える。


・5世紀ウェールズでのザクセン人傭兵による、
  ブリテン人への宴席での騙し討ち(隠し持った長ナイフによる殺害)
 に ちなむ。

・遠征中に摂政として残してきた甥のモルドレッド
 (実は近親相姦で生まれたアーサー王の息子でもあった)が王位を奪い、
 グウィネヴィアを妻にしようとしているとの知らせが入る。

 アーサーは強行軍で引き返し、
 ソールズベリ平原で、異教徒であるサクソン人と手を組んだモルドレッドに戦いを挑む。
 この凄惨な戦いの末、酒倉長リュカンとグリフレット(ジルフレ)を除く全員が死んだ。

 そして、モルドレッドはアーサーに致命傷を負わせ、アーサーはモルドレッドを殺す。
 『ランスロ=聖杯物語群』作者不明、13世紀)

つまり そういう事なのだろう。


Category:アーサー王伝説に関する文学作品など - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E7%8E%8B%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%96%87%E5%AD%A6%E4%BD%9C%E5%93%81%E3%81%AA%E3%81%A9
此処に 長いナイフの夜 は無い。

http://en.wikipedia.org/wiki/Night_of_the_Long_Knives_(original)
Night of the Long Knives (Arthurian) - Wikipedia, the free encyclopedia

 ↓
Long Knives(アーサー王の)の夜−ウィキペディア、無料の百科事典
http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,een_ja,bT,uaHR0cDovL2VuLndpa2lwZWRpYS5vcmcvd2lraS9OaWdodF9vZl90aGVfTG9uZ19Lbml2ZXNfKG9yaWdpbmFsKQ==,qfor=0


伝統に従って、ボルティゲルン(その人は英国からのローマの撤回に続く英国人の高位の帝王になりました)はHengistとHorsaの下のアングロサクソン人がThanet島に住みつくのを許します。彼は、ピクト人とスコットランド人による侵略に対する傭兵として、彼らのサービスと引きかえに彼らにさらなる準備を提供します。しかし、彼らが彼らの数を増やすのを許して、彼らにより多くの土地を下付することに、移民はボルティゲルンを操ります。そして、結局ケント全員を含みます。


http://www.asahi-net.or.jp/~aw2t-itu/enghist/enghistbckgrnd.html
449年にアウグストゥスより数えて46代目の皇帝マルキアヌスがワレンティニアヌスと共に7年間[ローマを]統治した。
その時、アングル人とサクソン人の種族がヴォルティゲルンの招きを受け、
三隻の軍船でブリテンにやって来た。

そして彼[ヴォルティゲルン]の命により、
その島の東側に居住するよう場所を与えられた。
見かけは、この島国のために戦ってくれることだったが、彼らの真意はこの国を征服することだった。
はじめは、北からやって来た敵を攻撃し、サクソン人が勝利を得た。

そのことと、この島の土地の豊かさ、またブリトン人のだらしなさが故国に報じられると、
もっと強い兵士を乗せた もっと大きな船がやって来て、
現地で既にいる分隊と一緒になることで、無敵の軍隊を作り上げた。

新参者たちはブリトン人から彼らの間に土地をもらい、彼らの敵のため、
祖国のために敵と戦うことが条件であった。
その条件のために、土地の人たちから、報酬を受けることとなっていた。

彼らはゲルマン民族の三つの強大な部族からの者たちだった。
すなわちサクソン族、アングル族、そしてジュート族である。
ケントの人々とワイト島の住民はジュート族の出である。

現在オールド・ザクセンと呼ばれている地域からは東サクソン、南サクソン、そして西サクソンの民が来た。
ジュート人の王国とサクソン人の王国の間にあった土地、
すなわちアングル人の土地からは、
東アングル、中部アングル、マーシア、そしてハンバー川の北側の土地である
ノーザンブリアの国の人々がやって来た。
彼らの故郷のAngulus と呼ばれる土地は、以後今日まで、不毛の土地となっている。

それはVortimer(ボルティゲルン王の息子)の終わりの後に起こりました、そして、彼の軍隊によるHengistの復活の後、彼らは間違った会議を要求しました、そのため、彼らは彼の軍とともにボルティゲルンに悲しみを働かせるかもしれません。賛成に、平和(永久の友好が彼らの間にあるかもしれません)を求めるために、彼らは使節を行かせました。それで、彼自身彼の身内で生まれつきの年上と一緒のボルティゲルン‖[問題を思って、そして、彼らが何をするかもしれないかについて、慎重に思いました。Andは、同じことです]、意見は彼ら全員とありました‖彼らが和解しなければならない、そして、彼らの使節が戻って、その後会議を招集したどちらの側ででも英国人とサクソン人(Brittones et Saxones)が武器なしで一体となって一緒に来なければならないように、友好が封をされなければならないように。

そして、各自が彼の靴の中央で彼の足の下に彼のナイフ(artavum)を隠さなければならないと、Hengistusは彼の家庭の全体に命令しました。『私があなたに大声をあげて、「Eu nimet saxas」を言うとき、そして、(ねえ、あなたの剣を引いてください!)、それから、あなたの靴の底からあなたのナイフ(cultellos)を得て、彼らに襲いかかって、強く彼らを背景にして立っていてください。そして、彼らの王を殺さないでください、しかし、彼が我々の手から受け戻されなければならないことが我々によりよいので、私が結婚で彼に与えた娘のために彼を押収してください。』、彼らが一緒に会議に持ってきたAnd(そして、サクソン人)は親しみやすい方法で話してwolvish方向で一方考えていました、そして、社交的に、彼らは人(すなわち英国人のそばのサクソン人)のそばに人を座らせました。Hengistus(そのことを彼は言いました)は、意見を述べました、

そして、ボルティゲルン王のすべての300人の年上は、虐殺されました、
そして、彼だけは収監されて、鎖でつながれました、
そして、彼は魂(すなわち生命)の身代金のために、彼らに多くの地方を与えました、
それはEst Saxumです、Sut saxum[Middelseaxanは、
彼らがどれに名をつけたかについて、他の地区で彼のものの下で制御します。]

事件は現代のウィルトシャーで晩餐会で行われました。そして、平和条約に調印するために表面上準備されました。そして、それはエセックスの譲渡とローウィーナ、サクソンの族長ヘンゲストの娘とボルティゲルン間の近親結婚と引きかえのサセックスである場合がありました。物語は、それを主張します「サクソン人」 − どちらが、アングレスとJutesを多分含むでしょうか − 彼らの身体に彼らの長いナイフ(seaxes)を隠して、用意を整えた晩餐会に到達しました。豪華な食事の間、命令の伝えられた語で、彼らはナイフを引いて、彼らの隣に座っている武器を持たない英国人を殺しました。ボルティゲルン自身は助かりました、しかし、彼のすべての部下はグロスターの屠殺された(Eldol以外は)アールでした。そして、その人は逃げました。これらのイベントまたは人のどれの歴史の存在でも、推測的です。しかし、火のない所に煙は立たぬ、そして、古代の吟遊詩人の歌(それは話の歴史と話しを記録するために決意されました)はこの地獄のイベントの正確さのすべて証言します。


