https://twitter.com/mkt5126/b  https://twitter.com/mkt5126/c  http://twilog.org/mkt5126      TweetsWind                   TweetsWind                   TweetsWind


2013年12月31日

白いバラ

・女子大生がビラを撒いたら4日後にギロチンで殺される 合法的に。
 それが「日本人と日本」がウツクシイとする生き方や価値観や美意識そのものである。
 それが 安倍と自公政権 と 其の信奉者達や否定できない者達 が目指す理想世界である。


コレが正確かは知らないけど 表記は
 “白”が漢字
 “い”が平仮名
 “バラ”が片仮名
の場合が 今回に取り上げる話の場合の表記 となっているのが多いようです。


https://twitter.com/Godonof/status/417423861831852032
どうやら昨晩は「水晶の夜」だったようだ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%99%B6%E3%81%AE%E5%A4%9C
水晶の夜 - Wikipedia
水晶の夜事件(すいしょうのよるじけん、ドイツ語: Kristallnacht(クリスタル・ナハト)

今回の宮下公園ホームレス・支援者排除事件の背景 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/609440
公安調査庁 2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会関連特別調査本部

http://twitter.com/miyasitaseibe/status/417478753564901376
IOC評価委員会が視察で来た時もホームレスは強制排除をされていた
https://pbs.twimg.com/media/BcsutufCQAA3y_7.jpg

http://twitter.com/miyasitaseibe/status/417523395824070656
IOC評価委員会視察時の対応 は 通常の野宿者対応と違う ことは
当ブログで4回を使って指摘しておきました。
http://miyasitaseibi.blog71.fc2.com/blog-entry-320.html
http://miyasitaseibi.blog71.fc2.com/blog-entry-321.html
http://miyasitaseibi.blog71.fc2.com/blog-entry-328.html
http://miyasitaseibi.blog71.fc2.com/blog-entry-330.html

http://twitter.com/miyasitaseibe/status/417524332714160128
宮下公園の夜間全面閉鎖は
ナイキジャパンの当初計画にもなければ、渋谷区議会で議論されてません。
リニューアルオープン直前に急に渋谷区が言い出した。
詳細は【五野井郁夫氏の『デモとは何か』の宮下公園の記載は具体的資料と合致せず】参照のこと
http://miyasitaseibi.blog71.fc2.com/blog-entry-360.html

http://twitter.com/miyasitaseibe/status/417557333359620096
今回の宮下公園全面閉鎖の際も渋谷区から警察へ警備要請している であろうが、
渋谷区も警視庁も 事務方は休み だから
 即時の情報公開請求による裏付け調査は来年まで出来ません。
その間は やりたい放題 となる。
まさに水晶の夜そのものだった訳だ。

区からの警備要請が無ければ 警察の単独先行 となるので 実態が226事件となる。
その場合は警視庁つまり警視総監の責任問題となるが、それは流石に無いだろう。
其処まで迂闊ではないだろう。書類を造る時間くらいは有るからね。

つまり 文書が有るのだろうから
区も都も国も 行政そのものが責任逃れが出来ないという状態になる。
どっちにしても 責任逃れ が主目的となるのだが。
この場合になると
 水晶の夜 という 大量虐殺と民族浄化への直接攻撃 を起こしても
 誰も責任を取らない
すなわち
 裁判なしに死刑執行をしても誰も罪に問われない の前例を造った
という訳だ。

どういう指示命令の系統から 今回の話が起きたのか?
なんてのは そんなに難しい話じゃないと思うんだけどね。
NSC(国家安全保障会議)って何だったっけ?


https://twitter.com/tigercatver2/status/417338259836915714
都市公園法で排除が出来るなら、東京都の支援事業って何だろうな?
無宿者は日本国民じゃないと行政が宣言したようなもんだろ?

https://twitter.com/ryota1981/status/417302408541138945
職安が閉まる年末年始は、日雇い労働者が日給=その日の宿代を失います。
この極寒期の集団野営と共同炊事→配給をする は、何十年も続く話です。



https://twitter.com/Godonof/status/417532114431524864
思う所あって、
「白いバラ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E3%81%84%E3%83%90%E3%83%A9
「エーデルヴァイス海賊団」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%B9%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E5%9B%A3
について調べている 


「長いナイフの夜」の検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%95%B7%E3%81%84%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%95%E3%81%AE%E5%A4%9C
ウチがwikipediaの次だったw
誠天調書 2013年05月22日 長いナイフの夜
http://mkt5126.seesaa.net/article/363208128.html

Google 翻訳 Kristallnacht - Wikipedia http://en.wikipedia.org/wiki/Kristallnacht
http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=http://en.wikipedia.org/wiki/Kristallnacht&prev=/search%3Fq%3Dhttp://en.wikipedia.org/wiki/Kristallnacht%26biw%3D805%26bih%3D486

水晶の夜 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%99%B6%E3%81%AE%E5%A4%9C
には 大きく違いが有るんだね。


Google 翻訳 Weiße Rose – Wikipedia http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Wei%25C3%259Fe_Rose&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486

白いバラ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E3%81%84%E3%83%90%E3%83%A9
なんかは 更に大きく違いが有るんだね。

白いバラは ミュンヘン大学の学生 で構成されていた。
・ハンス・ショル
・その妹ゾフィー・ショル
を筆頭に、他にも
・クリストフ・プロープスト、
・ヴィリー・グラーフ、
・アレクサンダー・シュモレル
の3人の学生、および
・クルト・フーバー教授
らが活動に参加していた。

ドイツ語 http://de.wikipedia.org/wiki/Wei%C3%9Fe_Rose では
グループに多くの協力同調者がいた。
Traute Lafrenz
translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Traute_Lafrenz&usg=ALkJrhgVSpKkldxke8xN9HqnbL35lWYZVQ

Hans Conrad Leipelt
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Hans_Conrad_Leipelt&usg=ALkJrhglZvnt7DMIvhRYOi82HgY7yDRh7w

Marie-Luise Jahn
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Marie-Luise_Jahn&usg=ALkJrhgLrseFcNic4GZZDnCSv6BBqtBedg

Hans Hirzel
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Hans_Hirzel&usg=ALkJrhg0lFmGnT-X-xz_J0UagzfvOQdLmQ

Susanne Hirzel
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Susanne_Hirzel&usg=ALkJrhintEn-7dZCtsgM4-OkaOuXBl0Qlg

Heinz Brenner
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Heinz_Brenner&usg=ALkJrhiPXPOdO6gvcHXDFHWeU24UV58APQ

Hans Conrad Leipelt
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Hans_Conrad_Leipelt&usg=ALkJrhglZvnt7DMIvhRYOi82HgY7yDRh7w

Marie-Luise Jahn
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Marie-Luise_Jahn&usg=ALkJrhgLrseFcNic4GZZDnCSv6BBqtBedg

Hans Hirzel
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Hans_Hirzel&usg=ALkJrhg0lFmGnT-X-xz_J0UagzfvOQdLmQ

Susanne Hirzel
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Susanne_Hirzel&usg=ALkJrhintEn-7dZCtsgM4-OkaOuXBl0Qlg

Heinz Brenner
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Heinz_Brenner&usg=ALkJrhiPXPOdO6gvcHXDFHWeU24UV58APQ

Franz J. Müller
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Franz_J._M%25C3%25BCller&usg=ALkJrhgY4i8Zb0HDQx46jlT7A6TQvAgCuw

Eugen Grimminger
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Eugen_Grimminger&usg=ALkJrhgSd4oTT3gLRvFQ5aXnZVwzxzmX9A

Jürgen Wittenstein
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/J%25C3%25BCrgen_Wittenstein&usg=ALkJrhhja0L0QRpuSwHhcKL0SLfGoy1Ojg

Lilo Ramdohr
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Lilo_Ramdohr&usg=ALkJrhgqAdDdu16-lT5RfscdfE6nTepS3Q

Gisela Schertling

映画監督 Falk Harnack
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?depth=1&hl=ja&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486&rurl=translate.google.co.jp&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Falk_Harnack&usg=ALkJrhh6OUkRrxN8eem2eaKIwhUnsLs1wg
他にも様々な社会人や一般人が彼らへ協力をしていたようだ。

映画「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」というのが有る、観た事は無いが。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%99%BD%E3%83%90%E3%83%A9%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A+%E3%82%BE%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%80%81%E6%9C%80%E6%9C%9F%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%80%85

http://www.jicl.jp/now/cinema/backnumber/20060320.html
1943年、ミュンヘン。

ヒトラーの虚勢による戦争勝利の掛け声とは裏腹に、
人々はスターリングラードでのドイツ軍大敗の噂をしながら
見えない明日に怯えていた。

そんな中、戦争終結を叫ぶ地下組織的なグループが存在していた。
彼らは“白バラ”と呼ばれ、
定期的にビラを配り、
壁に「自由」「打倒ヒトラー」を書く
そんな非暴力的なレジスタンス活動を繰り返していた。

2月18日午前、ミュンヘン大学。
“白バラ”に参加していたゾフィー(哲学部、生物学も)と兄・ハンス(医学部、国防軍衛生兵)は、
講義中の人の気配の無い構内を見計らって 周囲を警戒しながら数ヶ所へビラを積み置きしていく。
そこでの緊迫感には息を呑む。

しかし、即刻、通告、逮捕され、
同日午後、ゲシュタポ(秘密警察)ロベルト・モーアの取調べが始まる。

学生ゾフィー と ゲシュタポのモーア の取調べの駆け引きが この映画の核心である。
なのに 不思議なwikipediaだと あまりに分かりにくい書き方がされていて
しかも 旧式左翼な学生運動の稚拙さを強調するような説明文 なので
コピぺ改変をしないと訳が分からない文章であった。

大学の関係者に発見され、ゲシュタポに逮捕される
尋問で兄が罪を認めたことを知って、全てを覚悟したゾフィー も容疑を認めるが、
 良心によって行動した自らの正当性
を訴えることへと決意する。

しかし それは
・ナチスの正当性と「法の支配」を説き、過ちを認めて助命を求めるように勧める尋問官モーア、
・ゾフィー達を「裏切り者」として断罪しては
 「寄生虫」として葬り去ろうとする判事ローラント・フライスラー
との戦いの始まりを意味していた。


http://www.jicl.jp/now/cinema/backnumber/20060320.html
無実と信念を貫こうと冷徹に対応する女子大生のゾフィー
 と
時に恫喝と脅迫を辞さない地方警察官出身で組織に拘束された秘密警察のモーア、
しかし
取調べ以外で感情を露わにする少女 と 取調べで時折に垣間と見える“息子を持つ”父親”
これらが互いに対照性を為す。

2月22日午前、
ベルリンの民族裁判所長官ローラント・フライスラーによる「正義」の裁判が開かれる。

ベルリンの民族裁判所長官ローラント・フライスラーは、
かつてソ連で捕虜、共産党員となっていた。
ローラント・フライスラー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC
第二次世界大戦中のナチス政権下のドイツで
る反ナチス活動家を裁く特別法廷「人民法廷」の長官を務めた。

不法な見せしめ裁判で数千人に死刑判決を下した。
あだ名は「きちがいローラント」、「大根役者」。

1912年にイェーナ大学で法学の勉強を始めたが
在学中に第一次世界大戦が勃発して軍に志願、士官候補生、次いで少尉として従軍し、
1915年にロシア軍の捕虜となってシベリアの捕虜収容所に送られた。

