https://twitter.com/mkt5126/b  https://twitter.com/mkt5126/c  http://twilog.org/mkt5126      TweetsWind                   TweetsWind                   TweetsWind


2014年01月10日

人生が 教訓や説教だけで面白い訳が無いw

・カルトへ対抗する為にカルトへ頼る、って 其れではマヌケに過ぎると思う。
 宗教右翼カルトから離れたからと言って旧式左翼カルトへ堕ちる のではマヌケだと思う。

・大東亜戦争の時代に 其の程度な「空気」に勝てなかった者達 は致し方なかったかもしれない。
 ただ ネットの時代となって尚に 其の程度な「空気」に負ける者達は
  馬鹿で豚に過ぎない
 と呼称されざるを得なくなる。
 カルトの右手と左手 宗教右翼カルトと旧式左翼カルト の構図は「空気」で醸成される。
 感情は理性を超えるし 本能は理性を超える。
 ただし俺は 空気の吸い方や吐き方を自分で決める。
 其の上で 此処に言葉を綴る。
 他の人には他の生き方が有る、其れは其れで否定しない。
 ただただ俺は此処で生きて行くだけだ。

・牟田口廉也と小野田寛郎 と 餃子の王将 に共通する性癖



http://06020596.at.webry.info/201312/article_21.html
Israel's Killer Robots
http://www.youtube.com/watch?v=zCAOUlF-nAg

イスラエル マクドナルドCM ビッグアメリカ
http://www.youtube.com/watch?v=x-7QuEONRpg

マクドナルドが激怒したCM
http://www.youtube.com/watch?v=nIlI6KVmzDM

誤報にもほどがあります →沖縄、盛り上がらない反対運動 県庁集結は約10人(サンケイビズ)
ttp://www.sankeibiz.jp/macro/news/131227/mca1312271119015-n1.htm
沖縄、盛り上がらない反対運動 県庁集結は約10人 2013.12.27 11:17
沖縄県の米軍普天間飛行場(宜野湾=ぎのわん=市)の
名護市辺野古への移設に反対するグループ約10人は
27日午前、沖縄県庁の1階ロビーで反対演説を行った。
ただ、通行人が足を止めることもなく、反対運動は盛り上がっていない。

http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/832/97/N000/000/003/138820292560349498228.jpg

サンケイには、これが10人に見えるんですね。

ttp://news.nicovideo.jp/watch/nw894684
県庁1階ロビーには反対派の市民約千人がなだれ込み、座り込みを続けるなど混乱も見られた。
県庁前の広場では抗議集会が開かれ県民ら約2千人(主催者発表)が集結。
手には「不承認」と書いた赤いプラカードを掲げ
「知事に辞めてもらう」「埋め立てを許さない」と次々にシュプレヒコールを上げた。

誤報じゃなくて、「意図的」な報道じゃないでしょうか。
でなければ、サンケイの記者は数も数えられないアホだという話になりますが。
テレビ観て、新聞読むと、馬鹿の完成。
もちろん、ネットにもトラップはたくさんありますが。

ウソだらけのテレビと新聞よりは、ネットの方は探せば事実がある、ということです。
もっとも、探すのが大変なんですが。

トラップや地雷がたくさんあるので、よく先の読み違いや判断ミスをしますが、
まあ、それもいい経験かなと思って ここにも書き続けているわけです。

https://twitter.com/bilderberg54/status/416735281459367936
いくらアベノミスがあっても宇都宮健児じゃキャラ弱いよ。
キラキラが出た方が票伸びるど。池上彰をくどけ。

https://twitter.com/wolvesknow/status/416738509404135424
こういうところで、アルルの正体が見えるよな。笑

https://twitter.com/move_1211/status/416740672084135936
確かに自民党が池上彰を担いだら桝添よりも厄介です

https://twitter.com/wolvesknow/status/416741071272419328
いわゆるB層教育係ですから、ミスリードされまくりますね。

https://twitter.com/kijitora0510/status/416511868602052609
安倍首相が靖国参拝した前日の動静。
午後6時41分から、赤坂のANAインターコンチネンタル東京の日本料理店「雲海」で
報道各社の政治部長と懇談とある。2時間以上いたようだ。
何を話していたのかわからないが、
権力を監視すべきメディアの幹部が権力者と食事すること自体が異様だと思う。

https://twitter.com/tanakaryusaku/status/416420211374313473
大東亜戦争の時代、マスコミは翼賛体制を支えた。
こぞってマスコミ各社の幹部が首相と食事をする今を何と見るべきか。

ならば ネットの情報流通とは何を意味するのか? までをも論理構築して理論武装を積み上げて行く。
マスコミ新聞テレビ大手メディアが大馬鹿野郎でキチガイで詐欺師ならば
其れを踏まえた上で 自分達が如何に生きて行くか までも言葉にして行く。

大東亜戦争と比べてだけで話を終わらせているのでは 其処から一歩も進んでいない事を意味する。
311以前から俺は 自分とネットの関係性を言葉にしてきた。論理構築して理論武装をしてきた。
情報流通とは何か? を己が生活と共に考えてきた。

温故知新とは何か?
過去を学ぶだけならば ネットが有れば馬鹿でもキチガイでも詐欺師でもでも出来る
其の先を積み上げて行く事にこそ知性が必要となる。
なのに其の観点を 自分の頭が悪いはずはない人達は決して教えてくれない。
だから愚かな俺は自力で言葉を積み上げて行くしか無かった。

洗脳 と 学習 は ほぼ同じだ。
ただし洗脳は 洗脳させる側の限界までしか洗脳が出来ない。
けれども学習は 学習する側が限界を決める。
俺は これからも自力で色々と学んでいく だけだ。


http://blogs.yahoo.co.jp/kotyannomama/15955143.html

http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/832/97/N000/000/003/138820844329006864228.jpg
学校はファシズム訓練所。戦前も戦時中も、
そして今も。学校と軍隊、学校と軍国主義は切り離せない。

徴兵制 『明治もののはじまり事典』湯本豪一
http://longlive.hatenablog.com/entry/2012/11/12/010410
兵役法は、青年訓練と学校教練の普及を前提としていた。
義務教育と徴兵との中間にある青年層を軍事教育に組織し、学校教育を軍隊教育に直結させることは、
徴兵令制定当時に山県有朋がえがいた理想案であった。
この理想案実現に向けての一歩前進は、日露戦争後に義務教育四年を六年に延長し、
義務教育と徴兵とをつなぐ青年団組織をつくったことであった。

今後の教育に「愛国心」が盛り込まれる、というのは、何を意味するつもりなのかわかりますね。

https://twitter.com/marubanaetou/status/416360104905039873
アベの背後がどうであれ、現役首相の靖国への参拝で、
尖閣で皇軍の下僕が先走れる環境が整った。
そして、どちら側からであれ、一発の砲弾、一人の死で、世の中の空気は激変する。
その変化がアベら国粋主義者にとって好都合なものとなる。

空気?
其れはマスコミ新聞テレビ大手メディアが造るモノでしかない。
其の程度のモノでしかない「空気」が 如何にマヌケなモノだったか は
情報流通を自力で進む者からすれば 容易に分かる。

それは センソウハンタイ とか 平和がウツクシイ とか な旧式左翼カルトで対抗する種類の話では無い。
単なる情報流通の技術の話でしかない。
宗教右翼カルトの宗教談議へ旧式左翼カルトの宗教談議で対抗をする って バカジャネーノ でしかないよね。
だから説得力に欠ける。 どちらかが正しいか否かの話が主軸となってしまうからだ。

カルトへ対抗する為にカルトへ頼る、って 其れではマヌケに過ぎると思う。
だから俺は 自分で学び 自分で歩き 自力で生きて行く。
空気の吸い方も吐き方も自分で決める。 たった 其れだけの話だ。

大東亜戦争の時代に 其の程度な「空気」に勝てなかった者達 は致し方なかったかもしれない。
ただ ネットの時代となって尚に 其の程度な「空気」に負ける者達は
 馬鹿で豚に過ぎない
と呼称されざるを得なくなる。
その意味合いまでをも論理構築して理論武装が可能となる環境は 貴方の眼前に有る。
俺は ただただ先に歩いているだけ に過ぎない。
 どうか どうか 本当の意味で知性の高い人達の叡智が心の底から欲しい
と愚昧そのものな俺は常に思っている。
「空気」なんてモノに凌辱され続ける者達を哀しく眺め続けながら。


「国に殉じた軍人の魂を慰霊するのは当然」という単純化された論理は
・太平洋戦争で死んだ日本軍人軍属の六割は餓死
・生きて虜囚の辱めを受けずという戦陣訓
等の彼らの死因についての考察や、
自らの不手際で必要以上に大勢の軍人を死なせた戦争指導部への批判から、
受け手の目を逸らす効果を持つ。