Modern significance  現代の重要性

ブラッドy Cyllyll Hirionとして、イベントはウェールズの国家意識で強力な象徴性を持って、まだ持ちます。19世紀のウェールズでは、ウェールズで教育に関して英国のコミッショナーの報告を参照するために、学期ブラッドy Llyfrau Gleision(『青書のTreachery』)は造り出されました。そして、1847年に議会青いカバーで発表されました。そして、それはウェールズ語への攻撃とウェールズの人々に対する中傷と広くみなされました。レポートの影響の1つは、数世代のためのウェールズの学校とウェルシュspeakers.の数のそれに伴う減少からのウェールズ語の除外です


Long KnivesのNightがナチスドイツで激しい政治的な追放のために使われて後であった名前、ヒトラーはいつの力を無効にしました社1934で。英国のハロルド・マクミラン首相が「策略をめぐらす時」で彼の内閣の7人のメンバーを解雇したとき、それも軽薄に使われました。それは、カブール(アフガニスタン)で1841年11月にアレキサンダー・バーンズの暗殺に言及するのにも用いられました。


カナダでは、語が1981年にカナダの憲法の本国送還に関して、ケベック初日レネ・レベスクによって使われました。(その時間前に、カナダに対する最終的な憲法上の権限はイギリスにありました)。まず最初に、10の地方の初日の8つは、憲法を本国へ送ることに反対でした。妥協はレベスクの不在で打ち込まれました、そして、10(異議を唱えているケベックだけ)の9つはそれに同意しました。


「長いナイフの夜」 とは 「Night of the Long Knives (Arthurian) 」という意味でも有る。
その概要が ようやく分かったね、
そして こっちに戻る。


突撃隊 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%81%E6%92%83%E9%9A%8A
国家社会主義ドイツ労働者党の準軍事組織。
制服の色から「褐色シャツ隊」とも呼ばれた。

突撃隊はナチス党集会の会場警備隊が改組されて創設された。
初期の頃はエルンスト・レームの斡旋により
義勇軍から流れてきた者を多く受け入れたため、
党から独立的な準軍事組織であった。

ナチスの政権掌握直後の1933年には補助警察となり、政敵の弾圧にあたった。
しかし突撃隊は下層民も多い大衆組織であったため、社会主義的な思想を持つ隊員が多く、
国防軍などの保守勢力との連携を深めるアドルフ・ヒトラーにとって厄介な存在となっていった。

1934年6月末から7月初旬にかけて親衛隊(SS)が
レームをはじめとする突撃隊幹部を粛清した、
これが「長いナイフの夜」と呼ばれる。

レーム時代

ヒトラーやレームは党勢拡大のために入隊希望者を無制限に受け入れ、
彼らに食事や宿舎の提供を行った為に
世界恐慌の影響で巷にあふれかえる失業者がナチスや突撃隊に続々と参加した。
こうした者は反資本主義的で革命的な政治的急進派が多く
その革命志向な隊員達は「制服は褐色だが中身は赤い」としてステーキに例えられていた。

国軍との対立

突撃隊は国軍とも対立を深めていた。
軍と突撃隊は1933年5月に協定を結び、突撃隊と親衛隊と鉄兜団は国防省の管轄に入ることになっていた。
国軍からのスタッフの手も借りて
フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー突撃隊大将の下に突撃隊員の訓練が行われ、
国軍へ送りだしていた。

しかし やがてレームは東部国境守備隊の指揮権を要求し、
またその武器庫を管理下に置こうとしたため、国軍と対立を深めた。

もともとレームには
貴族階級が中心の国軍 に替わって
突撃隊を国民軍として正規軍にする という構想があった。

突撃隊は1934年春には300万人以上の人員を擁するようになっていた。
うち武装兵士が50万人いた。

ヴェルサイユ条約で陸軍兵力10万人に限定されていた国軍にとって脅威となる存在であった。
一方ヒトラーは政権の維持のためには国軍の支持が不可欠と認識しており、
再軍備は国軍を持って行うと決め、レームの国民軍構想を却下していた。

ヒトラーは1934年1月2日にレームに対して友情とこれまでの功績への感謝を強調した私信を送った。
その中で安全保障は国軍に任せるべきであることを婉曲に指摘した。

しかしこの手紙の真意を理解しなかったレームは2月初めに
ヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防相に対して国家安全保障は突撃隊の任務とする書簡を送った。

この書簡を見たブロンベルクは
「レームは全ての国防組織を突撃隊の傘下にして国軍をただの訓練機関にしようとしている」
と結論し、ヒトラーに処置を要求した。

2月末にヒトラーの仲介で国防省においてブロンベルクとレームが協定を結んだ。
国軍が唯一の武装兵力であり、
突撃隊はその補助のため国境地帯の警備や予備訓練を担当することが取りきめられた。
しかしレームの反発は大きかった。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E3%81%84%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%95%E3%81%AE%E5%A4%9C
突撃隊(SA)はナチス党の私兵部隊であり、
ヴァイマル共和政時代には共産党の私兵部隊「赤色戦線戦士同盟」などを攻撃していた。

ヴェルサイユ条約で兵器保有制限を課されていたドイツ正規軍「国軍(Reichswehr)」からも
予備の右翼政党の武装組織 として期待され、武器などの供給を受け、かなりの武力を保持していた。

ナチスの党勢拡大とともに突撃隊も巨大化していき、
ナチス党が政権を掌握した1933年には突撃隊は総員400万人を有していた。
うち武装兵士が50万人いた。
これは正規軍の5倍にも及ぶ数であった
(ヴェルサイユ条約によりドイツ正規軍は10万人に限定されていた)。

1931年以来、突撃隊(SA)を指導していたのは突撃隊幕僚長エルンスト・レームであった。
レーム以下突撃隊員の多くがナチスの政権掌握後、突撃隊を新たな正規軍とする事を望み、
それに関する独自の構想も持っていた。

レームはヒトラー内閣で自らが国防大臣として入閣できる
と信じていたが、期待に反して当初彼は閣僚には加えられなかった。

ヒトラーへの失望が大きかったレームは、
公然と「第二革命」を唱えてヒトラーや軍部を攻撃するようになった。
レームの政敵であるヘルマン・ゲーリング指揮下のゲシュタポは、
レームを徹底的に監視し、その反ヒトラー的言動を逐一ヒトラーに報告した。