1917年にロシア革命が起きたのちは、ウクライナでボリシェヴィキの政治委員を務めていた。
この共産主義者だったという前歴のため、
ナチス党首アドルフ・ヒトラーも彼を「あの元ボリシェヴィキ」と呼んだという話もあり、
党友からは軽蔑されることもあったらしい。
終戦後の1920年、ドイツに帰還。イェーナ大学に復学し、1922年に法学博士号を取得。従軍期間のブランクを考えれば速い博士号取得といえる。1924年にカッセルでやはり法律家だった弟オスヴァルト・フライスラー(de:Oswald Freisler)と共に弁護士事務所を開設。

1925年、ナチ党に入党。1928年に結婚し、二男をもうける。カッセル市議会議員となり、のちヘッセン・ナッサウ州議会議員となる。弁護士としてナチ党員の弁護を担当した。1928年のナチス地区指導者による党中央への報告では「演説者として優れたレトリックを持っている。大衆向きではあるがよく考える人には拒絶されるだろう。フライスラー同志は演説者としては使えるが、指導者としては信用できず他の意見に流されやすいため不適格である」と評されている。彼はナチス突撃隊で士官の階級だったが、1934年の「長いナイフの夜」以降は突撃隊から離れている。

1932年、プロイセン州議会議員に当選。同年プロイセン州参事官、次いで局長に昇進。ナチスが政権を獲得したのち、1934年にプロイセン州司法次官となり、ライヒ司法次官を兼ねる。その職責で、今日までドイツ刑法に一部が残っている法改正を行った。またこの立場でヴァンゼー会議にも出席している。しかし優れた法律知識を持ち熱心なナチ党員でありながら、次官で出世が止まっていたのは、彼が独善的で後援者がいなかったこと、弟オスヴァルトがナチ党員でありながらカトリック教会の反ナチ活動家を弁護して無罪判決を勝ち取り、党の威信を下げたことなどが指摘されている。弟オスヴァルトはヒトラーの怒りを買って党を除名されたが(1939年に自殺)、彼自身はヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相のとりなしを受けている。フライスラーとゲッベルスはナチス左派という立場で近かったためであるとされる。

第二次世界大戦中の1942年8月、法相に転出したオットー・ティーラックの後任として、フライスラーはヒトラーにより人民法廷長官に任命された。

人民法廷(人民裁判所または民族裁判所とも訳される)とは、
国家反逆罪の被告を裁くため1934年に設置され、
後に扱う刑法の範囲が拡大された。

フライスラーの長官就任後、死刑判決の数が激増した。

彼が担当した裁判の9割は死刑あるいは終身禁固刑判決で終わっている。
たいてい判決は開廷前から決まっていた。

彼の長官在任中に人民法廷は約5000件の死刑判決を下したが、
うち2600件はフライスラー自身が裁判長を務める第一小法廷が下したものである。

この死刑判決の数は、
 人民法廷が設置された1934年から1945年の期間中の
 他の裁判長により下された死刑判決の合計
よりも多い。

フライスラーが怒号するように罪状を叫ぶ中、被告は殆どに弁護をさせてもらえず、反論も許されなかった。

ローラント・フライスラーは身に付けた罵詈雑言を叫び叩きつけるサディスティックな方法で、
2年後の休廷中に空襲で死亡するまで、死刑を宣告し続けてきた。

ゾフィーの裁判は、その「司法テロ」(1985年連邦議会声明)の最たる例であった。

白バラのメンバーの際の裁判が物語るように、弁護人は形式的に存在するだけだった。
フライスラー裁判長は被告とのやり取りで
"Ja"(はい)か"Nein"(いいえ)か!明確に答えろ!
と高圧的に臨み、
また被告の言葉の端々を捉え話をすり替えたりして、裁判を被告の不利な方向に持っていった。

「今に貴方が此処へ立つわ」。ゾフィーの法廷での最後の言葉である。

ナチスとドイツを裁いた『ニュールンベルク裁判』を観れば、それはわかる。
ナチス時代の憲法・法律を司った
元裁判官・司法大臣エルンスト・ヤニング(オットー・ティーラックがモデル?)へ対して
ニュールンベルク裁判で告げられる言葉が有名である。
「最初に無実の者へ死刑を宣告した時に運命は決した」。

ナチスの時代はエルンスト・ルドルフ・フーバー(法学)などがナチスの桂冠学者だった。
例えば
 反共だったが経済的理由からナチス党員だっただけなので
 “白バラ”へも協力したミュンヘン大学教授のクルト・フーバー(哲学、音楽学、心理学)
はギロチン死刑へと処されている。

そして、今も当時もドイツの裁判では、「国民の名において」と判断の冒頭で読み上げられる。
「国民」は「何も知らなかった」では言い訳にならない、という意味でもある。

この映画では、
取調べや裁判の場面で、統一後90年代に旧東ドイツから発見された尋問記録を基にしている。

例えばゾフィーが使う「ノンポリ」という言葉は「ノン・ポリシー」そのままであり
日本で俗に使われる意味合いとは印象が違って使われる。
ゾフィー自身 や “白バラ” には共産党など特定の党派的な色彩は 基本的に無い。
ゾフィーと仲間との会話では ソ連の侵攻は嫌う台詞 もある。
そういう意味合いでの「ノンポリ」と言う彼女は、
あくまで「無党派」であって「政治的無関心」ではないのである。

また、彼女は自身の「信仰」を強調しているが、
これもまた日本で俗に使われる意味合いとは印象が違って使われる。
此処で言う「信仰」とは「祈り」つまり「心の拠り所」な程度の意味合いでしかない。
そもそも“白バラ”は、
プロテスタント、カトリック、ロシア正教の者が居る、
特定の宗教的な教義に依拠するものではない。

そして、「良心」に基づいていることを強調する。
「制定法の不法」に対する良心を説くのである。

更に彼女が訴えたのは「人間の尊厳」である。
これは「制定法を超える法」として戦後のドイツ基本法(憲法)1条に明記された。
Grundgesetz I.  I. DIE GRUNDRECHTE 基本権 THE BASIC RIGHTS
http://www.fitweb.or.jp/~nkgw/dgg/ggi.htm

此処にドイツ連邦共和国基本法の日本語訳が有る

逮捕から4日後の1943年2月22日に起訴されて即日に判決が下された。
その日の1943年2月22日の夕方5時にてミュンヘン・シュターデルハイム執行刑務所で
ギロチン斬首による死刑の執行を受けた。
21歳である。
これが “ウツクシイな「日本人と日本」”の理想世界 である。

http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tydt/id323822/
ゾフィー・ショルは
 敗戦が濃厚となっているのにナチスが戦線を拡大しようとしていた1943年に
 ヒトラー打倒を呼びかけて 逮捕された僅か5日後にはギロチン処刑された実在の女子大生
である。

その存在の詳細は
東西ドイツ統一による90年代に東ドイツから発見されたゲシュタポの尋問記録
で やっと明らかとなった

ゾフィーは音楽好きの普通の女子大生に過ぎなかった。
親友とクスクス笑い合ったり、戦地のボーイフレンドを想う、普通の女子大生らしい彼女だった。

最後を覚悟して尚に信念を貫くと決めた兄妹は
ギロチン死刑の直前に両親との最後の短い接見をし、仲間や兄妹と抱擁をする。


http://www.tanpoko.com/movie/sophie.html
「白バラ」では結局に6人が処刑され、10人に有罪判決が出た。

彼女らは何も暗殺とか、破壊とかしたわけじゃない。
単に「反ナチス」を訴えるビラを撒いただけ、
それなのに逮捕から5日で裁判、即死刑されてしまいました。

当時はドイツがスターリングラードでの敗北後、イギリスへの空爆も成果が上がらず、
たぶん、もうじきアフリカ戦線でロンメル将軍も負けるか、もう負けたんで、
いままでの勝利一色に影が差してきたからではないかと思います。

ここらへん、十五年戦争中の日本と似てますね。
負けても報道させない。「勇気ある転進」とか言って国民を騙していた事と。

ゾフィーの兄のハンス(衛生兵だった)は
裁判中に「国は我々(前線で戦ってる兵士のこと。ハンスは兵役経験者)を恐れている」と言います。

「国が国民の何を恐れているのだろう」
実は負けていることを知られるのを?
勝てない戦いに狩かり出していることが知られるのを?
真実を知られるのを?
自分たちのしていることが正しくないと知られるのを?

その全てであり、おそらくは更に理由があり、
 ああ、わしの感じたことって、きっとドイツの人たちも思ってたんだな、
という確信を得ました。

ゾフィーやハンスの信念は
父の「正しいと思うことをしなさい」という教えにある。

最後の時にゾフィーは母へ「勇気をありがとう」と言う。
両親の教えが彼女を強くし 同時に 正義に殉じさせてしまったのだ と思って泣けました。


http://ameblo.jp/tonton3/entry-10021967737.html
「もう会えないのかい」という母親に「天国で会えるわ」とゾフィーは答えます。
ギロチン式の断頭台へ行くゾフィーと兄のハンスと仲間の一人。
ギロチンの音と共に、映画の画面は真っ暗になって終わります。

ドイツには
「ゾフィー・ショル」と名付けられた学校が190もある。
授業では、
ナチスの犯罪の他に、どういう人が抵抗運動をして、命を落としたかを教わる。

http://sogonenpyo.seesaa.net/article/253464520.html

1943年2月22日
「白いバラ」運動メンバーが処刑される。
この運動は、ナチス・ドイツ政権下で行われた、学生等による反政府運動である。

中心人物はハンス・ショルとその妹ゾフィー・ショルの兄妹。
メンバーの多くは、東部戦線や西部戦線に出兵していた学生達だった。

戦場の悲惨さやポーランドユダヤ人の迫害を目の当たりにして衝撃を受け、
反戦と政権批判をするようになりました。

メンバーはビラを作ってドイツ南部を中心に
郵便などを使って配布します分かり易い文章で、理解しやすいようにしていたそうです。
スターリングラード攻防戦でドイツ軍が壊滅すると、さらに反戦を主張するようになります。

そして、この年の2月14日と16日にミュンヘン市内でビラを撒いた後、
残りをミュンヘン大学で撒こうとして、ナチス党員の大学職員に見つかり、拘束されました。

兄妹は自分達だけで責任を取ろうとしますが、
メンバーのクリストフ・プロープストも逮捕され、
2月22日に死刑判決を受けて、即日ギロチン斬首されました。

他にもヴィリー・グラーフ、アレクサンダー・シュモレル、とクルト・フーバー教授らが逮捕。
裁判で死刑判決を受け、同じくギロチン処刑されました。

ナチスは独裁体制でしたが、
学生達の反政府運動は比較的に盛んで、
他にも多数の組織が活動していました。

戦後、ナチスに立ち向かったとして賞賛され、
ショル兄妹と、フーバー教授の名は、
各地で学校や公共広場、出版賞などの名前になっています。


誠天調書 2012年11月17日 極東は核で燃えているか? ミシシッピー・バーニングから如何に啓蒙を受けるか?
http://mkt5126.seesaa.net/article/302180997.html
1965年の「Selma→Montgemory大行進」の直後に
公民権運動支援の白人女性を殺したK.K.K.数名が有罪となり、
1967年にミシシッピの「活動家三人の暗殺」の首謀者・実行犯のK.K.K.数名が有罪となったことはありました
が、いずれも「公民権を覆す陰謀」という連邦政府による告訴で、
刑も長くて十年という軽いものでしかありませんでした。