祖父はガダルカナル島で機関銃弾を受けて戦死した。
孫として私は思う。
岸の孫である安倍とは、死んでも理解し合えないと。
靖国は この対立の構図の象徴でもある。
カルトの右手と左手 宗教右翼カルトと旧式左翼カルト の構図は「空気」で醸成される。
感情は理性を超えるし 本能は理性を超える。

ただし俺は 酒を飲まないし 空気の吸い方や吐き方も自分で決める。
其の上で 此処に言葉を綴る。
他の人には他の生き方が有る、其れは否定しない。
ただただ俺は此処で生きて行くだけだ。


http://06020596.at.webry.info/201312/article_22.html
牟田口みたいなのって、今もたくさんいますね。官僚や政治家などに。


http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/832/97/N000/000/003/138827667045316766226.jpg
チェルノブイリ事故以降の「ワインブームやスローフードブーム」と「ヨーロッパ農産物の放射能汚染」に関するまとめ
http://togetter.com/li/362508

こぞってマスコミが「なんだか良く分からないモノ」を持て囃し、
みんなが食べるようになったのは、いつからでしょうか。
ということで、あの時も「食べて応援」をさせられてましたよ という話です。
あいつらは、本当に野蛮人なのだから、異教徒の虐殺を平然と行える、というのが まだ分かりませんか?
貴方の口も身体も精神も、彼らからすれば 単なる「放射性物質の最終処分場」なわけです。

牟田口廉也(fake)(空腹実現党総裁) ‏@renya_mutaguchi
インディペンデンスデイの続編が作られるらしい。
たぶん次のハイライトは世界中の戦闘機が消耗した末、
日本人が寄って集って竹槍で円盤を撃墜するシーンであろう。
「日本をトリモロス!」と先頭で竹槍を腰だめに構えて
突撃するのはもちろん総理大臣。

牟田口廉也(fake)(空腹実現党総裁) ‏@renya_mutaguchi
一万発の小銃弾が多いとか、一個小隊の必要量に満たないとか騒がしい。
だがちょっと待って欲しい。
帝国陸軍の呉淞上陸作戦は「弾がもったいない」ので一人5発の支給、
それも発砲禁止で専ら銃剣突撃によるものとされており、
それなら二千人、つまり一個連隊には足りないくらい兵が武装可能である。
・・・んで、当然中国軍に壊滅させられるんであるが。

牟田口廉也(fake)(空腹実現党総裁) ‏@renya_mutaguchi
「永遠の0」が「日本中が涙した」というキャッチコピーで売り込んでるようなので、
ワシも補給が「永遠に0」という作品を世に送り出して日本中を涙させたいお。

牟田口のアカウントがありました。
こいつは、盧溝橋事件、つまり自作自演にも関わった胡散臭い奴で、
インパール作戦では世界の戦闘指揮官史上に屈指の馬鹿として知られています。
戦後も ひたすら自己弁護を続けました。
どれくらい馬鹿なのか、そしてそういう奴が今もウヨウヨいるというのを知るためにも
(特にたもちゃんと愉快な仲間たちを特定して言っているわけではない。 つもり)
少々長くなりますが、引用を。

インパール作戦

http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/pacific12.htm
いよいよ、世界の戦史上最も愚劣と言われるインパール作戦について書かなければなりません。
さて、1944年初頭に入ると、戦局の趨勢は誰の目からも明らかになっていました。
アメリカの大艦隊は、いまやマリアナ諸島(サイパン、グアム、テニアン)を目指し、
これを待ち受けて日本軍は、伸るか反るかの大決戦を行なおうとしていたのです。
東条首相は、マリアナ諸島を「絶対国防圏」と名づけて、日本の国運をこの一戦に賭ける決意だったのです。

しかし、日本軍は、全力でこの国難に当たろうという態勢にはなっていませんでした。
どうしてかといえば、この期に及んで、お役所の詰まらぬセクト意識が幅を利かせていたからです。

既述のとおり、日本陸軍の主要敵国は、あくまでも中国でした。
彼らにとって、アメリカとの戦いは副次的なものでした。
アメリカが日本本土に迫っても、それはあくまでも海軍の責任であるから、彼らには関係ない
と言っていたのです。
だから、陸軍は、百万近い大軍を動員して、中国大陸とインドで大攻勢を行なったのです。
前者は「大陸打通作戦」、後者が「インパール作戦」です。

そんな余裕があるなら、どうしてアメリカとの決戦に回さないのか?
そんなこと、お役所のキャリアに言っても無駄です。
彼らは、己の省益のため(という口実で自分達の給料と年金を大事にする)なら、
国益すら犠牲にする連中ですから。  
こうして、マリアナ諸島の戦力は、相対的に低下しました。

「政治家不在」は、いまや致命的な破局を招こうとしていたのです。
このような無駄は、現在でも日常的に起きています。
何でも役人任せにしていると、無駄と不効率で国中が埋めつくされてしまうことでしょうね。

さて、「大陸打通作戦」とは何か?
占領下の広東と武漢の間、すなわち湖南省を占領して、
長江沿岸と広東の間に連絡路を造ろうという作戦でした。
具体的には、桂林のあたりを攻撃したのです。
いちおう、この辺りに設置されつつあったB29の基地は破壊できたのですが、
そんなことをしても四川省に立て篭もる蒋介石には、大したダメージにはなりません。
陸軍の役人は、わざと弱い敵をやっつけて、点数稼ぎをしたかっただけなのです。

さて、「インパール作戦」とは何か?
文字通り、インパールを占領する作戦です。
インパールというのは、ビルマ(現ミャンマー)との国境にあるインドの街です。
ここは、イギリス軍の最前線基地になっていました。

そもそも、どうして日本陸軍はビルマを征服したのか?
これは、実は日中戦争を有利に進めるためだったのです。

アメリカとイギリスは、中国に対して戦略物資の援助を行なっていました。
その物資は、英領ビルマから昆明を経由して蒋介石軍に届けられていました。
ゆえに、日本がビルマを占領すれば、
米英は中国を支援できなくなり、中国は世界から孤立してしまうのです。
そして、日本軍は“米英→ビルマ→中国の補給線を断つ”には成功したのでした。

1942年初頭のイギリス軍は、
日本軍の強力な攻勢を前に敗走し、ビルマを放棄してインドへ逃げ込んだのです。

しかし1944年に入ると、状況は大きく変化しました。
その最大のものは、制空権です。
連日のように続く空中戦で、日本のパイロットは次々に失われていきました。
加藤健夫中佐が戦死したのも、ビルマ上空です。

そして、圧倒的な物量を誇る連合軍は、いつしかビルマの制空権を一手に握っていたのです。
彼らは中国との連絡路の奪回に動き出しました。
少数精鋭のゲリラ部隊をビルマ北部に潜入させ、空からの補給を行なってゲリラ戦を継続させ続けました。
そうして中国軍と連携させることに成功したのです。

この情勢を放置しては、日本側としてのビルマ征服が無意味となってしまいます。
そこで、日本陸軍は、イギリスの最前線基地であるインパールを攻略し、
彼らの意図を挫折させようとしたのでした。

インパール作戦は、作戦目標としては道理に適った作戦だったのですが、
問題は 戦略と戦術 でした。

特に戦術が最悪だったのでした。
ビルマとインドの国境には、チンドウイン河という大河が横たわり、
それを超えた後はアラカン山系という、標高2000メートル級の山々が聳えていたのです。
もちろん、まともな道路はありませんから、
自動車はもちろん、荷車だってロクに通れないのです。
歩兵が、文字通り歩いて越えるしかありません。

ここで当然問題になるのは「補給」です。
どうやって大軍を山越えさせながらの前線部隊へ武器弾薬や食糧医薬品を渡すのか?
補給畑の将校は、連日のように知恵を絞って考えました。
そして得られた結論は「不可能」でした。

しかし、この作戦は強行されたのです。
1944年3月、日本軍の10万の将兵が、ビルマ-インド国境へ殺到させられました。

どうしてこんなことになったのか。
牟田口廉也です。

在ビルマ日本軍の編成は、次のようでした。
東南アジア方面を統括するのが「南方軍」ですが 指揮命令系統としては寺内寿一元帥が一番に上です。
この人は、親の七光りでのし上がったキャリア君で、実務では全く無能でした。
シンガポールで、美食と観光三昧の生活を送っていたそうです。

その下に、「ビルマ方面軍」があり、指揮命令系統の最上部は河辺正三中将でした。
その下に、「第15軍」があり、これがインドのイギリス軍と対峙していたのです。
この「第15軍」を指揮するのが牟田口廉也中将でした。
そして、河辺と牟田口は、親友の関係だったのです。

そもそもの話は インパール作戦をやりたい と言ってきたのが牟田口でした。
牟田口は「軟弱なイギリス軍など、あっというまに倒して見せる」と豪語しました。
だから、
 歩兵の携帯用食糧だけで十分で、
 補給の事を考える必要が無い
とまで言い出しました。