ヒトラーは長年の同志であるレームを粛清することは避けたいと考え、当初はレームの懐柔を狙った。
1933年12月1日に無任所大臣として閣僚に加えたり、勲章を与えるなどしていた。
しかしレームと突撃隊の独自路線を抑制するには至らなかった。

1934年代になるとレームのヒトラーへの攻撃的姿勢は更にあからさまになった。
部下の突撃隊員達も各地で「第二革命」を叫び、
プロイセン的な価値観やユダヤ教・キリスト教などのドイツの伝統的宗教を盛んに攻撃し、
軍部などの保守層と敵対した。

元々に彼らは街中で暴行をふるっていたのでドイツ国民の評判も良くは無かった。
この部分↓は 長いナイフの夜 - Wikipedia では曖昧な説明となっている。
その他にも 何故か詳しい話 何故か詳しく無い話 が不思議に選別されている。

突撃隊問題に曖昧な態度をとるヒトラーに粛清を決意させるため、
ヒムラー、ハイドリヒ、ゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることとした。

1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒは
レームと突撃隊の「武装蜂起」の証拠の収集・偽造を行った。

そして1934年6月はじめ頃から それらがバラ撒かれて、突撃隊「武装蜂起」の噂が流れた。

レームを中心とした突撃隊一派がヒトラーや軍部に対して反乱を企てているというデマが流れた。
事態を重く受け止めたパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は
「ヒトラーが処置を下さない場合には大統領権限で戒厳令を布告して軍に処置を下させる」
とヒトラーに通告した。

首相権限の形骸化を恐れたヒトラーがついに粛清を決意したものとみられる。
しかしレーム自身には反乱の意志はなかったとされ、
プロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング、
親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、
親衛隊諜報部(SD)長官ラインハルト・ハイドリヒ
の三名がレームの反乱計画を捏造したのが真相であるとされる。

6月25日までにはヒトラーはブロンベルクにレーム以下突撃隊幹部を粛清する旨を伝え、
国軍もその準備に入った。

6月30日に会議を行うとして突撃隊幹部をバイエルン州バート・ヴィースゼー(de)に召集、
同日にヒトラーはバート・ヴィースゼーに赴いて粛清の陣頭指揮を執った。

ベルリンでもゲーリング、ヒムラー、ハイドリヒらの指揮によって粛清が執行された。
レーム、ハイネス、シュナイトフーバー、エルンスト、フォン・デッテンなどの突撃隊幹部が粛清された。
これが長いナイフの夜と呼ばれる。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A0
6月28日にヒトラーは
 リューマチ療養でバイエルン州バート・ヴィースゼー(de)にいたレームと連絡を取り、
 そちらで6月30日に会議を行いたいので突撃隊幹部を集めて置くように

と指示した。
突撃隊幹部は疑うこともなく召集に応じた。

6月30日午前6時30分頃にヒトラーは、
レーム達が就寝中の
バイエルン州バート・ヴィースゼーにある突撃隊保養クラブ「ハンゼルバウアー」へ押し入った。

ヒトラーはレームに拳銃を突きつけ、「エルンスト、きみを逮捕する」と述べた。
この時ヒトラーは親しみをこめた「きみ(Du)」の二人称を使っている。
レームは反逆を否定したが、ヒトラーは服を着るよう命じてすぐに部屋を出ていった。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E3%81%84%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%95%E3%81%AE%E5%A4%9C
レームの部屋に押し入った。
ヒトラーはビックリして飛び起きたレームに拳銃を突きつけて「裏切り者」と言い放った。
レームは即座に否定したが、
ヒトラーは「逮捕するから着替えろ」と命じて後を部下に任せて部屋から出ていった。

6月30日が終わっても
突撃隊幕僚長レームはいまだミュンヘンのシュターデルハイム刑務所に投獄されたまま生かされていた。
アドルフ・ヒトラーが唯一お互いに「お前(Du)」と呼びあう仲の同志であるレームの処刑には
最後まで躊躇をしていた。
しかし7月1日正午前にはヒトラーもゲーリングとヒムラーの説得に折れ、ついにレームの処刑を決意した。
ダッハウ強制収容所所長テオドール・アイケに連絡し、
レームに一度自決の機会を与えたうえで処刑するようにと命じた。


「長いナイフの夜」と呼ばれる粛清によって
200人以上の突撃隊幹部が殺された。

其のドサクサに紛れて ナチ党の政敵 や 党内の反ヒトラー分子 らも捕えられて
法的手続きを経ることなく処刑されている。


粛清された人物にはミュンヘン一揆を鎮圧した騎士グスタフ・フォン・カール元バイエルン州総督やナチス左派の元指導者グレゴール・シュトラッサー、陸軍中将クルト・フォン・シュライヒャー元首相などがいる。

これによって親衛隊の超法規的措置の前例が生まれ、
また国防軍はナチスに対して完全な協力を約束することになった

結局に話は 此処へ行きつく。

そういう連中、 もっとハッキリ言えば「一神教で野蛮人」な連中は
“自分達の聖戦の為にならば 裁判なしの死刑でも合法でウツクシイ”
という 美意識や価値観や生き方をしている のは 昔も今も東でも西でも変わらない性癖である。

「一神教で文明人」や「多神教で野蛮人」も
“自分達の聖戦の為にならば 裁判なしの死刑でも合法でウツクシイ な場合も有る”
という 美意識や価値観や生き方をしている のは 昔も今も東でも西でも変わらない性癖である。

「多神教で文明人」だけが
“自分達の聖戦の為であろうとも 裁判なしの死刑でも合法でウツクシイ とは思えない”
という 美意識や価値観や生き方をしている のは 昔も今も東でも西でも変わらない性癖である。

「欧米史観」や「ニホンジンのコッカのニホンの歴史(笑)」には
こういう区分けで人類史を見分けていく方向性の手法が殆ど使われない。

俺からすれば
 こういう区分けで歴史を眺めてこなかった「知識人」は
 何を根拠にして自分達の自尊心を維持しているんだろうね
としか思えなくなるんだよね。




男色、乱暴、酒乱など評判の悪かった突撃隊幹部の粛清に市民の反応は冷静で、
ニュースは おおむね好感をもって伝えられた。
情報工作とは何か? を知っている者達からすれば
この文章そのものすら 嘘デマ扇動 と分かるよね。