この教会爆破事件の裁判は、
深南部の州による告訴で初めて「殺人事件」として有罪を勝ちえた画期的な実績となりました。

なお、教会爆破事件の犯人の一人(教会にダイナマイトを置いた人物)はテキサスに逃げていて、
長らく捕まりませんでした。
元親族の証言などにより、年老いた元K.K.K.メンバーは逮捕され、
有罪が確定したのは2002年春のことです。
少女たちが亡くなって39年経っていました。

教会のガイド(黒人の中年女性)に
「もうBirminghamには人種的トラブルはありませんか?」と聞くと、
「とんでもない。就職とか出世にはまだ厳然と差別がある。
 古い世代が各界のトップから去って、世代交代するまでは駄目ね」

私が「今の子供たちは白人も黒人も一緒に遊んでいますが」と云うと、
「そう、彼等が市や企業の要職に就くまで、待たなきゃならないのよ」
「かなり長い辛抱ですね」
「そうだわね」
彼女は(その頃は私はお婆さんで、就職も出世も関係無いわ)という言葉を呑み込んだように見えました。
云っても詮ないことですものね。


16th Street Baptist Churchの斜め前にKelly Ingram Park(ケリィ・イングラム公園)があります。
ここは黒人たちのデモ行進の出発地点や集会場として使われた場所だったそうです。

一見、ごく普通の公園に見えますが、中を歩くとびっくりします。
金属で作られたモニュメントが幾つか立っているのですが、
それらは警察権力による黒人デモ隊迫害をリアルに表現したものなのです。

白人警官が警察犬を黒人少年にけしかけている立像、
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/dog2.jpg



消防隊の強力な放水を受ける少年少女。
「私たちは拘置所を恐れない」と題された鉄格子に歩み寄る男女。
等も有ります。

圧倒的なのは、両側から警察犬が飛びかかろうとしている小径です。
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/dogs.jpg



金属で出来た犬とはいえ、その間を歩くのは背筋が凍ります。
官憲警察や裁判所から治安維持法で弾圧を受けて殺された 事を
 こうして社会啓蒙として一般民衆へも分かりやすく提示する
というモノを どれだけ極東の一諸島で眺めた事が有りますか?

戦争はウツクシイ とか 特攻はウツクシイ とか 其れに連なるモノを四六時中に見掛けますけどね。
俺の目がオカシイのかなぁ、被曝し続けているから否定はしきれないけど。

「日本人と日本」はハイパーキチガイカルトそのものである。
そんな事実をすら理解する気も無いままに生きて行く事が どんだけ狂気の沙汰か。

良い方法が有ります、2者択一です。

・テンノウヘイカバンザイ シンベイホシュハウツクシイ と叫びまくりながら 受験勉強に勝ち残る
 とした後ならば 運が良ければ徴兵されての福島送りが免除されます。

・国民の生活が第一 とか言い出すと
 警察公安検察や宗教右翼カルトから拉致監禁と集団リンチを受けます
 その後に刑務所へ送られた場合は「タベテオウエン」で被曝させられまくっての死刑に処されます。

それがウツクシイなニホンなんだからさ。
まだまだ序の口だと思うよ 今の状況はね。


https://twitter.com/kkumenara/status/418272124579491840
「どの国でも同じような行為…」新藤大臣が新年に靖国参拝
ttp://5.tvasahi.jp/000018900?a=news&b=np

https://twitter.com/higiyama/status/418277298995875840
ドイツなどで
 ヒットラーの如き戦犯が仮に崇められている場所へ嬉々として現役閣僚が赴く
としたら それは大騒動になる。
大東亜戦争における戦犯 を 合祀している靖国神社 へ詣でる は政治的に極めて重い意味が有る。
「どの国でも同じような行為…」とは片付けられない。

キリスト教圏で言えば ヒトラーを聖人として崇める教会で礼拝をする だよね。
もっとも ドイツへ行って同じ事を言う→理解できないドイツが悪い とか言い出すのがオチだろうけど。
そういう大馬鹿野郎でキチガイで詐欺師な連中でしかないんだから もう永遠に治らないよ。

だから 日本人と日本 という存在そのものが 異民族そのもの として分けて行く、
まで進まなければ、間違いなく 永遠に話は解決しない と俺は断言できるね。
あんなのはハイパーキチガイカルトでしかない事は 1+1=2 よりも簡単に分かる話だよね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E3%81%84%E3%83%90%E3%83%A9
戦後のドイツでは、白いバラの活動、なかでもショル兄妹に、惜しみない賞賛が与えられている。ミュンヘン大学の大講堂がおかれている一角は、兄妹にちなんだ "Geschwister-Scholl-Platz"(ショル兄妹広場)、隣接する広場は "Professor-Huber-Platz"(フーバー教授広場)と名付けられている。1968年にミュンヘン大学に設置された政治学の研究所は、Geschwister-Scholl研究所と命名された。また、1980年からは、バイエルン州出版協会とミュンヘン市がショル兄妹賞を設立し、兄妹の考えであった自由、市民、道徳、知的な勇気などに関連する出版物を表彰している。

ミュンヘンのみならずドイツ各地にも、ショル兄妹の名が付けられた広場や通りがある。また、ドイツ国内の学校で最も多い校名は "Geschwister-Scholl-Schule"(ショル兄妹学校)である。


アレクサンダー・シュモレル
http://www.weisserose.vis.ne.jp/people_alexander.html
1917年9月16日、ロシア・ウラル地方のオレンブルクでアレクサンダー(アレックス)は生まれた。父はロシア生まれのドイツ人、母はロシア人でロシア正教の司祭の娘。

シュモレル家はアレックスの祖父の代にロシアに定住。父はミュンヘン大学医学部で医学を学び、ロシアに戻った後、医者となった。しかし第一次大戦により、敵国人としてモスクワから収容所のあるオレンブルクに抑留される。母は1919年にチフスにかかり死亡。父は翌年、ロシア生まれのドイツ人女性と再婚、一家は1921年にミュンヘンに移住した。

シュモレル家の会話はミュンヘンに移った後もロシア語だった。ロシア人の子守りの女性はアレックスのために、ロシア語でロシア民話を語り、童謡を歌い、彼が覚えていない実母の話をした。また彼はロシア正教の教会籍を持ち、両親もロシア人としてのアレックスを尊重したため、正教の教育を受けて育つ。彼はロシア語を母語とし、故郷・ロシアに深い愛情と憧れを持ち続けた。


1939年春、ハンブルク大学医学部に入学。
しかし半年後に戦争が始まり、学生中隊に招集され翌年衛生兵としてフランスへと招集された。
秋には中隊からミュンヘンで医師予備資格試験を受けるよう命じられた。
その1941年1月に試験を終えたころから
同じ衛生兵だった中隊所属のハンス・ショルと親しくなったと考えられている。

また、ハンブルク大からミュンヘン大へ移ってきた友人のトラウテ・ラフレンツをハンスへ紹介したのも
このアレックスだった。
8月から10月上旬までの病院実習に、アレックスとハンスは同じ病院を選ぶなど、
この頃の二人は常に行動を共にしていた。

1942年6月から7月の間に、
アレックスはハンスと共に4種類の反ナチスのビラを作成しミュンヘン市内に配布する。

7月中旬、東部前線での医療実習命令によりアレックスはハンス、ヴィリーとともにロシアへ向かった。
「母国」ロシアでは自由になる時間に通訳を務め、土地の農夫や漁師と親しく接する機会を作った。
知り合ったロシア人との交流は非政治的なものだったが、
既に彼らはワルシャワのゲットーで親衛隊とユダヤ人の様子
(1942年7月はトレブリンカのガス室にSSがユダヤ人を送り始めた時期)を目撃していた。
さらにロシア(ソ連)で「下等なスラブ民族」「共産主義者」たちに対する
ドイツ軍の暴挙を目の当たりにしたことは、彼らに抵抗運動の継続と拡大を決意させた。

1943年1月、以前よりも大量に作られた第5のビラが
ミュンヘン以外の街から投函されドイツ各地へと広がった。

2月には、ハンス、ヴィリーと共に深夜に数回、
ミュンヘン市内の数10箇所に「自由」「打倒ヒトラー」などのスローガンを
タールで書いてまわる直接行動もしている。

中旬には第6のビラが完成し投函された。
しかし2月18日、ハンス、ゾフィーのショル兄妹が
大学構内でビラを撒いているところを見つかり逮捕される。

アレックスは彼らが連行されるのを近くで目撃したらしく、その日のうちに逃亡を試みた。
しかし2月24日の空襲の夜、防空壕にいたところを知り合いの女性に発見され警備隊員に引き渡された。

ショル兄妹は逮捕から4日後に裁判が開かれ即日処刑されたが、
アレックスの裁判は多くの白バラ関係者と同じく、
逮捕から約2ヵ月後の4月19日、ヒトラーの誕生日の前日とされた。

アレックスは死刑判決を受け、即日処刑にはならなかったものの
家族による助命嘆願はヒトラーによって却下され、7月13日に処刑された。

彼は処刑前に会った弁護士に最後の願いとして、
ナチスが倒れた後、
彼の逮捕の原因となった人物が自分を裏切った責任を問われ辛い思いをしないよう、
この人物の名を明かさない事を頼んでいった。

 どんな政府が誤りを犯さないのでしょうか?
 いやそんな政府は無い。過ちを正すために、誤りを示されること、
 そのことに政府は本当に感謝するべきでしょう。

1943年3月8日

逮捕後に警察で書いた「政治的信条」の中のアレックスの一文です
(『ドイツにおけるナチスへの抵抗1933-1945』ペーター・シュタインバッハ、ヨハネス・トゥヘル編/田村光章 他/現代書館)。



http://www.goethe.de/INS/jp/tok/ja1297530.htm
ドイツ文化センター クリストフ・プロープスト
クリストフ・プロープストは1919年11月6日、
シュタッフェル湖畔のムルナウで、在野の学者の息子として生まれた。

クリストフの父親は古代インドの言語サンスクリットや東方の宗教の研究者であった。
クリストフは幼いころから姉との結びつきが大変ni強かった。
姉弟の父親が迎えた二度目の妻はユダヤ人だったため、
姉弟は政権掌握の後、国民社会主義(ナチズム)を具体的な恐怖として体験することになった。

クリストフはマルクァートシュタインとアマー湖畔のショーンドルフの二つの寄宿学校で学んだが、
いずれの学校の教育も人文主義的kaつ進歩的なもので、
クリストフのヒトラー政権に対する拒絶を一層ni強めた。

1935年にミュンヒェンの新実科ギムナジウムで
クリストフはアレクサンダー・シュモレルと知り合い、親友になった。

アレックス(アレクサンダー・シュモレルの愛称の一つ)は度々、田舎に住むプロープスト家を訪ねた。
ミュンヒェンでは二人は一緒にフェンシングのレッスンに通った。
クリストフはロシア語を勉強し始めたが、
それは、いつかアレックスと一緒にロシア文学の作品を読めるように、という願いからだった。