当然に牟田口の参謀の補給や兵站を担当する者達のみならず、
上部の兵站を担当する役人も、一人残らず反対しました。

しかし、彼らの意見は黙殺されてしまったのです。
日本軍は、補給を軽視する伝統があり、補給畑に行く人は、だいたいノンキャリアでした。
キャリアがノンキャリアをバカにするのは、
19世紀の頃も 20世紀の頃も 今の21世紀も 当然のこと として「伝統」となっています。
東大卒や どこかの大学卒 で学閥を作り 其れを「伝統」として天下りにも使う。
これが「伝統」の正体です。

では「第15軍」の牟田口の 上司にして親友の「ビルマ方面軍」の河辺は何と言ったか。
「牟田口くんがやりたいなら、やらせてあげたい」
と言ったのです。
明らかに、職務に情実を挟んでいたわけです。

「ビルマ方面軍」の河辺正三中将の 上司の「南方軍」の寺内寿一元帥は何といったか。
「良きに計らえ」でした。

では東京の東条首相は何と言ったか。
「やれるならやりたまえ」でした。

戦況が悪化の一途を辿る中で 追い込まれていた東条首相 は、
インドの亡命政治家チャンドラ・ボースを利用して、政治的なプロパガンダを打ちたがっていました。
すでに、捕虜となったインド兵を中心に、インド解放軍を編成させていたチャンドラ・ボースは、
「日本軍のインド侵攻」に、甘い夢を見たい気分だったわけです。

こうして、補給や兵站の問題が全く解決されないままに、
インパール作戦は実行へ移された走り出したというわけです。

もっとも牟田口は、彼なりに画期的な補給作戦 を案出して見せました。
「ジンギスカン作戦」です。
すなわち、ビルマの民衆から大量に牛を徴発して、これに荷物を運ばせようというのです。
兵隊は、腹が減ったら牛を殺して食えば良いというのです。
牟田口は、「これぞ一石二鳥」と、悦に入っていたようです。
古のジンギスカンの故事に学んだつもりで、己の教養をひけらかしたといいます。

牟田口は、牛という生き物を見たことが無いのでしょうか?
牛は、背中に重い荷物を背負ったまま大河を泳いだり、
険しい山道を進むことが苦手な動物なのです。
仮に平野ばかりを進んだとしても、あの足の遅さでは、足手まといにしかならないでしょう。
だいたい、実際の歴史上のジンギスカンは、
牛ではなく羊を連れて草原地帯を進軍したのですから、状況が全然違うのです。

案の定、「ジンギスカン作戦」は始まった当初から失敗に終りました。
チンドウイン河で牛の半数が溺れ死に、残りの半数も山道を進むことができずに、放棄されたのです。

それでも、牟田口は意気軒昂としていました。
彼は、幕僚に語った。
「日本人は、もともと農耕民族で草食動物なのだ。
 ジャングルの中で草を食えば、補給などいらぬのだ!」
無知蒙昧と不見識も、ここまで来ちゃうと芸術的ですが、
受験勉強で成り上がったキャリアの中には、現代でもこういうのがウジャウジャいます。
実に恐ろしい事です。

ともあれ、日本軍は良く頑張りました。
アラカン山系を突破して、インパールの街を、北、東、南の三方から包囲したのです。
インパールは山間の盆地なので、陸上の連絡路は、北方のディマプールに延びる一本道しかありません。

最前線での現場の指揮をした佐藤中将の第31師団は、
この道を遮断し、コヒマ部落でイギリス軍を大いに苦しめました。
コヒマの戦いは、イギリスで出版される戦史物で、必ず詳説されているそうです。
それほどに、激しい戦いだったのでしょう。

佐藤師団が、コヒマでイギリス軍を食い止めている間に、
残りの2個師団が、補給切れになったインパールを占領する手はずでした。
しかし、この計画は失敗に終りました。

なぜか?
インパールが補給切れにならなかったからです。
そもそも制空権を完全に掌握していたイギリス軍は、
空から飛行機で補給物資を この街へドシドシと送り込んだのです。

つまり 戦術で最悪 という話の以前に
 インパール作戦は
 戦略でも始めから負けていた
 という事態を 「東京」も「南方軍」も「ビルマ方面軍」も「第15軍」も
 “何故か想定してなかった”
というわけです。

こうして、先に補給切れに陥ったのは日本軍の方でした。
日本軍の大砲は、5月の段階で、一日に一門当たり3発の砲弾しか発射できなかったそうです。
この時点で、作戦の失敗は明白になっていました。

しかし、それを牟田口は認めようとはしませんでした。
インパール攻略に苦戦する2個師団を「軟弱」と決め付けて、
師団長を2人ともクビにしてしまったのです。

そして、神社(日本は、占領地域に神社を造りまくっていた)に立て篭もり、
毎日、奇声を上げながら水垢離していたそうです。
総司令官が神頼みでどうする!

こうしている間に前線の日本軍は、
まさしくジャングルの草を食って生きている状態になってしまいました。

彼らはもちろん、補給を送るように後方に督促したのですが、
牟田口司令部は、「もうすぐ届く」などと嘘をつきまくっていました。
実際には、何もしていなかったし、やりようも無かったのです。

いつしか7月に入り、雨季が到来しました。
この辺りのジャングルは、雨季になると疫病の巣と化すのです。
骸骨のように痩せ衰えた日本兵は、次々に病に倒れていきました。

コヒマの佐藤師団は、銃剣で戦車に渡り合うという苦境に陥っていました。
補給は一向に行なわれず、このままでは全滅です。

彼は、悲痛な決断を余儀なくされました。
「抗命」です。彼は独断で、全部隊を撤退させてしまったのです。
これは、日本陸軍発祥以来の大事件でした。

牟田口は、これを理由にインパール作戦の中止を言い出しました。
部下が背いたから負けたのだ、という言い訳が出来るからです。

その間、河辺はどうしていたのか?
牟田口の心境を考えると気の毒なので、何も言い出せずに、優しく彼を見守っていたのです。
友達としては立派なのかもしれませんが、組織の長としては無責任ですね。
日本陸軍は、機能的組織ではなく、単なる馴れ合いと化していたのです。

10万の日本軍将兵のうち、無事に生還できたのは3万人でした。
残りの殆どが、飢えと病で帰らぬ人となったのです。
日本軍の退却路は、死体の山が散乱したことから、「白骨街道」と呼ばれました。

さて、生還した佐藤師団長はどうなったのか?
彼は、日本刀を引っさげて牟田口司令部に乗り込みました。
「叩っ斬ってくれるわ!」という剣幕だったそうです。
このときは、牟田口が逃げ回ったので、何事も無く済みました。

佐藤は、軍法会議で死罪になることを覚悟していました。
ただ、その裁判の壇上で、牟田口や河辺の「犯罪」を弾劾してやろうと準備していたそうです。

しかし、軍法会議も裁判も行なわれませんでした。
なぜか?
佐藤中将は「精神病」という事にされたのです。

別に、佐藤を庇ったわけではありません。
佐藤の責任を追及すると、
「第15軍」も「ビルマ方面軍」も「南方軍」も「東京」も
全てがが責任を問われるからです。
それが厭だから、「事故」ということにして「無かったこと」にしちまったのです。

最前線で倒れた兵士たちは、まさに「死に損」でした。
無責任な庇い合いの馴れ合い組織。現代の日本の官僚制度の天下りでも随所に見られる光景です。

インパールの悲劇を、決して無駄にしてはいけないと思います。
二度と同じ過ちを繰り返してはならないのです。


いやはや、ひどい話です。
そして、これは今もずっと、腐れ官僚がやっていること そのままでもあるわけです。
牟田口はその後に30年も生き延び
昭和41年8月に心筋梗塞に脳梗塞を併発して死亡するまで、言い訳ばかりの晩年を過ごします。

今の官僚は、責任の所在を政治家へ擦り付けて隠します。
言い訳するのは 政治家が倒れて自分達へ返り血が浴びせられた時だけです。
其の時は 1人を生贄にして 9999人は逃げる という儀式を行いますが。

そういう一層に悪質化した結果が 福島第一原発テロ事件 です。

では当時の国策標語を私の「翻訳」付きでどうぞ。

 国策標語bot ‏@KokusakuHyogo
 一億が みんな興亜へ 散る覚悟(京都府、昭和15年)
失敗を隠すには、全員死んでもらうのが一番ですね。

 国策標語bot ‏@KokusakuHyogo
 もう一段 暮しを下げて もう一艦(中央標語研究会、昭和18年)
官僚や死の商人が儲かるには庶民へ増税が近道です。
貧困生活に耐えろ。軍艦を造るため と言えば 何も言えないような「空気」を作る。