長いナイフの夜で粛清を受けたのは上層部が中心だったが、
事件は若い下級隊員たちを震え上がらせるのに十分な効果があった。

事件後、大きな反発もなく突撃隊の力は削ぎ落とされていった。
ヒトラーの指示によりルッツェは
ベルリン親衛隊指導者クルト・ダリューゲ親衛隊中将へ
ドイツ東部の突撃隊の解体と再編を依頼することになった。
ダリューゲによって突撃隊最高指導部(OSAF)の主要な政治部門は全て解体され、
またその財産を提出させられた。


戦後のニュルンベルク裁判において突撃隊は起訴された6組織の一つとなった
(他にヒトラー内閣、ナチ党指導部、参謀本部、親衛隊、ゲシュタポ)。

この裁判で親衛隊とゲシュタポとナチ党指導部は「犯罪組織」と判決されたが、
しかし突撃隊は
「特殊な場合に置いて突撃隊の若干部隊は戦争犯罪や人道に対する罪の遂行に使用されたが、
 その成員が一般に犯罪行為に参加していたとかまたは知っていたということはできない」
とされて有罪判決を受けなかった。





・5世紀ウェールズでのザクセン人傭兵による、
  ブリテン人への宴席での騙し討ち(隠し持った長ナイフによる殺害)
 に ちなむ。


・遠征中に摂政として残してきた甥のモルドレッド
 (実は近親相姦で生まれたアーサー王の息子でもあった)が王位を奪い、
 グウィネヴィアを妻にしようとしているとの知らせが入る。

 アーサーは強行軍で引き返し、
 ソールズベリ平原で、異教徒であるサクソン人と手を組んだモルドレッドに戦いを挑む。
 この凄惨な戦いの末、酒倉長リュカンとグリフレット(ジルフレ)を除く全員が死んだ。

 そして、モルドレッドはアーサーに致命傷を負わせ、アーサーはモルドレッドを殺す。
 『ランスロ=聖杯物語群』作者不明、13世紀)


・ヒトラーとレームは
 お互いに「Du」(「お前」「きみ」などと訳される。親しい間柄で使う二人称)で呼ぶことが許されていた
 ごくわずかな人物の一人だった。

 1934年6月28日にヒトラーは
  リューマチ療養でバイエルン州バート・ヴィースゼー(de)にいたレームと連絡を取り、
  そちらで6月30日に会議を行いたいので突撃隊幹部を集めて置くように
 と指示した。
 突撃隊幹部は疑うこともなく召集に応じた。

 6月30日午前6時30分頃にヒトラーは、
 レーム達が就寝中の
 バイエルン州バート・ヴィースゼーにある突撃隊保養クラブ「ハンゼルバウアー」へ押し入った。

 ヒトラーはレームに拳銃を突きつけ、「エルンスト、きみを逮捕する」と述べた。
 この時ヒトラーは親しみをこめた「きみ(Du)」の二人称を使っている。
 レームは反逆を否定したが、ヒトラーは服を着るよう命じてすぐに部屋を出ていった。

菅直人 とは如何なる人間か?
というのを思い出す。



http://www.h2.dion.ne.jp/~yacinema/Wehrmacht/contents/honbun/prologue/prologue5.htm
長いナイフの夜


1934年に連立で政権を獲得したヒトラーだったが
 連立政権で有るが故に
 発足した内閣へナチ党から入閣できたのは二人に過ぎなかった、
しかし最も枢要なポストでも有った。

内務大臣をフリックが、
無任所大臣とプロイセン州の内務大臣をゲーリングが兼ねた。

ナチ党はドイツ全領土の3分の2にあたる広大な領域で警察を支配できた。
ゲーリングは反ナチ派の警官を免職し、
ナチ党員やSS、SAのメンバーを警察幹部に据えていく。
更に4万人のナチ党員を補助警察官にする事を承認した。

またゲーリングは
ベルリン警視庁の小さな一部局を秘密警察部として再編するよう命じ、
これが後の”ゲシュタポ”の母体となった。

ゲーリングはこの様な警察力を背景にして、
武装蜂起の計画を察知したとの名目で
共産党本部のカール・リープクネヒト・ハウスを襲撃した
コレを皮切りに、次々に共産党員を逮捕していった。

一方ヒトラーは中央党との交渉を故意にサボタージュすることで再び総選挙に持ち込み、
ナチ党の支配を完全なものとするべく画策していた、
3月5日に予定された投票日の一週間前に起きた「国会議事堂放火事件」は、
ナチ党へ更に大胆な行動に出る口実を与えた。

この事件を共産党の反撃と見て取ったゲーリングは、夜明けまでに4千人に上る人々を逮捕した。
共産党員だけでなく多数のナチ党の反対派が姿を消した。

事件の翌日、ヒトラーはパーペンと共に86歳のヒンデンブルグ大統領を尋ね、
″緊急法令″に署名するよう求めた。

・出版と集会を制限する、
・郵便、電信電話業務について検閲と盗聴の権限を与える
というもので、共産党の蜂起に対処する為の、″超法規的措置″を求めるものであった。

ヒンデンブルグがその文書に署名した瞬間、ドイツはヒトラーの手に落ちた。

この法令と同時に発布された捕捉命令は、憲法が廃止されドイツが非常事態に置かれた事を意味し、
この緊急法令によってナチ国家の仮借ない抑圧体制が始まるのである。

ナチ党は これらの新しい権限を握って
更に何千人もの共産党員や多くの社会民主党、自由党員を逮捕した。

「国会議事堂放火事件」 と その後のナチ党の一方的な処刑などの弾圧
そして 徹底的な大宣伝劇 を続けたが、
1934年3月5日の選挙で得票率は43.9パーセントしか無く、
議席は288に伸長したとは言え、またしても過半数に達しなかった。

ヒトラーは権力を維持するために またもや中間諸党との連立を余儀なくされる。
しかし これ以上中途半端な妥協を続けていく気が もうヒトラーに無かった。

ヒトラーは臨時国会において″全権委任法″による4年間の独裁権を要求し ″授権法案″を提出した。
法案成立に必要な票数は 議会の2/3つまり66パーセントの賛成票だった。
そして 徹底的な暴力を背景にしたナチ党の暴政を前にして 反対したのは社会民主党だけだった。

法案は441対94という圧倒的大差でもって可決した。

最後にヒトラーは、
何らかの重大な変更を行う場合は大統領と相談する事を条件に、
拒否権を持つ大統領のヒンデンブルグから同法の承認を取り付けた。

ここに至り ヒトラーの前に横たわる障害は二つしかなかった。

ヒトラーは労働組合とそれを支持母体とする社会民主党を禁止し、
労働組合を″ドイツ労働戦線″という組織に改編する事で無力化した。

こうしてナチの前に立ちはだかる大きな脅威は ただ一つ、「軍部」だけしか残されていなかった。
此の時の「軍部」とは すなわち「ドイツの国軍」と「ナチ党の突撃隊」である。