1937年に大学入学資格試験を受けた際、
教師はクリストフについて、並はずれた成熟ぶりを見せる、
精神的に活発で批判的判断能力を有する生徒である
と述べている。
全ての青年に課せられていた帝国労働奉仕と兵役義務を果たした後、
クリストフは1939年夏学期、ミュンヒェン大学で医学の勉強を始める。

クリストフ・プロープストとアレクサンダー・シュモレルは、
ミュンヒェン大学でハンス・ショルと知り合い、親しくなった。

戦争が始まると、クリストフの国民社会主義に対する批判は厳しさを増した。
クリストフは空軍の学生中隊に属しており、開戦後も大学での勉強を続けることができた。
最初はミュンヒェンで、次にはストラスブールで、それからインスブルックで。

1941年21歳で、クリストフはヘルタ・ドールンと結婚した。
ヘルタの父親ハラルト・ドールンは体制批判的な在野の学者で、
後に
 1943年7月13日、白バラに対する第3回裁判の被告として告訴され、
 バイエルンの分離、解放を目指す組織「自由バイエルン」に加担したとして、
 1945年4月20日、ミュンヒェン郊外ペルラッハの森で射殺された。

クリストフ・プロープストとヴィリ・グラーフは、
1942年夏、あるコンサート会場で知り合った。
二人はその後も建築家アイケマイヤーのアトリエで開かれる読書会や話し合いの会で顔を合わせた。
クリストフには子供が二人できていた。

白バラの友人たちは、
 一家の父親であるクリストフを
 なるべく危険な活動に関わらせない
よう、気遣っていた。

1942年12月初め、クリストフはインスブルックの学生中隊に転属になる。
その後もクリストフは度々ミュンヒェンにやって来て、白バラの活動に加わった。

ハンス・ショルを逮捕した後、秘密警察は細かく引き裂かれたビラの下書きを発見したが、
その下書きはクリストフの手になるものだった。
クリストフはそこで、スターリングラードで起こったこと を問題にしていた。
この書き物の代価をクリストフは生命で支払わされたのである。

1943年2月19日、
3人目の子供の出産後病床にあった妻を見舞うため、休暇願いを出そう
と中隊事務所にやってきた所で、クリストフ・プロープストは逮捕された。

1943年2月22日、ローラント・フライスラーを裁判長とする人民法廷で、
クリストフ・プロープストは死刑を宣告された。
ハンスとソフィーのショル兄妹と共に、クリストフも
同日中にミュンヒェン=シュターデルハイム刑務所で、断頭台によって処刑された。
死の直前、クリストフはカトリックの洗礼を受けた。

「クリストフは『安楽死計画』の話を聞くと、ひどく深刻なショックを受けていた。
 この、精神および身体障害者に対する大量殺人計画は、秘密にされてはいたが、
 しかし、そんなことはいつまでも秘密にできるものではなかった。
 また、家の外でユダヤ人が着けさせられた、黄色いユダヤの星についても、憤慨していた。
 強制収容所や東部戦線で行われている大量虐殺などの犯罪行為が徐々に伝わって来ていたが、
 そのような話に対してひどく腹を立てていたことは言うまでもない。」


クリストフ・プロープスト
http://www.weisserose.vis.ne.jp/people_christoph.html
 人生がまだ僕たちを必要とし、
 僕たちが創造主にとってはおそらく
 単に風に舞う塵よりは大切な存在だろう、と期待することが、
 僕たちには許されているはずだ。

1943年2月4日

姉アンゲリカ宛の手紙の中の一文です(『白バラ抵抗運動の記録』P.337/C・ペトリ・関楠生訳/未来社)。

ショル兄妹が逮捕された翌日にクリストフもインスブルックで逮捕されたが
その 特にスターリングラードで起きていた事を書いた草稿 より以外に、
白バラとクリストフとの繋がりを示す証拠は何一つ発見されていなかった。

しかし2月22日に民族裁判所で3人は死刑判決を受ける。
クリストフは家族の為に助命を嘆願し、ハンスもこれを支持し弁明したが、
裁判長フライスラーは即座に却下した。

裁判を傍聴した人の手記によると
「裁判長は審理の間中、ひたすら告発者であり、全く裁判官としての役割を果たそうとはしなかった」
(『ミュンヒェンの白いばら』)。



http://www.weisserose.vis.ne.jp/people_willi.html
ヴィリー・グラーフ Willi Graf
1942年4月、ミュンヘンの学生中隊に配属となり、ミュンヘン大学での勉強を再開する。
いずれ来る敗戦を ただ待つだけで良いのか? そう漠然と考え始めていた。

ヴィリーがハンス・ショルと知り合ったのは この頃 で、
彼はハンスに惹きつけられ、急速に親しくなっていった。
白バラの初期のビラ(1942年6月〜7月)に関わっていたかは不明。
しかし7月〜10月のロシアでの医療実習から帰った1942年秋からは、
各地へ同志集めの旅に出るなどビラの配布に深く関わっている。

クリスマス休暇で故郷ザールブリュッケンに帰った彼は
新ドイツ時代の同志を訪ね歩き、抵抗運動への協力を求めている。

ほとんどの同志が反ナチでは意見は一致しても、抵抗運動については否定的だった。

しかし、フライブルク大学の哲学科助手になっていたハインツ・ボリンガーだけは
フライブルク大学の抵抗グループについて語り、ミュンヘンの学生たちへの協力を約束。
ヴィリーはミュンヘンとフライブルクの組織のパイプ役を果たすことになった。

1943年2月深夜、ヴィリーは
ハンス、アレックスとともにミュンヘン市内各所に「打倒ヒトラー」などのスローガンを
タールで大書きする直接行動にも参加している。

ショル兄妹が逮捕された2月18日、ヴィリーも深夜自宅前で逮捕された。

処刑された白バラ関係者6人のうち、
ハンス、クリストフ、ゾフィーが2月に、
アレックス、フーバー教授が8月に処刑されたが、
警察は残る協力者の名を聞き出そうとヴィリーの処刑を延期し、10月まで取調べを続けた。

しかし彼は協力者を守り通し、新たに逮捕者を出すことはなかった。

処刑当日、ヴィリーは妹アンネリーゼからの手紙を受け取った。
彼は処刑直前に その返事を司祭へ伝え、書き留めてもらった。
「ぼくの友人たちに対しても、
 きみが、ぼくの思い出と意志を保持していく役目を受け持ってもらいたい。
 友だちのみんなに、ぼくの最後の挨拶を伝えてくれたまえ。
 みんなに、ぼくたちの開始したことを受け継いでもらいたい。」


僕が軽率な行動をしたのではなく、深い憂慮から、
そしてまた重大な状況を意識した上で行動したのだということは、
君にもわかっているはずだ。

1943年10月12日

処刑直前に書かれた妹宛の手紙の中から選びました(『権力と良心』P211/フィールハーバー他編/未来社)。


ハンス・ショル Hans Scholl
http://www.weisserose.vis.ne.jp/people_hans.html

 今、生きるということが絶え間ない危険と同義になってしまった今。
 しかし、僕自身が危険を選んだのだから、
 僕は自由に、縛られないで、目標に向かって進んでいかなければ。   

1943年2月16日 

逮捕の2日前に書かれた、恋人と思われるローゼ・ネーゲレ(白バラとは無関係)宛の手紙の中の言葉

ハンスの言葉で一番印象深いものは

「後になって共産主義者から、
  キリスト教徒は何をしたのだ
 と言われたとき、
  自分達は これこれのことをした
 と胸を張って言えるようでなければ」
(『ミュンヒェンの白いばら』P231/山下公子/筑摩書房)

でした。
しかし、これは姉インゲの記憶の中の言葉であるのかもしれませんが ハッキリしていません。

1936年当時に ヒトラー・ユーゲント以外の青年団に加わる ということは
「非合法活動に加わること」だった。
非常に危険な行為であるにもかかわらずハンスは「d・j・1・11」の活動に積極的に参加し、
ウルムのグループの中心的存在となる。

開放的で文化的な「d・j・1・11」の活動によって、
ハンス達はコスモポリタン的な生き方を身に付けていった。
この「危険な行為」には全く両親は口出しをせず、彼らを黙って見守っていた。

1937年春、19歳のハンスは大学入学資格試験に合格。半年の勤労動員の後、さらに秋から1年間の兵役に就く。この頃、残存する青年団を摘発するため、全国で一斉捜査が始まり、1937年11月、ショル家も家宅捜査され、弟のヴェルナーと年長のインゲが逮捕、8日間拘留される。兵役に就いていたハンスは、ひと月遅れの12月に逮捕された。シュトゥットガルト拘置所に一ヶ月拘留され、「同盟青年団的策動」と「為替法違反」の罪で告発されたが、1938年のオーストリア併合による恩赦のため、審理は中止となった。

1年間の兵役を終えたハンスに、11月からテュービンゲンの病院で、医学部入学の前提条件とされていた衛生兵養成訓練と試験を受けるよう、命令が下る。翌1939年1月、試験に合格し、ようやく、21歳の春からミュンヘン大学医学部の学生となった。

1939年9月に戦争が始まってからも大学で医学研修を続けるよう命令があり、軍への召集は1940年3月だった。5月から6月にかけてベルギー、フランスへ。「これ以上自軍の人殺しぶりを落ち着いて見ていられるかどうか自信がありません(両親宛1940年6月6日)。」(『白バラの声』)と言っていたが、停戦のため7月以降は戦闘がなくなり比較的自由に過ごし、9月末の帰国まで、フランス各地の野戦病院であらゆる手術の助手として働き続けた。

帰国後すぐにまた学生中隊に配属されるが、そこで出された命令は「医師予備資格試験に合格するまで学生を続けること」だった。この1940年秋、同じ学生中隊に所属し、同じ命令を受けた青年の中にアレクサンダー・シュモレルがいた。

1941年1月、ハンスとアレクサンダー(アレックス)は試験に合格。夏学期終了後、二人は8月1日から10月上旬までの実習にミュンヘン市内の同じ病院を選び、10月中旬には2週間の休暇を利用し、ウィーン、リンツ、メルクなどドナウ周辺を旅する。11月の授業再開までの3ヶ月間、二人は常に行動を共にしていた。

1941年秋、ハンスとインゲはウルムの友人オトゥルに使いを頼まれ、ミュンヘン郊外に住んでいたカール・ムートを訪ねる。ムートはカトリックの文学・哲学の雑誌「高地」の編集者でカトリック刷新運動に貢献した人物で、当時「高地」はナチスによって発行禁止処分を受けたばかりだった。ムートはハンスに蔵書整理を依頼することで、キリスト教に関する膨大な蔵書に触れる機会を与え、また、「高地」の寄稿者であった高名な作家テオドール・ヘッカーらにも引き合わせた。

1942年6月、ハンス、アレックスは人々に抵抗を呼び掛けるビラを約2ヶ月の間に4号発行する。親しい友人トラウテは、その文章・引用などから書き手はサークル内の人間、おそらくハンスだと確信。ハンスはその問いには答えず、書き手と受け取り手双方を危険から守るためにも誰がビラを書いたのかを知る人間は出来るだけ少ない方がよいとだけ答える。これが白バラの方針となった。ハンスとアレックスがビラを作成し、他のメンバーは出来るだけ広範囲にビラが行き渡るよう務めた。