 国策標語bot ‏@KokusakuHyogo
 国に縋(すが)るな 国を負え(報知新聞社、昭和10年)
国とは「日本人と日本」様のことですね。
寄生してる連中は 死ぬまで 息を吐くようにの嘘デマ扇動を吐き続けます。

 国策標語bot ‏@KokusakuHyogo
 粗食に 興亜の 真剣味(日本カレンダー株式会社、昭和16年)
贅沢は支配者層である「日本人と日本」様 である 官僚や死の商人 にのみ許されるもの。
家畜や奴隷は粗食で十分。兵隊も草でも食っとけ。

 国策標語bot ‏@KokusakuHyogo
 無敵日本に 無職をなくせ(標語報国社、昭和16年)
さっさと全員が奴隷のように働いて 税金を「日本人と日本」様という寄生虫へ差し出せ、それがウツクシイ。

 国策標語bot ‏@KokusakuHyogo
 国策へ 理屈は抜きだ 実践だ (日本カレンダー株式会社、昭和16年)
家畜や奴隷は考えるな。黙って搾取されとけ。

 国策標語bot ‏@KokusakuHyogo
 お父さんは今日も三割搦Yだとはりきり
 お母さんは大根の葉でうまいおかずを作り
 おぢいさんは一坪庭園に馬鈴薯をうゑ
 おばあさんは小布を集めて足袋をつくり
 子供たちは寒くないぞと勇んで學校にゆく
 工員でなくとも飛行機をつくる道はある 
家畜や奴隷は決して不満を持たず、我慢しろ。
家族で互いを監視しろ。

 国策標語bot ‏@KokusakuHyogo
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 (標語報国社、昭和16年)
支配者層である「日本人と日本」様へ持てるモノ全てを差し出せば 被支配者層は天国へいける。

 国策標語bot ‏@KokusakuHyogo
 聖戦だ 己れ殺して 国生かせ(読売新聞社、昭和14年)
十字軍そのものだよね。

 国策標語bot ‏@KokusakuHyogo
 大東亜 正義の地図に 塗りかへよ(中央標語研究会、昭和17年)
「日本人と日本」様の美味しい金儲けのために、
領土を広げて聖地の獲得に賛同しない者達 や 正義という言葉を信じない者達
は 悪魔で異教徒で異民族だ。

 国策標語bot ‏@KokusakuHyogo
 もし、空襲があるならば それは日本本土の爆破を目的とはしてゐない 
 諸君の心を破壊しようとしてゐるのだ 
 そんなことで僕等の大和魂が搖ぐものか
精神論で全部を誤魔化す。


8月の連合国占領概要に関するマッカーサー報告によれば、
生活経費か-ら死亡率にいたる大部分の面で全体的に数字が上がっている。
...賃金は上昇したが、-生活経費と日用品価格は ものによっては200ないし700%上昇した。
国債は2200-億円に達し、通貨発行高は50億円を超えた。.
..失業者数は本年度末までに680万-人にのぼる見込みだという。
...食料備蓄はさらに減った。
ニューヨーク・タイムズ(1946年10月22日)

占領軍指令で今後二ヶ月間の配給量は997カロリーまで切り下げられることになった。
ニューヨーク・タイムズ(1947年7月13日)

戦後直後は 凄まじいインフレ けれども 997カロリーの配給 まで切り下げられる。
アベノミクスの末路は 此処に有る。
けれども その間に
 財閥解体と脅されては
 儲け続けたカネを“宗主国サマへ還流すれば許される”として生き延びた国策会社と財閥様
というの歴史は、「日本人と日本」様の“戦後の教育”では全くに習わない。
それが「親米保守」にして「伝統」の正体である。
同時に 支配の基本 の 右手と左手の構図が誕生する。

牟田口廉也 アンサイクロぺディア
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F


大東亜戦争において連合国の勝利に大きく貢献した英軍の指揮官である。
インパール作戦で大きな戦果を上げ有名になる。

元々は皇道派だったが、二・二六事件以降は、
保身と出世を目指しては 深く潜入活動を行う為として
統制派の首魁である東條英機の男妾となった事でも有名である。

盧溝橋事件の直後には、怪我もしていない腕を包帯で吊って会合に出席した。

「ビルマ方面軍」の現場の取材をした記者
http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/354.html
1942年の様子を読売新聞記者の若林政夫氏は次のように書いている。

星の旦那たち

3カ月ぶりにラングーンに帰った僕はその復興ぶりにまず驚いたが、同時にラングーンが印度人の街でありビルマ人の街ではないことを発見して2度驚いた。印度人の生活力の旺盛さは華僑を凌ぐくらいだ。ラングーンの目抜き通りを歩くと、めぼしい商店や気の利いた飲食店はどれもこれも印度人か、中国人経営、ビルマ人経営なんか一軒もなかった。

三度びっくりしたことは陸海競って専用料亭を持ち、日とともに日本の女の子が殖え、いやな言葉だがいわゆる慰安所という、お女郎屋が雨後の筍のようにニョキニョキ出来てゆくことだった。

そのお職は、なんといっても陸軍の星の旦那方が御専用の粋香園にとどめをさす。こいつがラングーンに進出したことについてはこんなことが、まことしやかにいわれていた。

粋香園というのはかっての軍都久留米の料理屋で、例の割腹自殺をした杉山元帥が久留米の師団長時代にごひいきにしていた家だとかで、大の客筋の師団はなくなる。統制統制でにっちもさっちもゆかなくなって、廃業のご挨拶におやじが元帥邸に伺候したところまあ少し待て、俺が、いい口をさがしてやるということになった。それからまもなく戦争がはじまる、すぐ上京せよということで、お前ラングーンに行けということになったのだと。ありそうなことだ。

それはともかくとして、ラングーン一流のクラブをいただいて、そこに陣取ったこの一隊は総勢150名になんなんとする大部隊で、芸妓、はんぎょく、はもとより女中、下働き、料理番。これまではわかるがあとが凄い。髪結いさんに三味線屋、鳴物屋、仕立てやに洗い張り屋にお医者さんまで、これが婦人科兼泌尿器科医であることはもちろんのことだ。それに青畳、座布団、屏風、障子、会席膳一式まで海路はるばる監視哨つきの御用船で、つつがなくラングーンに御着到になったのだ。

湿気の多いビルマでは三味線も太鼓も、鼓も、こわれやすいし、御相手がお相手で、相当の破損を覚悟してのこと、暑いビルマではおべべも、汗まみれになるというので仕立屋さんや、洗い張り屋さんの配属となったもの。それでも輜重行李から、衛生隊まで引きつれての進撃ぶりは大したものだ。それだけにお値段も滅法おたかく相手にもしてくれなかったが、なにもかも留守宅送金の僕ら軍属どもには無用の長物、高根の花だった。

灯ともしごろともなれば、青、赤、黄の小旗のついたトヨダさんが門前に並んで、椰子の樹陰から粋な音じめがもれてくるという始末で、チークの床に青畳を敷きつめた宴会場では明石か絽縮緬の単衣かなにかをお召しになった久留米芸者のお座付きからはじまってあとは、例によって例の放歌乱舞が日ごと夜ごとの盛宴に明け暮れていた。

S奴姐さんはA参謀、M丸さんはY隊という具合で、僕ら軍属や民間人はとても姐さん方に拝謁を得るのは難事中の難事だった。安い方の食堂であやしげなおすしの皮剥ぎをやりながら、何のことはない下手なラジオを聞きながら一杯やっているようなもので、奥座敷からさかんにきこえる嬌声に指をくわえ、膝を抱えて、「馬鹿にしてやがる! 戦地だぞ」 なんて、はかない正義感に鬱憤をもらしながらビルマ女のお酌で防腐剤入りの日本酒でテーブルをたたいてトラになるのがせいぜいだった。
 
錨の旦那たち

海軍の錨旦那た方はバンドの川っぺりにこれは基隆仕立の遥地亭という、いともこじんまりしたやつを、御設営になってしんみりとチンカモでやっていた。大衆的なのは白木屋が陥落と同時に開いた食堂だ。ここにはあの僕らを苦しめた印度支那山脈を、自動車路の完成と同時にいちばん乗りしてきた女性としての山越え第1号のM子さんがいた。若い将校どもは肉感的な彼女に、われこそは、われこそはと名乗りをあげていた。その他アリラン、バーマ、インド、支那仕立と、金と暇さえあればお好み次第。上下の別はあっても、勝った、勝ったで、あの悲惨な敗退なんか誰も考えず、酒と女に憂き身をやつしていた型だった。

東条勝子夫人がM検を提唱したのもあながち怒れもしないし、笑えないような始末だった。じめじめと暑いビルマの雨期に防腐剤の多い日本酒のがぶ呑みでは、誰だってそういい智恵が出ないのは無理もないことだった。僕らが帰るころからますますさかんになって行った、こうした方面の女性が、あの敗走時、どういう運命におかれただろうか、それを考えるとぞっとする。