ブロンベルグの国防相としての最初の仕事の一つは、
かつて彼の下で参謀長をつとめたヴァルター・フォン・ライへナウ大佐を東プロイセンから呼び寄せ、
国防局(国防省における国防軍の事務局)長官の地位に就けることであった。

ヒトラーの再軍備計画の前提として、
ライへナウはまず21個師団の最大動員兵力を平時編制兵力としてだけでなく、
重砲及び戦車を受け入れられるような態勢にしておかなければならなかった。

このためライへナウは1933年、
クルップに命じて農業用トラクターの開発という擬装の基に計画的な戦車生産に着手させ、
最初の戦車5輌が届くと戦時生産能力やコストについての研究が開始された。

既にヒトラーは徴兵制度の導入を計画していたが、
現時点において国軍は既存の志願兵に頼らざるを得ず、
国軍の将軍達はSA(突撃隊)やNSKK(ナチ自動車輸送部隊)、SS(親衛隊)などを
国防軍の兵員補充の主要母体とするしかなかった。
つまり 国軍が突撃隊を吸収する という形の 軍政の一本化 が進み始める。

次第に規模を増す一方だった突撃隊は 1933年の末の段階で既に公的な政府機関として認められていた、
突撃隊長のエルンスト・レームは閣僚のポストを与えられていて、国防会議への参加も許されていた。

この様な状況を国軍が快く思っていなかったのは当然の事だが、
ヒトラーが政権を取る事で状況は逆転する。
国軍が突撃隊をし気化に置く形になって行ったのだから
国軍の将校がヒトラー政権を支持し始めるのは当然の成り行きだった。

今までは東部国境防衛に不可欠な戦力として軍に容認されていた突撃隊だったが、
ヒトラーが政権を取った今となっては むしろ仕事が殆どに無くなっていった。

1934年2月1日、そうした突撃隊の状況を踏まえての
今後の去就に関して「国軍」と「レームの突撃隊」の双方の意見の対立が ついに大きく表面化する。

突撃隊の最善の配置替えは国防軍指揮下の市民兵とする事だ、
という国軍の意見に対するレームの反対提案は将軍達が呆気に取られるものだった。

レームの提案は
 突撃隊が国家防衛の任務を国防軍から全部を受け継ぎ、
 “国軍は その兵士の訓練を付託される に留まる”
というものであった,
国軍が到底受け入れられるものではなかった。

ただしヒトラーが どちらを選ぶかは明白だった。
政権を獲得して既にその目をベルサイユ体制の打破と強国ドイツの復活へと向けていたヒトラーにとって
必要なのは、まともな戦争のできる職業軍人と将軍達であり、突撃隊では無かった。

2月28日、ヒトラーは国防軍と突撃隊幹部による会議を招集し、
レームとブロンベルグを前に協定書を取り出した。

ヒトラーは、
・突撃隊が国境防衛の義務を遂行するため当面は予備的軍事訓練を継続する
・武器を保持する者は唯一に国防軍だけである
と明言した。
また協定書には突撃隊の役割は訓練のみに限定され
最終的に国防軍の指揮下に入るべき事が明確に規定されていた。

軍は祝杯をあげた、
国防大臣フォン・ブロンベルグは、
 国軍は突撃隊に劣らずアドルフ・ヒトラーに忠誠を誓わなくてはならない
と決心して、ナチの鷲と鍵十字を軍の記章に組み込む事を決定した。

この決定に対し
国防軍の中でもフォン・マンシュタイン大佐を筆頭に異議を唱える者も少なからずいた。
しかし この瞬間から
 ワイマール体制下で″共和国軍″と呼ばれていた軍
はヒトラーの軍門に下ったのである。

そして再軍備を経た後、
ヴェアーマハト(第三帝国下のドイツ国防軍)へと変貌をとげ、
類まれなる精強さを世界に知らしめる事になる。

一方、ヒトラーの決定に怒り心頭に達していたレームは
退席した後に部下の前でヒトラーに対する反乱を公然と口にして息巻いていた。
それを耳に入れたヒトラーだが、静かに機が熟するを待った。

レームの思想はナチ党本来の思想とは同床異夢だった。

ヒトラーとレームが主張した共産主義者の打倒という第一の革命が成った今、
レームは 第二の革命として貴族、財閥など上流階層を倒すべき とするものだった。
この思想は レームが極貧階層から上がっていった陸軍将校であり、
その成長過程で貴族や財閥など上流階層を憎悪の対象してみてきた事を考えれば不思議なことではない。

そしてレームは450万人にならんとする突撃隊を
 ドイツ陸軍に代るもの
とする考えを抱き、その頂点に君臨しようとしていた。

しかしヒトラーは ヴェルサイユ体制を打破して失われた領土を回復する為にも国防軍を必要としていた。
だからこそ失業状態を解消し、産業を奨励し、再軍備を進めてゆく計画が有り
これは どんな事があっても妨害されてはならない と決心していた。

街頭の戦い ではなく 本当の戦争をする のに、職業軍人に無視されては話しにならない。
ヒトラーが 突撃隊を国防軍へ吸収させる を選択するのは必然だった。

そしてドイツ陸軍の根幹はプロイセン軍人であり、
その将校団の中核はプロイセンの土地貴族(ユンカー)出身者であった。
彼らを一掃してしまったらドイツ軍とは呼べず、それはもはや存在しないに等しい。

事ここに至って どの点においても レームの思想 と ヒトラーの考え は合致していなかったのである。

レームの思想へ 全ての突撃隊員が共鳴していた訳ではない。
レームが 其の思想の為にこそ と何年間も鍛え訓練してきた のだが
その革命は起こりそうにも無かった。

 ヒトラーが権力を握ったのだから 其れを助けた突撃隊つまり自分達の果たした役割 を考えれば、
 今度は 公務員としての働き口 や 軍での新しい地位を与えて貰えるはず
と突撃隊に属する者達は単純に考えていて、
実際に突撃隊が国軍に吸収される という「昇格」が行われていった以上は
“街頭の戦い”としての突撃隊は全体に落日的な雰囲気が漂い始めていた。

“本当の戦争”という道筋だけが 情報工作も功を奏して 次第に色濃くなる一方となった。

これらの事が しかしレームには全く見えていなかった。
レームは突撃隊の力を誇示すべく、大集会を開き、
パレードを催して″第二革命″の必要性を激烈な調子で説いていた。