この活動が行われていた6月〜7月にも読書会は続いており、ハンスは7月10日にはテオドール・ヘッカーを招き、著作を朗読してもらっている。文学・哲学サークルとはいえ、当時ヘッカ−は講演及び執筆活動を禁じられており、警察に知られればヘッカーも学生達も逮捕される可能性のある会だった。この直後、所属する学生中隊にロシアでの前線実習命令が下る。不在の間のことを考え、危険のないよう謄写版を処分するなど、一時白バラの活動は停止され、7月23日、ハンスはアレックス、ヴィリーと共にロシアへ向かった。途中、ワルシャワのゲットーで見た「目をそむけずにはいられない」親衛隊とユダヤ人の様子に衝撃を受けながら、ロシアに到着する。

ロシア生まれでロシア語を母国語とするアレックスのおかげで、衛生兵として働く間に土地の農家を訪ね、素朴な人々とおしゃべりをし、飲んだり歌ったりして過ごすこともあった。弟のヴェルナーも偶然近くに配属されており、しばしばお互いを訪ねあう。ポーランドでの出来事や、ドイツ人の「下等なスラブ民族」であるロシア人に対する行為を実際にロシアで目にしたことにより、ハンスは抵抗運動の継続と拡大の必要性を痛感。ロシアから戻った彼が最初に始めたことはビラ作成よりも、ビラがドイツ中に同時に拡散するよう、各都市に学生組織を作ることだった。

夏前にはごく少数の人間にしかビラ配布活動を漏らさなかったハンスも、サークルのメンバーに同志集めを提案。ヴィリーはザールラントへ、ゾフィーはウルムへ、サークルの友人ユルゲンはベルリンへ、トラウテはハンブルクへ、それぞれ白バラのビラを持ち、協力者となりそうな旧友を訪ね歩いた。その間ハンスとアレックスはケムニッツ(ミュンヘンとベルリンの中間あたり)へファルク・ハルナックを訪ね、ベルリンの地下組織とのつながりと、活動やビラの内容に関するアドヴァイスを求めた。

そして12月9日、ハンスはフーバー教授を訪ねる。ハルナックに期待したことと同じで、抵抗運動やビラに関するアドバイスを求めることが主な目的だったと考えられている。もともと政治的見解にはいくらかの隔たりがあり、議論を重ねてもそれは変わらなかった。

1943年1月、ハンスは第5のビラを書く。このビラのタイトルは「白バラのビラ」から「ドイツ抵抗運動のビラ」に変わっていた。フーバー教授はこのタイトルには反対したが、学生達はそのまま印刷。内容も以前より明確でわかりやすくなっている。半月後には教授の手による第6のビラの草稿が届く。スターリングラード敗退をテーマに、ナチスへの皮肉から始まるこのビラはフーバー教授の「栄光ある国防軍の戦列に加わりたまえ」で結ばれていた。この一文をめぐり学生達の意見が分かれたが、ハンスとアレックスはこの部分を削除して印刷した。

2月3日、8日、15日、ハンスはアレックス、ヴィリーと共に深夜ミュンヘン市内の通り、主に大学周辺で塗料を使い、壁に「打倒ヒトラー」「自由」と大書してまわる。これは郵送される無記名のビラよりも、人々に与える衝撃は大きかった。

2月18日、ハンスとゾフィーはトランクに第6のビラを詰め、大学へ向かった。授業で静かになった構内でビラを撒いていたが、それを用務員に見つかり通報され、秘密警察に逮捕された。ハンスが持っていたクリストフの手書きの草稿も発見され、彼もまた逮捕されてしまう。ハンスはすぐに死刑を確信し、4日間の尋問の間できる限り仲間の存在を隠すよう努力している。そして2月22日、民族裁判所において死刑判決を受けた。

処刑前、牧師が聖書の朗読と聖餐式のためにハンスとゾフィーを訪ねた。
ハンスは(愛の賛歌と呼ばれる)コリント人への第1の手紙13章と、詩編第90編の朗読を希望した。
看守達が自ら危険を冒して、最後にもう一度3人を引き合わせてやろう としたほど、
彼らの態度は毅然としており、刑務所で彼らに接した全ての人間が心打たれていた。

初めにゾフィーが、次にクリストフが処刑場へと向かい、最後にハンスが断頭台で斬首された。

ハンスは断頭台に頭を乗せる前に、大きな声で「自由万歳」と叫んだという。


ゾフィー・ショル
http://www.weisserose.vis.ne.jp/people_sophie.html

逮捕されゾフィーの 処刑までの5日間 を、
政治犯として拘置所で同じ監房に入り、彼女から直接に話を聞いたエルゼ・ゲーベルが
回想(『白バラが紅く散るとき』)から組み立てたると下の表のようになる。


2/18(木)
午前11時頃 大学構内で逮捕・取調べ
午後1時頃 秘密警察本部の拘置所へ連行  拘置所の監房にて所持品没収、身体検査
午後2時頃? 尋問開始
午後6時頃 夕食のため監房へもどる  30分後再び尋問  この日は夜通しの取調べ

2/19(金)
午前8時頃 監房へ戻る  朝食をとり数時間眠る
昼頃? 再び尋問  夜には監房に戻った

2/20(土)
午前中 尋問  昼頃 監房に戻る

2/21(日)
朝 拘置所の給仕係りからもう一人逮捕されたことを知る
昼頃 逮捕者がクリストフとわかる  (この日は尋問なし?)
午後3時頃 起訴状を受け取る  翌日審理が行われるとの知らせ  国選弁護人と話し合い
午後10時過ぎ就寝  (この夜は一晩中明かりがついたままで看守が30分おきに見回り)

2/22(月)
午前7時 起床
午前9時 ハンス、クリストフとは別の乗用車で民族裁判所へ
午前10時 裁判開始
午後1時半 審議のため一時休廷  審議はすぐ済み再び開廷、死刑判決
午後2時頃? シュターデルハイム刑務所へ
午後4時頃 刑務所内で両親と面会
午後5時 処刑

秘密警察には女性の取調官がいなかったので、ゾフィーの身体検査はエルゼがするよう命じられた。
逮捕当日は夜通しの尋問だったが、「夜、本物のコーヒーが出た」。

エルゼによれば、ゾフィーの取調官は数少ない親切な人物で、
裁判の前日、この取調官は果物、ビスケット、タバコなどを差し入れし、
彼女にゾフィーの様子を尋ねている。
(表には朝食、夕食などの記述がない日もありますが、
 エルゼの回想に載っていなかっただけで、
 ゾフィーたちには きちんと食事が出されていた と思われます。)

処刑の前に兄妹が
両親とシュターデルハイム刑務所で面会できたことは全くの幸運でしかなかった。

ハンスは囚人服を着ていたが、
ゾフィーは自分の服で、絶えず微笑みを浮かべ、ハンスが断った甘いものを嬉しそうに食べた。
「あらそう、いただくわ、私はまだお昼を全然食べてないのよ」
(『白バラは散らず』P.110/インゲ・ショル・内垣啓一訳/未来社)


取調官の質問
「こういったことを全部よくお考えになっていたら、
 あのような行動はとらなかったのではないですか?」
ゾフィー
「私はもう一度、すっかり同じことをやるでしょう。
 考え方のまちがっているのは私ではなく、
 あなたがたの方なのですから。」

1943年2月20日 
(『白バラが紅く散るとき』P.165)」

1921年5月9日、ゾフィーはコッハー河畔の小さな町フォルヒテンベルクで生まれた。
両親と姉インゲ(1917年生まれ)、兄ハンス(1918年)、姉エリーザベト(1920年)、弟ヴェルナー(1922年)の7人家族。一家は1930年にルートヴィヒスブルクへ移り、またその2年後にウルムへ移住した。

1934年頃のゾフィーは まだ政治的な話から距離を取っていた。13歳だもんなw
しかし家では
 反ナチスの父 と ユーゲント内で早くから昇進していた兄
との口論が繰り返されていた。
それをゾフィーは注意深く見守っていた。
ただ そのハンスも徐々にナチスに対し疑いを持つようになり、
1936年秋より以降は、急速にユーゲントから離れて行く。

ショル家の子供たちもハンスと共に、
禁止されていた同盟系青年団「d・j・1・11」の活動に参加するようになる。

この青年団に女子は入ることが出来なかったが、
彼らがたびたびショル家で会合を開いていたため、
ゾフィーも彼らと親しくなっていった。
其処に登場する興味の深い本、
 大抵はナチスに排斥された作家の本
などを教え合い、討論にも参加することがあった。

1937年11月、ナチスは非合法青年団を摘発するためドイツ全土で捜査を開始し、
ショル家も秘密警察の家宅捜索を受けた。
このときインゲ、ヴェルナー、ゾフィーが逮捕され連行された。
兵役に就いていたハンスは兵舎で逮捕された。
ゾフィーも連行された。
しかし男の子と間違えられたためで、すぐに16歳の少女と判明した為に釈放されている。
しかし姉と弟は8日間の尋問の後に釈放されるまで拘留され続けた。、

ハンスは一ヶ月の拘留の後に起訴されたが、
翌1938年のオーストリア併合による恩赦で起訴が取消しとなった。

ゾフィー自身は取り調べを受けることはなかったが、
この事件は彼女の本格的な政治へ対する目覚めのきっかけとなった。

1939年に戦争が始まった時、ゾフィーは召集された友だち全員へ
無駄だと知りながらも
 決して発砲しない
と約束させている。
「戦争は すぐ済む なんて甘い考えへは、全然に賛成できないわ。
  ドイツはイギリスを封鎖によって降伏させられるだろう
 なんて子供っぽいこと言ってる人も多いけど。
 そのうち分かることだわ
 (恋人フリッツ・ハルトナーゲル宛1939年9月19日)。」
(『白バラの声』インゲ・イェンス編・山下公子訳/新曜社)
18歳の女の子の言葉が コレかぁ

帝国勤労動員を経て、ようやく大学で学ぶことができるようになった1942年5月初め、
ゾフィーはミュンヘンへ移った。
ハンスは親しい友人たちを彼女に紹介し、彼ら主催の読書会にも招待する。
白バラのビラがミュンヘンの街に現れたのはこの1ヶ月後だが、
最初からゾフィーが白バラに関わっていたかどうかはわかっていない。

しかし、ハンスたちが前線実習のため不在だった間のゾフィーは
協力者となっていたウルムの高校生ハンス・ヒルツェルに謄写版印刷機購入のためのお金を渡す
など、兄たちの帰国後に再開される活動のための準備をひとりで行っていた。



ヴェルナー・ショル
http://www.weisserose.vis.ne.jp/people2.html

ハンスとゾフィーの弟。年の近いゾフィーとは特に仲が良かった。

1937年秋、秘密警察による非合法同盟青年団摘発の一斉捜査が始まり、
15歳のヴェルナーは姉インゲとともにウルムの自宅で逮捕された。
吹雪の中、幌なしトラックでシュトゥットガルトへ送られ、8日間の取調べの後、釈放された。

彼は早くから抵抗活動を考えていたようで、
深夜、ウルム裁判所前にあるユスティティア(ローマ神話の正義の女神)像へ鉤十字の旗で目隠しをしたり、
駐屯軍の式が行われている広場で爆竹を鳴らす
などの行動をひとりで行っていた。