此処で出てくるM検とは
M検 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/M%E6%A4%9C
疾病や欠損があれば兵役に適さない者として除外を目的としたものである。集団生活を送る軍隊にとっては性病の蔓延は規律や風紀を乱すものとして厳しく取り締まらなければならない重要事項であるからである。
M検査は被験者を全身脱衣させ、性器や肛門を検査した。
学校では旧制熊本高等学校で入学志願者に対して身体検査の一部として取り入れていたが、1907年に旧制第一高等学校の入学志願者に身体検査の一部として実施したことから、その後、本格化し、全国的に旧制高等学校だけでなく師範学校、大学予科や専門学校まで拡がり、男子入学志願者を対象にM検が行われるようになった。
このM検は戦後、人権意識の高まりや売春防止法の成立により東京大学では1957年の入学試験で廃止され、他の大学でも廃止されたが、一部の大学では1970年代まで行われていた。


軍隊体験記録 −徴兵検査の記憶−
元・海軍二等兵さんは徴兵検査だけでなく、
国民徴用令による徴用中あるいは海軍において何度もM検を受けた方です。
さらにM検はもちろんの事、徴用工や海軍兵隊時代に、
軍隊の権威のもとで何度も性的陵辱を受けたそうです。
寮長や上官に呼び出され素っ裸にさせられての性器玩弄、縄でくくられ、
鞭による性器責めを中心とする悪戯、拷問、強Mへの調教をされたのです。
この体験は60余年も前、軍国日本、滅私奉公、軍事最優先の時代に、
強大な軍隊の権威に一切逆らうこともできず、上官から強Mに調教されてしまった男の体験談です。

『兵隊画報』でも分るように軍隊とは男だけの世界であり、初年兵は別として上官には意外と暇が多いのです。日常は昼の訓練だけで、その後上官は暇になります。元・海軍二等兵さんが上官から悪戯されたのは暇つぶしの遊びだったようです。
これといった娯楽施設のない軍隊で暇になると行われる遊びとしては、いじくると意志に反して変化する男の身体への悪戯でしょう。兵隊の体を玩弄するにしても体格の良い方が見世物としても面白く、また性器の立派な兵隊を選んだ方が弄り回したときの変化が大きくて見応えがあるのでしょう。

元・海軍二等兵さんがあらゆる場面で寮長、上官に玩具にされたのは、いい体格をしているだけでなく、立派な陰茎と金玉が加虐する対象として興味を引いたからのようです。
徴兵検査やM検の記憶を多く持つ者達も多かったはずなのに、
しかし あまり語らず、また聞いてももらえぬ。

身体検査、M検などはそれを必要とする職に就くなら
検査をするのも仕方がなかったと思うかもしれないが、
それ以前に 当時のその場の空気、雰囲気が違うのだ。
軍国日本、滅私奉公、軍事最優先の時代の話なのである。

男子満20歳になると兵役に服従せねばならない義務が課せられていた。
その為の徴兵検査は桜の咲く頃から初夏に行われる。

昭和19年(1944年)、戦争の影響で食料、衣料が配給制となる混乱の中、
ますます人手不足、物不足となり布の一片すら手に入りにくいという状況だった。
そんななか、どうやって工面したのか、私は白い越中褌を締めて検査場にいった。

この日の心得に『褌着用』とあり、違反すれば懲罰を受ける懸念からだ。当時の若者にはすでに白いランニングパンツが定着、褌は過去の老人専用となっていたが、徴兵検査においては創軍当時のまま、白い越中褌が強要されていた。

徴兵検査の前日、我ら壮丁(壮丁:徴兵検査受験者をこう称していた)は村役場に集合し、兵事掛の中年職員から説明を受けた。「規律正しく行動せよ。今回の検査官は特別厳しい方と聞いた。動作はキビキビ活発にせ
にゃあかんぞ。検査は素っ裸でやられるが、恥ずかしがってチンポを手で隠したり、女々しい態度をしたら、こっぴどく叱られビンタくらうぞッ。それからチンポの皮も剥いて検査されるから、今夜は風呂でチンポの垢、きれいに洗ぅとけ。」

当時の若者はこの検査の来る数年前から、徴兵検査でチンポを検査されるという事に常に威圧感を持たされていた。親兄弟にも見せた事のないチンポ、どの様にして検査するのか。マスかきした事や、何回マスをかいたか等が判ってしまうのだろうか? 勃ってしまいはせぬか、触られたら自然に勃ってしまう。大勢の見ている中で勃ってしまったら恥だと、人にも聞けず一人悩んだものだ。
先輩達が面白がって「態度のわるい者や病気を見つけられた者はその場でビンタ、広い検査場内に全員の検査がすむまで素っ裸で起立させられ、説教を喰らう」などとおどし話を聞かせるので不安はいやが上にも増すのだった。

当時の壮丁たちは実生活の場で主人や親方、先輩の言いつけや命令には、文句なしに従うべしと躾られていた。目上の人の言う事に逆うなど思いつきもしないのが当たり前の時代であった。
仕事上で失敗などをすると叩かれ、殴られ、時には裸にされる等の仕置きは当然の事として受け入れていた。しかし、軍隊はそんな世間以上に厳しいと聞かされ、想像もしたりで恐れ敬遠していたものだった。徴兵検査とはそんな暗い恐怖のイメージで若者の心に喰いついていた。楽しい時、晴れ晴れした時でさえ、この暗鬱がフッと蘇るのだった。
勇躍、心弾んで検査を受ける、そして入隊するのだ、そんな者は一人も居なかった。勇ましさを偽装して検査を受ける、それが徴兵検査の実態であった。

島内一番の大きい小学校の講堂が検査場だった。あちこちの村から壮丁が集合、200人はいたか。定刻、現役下士官のさびのある兵隊特有の音声、きびしい号令で壮丁一同、講堂に入り徴兵官来臨を待つ。
見渡せば村長、駐在、町会議員、在郷軍人会の退役将校、それに何々婦人会のおばさん達が紺の上っ張り着用の正装、さらに女子青年団までが来ている。一同は3mほど離れて、急ごしらえの机の前に腰掛け、真剣な面もちでこちらを見ている。
広い講堂、その一段高い舞台までは距離15m以上はあったか。時局柄、電灯は消されていたが、カーテンが持ち去られ広く開いた窓からの自然光でよく見渡せる。静粛、咳払いのみ聞こえ、まもなく始まる検査儀式に緊張の空気。

やがて舞台横の出入り口に物音がすると、「気をーつけッ!」と声量豊かな号令、戦地で鍛えた賜もの。入ってきた徴兵官一行五、六名。麗々しい軍服の正装、威厳があり圧倒される。一行は舞台に上がり中央机の奥に立ち、時をして「昭和19年度徴兵検査、只今から開始ッ、するゥーッ!」とするゥーッに力込めた芝居がかった号令に呆気にとられ、しばし空白。人により違いはあろうが何故このように滑稽な言い方をしたのであろうか、今も疑問である。

四班に区分され一班50名、「全員裸になれッ!」、下士官の反抗しがたい命令で一斉に褌一丁となり検査官が位置に就くを待つ。見物の、いや御国の為に見学忠勤している来席のお偉い方々に、之ぞ軍国日本男児の有
りようと感動を与えたのではなかろうか。間近のお偉ら方と吾ら壮丁の間には隔離する衝立、カーテンの一枚とて無くすべてが丸見えであった。恥ずかしいの気持ちが去来するも、手違いを叱責されるのを恐れ、ひたすら緊張していた。

一年前に学校でうけた徴兵予備検査の通りに検査は順番に進行して、ついにM検となる。
椅子に腰を下ろしている検査官の前に、五人ずつが越中褌も外した素っ裸で順番を待つ。間違わぬように前の者の仕草や動作を注視し見習う。一人が済んで去るとすぐに次の者がパッと進み出る。床に描かれた四つの印、正しくその印に手足を置いて四つん這い、四肢全開の体勢をとる。腕、脚をピンと完全に伸ばすと、ちょうど尻穴が検査官の顔面に位置する。両手で尻臀をグッと開かれた後、尻臀をパンと掌で叩かれるを合図に起立してクルリと向きを変える。今度はチンポが検査官の眼前に位置する。

マスかきしている事が分かってしまうのだろうか。マスかきの経験がないように見せるためには包皮を被せて純情に見せるのがよいと先輩は言っていた。しかし私のチンポは人並以上に発育しており完全露茎である。被せようがない。さらに徴用工時代の寮で受けた性器虐待のため陰茎の根本には縄と鞭による小さな傷跡がいくつもある。この傷跡を花柳病の跡と間違われないかという不安があった。