とはいえ 
ここまで親しき友として接してきたヒトラーからすれば
レームの失脚そのもので得られる損失は小さく無かったはずであり、
此の段階でレームが失脚する事 によって 最も恩恵を得る のは
親衛隊(SS)指揮官のハインリヒ・ヒムラーだった。

親衛隊も この時点で約8万人の勢力に膨れ上がっていた、
それでも尚に、組織的にはレームの突撃隊の一部とされていた。

ヒムラーは部下のラインハルト・ハイドリッヒを使い、
文書偽造、情報屋、恐喝等手段を選ばず あらゆる方法でもって謀略を開始した。

ここに至り突撃隊がいつ何時に反ナチ勢力の温床となりかねない
とヒトラーはヒムラーによって“気付かされる”。

突撃隊には前皇帝の長子ヴィルヘム皇太子が居た。
軍の忠誠が今でこそヒンデンブルグ大統領に向けられているとはいえ、
この老人が死んだ場合その忠誠が皇太子に向けられるのではないか
という恐れまでをもヒムラーは掻き立てる。
その上レームは君主主義者であった。

そして ヒトラーは死期の迫った老大統領から
 国軍と突撃隊の緊張状態が これ以上に続くようであれば
 戒厳令を布告し 国の統制権を国防軍の手に委ねる決意がある
と会見で告げられた。

しかし そんな事になれば国軍としての権力と権威が一気に強力となってしまう。
国軍の根幹はプロイセン軍人であり、将校団の中核がプロイセンの土地貴族出身者達なのだから
帝政としてのドイツを復活させようするかもしれない。
そういう事は可能である と示してきたのは 他でも無いヒトラー自身だった
しかし それでは
完全な独裁を狙い 私兵としての国軍を必要とするヒトラーの野望 も水泡に帰してしまう。

だからこそ それにも増してヒトラーが気がかりとなったのは
 レームが、450万人の突撃隊をけしかけて 国防軍と共に
  ヒトラー打倒して排除する → 帝政ドイツ+民主ドイツ な立憲君主のドイツ を目指す
という行動の可能性だって起こす可能性が有る という「想像」だった。
この 妄想にも等しい「想像」 が、
誰の どのような話から“ヒトラーの思考となっていったか”は 推察するしかない。

だが 結局に
 もはやヒトラーにとってレームの粛正はどうあっても避けては通れないもの
と 何故かなっていた。






「バドニクスの丘」の検索結果 - Yahoo!検索
http://search.yahoo.co.jp/search?&p=%E3%83%90%E3%83%89%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%AE%E4%B8%98

ベイドン山の戦い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%B3%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84






RT @AmboTakashi
世界中で震源の浅い地震が頻発している件。震源の深さ1キロから5キロまでの超浅い震源の地震が、異常なまでに起きてます。これ、絶対何かやっていると思います。
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/05/21/6817567
posted at 04:00:42


RT @tentama_go
遠隔操作事件で、以前には見つからなかった「雲取山のUSBメモリ」が発見されたそうです。江の島の猫の首輪から見つかった記録媒体とほぼ同じ内容が記録されてるそうで、現容疑者がいたとされる周辺の再捜索で発見された様子
ttp://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130521/crm13052112100013-n1.htm
posted at 04:01:06


RT @Kamikaze_Kamui
遠隔操作事件で公訴棄却要求 「PC特定せず違法」 - 47NEWS(よんななニュース)
ttp://www.47news.jp/CN/201305/CN2013052101002240.html
片山氏に対する検察側による今回の一連の対応は、「人権侵害」以外の何ものでもない。日本の司法は完全に崩壊しており、これは誰の身にも起きうる話
posted at 04:01:15


RT @RodinaTP
『ペリー日本遠征記図譜』より。昔からねえ…
  「ある階級」すなわち
  「日本の下層民は、大抵の東洋諸国民よりも道義が優れているにもかかわらず、
   疑いもなく淫蕩な人民」
  と記されている。
  「その淫蕩性は実に嫌になるほど露骨であるばかりでなく、不名誉にも汚れた堕落を現すもの」
  と断じている。
posted at 04:02:17


RT @RodinaTP
なんだと!西洋の価値観様に従わないとは、おまえは明治政府の敵だな!
@HYamaguchi
エッチなのはいいと思います!
RT @RodinaTP
エッチなのはいけないと思います!
posted at 04:02:21


RT @RodinaTP
ウィリィィィィィィィィ! キリストの教えを規範として合理と論理で組み立てられた西洋文明こそ地球を統べる唯一の価値!ウォォォォン!── ハァハァ、心にも思っていないことを言い続けるのは疲れるのでこれでやめます…
posted at 04:02:25


RT @kiraramaron
元日本ハム選手、2年前の下半身露出で逮捕 
ttp://www.sanspo.com/geino/news/20130521/tro13052114150005-n1.html
現場に残された体液から難波容疑者を特定した。
←2年前の事件が今になって特定?…これで採取された?→
警察が国民のDNAデータを集め始めている? 
http://news.livedoor.com/article/detail/6545255/
posted at 04:10:00


RT @kiraramaron
雲取山から記録媒体発見 江の島猫の首輪のものとほぼ同じ 
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130521/crm13052112100013-n1.htm
合同捜査本部が今月中旬に改めて現場周辺を捜索したところ、
メールに添付された写真と同じ形状の記録媒体が見つかったという
←何故逮捕から三ヶ月も経った今月中旬に改めて捜索したのですか?
posted at 04:12:09


RT @kiraramaron
PC遠隔操作:雲取山で記憶媒体発見 
http://mainichi.jp/select/news/20130521k0000e040187000c.html
今月16日に捜索したところ、見つかったという。捜査幹部は「当時、凍結していた部分は確認していなかった」と説明している
←4月14日には捜索可能だった!→
http://digital-nature-photo.com/?p=6130
posted at 04:12:14


RT @kiraramaron
雲取山から記録媒体発見
ttp://sankei.jp.msn.com/region/news/130521/tky13052112130000-n1.htm
今年1月1日…現場の写真なども添付されていたが、合同捜査本部は記録媒体を発見できず…
1月5日「私が埋めたのものは拾われたか飛ばされた」
←別記事では「凍結して掘れなかった部分の土に埋まっていた」…おかしくない?
posted at 04:12:21


RT @kiraramaron
雲取山から記録媒体発見
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130521/tky13052112130000-n1.htm
1月1日…合同捜査本部は記録媒体を発見できず、
写真がネット上から引用された形跡があったことなどから、
真犯人が捜査攪乱を狙った疑いが浮上していた。
←春になってから(片山氏ではない)真犯人が埋めたとしか思えない!
posted at 04:12:24