1939年9月の開戦直後、
親しい友人オトゥルに
「サボタージュをやる抵抗グループを作ろうと思うけれど、いっしょにやるかい?」
とたずねている。

大学入学資格試験を終えたヴェルナーは、
1941年4月から勤労動員のためプロイセンの基地へ、
その後大西洋岸の塁壁作りの工事のためブルターニュへ送られた。
勤労動員期間終了後はすぐに兵役に就くことになっており、
1942年7月、彼の部隊はロシアへ。
数週間後、前線実習のためロシアへ来たハンスの部隊が近くにやって来たため、
二人は時間をみつけては訪ねあった。

1943年2月、両親がショル兄妹逮捕の知らせを受けたのは逮捕の翌日で、
休暇の出たヴェルナーが ちょうどロシアからウルムへと帰って来たところだった。

日曜には面会ができないため、月曜日に両親とヴェルナーがミュンヘンへ向かった。
入廷許可証を持っていなかった3人が なんとか中に入ることができた 頃には、
殆どに裁判は終わっていた。

両親は夕方、兄妹に面会することができたが、
彼らが直後に処刑されるとは知らないまま、裁判所で知り合った司法修習生に、
まだ出されていなかったクリストフの減刑嘆願書を依頼し、ウルムへ帰っていった。

ヴェルナーはミュンヘンに留まり、
翌日やって来た姉インゲ、友人オトゥルと3人で検事長のところへ面会許可をもらいに行った、
しかし そこで二人が前日処刑されたことを知らされた。

翌2月24日の午後遅く、再びミュンヘンへやってきた両親や友人らとともに、
兄妹をペルラッハ墓地へ埋葬した。

数日後、両親と二人の姉もウルムの自宅で再び逮捕された。
ヴェルナーは国防軍の制服を着ていたため逮捕されずに済んだが、
休暇が終わり、東部戦線へ戻らねばならなかった。

その頃、スターリングラードで負傷したフリッツ・ハルトナーゲル(ゾフィーの恋人)が帰国した、
ヴェルナーは拘置所にいる両親と姉たちのことを彼に頼んだ。
フリッツは可能な限り面会に行った。

1943年8月に裁判で
父は 外国放送を聴いていたとの理由で懲役2年 母、姉たちは無罪 だった。
フリッツは そのショル家の人々を支えていた。

しかしヴェルナーはその後ロシアで行方不明となり、ウルムの家族のもとへ戻ることはなかった。

ハンス・ヒルツェル

マルティン・ルター教会主任牧師の息子。1942年当時、ウルムの文科系ギムナジウムに通う高校生。ヒルツェルのクラスは、当時としては珍しく反体制的な生徒の多いクラスで、ユーゲントの活動にまったく参加せず公然とヒトラー批判を口にする者もおり、その中心的グループがヒルツェルと友人たちだった。ハンス・ショルも受け取った、ミュンスターのガーレン司教の説教を印刷したビラをウルムの家々に配布したのもヒルツェルの友人だった。

姉ズザンネがゾフィー・ショルと親しくなったことがきっかけで、ヒルツェル家とショル家の人々の付き合いが始まった。1942年夏、白バラのビラを郵便で受け取ったヒルツェルは、ビラの内容から送り主がハンス・ショルではないかと考え、それを確かめるためにミュンヘンのハンスを訪ねた。この日がちょうど学生中隊がロシアへ向かう前日であったため、晩に開かれた送別会にヒルツェルも出席、ハンスの友人たちに紹介された。この訪問をきっかけにヒルツェルは白バラ抵抗運動の協力者となっていく。

学生たちがロシアにいる間に、ゾフィーは新しい謄写器の調達をヒルツェルに依頼し80マルクを渡している。11月に帰国したハンスから改めて協力を依頼されたヒルツェルは、同級生数名にこの抵抗運動について語り、フランツ・ミュラー、ハインリヒ・グーターの協力を得る。ヒルツェルはミュラーとともに、電話帳に載っているシュトゥットガルトの住所から送付先を選び出し、ビラ発送の準備をした。警察の目をウルムに向けないよう、シュトゥットガルトまで行き、市内の複数のポストから封筒を投函。シュトゥットガルトの音楽大学に在学中だった姉ズザンネもこれを手伝い、弟がウルムへ戻った後も、残った封筒を一人で投函して歩いた。

1943年2月のショル兄妹の処刑後、白バラ関係者が次々と逮捕され、ヒルツェル姉弟、ミュラー、グーターも逮捕される。4月19日に行われた白バラに対する二度目の裁判で、民族裁判所は彼らを「愚かな少年少女」といい、ヒルツェル、ミュラーに5年、グーターに1年6箇月、ズザンネに6箇月の禁固刑を宣告。ズザンネの刑期が他の女学生たち(禁固1年)よりも短いのは、金髪碧眼のアーリア系容姿が裁判長フライスラーに好印象を与えたため、と後にヒルツェルは語っている。

オトゥル・アイヒャー(1922〜1991)

1922年生まれ。カトリック家庭に育つ。ヴェルナー・ショルと同じ高校に通う生徒だった。ヒトラー・ユーゲント入団を最後まで拒否したため、大学入学資格試験を受験できなかった(同学年で入団しなかった者はヴュルテンベルク州全体で3名のみ)。

カトリックの雑誌『高地』の熱心な読者だったオトゥルは、1940年に同誌へ論文を投稿している。掲載はされなかったが編集長のカール・ムートの目にとまり、ミュンヘンへ来るようにとの手紙をもらう。1941年3月、オトゥルがムートを訪ね、親しい交際が始まった。1941年秋に召集されたオトゥルは、インゲ、ハンスの二人にムートへの使いを頼み、二人をムートと引き合わせた。これをきっかけにムートとショル家の人々は親しくつきあうようになる。

この頃オトゥルは、戦争のために会えなくなった友人たちを結ぶ回覧同人誌を作ることを計画、兵営で許された個人の時間をすべて使いながら雑誌『カンテラ』を編集、1941年秋から42年2月までに3号を発行する。軍隊に召集されてからも、オトゥルは可能な限りのサボタージュ(重病人を装ったり、前線で行方不明になったり)を行い、個人的抵抗運動を続けていた。

1942年末頃からオトゥルはミュンヘンの友人を紹介したいというハンスの手紙を何度も受け取っている。ハンスからミュンヘンへ来るよう熱心に誘われていたオトゥルは、1月中旬、リンツ近くの衛戍病院にいた彼を見舞ったゾフィーに退院したらすぐにミュンヘンへ行くと約束。1943年2月18日にハンスたちの下宿を訪ねたが、彼を迎えたのはショル兄妹ではなく家宅捜査中の秘密警察だった。この時オトゥルも警察へ連行されたが、翌日釈放されている。ムート家に身を寄せたオトゥルはそこで初めて大学で起きた事件を聞いた。しかし警察で見かけたハンスが非常に落ち着いた様子だったことから、ショル兄妹が反政府運動にかかわっていたとは、この時もまだ想像もできなかった。

事件後、ウルムの人々はショル家を避けるようになり、新聞にも一家を誹謗中傷する記事が載った。ウルムに住めなくなった一家はドナウエッシンゲン近くの山荘に移り、後に軍を抜け出したオトゥルもこの山荘に合流した。

1952年、インゲ・ショルと結婚。1953年にインゲや友人らとともに、バウハウスの理念を継承するウルム造形大学(1953-1968)を設立。後に学長も務めた。ミュンヘン・オリンピックではデザイン・コーディネーターとして活躍。西独を代表するグラフィック・デザイナーとなった。


デザイナー『オトル・アイヒャー』についての参考サイト:

潟Aマンズの「データ・ベース」内「近代デザイン史年表」にあるオトル・アイヒャーのページ
http://www.amans.com/database/history/1945/1945.html

1989年武蔵野美術大学・企画展
http://www.musabi.ac.jp/library/muse/tenrankai/kikaku/1989/1989.html


クルト・フーバー Kurt Huber
http://www.weisserose.vis.ne.jp/people_huber.html


白バラとは
http://www.weisserose.vis.ne.jp/shirobara.html

1942年6月、ハンスとアレックスは戦争を続けるナチスに対する抵抗を呼びかける無記名の文書(ビラ)を謄写器で印刷し、知人やミュンヘン在住の教師、医師などの知的職業関係者と飲食店に郵送した。この「抵抗」とは武装蜂起ではなく、軍需機関での労働やナチスの祝典・集会への不参加、戦争に利用される可能性のある研究を中止する、などの消極的抵抗のこと。7月下旬までの約二ヶ月間に計4種類のビラが配布された。


1943年1月、ハンスによって書かれたビラ第5号が印刷され、ヴィリーはラインラントヘ、ゾフィーはアウグスブルクへ行き投函した。ザルツブルク、ウィーンでも同様に、各人の時間と行動を利用して差出人不明の郵便物はドイツ各地に撒かれていった。彼らはビラ作成だけでなく、直接行動も始める。2月3日、8日、15日の深夜、ハンス、アレックス、ヴィリーの3人はミュンヘン市内の通りの壁にタールで反ナチ・スローガン「自由」「打倒ヒトラー」を書いてまわった。

スターリングラードのドイツ軍降伏(1月31日)に衝撃を受けたフーバー教授はすぐに草稿をタイプしハンスに渡す。最後のビラとなるこの第6号は2月中旬には印刷され投函された。

ハンスの手にはもう一つ、フーバー教授と同じくスターリングラード敗戦に触れたクリストフの草稿があった。しかしこれは印刷・配布されることはなかった。2月18日、ハンスとゾフィーは第6のビラを大学構内で撒いているのを発見され逮捕される。ハンスがクリストフの手書きの草稿を持っていたため、翌日にはクリストフも逮捕された。

ショル兄妹とクリストフは取調べの後、2月22日(逮捕から4日後)民族裁判所で死刑判決を受け、その日の午後、シュターデルハイム刑務所内で処刑された。死刑執行までの3人の毅然とした態度については、警察や刑務所付聖職者など多くの人が証言している。

ヴィリーは2月18日深夜、自宅に戻ったところを逮捕された。アレックスは逃亡を試みたが2月25日に、フーバー教授も27日に自宅で逮捕された。彼らの裁判はその間逮捕された多くの友人らとともに、2ヵ月後の4月19日(ヒトラーの誕生日の前日)に開かれ、ほぼ全員が有罪判決を受けた。アレックスとフーバー教授は7月13日に処刑され、残る協力者の名を聞き出そうとする秘密警察と闘いつづけたヴィリーも10月12日に処刑された。


「白バラ」という名がどうして付けられたのかは不明である。

ショル兄妹の姉インゲは「所属機関名などがなく空白で、政党や宗教とは関係がないというメッセージではないか」と推測している。

白バラについての本の著者たちは、ショル兄妹の起訴状にある「ハンスが『同名のスペインの小説』からとった」という箇所から、この小説とはB・トラーヴェンの(メキシコの農場が舞台の、石油コンツェルンと農場主の闘いを描いた)小説『白バラ』ではないか、としている。また、1990年代に入って初めて公開されたハンスの尋問調書には「当時ブレンターノ(ドイツ・ロマン派詩人)の『白バラ』というスペインの物語詩に感銘を受けていたのでこれを選んだ」とあり、ブレンターノのスペイン風叙事詩『バラの花冠のロマンツェ(登場する少女の名がロサ=ブランカ)』ではないか、としているものもある。