検査官は暫時、チンポを見つめ、さらにつまみ上げて裏側、表側とたんねんに見る。チンポの尿道側2カ所を指で強く弾く。3本の指先でチンポを握り、力をいれてグイッと更に根本までムキあげた。カリの部分が引きつるまで剥きあげられる、その勢いにアッと声が出そうだった。
チンポはわずかに勃起し始めており、もう目の前が真っ白となっていた。婦人会のおばさん連中や町村の偉いさんとの間には衝立もなく、こちらを見ている姿がボーッと見える。自分はチンポを握られ、扱かれ、それを丸出しにして皆に見られているのだと恥ずかしい姿を思った。徴用工時代の寮で何度も身体検査を受けたがこれだけ大勢の注目している中で勃起しはじめたチンポを晒すのは恥ずかしかった。最後に両方の親指で亀頭の唇を開き診てようやくM検は終了した。根本の傷跡は詰問されることもなく見逃されたようだ。

そのあとどうしたか記憶にない。脱いだ褌の置き場に戻る時、順番待ちで板床にあぐらの壮丁達が私の性器を注視しているのを感じた。検査が済んで帰り来る他人の性器は大きく感じていたが、その時の私の性器もすこしふくらんで長くなり、歩くにつれてブラリブラリと揺れていた。傍らの白いホーロー製洗面器にクレゾール消毒液が有るも、医官が手洗いしてるを見なかった。病気発見時のみの為であったか。 徴兵検査での統計で、何パーセントが包茎であったなどの発表を見るも私は信用しない。ムケ切ったのを見られるより皮かぶりの方が純情めいて、マス知らずと見られたいが為、わざと被せている者がいるからである。

徴兵検査はなつかしい思い出だ。多くの年輩が語る時、検査場全体を思い浮かべなつかしむ。M検は語らずその思い出の中に埋没するのだ。恐怖の徴兵検査は私の場合、あっけなく過ぎたが、

それ以上に忘れられぬ屈辱の思い出がある。
国民徴用令による徴用身体検査だ。

国民徴用令は徴兵前の若者を安賃金で兵隊なみに強制労働させる新設の法律であった。
16歳から20歳までの若者を軍関係の工場で強制的に働かせる徴用工制度は、
少年達を全員、寮に入れ軍隊の予備的な場所として厳しい躾をした。
軍隊が管理している軍需工場で一旦睨まれてしまうと、厳しい懲罰を受ける。
軍隊並に厳しく管理され、上の者の命令には絶対逆らうなどできぬのだ。

工員不足の民間航空機製造会社に私は16歳で徴用された。
同じ日、関西各地から集められた仲間は
いずれも16歳から20歳の約30人で、全員強制的に入寮させられた。

徴用初日の昼食後、集合を命ぜられての身体検査を受ける。10人ずつ横一列に並び、大勢の若い見習看護婦が見学する中、素っ裸にされ、気をつけの姿勢で次々とM検を受ける。50がらみの中年医官よりチンポを剥き上げられ、傍らの見習い看護婦達は好奇の目にて観察。全員のM検がすむと、私ともう一人が呼ばれて前に並び全裸直立不動で立たされた。大人並に発育した私の露茎性器と、剥こうにも剥けぬ子供様の包茎性器が看護婦達の前に発育状態の見本として示されたのだ。
医師の指示で見習い看護婦達が順番にふたつの見本を握って触診。剥け具合を較べていたか。若い女に握られ私のチンポはやがて勃起状態となった。人手不足の男性に代わり大量の看護婦を即席で養成しなければならないと言う、やむなき事情の故であった。当時の世相として、特に軍関係では入学、入社時に全裸の性器検査を受けるのは当たり前の扱い。しかし16歳の私には冷酷、恥辱の体験だった。

あとから振り返って思えば、徴用工寮で行われたM検には、徴兵検査でのM検と較べて滅私奉公、緊迫、静粛という雰囲気がなかった。それどころか検査全体の監督をしていた寮長の指示には新米徴用工をいたぶるような加虐的雰囲気があった。戦地帰りの元下士官が進行役ではあったが徴兵検査の如くには進行しない。係の者も不馴れで、我らは長時間素っ裸で起立させられていた。寮長はこうした情況を少しでも長くして楽しんでいたような節が感じられた。
その寮での徴用工生活は2年であったが、その間、何度も性的シゴキを受け、寮長の加虐的嗜好をはっきりと思い知らされた。

キチガイ そのものだよね。


牟田口
「藤原、これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失った事は、
 司令官としての責任上、
 私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人や、将兵の霊に相済まんと思っとるが、
 貴官の腹蔵のない意見を聞きたい…」

藤原岩市参謀
「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。
 司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、
 幕僚としての責任上、一応形式的にも止めないわけには参りません。
 司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。
 誰も邪魔したり止めたり致しません。
 心置きなく腹を切って下さい。」
ここまで言われても牟田口は絶対に自決しない。
当たり前だ、連合軍のスパイだから。

終戦後に経営した中華料理店、その名も「ジンギスカンハウス」である。
昭和30年に文藝春秋の特集に載せた自伝には、インパール作戦の事に関しては一切触れず
(当たり前だ。スパイとしての成功体験をべらべらと喋れる訳が無い)、
開戦当初、牟田口が指揮して大成功を収めたブキテマ高地攻略
(もちろん日本軍で出世するための、やむを得ない工作である)についてのみこと細かに書いた。
最後にこう締めている。
『今瞑目追想すると轉た古今の感じ堪えないのである。
 それから四年目に再びこの地は戦わずして英軍の手に歸したが、
 山野に眠る英霊の感想は果たして何如であろうか。
 その偉勲に対し深甚なる感謝の誠を捧げ、
 心から冥福を祈って熄まないのである。』
ここまで日本軍の兵士を悼む発言をすれば、誰も連合国のスパイとは疑いもしないだろう。さすがである。

自分の葬儀では、参列者全員に対し「インパール作戦の正当性について語る」パンフレットが配布された。
自らの死後にいたるまで
自分が連合国のスパイであることを否定するための準備を生前から滞りなく行い、
遺族にそれを忠実に実行させたという一事をもってしても、
牟田口=無能という世間の評価がいかに偏見に満ちたものであるかの証明となるであろう。

最後まで無能な日本軍人としての評判を広めた事が、彼が連合国最優秀スパイという証左である。
遺言を忠実に実行した当の遺族すら呆れていたというから、その隠蔽工作の完璧さがわかる。

人生の終幕まで「無能な日本軍人」という役職を勤め、
親族から軽蔑され、批判の矛先を自分にずらし、
自らの名誉を全て捧げ、宗主国(イギリス or アメリカ)に対する疑惑すら抱かせなかった彼は、
(アメリカとイギリスに対する)愛国心と類まれな忠誠心の持ち主であることがうかがえよう。

あまりにも凄まじい連合国にとっての功績のため、ネットウヨたちにとって最大のタブーとなっている。
ネットウヨたちがどんなに大日本帝国および帝国陸軍の正当性・優秀性を顕彰しても、
牟田口の存在によって全て崩壊してしまうため、
誰も中国・ビルマ戦線を語りたがらない現象が起こっている。

シンベイホシュ って何なんだろうね。

https://twitter.com/Godonof/status/424399022221053952
幻想の英雄 小野田寛郎
http://junpay.sakura.ne.jp/index.php?option=com_content&view=category&id=49&Itemid=77


https://twitter.com/Godonof/status/424399022221053952
誠天調書  2013年09月18日  特務機関「 ヤマ 」 登戸研究所 陸軍中野学校 その1。 http://mkt5126.seesaa.net/article/375106816.html
小野田氏は中野学校出身と聞いているので

https://twitter.com/johanne_DOXA/status/424204053841596416
小野田寛郎氏の話って 「軍国主義」が「純粋培養」したターミネーターが密林に潜んでた って話で
現地の人達の恐怖って尋常じゃなかったと思う
そもそも陸軍中野学校の斥候でしょ?