RT @yjochi
自分は、かつて、
警察側の、発見できなかったという真犯人へ向けたトラップではなかったか
と推理したことがあった。
ここに来て発見とは不可解。
→PC遠隔操作 雲取山から記録媒体発見 江の島猫の首輪のものとほぼ同じ(産経新聞) - Y!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130521-00000544-san-soci
posted at 04:12:31


RT @kiraramaron
4月14日に雲取山を登山した方のブログ
→ http://digital-nature-photo.com/?p=6130
凍結していませんけど…何故、今月になって捜索したのですかね?
posted at 04:12:39


RT @kiraramaron
犯人に次の行動をおこさせる目的で確保していながら「発見できなかった」と虚偽の発表をしていた
とすれば「今回の再捜索で発見された」(ことにした)このUSBメモリに
証拠能力はあるのだろうか?
このドラマを思い出した…偽証法廷
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-51423
posted at 04:12:46


RT @yjochi
<PC遠隔操作>雲取山で記憶媒体発見
http://bit.ly/14M7EPv
posted at 04:12:54


RT @jhatajinan
PC遠隔操作事件 犯行声明メールの通り、雲取山て?記憶媒体発見
http://www.fnn-news.com/cgi-bin/fnnmenu/chgPage.cgi?url=news/headlines/articles/CONN00246451.html
posted at 23:39:23


RT @jhatajinan
警察の一斉捜索をなめんな。誰かが片山祐輔逮捕後に埋めたんだろうが、変な展開だな。
posted at 23:39:25



RT @Yu_TERASAWA
ルーシー・ブラックマン事件でも、同一場所の2回目の捜索で遺体が見つかっています。
RT @nekoarmynekogun 狭山事件の「鴨居から万年筆」(古) RT @寺澤 1月に捜索したときに見つからず、
今月、改めて捜索したら見つかった
というのが、いかにもヤラセ臭いと思いませんか
posted at 23:39:28


RT @jhatajinan
すごく言いたいことを言ってくれた。
posted at 23:39:32


RT @jhatajinan
ルーシー・ブラックマン事件では、織原城二が逮捕された後、半年以上経過してから遺体が発見された。
織原は殺人と死体遺棄の嫌疑を掛けられていたが、
そもそも死体がなければ当該犯罪が成立するわけがなかった。
そして、警察は被害者の遺体が発見されるまで別件逮捕を繰り返して檻の中に閉じ込めていた
posted at 23:39:35


RT @jhatajinan
織原に対しての別件逮捕は下劣を極めた。
織原自身の趣味であったハメ撮りビデオの相手を警察が探し出し、
相手に織原を訴えろと詰め寄り立件していったのである。
それは九件に及び、その殆どが売買春であったが、金銭的折り合いが付いていたことは隠し通され、
警察は捏造もした。
posted at 23:39:38


RT @jhatajinan
ルーシー事件当時、
織原城二は北新地の商業ビル(未完成)のオーナーであり、青年実業家であった。
RCCとトラブっていたり、拘置所で書いたノートにはロスチャイルドと意味深に書き殴られていたりする。
つまり、はめられたのだ。
posted at 23:39:42


RT @thatta0529
身内には大甘の捜査権力。
@tetsumah
遠隔操作事件、片山さんとはえらい違い。
RT @saibankatuhisa
<富山放火殺人>元警部補、処分保留 殺人容疑では釈放(毎日新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130522-00000061-mai-soci
はあ? 証拠不十分? ありえない。
posted at 23:43:26




RT @kiraramaron
世界一危険な“竹やり作戦”/福島第1原発3号機 作業員が語る
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-05-20/2013052014_01_1.html
「連日、100人近い人間が3号機に張り付いている。
 東電のホームページには登場しない、『陰の作業チーム』だ。ほとんどが偽装請負だ」
と労基法違反の事実も指摘←監督署は何してる?
posted at 04:14:03


RT @kiraramaron
フクイチにも入るべき!
→労働基準監督官は臨検監督や行政指導を行う行政官なのですが、
 同時に特別司法警察員としての身分をもっています。
 したがって監督官は会社の行為が悪質だと判断した場合、
 自身の判断で経営者などを送検することができます。 
http://d.hatena.ne.jp/kmayama/20120126/p1
posted at 04:14:06


RT @kiraramaron
消費者負担 長引く恐れ 動かぬ原発の維持費、電気料金に
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2013052102000122.html
原電は断層を認めず再稼働を主張しているため、維持費を取りやめる動きは見られない。
←原電は維持費を取り続けるために断層を認めず再稼働を主張している…ということですね。
posted at 04:14:09


RT @kiraramaron
全国民に専用サイト開設構想 自民IT戦略案
http://www.47news.jp/CN/201305/CN2013051801001793.html
提言案では、厳格な情報管理に向け秘密保全法の整備も掲げた。
←こっちがメインなんでしょ!
posted at 04:14:40


RT @kiraramaron
安倍総理「成長戦略第2弾スピーチ」 
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2013/0517speech.html
(先端実証「規制ゼロ」)自分が実験台になるから、とにかくやらせてほしい。
そんな「モルモット精神」にあふれる企業に、大きなチャンスをつくりたいと思います。
←モルモットになるのが国民というオチでは?
posted at 04:17:55


「国民一人一人に専用サイトを開設し、
 年齢や家族構成などに応じて必要な行政情報を個別提供する自問党のIT戦略案」
って激しく民業圧迫をさせるだけ。
充分に供給が足りている所への過剰な公共事業はアベノミクスの夢想 からも真逆となる。
まさか此の程度の事も分からないまま発表したのかな。
posted at 04:25:20


“「twitterかブログを強く推奨する」 をして 其処へ政府広報を配信する を大きく発表する”
の方が、遥かに公金拠出を極めて押さえながら の 民需活性化な経済成長の底を支える のにね。
幾らなんでも経済学を馬鹿にしすぎている って何故にエコノミスト(笑)は言わないんだろうね。
posted at 04:29:49


RT @AmboTakashi
徳洲会の危機
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52033223.html
posted at 04:31:14


1.
・2013年05月21日 徳洲会の危機
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52033223.html
・2010年05月10日 誠天調書 あの時に そして今 何が起きているのか?
http://mkt5126.seesaa.net/article/149188037.html
posted at 04:36:53


2.
・誠天調書 2011年01月19日 司法官憲を使ったコイズミ恐怖政治と徳之島の政治情勢 を絡めて読み解けば、全く別の側面が出てくる
http://mkt5126.seesaa.net/article/181408622.html
posted at 04:40:19


3.
・誠天調書 2013年02月06日 コイズミカイカクという詐欺で郵貯や簡保を陵辱しまくった連中は 其の快楽殺人の味が生涯に忘れられない。
http://mkt5126.seesaa.net/article/319050193.html
posted at 04:41:06