ハンスの手紙にはバラについて語っているものがいくつかある。「・・・僕の胸ポケットにはバラの蕾が入っている。この小さな植物が僕には必要なんだ。これは生の別の面だからね。軍隊生活とはまったくかけ離れているんだけど、でも別に矛盾してるってわけじゃない。いつでも何かしら小さな自分だけの秘密をもって歩いていずにはいられないんだ。僕の今の戦友たちみたいな連中と生活しているときには特に。(姉インゲ宛1938年6月27日)」(『白バラの声』インゲ・イェンス編・山下公子訳/新曜社)

古来、白バラは秘匿の象徴でキリスト教においては純潔を意味する。また「バラの下で」と言えば、「細心の注意を払って進められる密談」の意味がある。これらのことも、ハンスたちが「白バラ」をこの活動の名前に使った理由の一つと考えられている。


白バラの庭−反ナチ抵抗運動の学生たち
http://www.weisserose.vis.ne.jp/index.html



こうして眺めて行く事で 色々と分かる 事が有るね。
ヒトラーへも毅然として挑んだ者達も居た訳だ、
そしてナチスは容赦なく殺した訳だ。

あのヒトラーとナチスへ対しても 一般人のままに出来る事をする を貫いた者達も居た訳だ。
ならば 21世紀の極東の一諸島において何を為すべきか を考えるのは 難しくないと思うんだけどね。


ただ俺には 純潔も秘匿も密談もない。
存在そのものはアレだけど、此処の言葉は あるがまま だ。
彼らには彼らの生き方が有るだろう 俺にも俺の生き方が有る。
大体そんな感じ で ならばよし だと俺は考えてきた。

ソクラテスはソクラテスなままに生きて そして死んだ。
白バラの者達も 彼らの有るがままに生きて そして死んだ。

http://www.weisserose.vis.ne.jp/people_hans.html
逮捕のきっかけになった大学構内でのビラ撒きについては、
文献によっては 死を覚悟した行為 のようにも言われていますが、
私にはそうは思えなかったので、

 今、生きるということが絶え間ない危険と同義になってしまった。
 しかし、僕自身が危険を選んだのだから、
 僕は自由に、縛られないで、目標に向かって進んでいかなければ。   

 1943年2月16日
 逮捕の2日前に書かれた、恋人と思われるローゼ・ネーゲレ(白バラとは無関係)宛の手紙の中の言葉

あえて 生きて活動を続けるという宣言 にも取れる言葉を 冒頭に と選びました。


今一度に コレを見る。
ドイツの「白いバラ」のwikipediaだ。


http://de.wikipedia.org/wiki/Weiße_Rose
Weiße Rose


Google 翻訳
http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Wei%25C3%259Fe_Rose&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Wei%2525C3%25259Fe_Rose%26biw%3D805%26bih%3D486


如何に 此の話が基になった様々なモノがドイツには多いのか が改めて分かる。

Flugblatt I
http://www.bpb.de/files/IMH3WQ.pdf

Flugblatt II
http://www.bpb.de/files/EQEBVG.pdf

Flugblatt III
http://www.bpb.de/files/70GDTF.pdf

Flugblatt IV
http://www.bpb.de/files/VYP7TF.pdf

Flugblatt V
http://www.bpb.de/system/files/pdf/ARBZMA.pdf

Flugblatt VI
http://www.bpb.de/files/B2QRDK.pdf

当時のが残っているんだね。
こういうのを書いて撒いただけでギロチンにされる。
そういのをウツクシイとする のが 安倍と自公政権 である。
「日本人と日本」というハイパーキチガイカルトの本質である。





ローラント・フライスラー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC
1945年2月3日、ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフに対する裁判中、
裁判所がアメリカ軍の空襲に遭い、瓦礫の下敷きとなったフライスラーは死体で発見された。
防空壕に逃げ遅れて爆弾の破片に当たったとも、
空襲警報を無視して書類保管室で裁判資料を見ていて下敷きになったともいわれる。

フライスラーの遺言によると、2つの不動産が夫人の所有であり、遺産ではないとされていた。
しかし、両不動産は没収され、後になって遺産への賠償金10万マルクの代償だと説明された。
未亡人が異議を出したが、連合軍の審査機関は異議を認めなかった。

戦後、フライスラー夫人は姓を結婚前のものに戻し、
ミュンヘンに移って、戦争中の夫の行いについて知ろうとはしなかった。

1985年になって、
 フライスラーの未亡人に対する年金支給額が1974年に400マルク引き上げられていた
ことが報じられた。
年金庁はマスコミに引き上げの理由を問われ、
 フライスラーの専門的知識を考えれば戦後高位に就いたはずなので、
 夫人も高額の年金を受ける権利を有する
と答えた。

この措置がバイエルン州議会で問題となったが、
バイエルン州政府は(道義的にはともかく)法的には問題ないと判断した。

司法界では戦後もナチス時代との連続性があったことが指摘されていたこともあり、
「過去とどう向き合うか」について西ドイツ社会で大きな議論を呼んだ。

未亡人が死去した1997年になってから戦争犠牲者への年金を定める法律が改正され、
 ナチス時代に人道に対する罪を犯した者、あるいは 法治国家原則に反した者 は、
 当時の職務に対する功労の年金が遺族にも支給されない
ことになった。


https://twitter.com/tigercatver2/status/418633922960822272
遺族会の「靖国神社の国家護持に関する要綱」って何?

https://twitter.com/tigercatver2/status/418636323512016896
1953年遺族会は「遺族の救済と相互扶助」の初心から背離し、
その37条の規約の中には連盟規約の最初に提出された
「戦争を防止し、世界の恒久平和を確立し、全人類の福祉に貢献する」
の一語は削除され、反対に強調されたのは
「英霊を称え、霊を慰める事業」
だったよね?

https://twitter.com/isozaki_yousuke/status/418531342712709120
そういう訳もあるようですが、中央紙の訳語としては問題です。靖国神社で、各県の護国神社で、安倍総理のみならず、多くの国民が不戦の誓いを祈ってきたことをこれまた多くの国民が知りません。 @mercury5506 靖国神社を「yasukuni war shrine」としています。

https://twitter.com/tigercatver2/status/418633193302921216
不戦の誓い?えっ、文官恩給との戦いですよねw
日本政府は「法第200号」を公布し、
国有財産である東京都千代田区の九段会館を無償で遺族会に貸して経営使用させたり大変だもんねw

https://twitter.com/kennoguchi0821/status/416425595908534272
総理の靖国参拝に関し「A級戦犯」云々の議論が繰り返されてきましたが、
A級戦犯の名誉回復の国会決議というものがなかったか。
社会党、共産党含め国会決議を行わなかったのだろうか。
その結果、戦犯の恩赦、特赦の決議により残った戦犯は公民権を得なかっただろうか。

https://twitter.com/tigercatver2/status/416926983696576513
マッチョ一直線の野口の話の国会verでの質問者が野田どじょう掬いと言うのも味わい深いw
http://tamutamu2011.kuronowish.com/yasukunisitumonntotoubenn.htm

https://twitter.com/tigercatver2/status/417190708626206720
こう どうして遺族会の政治的な動きとか、それを票田としていた自民党の動きとか
どっちでもよいみたいな野口な話になるのか。
その英霊達に値段が付いている恩給とかガン無視なんだよな。

https://twitter.com/tigercatver2/status/416944393816248320
野口の場合、
 議員立法で例えば東京大空襲の死者への補償を求める
という議連が発足している事の意味が理解できていない。

https://twitter.com/tigercatver2/status/416946069939822592
 受忍論で軍人軍属以外(限局化しているが原爆被災者)の死者への補償は門前払い
の国柄であり、それは当然だという、統治者目線の規律権力の内面化が、
実は統率者だった者 と 慫慂として其の命令に従い命を落とした者
への歴然たる恩給格差の無条件信任というロジックの背景
だと思うんだけどね。

https://twitter.com/tigercatver2/status/416946669716926464
突き詰めると泡沫なる存在として扱われてしまう そういうマイノリティ に対する軽視ってのは、
換言すれば自己責任論を台頭させて、
無条件に救済からそぎ落としてしまう世相と整合性があるよね。
だからタカ派が拍手喝采されるんだけど。

https://twitter.com/tigercatver2/status/416965580948647937
【資料】「1950年代の軍人恩給問題」 赤澤史朗 立命館法学2012 年1 号(341号)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/12-1/akazawa.pdf

https://twitter.com/tigercatver2/status/416966242549768192
【資料】1950年代の軍人恩給問題(1)赤澤史朗 立命館法学2010 年5・6 号(333・334号)
http://r-cube.ritsumei.ac.jp/bitstream/10367/3018/1/J2010_56akazawa.pdf

https://twitter.com/tigercatver2/status/416967335803502593
「復活した軍人恩給制度は,文官との間に止まらない様々な「不均衡」を孕み,
 その「不均衡」是正を名目として圧力団体が跳梁し,
 適用範囲の拡大と増額の流れは止まらない状況だった」(同)

https://twitter.com/tigercatver2/status/416967705443307520
「圧力団体の中では日本遺族会の組織力が突出して運動をリードし,
 これに保守政党の恩給関係議員が結びついて予算獲得に乗り出し,
 必ずしも上記二者と立場を同じくしない官僚が結局は押し切られる
 というパターンが見られることになる」(同)

https://twitter.com/tigercatver2/status/416968352938999808
「国との特別な身分関係がある軍人と,それが希薄になる軍属や,さらに一層希薄な準軍属の間では,
 補償や援護の質量に大きな格差があり,
 その格差は国との身分関係の強弱に基づいて設定されているものと思われる」(同脚注)

https://twitter.com/tigercatver2/status/416970780274987009
「今日軍人の遺家族」は「世間」から白眼視され,「肩身の狭い思い をさせられている」のであり,
国家補償の実現によって この「世間」の白眼視を「是非とも綺麗に払いのけ」る必要があるという考え方」(同)

https://twitter.com/tigercatver2/status/416973190179459072
論文を読んでいくと、軍人軍属以外の戦争犠牲者に対しても措置を講ずるべき
という、一種の社会保障論(逆進的に高額所得者は補償対象ではない)が、
何故か恩給法改正のような、
極めて補償対象が片務的な軍人・軍属、それも階級等による支給額の差異が発生するような補償体系になったか
が理解できる。

https://twitter.com/tigercatver2/status/416973501325512704
これを推進したエスタブリッシュメントと圧力団体としての遺族会、
そして靖国は やはりリンクしているんだよね。

https://twitter.com/tigercatver2/status/416974508747001856
当時、あの読売でさえ
「52年1月には,政府案のように援護対象を
 「軍人の遺家族に限るということは,いかにも片手落ちの感が深い」
と述べつつ,「本当に窮迫している遺家族」に援護の手が差し伸べられる べきではないか」
と書いた(同)。

https://twitter.com/tigercatver2/status/416980461735268352
大宅壮一は、
 文官恩給の継続の欺瞞 と 軍人恩給改正 は、
 結局に 一定階級以上の戦争指導側の私有財産補償 であり、
 それが行われるがゆえに、
 最終的に財政的・経済的理由を以って、
 一般市民の戦争犠牲者に対する受忍論を惹起する
ことを見抜いていたと思われる。

https://twitter.com/tigercatver2/status/416982931580542976
「終身官的な考え方」である軍人恩給改正は、
身分的な観念を打破しようという新憲法の精神に合致しない
等の反対意見 や
あくまで社会保障として行うべしという論調(支給基準の設定)
に対する対抗テーゼとして、いわゆる英霊論という精神性が強調された。
これが靖国。

https://twitter.com/tigercatver2/status/416986218300059648
単純に野口の
「戦犯の恩赦、特赦の決議により残った戦犯は公民権を得なかっただろうか」
というのは ちょっとした詭弁で、
 国内的に公民権が回復した
という事と
 裁判管轄権が連合国側にあり
 その判決による罪が、国内的な公民権回復で、判決及び罪自体が消滅(判決無効)という意味ではない
のは留意。

https://twitter.com/gunjinbot/status/417183118378795008
この戦争はおれが始めたようなものだ
―石川信吾(大佐 海軍第一委員会委員)


https://twitter.com/tigercatver2/status/417190708626206720
米大使館のFBのような事は、1950年代の恩給法改正の時でも起きている。
当時は新聞投書欄が目標にされ、
給在郷軍人会や遺族会(連盟)が組織的な投稿活動を行ったと言われる。
支給基準を設ける社会保障型給付が優勢だったのが、旧軍人恩給法 と ほぼ同じ、
在籍年と階級による国家補償論への猛烈な巻き返し