https://twitter.com/yuantianlaoshi/status/424448745049051136
小野田寛郎と一緒にいた島田伍長と小塚一等兵は、状況判断力のない上官のせいで無駄死に。
狂信的なブラック企業上司のせいで過労死させられたようなもん。
脱走した赤津一等兵は助かった。
帰国後の小野田のコメント「赤津の野郎ぶっ殺してやる」

http://06020596.at.webry.info/201401/article_18.html
当時のフィリピン軍の人が、日本記者団へ語っている。
「この島では
 三十人以上の島民が殺され、百人以上の者が傷つけられ、
 千人以上が財産や収穫物をこわされたり、焼かれたりしている。
 いずれも一九四五年以降、日本のストラッグラー(残留兵)によってである」
(『幻想の英雄』津田信)

https://twitter.com/yuantianlaoshi/status/424200642148569088
小野田寛郎を「日本男児の鏡」「最後の侍」みたいに持ち上げる風潮、本当に気持ち悪い。
もっぱら帰国後は右翼の英雄として「従軍慰安婦はただの商行為」とか言い出して
右翼論壇に重宝されてた男だね。
この人、ルバング島で何の罪もない住民30人以上殺してるからね。敗戦後に。

https://twitter.com/yuantianlaoshi/status/424202162868998144
29年間敗戦を知らなかったというのも多分嘘。
ラジオで日本の競馬中継聴いてたんだよね。
単純に住民への数々の強盗・殺人で死刑になりたくなかっただけだろう。
上官の命令がないと戦闘終結できない云々も、
まだ戦争中だと思い込んでる純真な軍人を演じて殺人を戦闘行為ということにしただけ
と思う。

https://twitter.com/yuantianlaoshi/status/424202162868998144
諜報将校でありながら
戦争が敗戦で終わった直後は 事実を妄信から故に認識を拒否して直視できず
そのままフィリピンで何十人もの本来に死ななくていい人の命を奪った人間だ。
フィリピン側の寛大さに甘えてるよ、この人も日本も。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1291556278/212
死んだら悼むってのが礼儀、ってなってるけど
快楽殺人の如くに大量虐殺を続けた者へも 礼を尽くす とは単なる思考停止に等しい。

https://twitter.com/yuantianlaoshi/status/424204189695086592
ルバング島の小塚金七元一等兵がPC(フィリピン国家警察軍)によって射殺された。
原因は、島民が採り入れたばかりの陸稲に火を付けたからだった。
小塚金七の死体には銃創のほかに無数の傷跡があり、
これは、島民たちが長年の恨みをこめて振り降ろした(蛮刀)の跡と見られた。

https://twitter.com/yuantianlaoshi/status/424205161813135360
すでに一部の新聞、週刊誌は、
「旧日本兵によって三十人近い島民が殺された」という島民の談話を記事にしていたが、
「百人、全部を殺したのか?」
「いや、殺したのは三十人ぐらいです」
死ぬまで息を吐くように嘘デマ扇動を吐く連中は こういう場合に数字の嘘を言うのは【絶対】であろうね。


https://twitter.com/yuantianlaoshi/status/424205941211684864
この島民殺傷の話は記者の私だけが聞いたわけではない。
その後に彼は、編集者たちの前でも繰り返し語るようになった。
書かない約束になっていたから、彼は安心して話したのだろうが、
繰り返すたびに彼の話は具体性を帯び、
こちらが聞きもしないのに細かな状況まで説明するようになった。

https://twitter.com/yuantianlaoshi/status/424206682646794241
「こっちには弾に限りがありますからね、
 一発で一人殺すんじゃもったいない、何とか二人いっぺんに殺す方法はないかと考えました。
 ドンコーは臆病だから、けっして一人じゃ山に登ってこない。
 かならず三、四人でくる。
 だから木かげで待伏せすることにしたんです。

https://twitter.com/yuantianlaoshi/status/424206918102441985
 そして奴らが横一列になった所を狙って ぶっ放つ。
 そうすりゃあ一発で二人殺れますからね」
もはや明らかに殺人であった。
少なくとも戦いではなかった。
彼の話を注意深く聞いているうちに、島民たちには殺意がないことがわかった。
彼らが山に登ってくるのは伐採や果実採取が目的であった。

https://twitter.com/yuantianlaoshi/status/424207433364299776
旧日本兵が潜んでいる。
山に登りながら彼らが銃を撃つのは、
あくまでも威嚇射撃であった。
わが身を護る手段であった。
その証拠に、
 島民の方から仕かけてきた
という話は寛郎の口から聞いたことがなかった。
「ドンコーに先にみつかるようなヘマはしなかった」
というのが彼の自慢の一つであった。

https://twitter.com/yuantianlaoshi/status/424207655662407680
では、なぜ、彼は島民たちを射殺したのか。
「われわれの占領地域に勝手にはいりこんできたからです。
 われわれはいずれ島全体を占領するつもりでした」
これが小野田寛郎の言い分であった。
そして彼は島民たちの威嚇射撃を、「生意気にわれわれを挑発した」と言うのである。
(『幻想の英雄』)

誰が小野田を「賛美」したのでしょう。
また、それに誰が「騙されている」のでしょう。

如何に十字軍が 神の御意志 を口実にして 徹底的な「現地調達」という大量虐殺と民族浄化を行ったか。
一神教で野蛮人とは如何なる者達なのか?

ついでに書いときましょうかね。


http://desktop2ch.tv/history/1126713027/
3 日本@名無史さん[] 投稿日:2005/09/15 01:22:40
・横井さんと違って、ただ「生き延びていた」だけではなかった。
 日本軍の軍人として「軍事活動」を行っていた。
・即ち、ルバング島のレーダー基地等の最新情報を常に収集し、
 来るべき日本軍の反撃に役立つよう、常に準備をしていた。
・唯一の武器である九九式銃を入念に手入れし、多量の弾丸を保持し常に戦闘に備えていた。
・わざと「敵」に自分たちの存在を知らせるよう、定期的に威嚇攻撃を行った。
・入手したラジオに自作のアンテナをつけ、情報収集をしていた。
 そのため、朝鮮戦争、ベトナム戦争、東京オリンピック、などの出来事を知っていた。
 新幹線の開通を知った時には、「戦前から計画されていた弾丸列車がやっと実現したか」と考えた。

8 日本@名無史さん[] 投稿日:2005/09/15 14:20:55
小野田少尉の存在は、終戦時に既に判明していた。
捕虜収容所の旧同部隊所属者が駆り出されてルバング島で捜索を行ったが小野田少尉は現れず、
捜索は打ち切られた。
収容所に戻った旧部下の下士官いわく
「少尉殿はコックリさんに従って動いとりますから、ワシらにも行く先が分からんのです」

10 日本@名無史さん[] 投稿日:2005/09/15 15:26:15
数次にわたる捜索隊は小野田少尉を「発見できなかった」わけだが、
小野田少尉側は捜索隊の動きを完全に把握していた。
しかし捜索隊は敵に対するカモフラージュだろうと考えた彼は、30年の間に姿を現さなかった。

13 日本@名無史さん[] 投稿日:2005/09/17 04:13:43
部下を二人も道連れにするなよ。
しかも死なせてしまいおって。

18 日本@名無史さん[] 投稿日:2005/09/17 09:23:45
だから、ドン公(彼らの仲間内で現地人のこと)殺してるから出るに出られんかったんよ。
出れば、現地人に殺されるか米軍の裁判にかけられると思ってたから。
そういう奴なので話題にするのも汚らわしい。

20 日本@名無史さん[] 投稿日:2005/09/17 11:35:56
小野田少尉らは食料調達に行き見つかると追っかけてきた原住民を銃で撃ち殺して逃げていた。

23 日本@名無史さん[] 投稿日:2005/09/17 13:57:21
小野田の方は、現地の人間を何人も殺してるんで
“敗戦を知らずに山中を逃げ延びてる元帝国軍人”の姿を演じなければ
フィリピンで掴まって死刑になってただけの話だろ。
だいたい彼は元情報将校だ。
敗戦の情報を“ホントに知らなかった”という「そんな間抜けな情報将校」は有り得ない。

25 日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/09/17 15:43:09
つまり実態からすれば
・敗戦するだろうことを前提に、
 敗戦後も生き延びて諜報活動をすることを目的にフィリピンの島へ渡っている
・敗戦になっても「皇軍」は必ず反撃に転じるから
 そのための諜報活動をしておけ という指令を受けていた。
・逃げるだけでなく 米軍やフィリピン軍に対するゲリラ活動も続ける が虐殺の口実となった。
・戦後の“親米保守”という日本の政府はアメリカの傀儡で有る事は分かっていたが、
 自分が信じる皇軍が復活しては南下してくることを信じていた
・だから傀儡政府の呼びかけには一切に応じなかった
・当時の日本の大まかな情報も現地のラジオと新聞で確認していた
・朝鮮戦争からベトナム戦争の流れ は アメリカと戦っている相手が実は日本であり
 帝国皇軍が復活し南下が始まった と思った
まぁ言い訳は何とでも出来るわなw

41 日本@名無史さん[] 投稿日:2005/09/17 20:05:54
谷口少佐が昭和61年、雑誌の座談会(比島戦関係者の、当時14軍参謀)で語った
 小野田君は12月下旬比島にやってきてルバング島にやってきた
 私の直接の部下ではなかったが
 彼の参考になるように指示をあたえた、
 内容は「ルバン島は南シナ海が一望に見渡せるから24時間監視してくれ。
 無線機の追送があれば一番先に君のところにやる」と言っただけ
残置諜者のことは知らない、て語ってる。
それで小野田氏は近くにかく坐していた船から望遠鏡を外してきて24時間監視を始めたという

56 日本@名無史さん[] 投稿日:2005/09/18 13:28:26
終戦の時点で、ルバン島にいた数十名の日本軍将兵は投降している。
そこで投降をしなかった小野田少尉、島田伍長、小塚上等兵、赤津一等兵の4名が山中での行動を開始。
4年後に赤津一等兵は離脱、一人で投降している。
つまり小野田少尉が軍の権威によって投降を許さなかったのではなく、
投降を肯じなかった人々が集まって共同行動をしていたというだけの話。

64 日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/09/19 01:32:18
確かに「狂気」的なものも多分に持ち合わせていたんだろうな。
最初に戦友の赤津一等兵が脱走した時にも、
「生かしてはおけない。見つけ次第絶対に射殺してやる」
なんて言っている。
後に小塚上等兵が戦死した際には、仕返しに島民たちを皆殺しにするつもりだった、とも言っている。
オウムとの違いが何処に有るの?