RT @ho9107sei
忘れもしないリソナBKの増資インサイダー事件。
当時の無能東証理事長西室泰三が安倍政権下で今度は日本郵政社長となる。

@xciroxjp りそな問題。
インサイダー疑惑を追及した植草一秀教授が痴漢冤罪。
りそな担当の会計士=自殺。
りそな脱税問題を追う国税調査官=手鏡覗きで逮捕。
posted at 04:44:10


RT @xciroxjp
りそな問題。
インサイダー疑惑を追及した植草一秀教授が痴漢冤罪。
りそな担当の会計士=自殺、
りそな脱税問題を追う国税調査官=手鏡覗きで逮捕、
りそなから自民党へ融資急増スクープ記事を書いた朝日記者=東京湾で溺死。
竹中は犯罪者である。安倍内閣も仲間…
posted at 04:44:13


RT @desupehannari
麻生と郵政と新日鉄 2013/5/19 
http://desuperado.seesaa.net/article/362302263.html
デスペのはんなり日記
posted at 04:45:16


2005年、飯島と亀井が郵政を巡っての勃発をした。
飯島勲は、一石二鳥より上を狙う。
一つのスピンで複数のスピンを作る。
https://twitter.com/desupehannari/status/298802839889784832
posted at 04:49:55


2013/02/05  アベノミクスとは何か?そしてジャパンハンドラー達の次の作戦とは?? velvetmorning blog
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/02/05/6713106
小泉進次郎グループ = 「マイケル・グリーン友の会」
posted at 04:50:57


RT @desupehannari
多分、信じてなんかない 2013/5/19 土のうえのブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/umebaze/8643734.html
posted at 04:53:24


RT @opasou
「オゾンホール 気候変動」で検索。
http://www.nies.go.jp/kenkyusaizensen/200811/200811.html
国立環境研究所の論文みたいだけど、気温と偏西風の変化について触れている。
InDeepさんの記事
http://oka-jp.seesaa.net/article/362264473.html
を読み現在世界中で異常気象と。すべてフクイチ起因なのではと。
posted at 05:03:01
核利用による放射性物質の拡散 と 大気の大規模な変動つまりオゾン層の問題 
なんてのは もっと普通に調査が進んでも当然な分野なのにね。



RT @rantac
首都直下地震の発生時、自衛隊11万人投入へ 読売新聞
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130519-OYT1T01007.htm
「改定のポイントは、」「米軍との連携を盛り込んだ点。」
自衛隊の作戦計画では、米国要人の安全確保が、第一優先なのでしょうね。
posted at 05:03:08


RT @desupehannari
「日本政府を信じているなんて信じられない。ロシアも信じたばかりに大変な事になった」 樋口新一【職業:Truthseeker】
http://06020596.at.webry.info/201305/article_18.html
posted at 05:03:24


RT @ryo_cain
多分、信じてなんかない - 土のうえ のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/umebaze/8643734.html
信じてないでしょうねw
神だろうがなんだろうがカネの為なら利用し、いらなくなれば切り捨てるんじゃないでしょうかねえ
悪魔より質が悪いな…
posted at 05:11:46


RT @ryo_cain
個人的記録資料。 2013年04月の報道から。 - nYoの どうにも、真実が気になる。
http://blog.livedoor.jp/bettycat530-shinjitsu/archives/28141328.html
posted at 05:12:28


RT @ryo_cain
個人的記録資料。 2013年05月の報道から。 - nYoの どうにも、真実が気になる。
http://blog.livedoor.jp/bettycat530-shinjitsu/archives/28144387.html
いろいろ妄想できて楽しい資料をありがとうございます
posted at 05:12:32


RT @ryo_cain
マイナンバー法とは別枠、医療情報は独自「ID」で管理 - 土のうえ のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/umebaze/8643514.html
言い訳せずに国民管理法に名称を変えたらいいのに… そのうち海外へ行くのも難しくなりそう
posted at 05:12:38


RT @ryo_cain
思い出せるものが、消えていく。。 - 土のうえ のブログ - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/umebaze/8648785.html
posted at 05:12:40


RT @ryo_cain
スロウ忍ブログ 総務省がビッグデータの個人情報保護を検証する「第三者機関」の創設を示唆。
http://surouninja.blogspot.com/2013/05/blog-post_1849.html
統制管理して税金も使うって特権階級様達は考えることが違うぜ
posted at 05:12:52


RT @ryo_cain
厚労相 医療費などの一律削減行わないw - 土のうえ のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/umebaze/8649430.html
posted at 05:13:27


RT @ryo_cain
社団法人農林水産先端技術産業振興センターと 独立行政法人 農業環境技術研究所 - 土のうえ のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/umebaze/8656039.html
他人のカネだと思って好き放題に使ってくれてやがりますね
posted at 05:13:32


RT @ryo_cain
戦闘教師「ケン」 激闘永田町編 歪なる保守主義・上
http://bit.ly/12IQ6Ut
posted at 05:13:36


RT @ryo_cain
誠天調書:だから 小沢は日ロ交渉を急がなかった。
http://bit.ly/18cuKkw
思慮深いというか我慢強いというか何考えて毎日過ごしているか小沢氏に聞いてみたい
たまに映像見てると微動だにしない時あるから置き物かと思っちゃうよw
posted at 05:13:41
落合の監督時代。


RT @ryo_cain
その他の事項経費? - 土のうえ のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/umebaze/8662223.html
posted at 23:29:08


RT @ryo_cain
平成 23 年度決算の概要 - 参議院  - 土のうえ のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/umebaze/8661845.html
posted at 23:32:33


RT @ryo_cain
velvetmorning blog 実際に水道民営化した(フランスのヴェオリア社)松山市はどうなったのか?
http://bit.ly/10lzNd5
保守(笑)ってなんだろう
posted at 23:33:05


RT @Meretseger2
乙武は関連法案が何か出されそうになったら騒ぐけど今はTPPと児童ポルノ禁止法かな
posted at 23:35:57


RT @sihouhappou
で、乙武はバリアフリーの徹底とかで「建築・土木屋利権」「それらの機器販売」そして、「行政の天下りの再構築」のために徹底的に利用されるだろう。 それこそが「障碍者の社会復帰や社会生活を阻害」している。つまり、障碍者にとって乙武ほどの「害者」はいないという事なんだ。
posted at 23:36:34



声に出して読みたい 機動警察パトレイバー 2 the Movie
http://nextsociety.blog102.fc2.com/blog-entry-2140.html



posted by 誠 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | (゚∀゚) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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