そういうのを俺は、十把一絡げに 宗教右翼カルト と呼称している。
一神教で野蛮人なハイパーキチガイカルトの集団でしかない と考えてしまえば
 アレだねぇ
の一言でしかないからね。

カルトへ堕ちる のは本当に簡単な話でしかないからね。


2013/12/31にコミケ85へ行った。
最近は 1年に1日な程度に 偵察へ行く という感じだ。

企業ブースやコスプレの場所が変更になっていて その他の件でも 何か妙さ を感じた。
西館から上へ行く時に一端に外へ出されて階段を昇らされる となっていた。
其処に献血バスが大量に有り 更に 妙なポスターだらけ となっていた。

これが
 黒子のバスケという官憲公安のジサクジエンの脅迫の結果か
と気が付いた。
現場へ行かないと分からない事って本当に多いよね。


 ↓

2012年03月28日 KKSブログ: 日本の世界最先端研究施設を動画で紹介!〜文部科学省
http://www.kknews.co.jp/wb/archives/2012/03/post_5678.html
文部科学省は、
世界最先端量子ビーム施設である
「X線自由電子レーザー施設SACLA(さくら)」
「大強度陽子加速器施設J−PARC(じぇいぱーく)」
の紹介動画を、政府インターネットテレビにおいて公開しています。

動画のタイトルは、「世界最先端量子ビームがきり拓く未来」です。

SACLAとJ−PARCは、
「ものを見る最も新しい道具」である量子ビームを利用した施設として紹介されています。


失われた何か 神風動画の「播磨サクラ」と新海誠さんの「スリランカ高速道路」篇から考える、今のアニメPV
http://nextsociety.blog102.fc2.com/blog-entry-2278.html
神風動画が手がけた「未来光子 播磨サクラ」とは
独立行政法人 理化学研究所 放射光科学総合研究センター X線自由電子レーザー施設「SACLA」
のPRアニメである。

https://twitter.com/Budvar_P/status/417557426674483200
人工知能学会表紙絵への攻撃が続いているようですが、彼らの言い分の全てが自身たちの勝手な思い込みに過ぎません。検証不能な主観を一般論であるかのようにすり替えて他者を叩きのめそうとする態度は、まさに苛めそのもの。そんなものに自分は絶対に認めないし、みんなも認めないよね。

献血 ポスター コミケ」の検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%8C%AE%E8%A1%80+%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%80%80%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%82%B1

コンテンツエージェント株式会社│コミックマーケット関連事業/献血応援イベント事務局
http://www.c-agent.net/comike/kenketsu/

2013.8.10 【C84】夏の「献血応援イベント」が開催されるぞ!今回も献血するとポスターセットがもらえる! : はちま起稿
ttp://blog.esuteru.com/archives/7265142.html

2013.11.11「献血道始めました!」 アニメ『ガールズ&パンツァー』の献血促進ポスターが公開!ナースのみぽりん可愛すぎwwwww干からびるまで献血するわ : はちま起稿
ttp://blog.esuteru.com/archives/7404089.html

未だに
「献血」と「赤十字」と「天皇という道具を詐欺に使う連中」
すなわち 官憲警察公安 と 皇軍自衛隊 という
ハイパーキチガイカルトな宗教右翼カルトの関係性が理解できない者達は 愚鈍そのもの である。

そんな話と 恩給 や 靖国 や 神聖土建帝国 との関係性が如何なるモノなのか
を自分の言葉で説明できない者達は 植物 と同程度の存在である自分自身をすら理解できないだろう。
だからこそ 情報流通の下士官層 が必要なのだが。

今更に
 宗教右翼カルト という 一神教で野蛮人なハイパーキチガイカルトの「日本人と日本」 という集団が
 如何にしてカネを流しているか?
なんて話は 知らない人間の方が如何なモノかと思うんだが、
古今東西を問わずに人間社会の圧倒的大多数は 馬鹿で豚に過ぎない一般民衆 である。

馬鹿で豚に過ぎない一般民衆を
 宗教右翼カルト という 一神教で野蛮人なハイパーキチガイカルトの「日本人と日本」 という集団は
 食い殺していく
に対し
 多神教で文明人の下士官層は
 共に生きて行こうと思うからこそ
 永遠に等しい啓蒙をし続けて行くしかない責務を負う
という違いが有る。

たった コレだけの違い だ。
その差の話 が 其処に有る。
 宗教右翼カルト という 一神教で野蛮人なハイパーキチガイカルトの「日本人と日本」 という集団に
 多神教で文明人の社会共同体の象徴でもあるコミケが食い潰されるのが先か
それとも
 極東の一諸島の多神教で文明人の社会共同体が食い潰されるのが先か
なのだが
どちらにしても 「日本人と日本」という異民族の連中が如何に悪魔で外道なのか は言うまでも無い。
其の上に宗主国サマという悪魔と外道をも居る 事もまた言うまでも無いのだが。




https://twitter.com/joewatanabe/status/418546816854921217
Abitaはドイツ語で、訳は生活。
「放射能のため外で遊ぶことができない。ドイツ在住の日本人学生による作品」
http://vimeo.com/51297975
国際賞をとっても報道されない日本人のアニメ

http://asahinoataruie.hamazo.tv/e5041143.html
日本では、授賞どころか、報道すら、なしのつぶて。
世界中で受賞、ノミネートされまくっている。

・Awards:
Best Animated Film, International Uranium Filmfestival, Rio de Janeiro, 2013
Special Mention, Back-up Filmfestival, Weimar, 2013

・Coming Competitions:
Eco-Filmtour, Potsdam, 2014 (nominated)
Winter Film Awards, New York City, 2014 (nominated)



「"世界ウラン映画祭"」の検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%22%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD%22

2011年5月28日 第1回世界ウラン映画祭(リオデジャネイロ)で、「ウラン238」(劣化ウラン問題ドキュメンタリー)が最優秀短編作品賞受賞
http://icbuw-hiroshima.org/?p=1247

http://www.cinematoday.jp/movie/T0012060
イエロー・ケーキ クリーンなエネルギーという嘘 - シネマトゥデイ
黄色い色をしていることからイエロー・ケーキと呼ばれる、ウラン鉱石の粉末精製の裏に迫るドキュメンタリー。原子力発電の燃料として用いられ、二酸化炭素も出さず、再利用も可能だとして、クリーンなエネルギーだとうたわれてきた、このウラン粉末の危険性をさまざまな角度から調査する。5年間にわたって世界各国のウラン採掘現場への取材を敢行し、鉱石採掘の時点でウランから処理不可能な放射性物質が大量に放たれている実態を浮き上がらせていく。脱原発政策を打ち出したドイツから発せられる真摯(しんし)なメッセージに、改めてエネルギーの在り方を再考したくなる。

ストーリー:かつて世界有数のウラン生産を誇っていた旧東ドイツ南部。東西ドイツ統一後、新政府は同地の危険地域指定とウラン生産の無期限停止を決めるが、そこで働いていた人々の肺ガン発症率が高いことが判明する。ナミビア最大のウラン採掘地であるロッシング鉱山では、従業員が生き生きと働き、同国の経済を支えているが、30年にわたって捨てられてきた放射能を含んだ廃棄物がナミブ砂漠の環境を悪化させている。こうした危険性を隠ぺいしてまでウランが採掘される背景を探るべく、取材クルーはカナダやオーストラリアにも向かう。


「"世界ウラン映画祭" Abita」の検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%22%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD%22+Abita
"世界ウラン映画祭" Abitaに順番も含め完全に一致するウェブページは見つかりませんでした。


「International Uranium Filmfestival Abita」の検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=International+Uranium+Filmfestival+Abita
此処からでも すぐには難しい。

International Uranium Film Festival Rio de Janeiro
http://www.uraniumfilmfestival.org/index.php/en/
 ↓
Best Animated Film  Best Animated Film 2013
http://www.uraniumfilmfestival.org/index.php/en/the-festival/festival-2013/nominees-2013/best-animation-film-2013

此処に有る。

艦コレの話はしても 此の話はしない。
其れは 植物の如き生き方 と差が無い。
カルトへ墜ちる とは かくも簡単な事だ。

如何なる情報工作と人民統制が起きているのか を前提として、
それでも尚に人間として生きて行く事が如何に難しいか?
だとしても俺は より人間として生きて行く、それだけだ。







http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,een_ja,bT,uaHR0cDovL3d3dy51c2htbS5vcmcvd2xjL2FydGljbGUucGhwP01vZHVsZUlkPTEwMDA1MjAx

http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,een_ja,bT,uaHR0cDovL3d3dy51c2htbS5vcmcvaW5mb3JtYXRpb24vZXhoaWJpdGlvbnMvb25saW5lLWZlYXR1cmVzL3NwZWNpYWwtZm9jdXMva3Jpc3RhbGxuYWNodA==

http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,een_ja,bT,uaHR0cDovL3d3dy5oaXN0b3J5cGxhY2UuY29tL3dvcmxkd2FyMi9ob2xvY2F1c3QvaC1rbmFjaHQuaHRt

http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=http://en.wikipedia.org/wiki/Kristallnacht&prev=/search%3Fq%3Dhttp://en.wikipedia.org/wiki/Kristallnacht%26biw%3D805%26bih%3D486

http://en.wikipedia.org/wiki/Kristallnacht

http://de.wikipedia.org/wiki/Alexander_Schmorell

http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=de&u=http://de.wikipedia.org/wiki/Alexander_Schmorell&prev=/search%3Fq%3Dhttp://de.wikipedia.org/wiki/Alexander_Schmorell%26biw%3D805%26bih%3D486

http://blog.livedoor.jp/kagurazaka2009/archives/1481927.html


https://twitter.com/hrk_310/status/418722685091184640
靖国神社
神社本庁に登録が無く、正しくは神社ではない。
ただの団体所有の建造物ということだ。










posted by 誠 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | (゚∀゚) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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