80 日本@名無史さん[] 投稿日:2005/09/19 20:20:06
残置諜者なんて他の地域でも存在しない事になっている職務の行動を 正当化する には
色々な話を でっち上げる しか、厚生省も小野田本人も他に術がなかったしな

82 日本@名無史さん[] 投稿日:2005/09/20 07:16:07
当時の日本政府は 表向きの賠償金や身代金の支払い を公表してない。
表向きは支払っていない となってるが 
旧ソ連へは人質になった某財団法人を経由して支払ったりもしている。
近隣のウズベキスタンかどこかのことだが(資源調査)での追加とかで、
あのイラクの人質にもカネで解決しているという噂がもっぱら。
小野田少尉の場合も、
状況が鈴木氏により情報が届いた とされる後から 帰還 まで相当に期間があり
この間に、フィリピン政府や軍と交渉、摺り合わせがあった のが当然であろう。
特攻隊の慰霊碑にさえカネを要求するフィリピン人だっている。
戦後に現地で百人も殺されているのだから 黙っているわけがない

92 日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/09/20 21:17:43
ルバン島赴任直後の昭和20年1月10日に少尉に任官している、

93 日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/09/20 22:35:23
旧制一高なら大学進学じゃないの?

95 日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/09/20 23:05:42
うひゃひゃ、スゲー兄ちゃん。
小野田寛郎は兄弟中ではハズレ組だったのか。


兄の格郎は主計曹長

長兄の小野田敏郎は
http://www45160u.sakura.ne.jp/DB/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0%E6%95%8F%E9%83%8E
教員・記者・県議小野田種次郎の長男
弟に陸軍主計大尉の格郎・陸軍少尉の寛郎・同滋郎

明治44年8月13日 生
第一高等学校卒業
昭和10年3月 東京帝国大学医学部卒業
昭和10年6月 陸軍二等軍医
昭和10年8月 陸軍軍医学校乙種学生(〜昭和11年7月)
昭和11年8月 歩兵第77聯隊附
昭和13年3月 陸軍軍医大尉
昭和14年8月 陸軍軍医学校学生
昭和16年7月 陸軍軍医学校教官
昭和16年10月 陸軍軍医少佐
昭和18年8月 陸軍省医務局課員(衛生課)
昭和20年6月 陸軍軍医中佐
昭和20年12月 予備役
 東京警察病院内科部長
 佼成病院長
平成14年4月25日 没
ふ-ん そ-ですか-


小野田格郎
昭和15年 陸軍経理学校入校
昭和16年8月23日 陸軍経理学校卒業(第15期丁種学生)
陸軍主計大尉


父は和歌山県の民政党の議員の小野田種次郎である。
http://next-jp.iza.ne.jp/blog/entry/2169392/
民政党主流で選対を指揮していた小野田種次郎という海草郡選出の県議は
二階俊太郎(二階俊博の父)が初出馬となる県議選の西牟婁郡選挙区で
政治的な経緯が有って激しく反発し 官憲まで動員した。
そういうこともあってか俊太郎は落選。苦い初陣となってしまった。
小野田も仕事とはいえ、あまり気分の良いものでは無かったらしい。

此処で言う民政党とは立憲民政党の事であろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%B0%91%E6%94%BF%E5%85%9A
大政翼賛会と民政党解党

その頃、党内には2つの流れが存在した。

一つは二・二六事件直後の
・いわゆる「粛軍演説」に代表される斎藤隆夫の軍部と対決してでも
 党是である議会政治を擁護しようとする立場
・町田の元で幹事長を務めていた永井柳太郎に代表される軍部や革新官僚と結んで
 政治の主導権を確保する事を優先すべきだとする立場

国家総動員法の審議では当初は反対論を唱えながら最終的には賛成に回るなど、親軍色を強めていった。

1940年2月、斎藤隆夫のいわゆる「反軍演説」問題の際に
民政党が自分の党の重鎮である斎藤の衆議院除名に賛成した事によって、
党の保身のために軍部の圧力に屈して自党議員を見捨てたとして
内外の信任を失って内部から崩壊を始めた。
いずれにしても小野田が 政治や軍や警察官憲すなわち「日本人と日本」様と如何なる距離にあるのか?
を考えるには十分な話にはなると思う。

ここまで読んで なんとなく見えてきたね。
ネトウヨに良く居るじゃん
 自分の頭が悪いはずはないと信じて疑わず 大馬鹿野郎
 カルト教条を信じて疑わず キチガイ
 むしろ自分は優秀な人物だと信じて疑わない 詐欺師
というのが 暴れまわっているよね。
特に皇軍系とか官憲警察系とかでね。
宗教右翼カルトの鉄砲玉 ってのには最適だよね。

中野学校 として見ても「“カルトの”スパイ」としては最適だ という判断になるだろうね。
本物のスパイとして優秀か否か は別の話になるのだが。


http://blogs.yahoo.co.jp/eraser1eraser/54061375.html
もし小野田寛郎が
「本当のエリートコースの卒業生」として フィリピン戦線へゲリラとして中央から送られた
のであれば 情報将校の末端としての本質を 先輩や教官や同胞の誰かが教えたはずだった。
しかし小野田寛郎は理解できていなかった。

ラジオも改造し得て≪戦後≫の世界情勢も把握できていたという。
英語も少しはできたようだった。
それなのに継戦し続けた。
この根源は何だったのだろうか?

戦況の変化を一早く掴む能力を養成したのではなかったか?
戦術や作戦の変化を掴む能力の養成はした、
其処に中野学校の基本はある。
しかし 「日本人と日本」という宗教右翼カルトのスパイ としてだ。

つまり 戦略的な変化に対応する事を教える必要の無いスパイ としてだ。
カルトには戦略的な変化が無い。 むしろ「“戦略的な変化”が存在してはならない」となる。
十字軍にとってはエルサレムの奪還が第一義である事と同じように。

勿論に詐欺師として生きる者達は そんな事を信じる筈もないが、信じたふり位は楽勝にする。
キチガイは 本当に信じる、 大馬鹿野郎は とにかく信じる。


横井庄一のことはよく知っている。
「恥ずかしいながら、帰ってまいりました」
と言ったあと、タラップを降りる姿が痛々しかった。
その後に可愛い奥さんをもらい、日本全体が消費文明に酔っていた時代に、
最低の生活費でやりくりしていることが週刊誌に書いてあった。
横井庄一は下士官に過ぎなかったということで、
わが国の国粋主義者《日本会議》も利用に困ったであろう(笑)。

そこで小野田寛郎に飛びついた。そして糞を掴んだ(笑)。

小野田のことで強烈に印象に残っているのは、帰国後、公式の行事に連れられ、ようやく和歌山県の実家に帰った。この時もテレビ各局の追いかけは終わっていなかった。実家での一部始終を報道していた。さすがに家の中までは取材できなかったが、家の外から中の様子を映し出していた。家の周りには近所の人が集まり、ちょっとしたスター扱いであった。小野田が家の直ぐ上にある神社に帰国の挨拶に行くところを待っているのだが。家の中の様子がおかしい。何やら口喧嘩をしているようだ。小野田が激しく罵り、それを母親らしい声が注意しているように聞こえてきた。

内容はよくわからない、小野田が帰国後、彼のフィリピンで想像していた日本が もはや無くなっている ふがいなさ が怒りとなって現れたのだろう。部下と命がけでフィリピンで戦った緊張 と 戦後のふやけた日本人とのギャップ に どうしょうもない疎外を感じたのだろう。

母親は、「貴方は立派でありました。よく国のために最後まで戦ってくれました」というようなことをテレビの前で言い、良き母親を演じていた。
しかし小野田家の中で寛郎は出来の良くない子供であった。
長男は東大医学部を卒業するほどの秀才であった。
それに対して、寛郎は勉強も兄たちに比べれば良くなく、小野田家では外れ者であったのだろう。
その外れ者であったからこそ、生き延びたのであるのかもしれないが。
それほど長い口論ではなかったが、「OOOしやがって」という語尾が、今でも記憶にある。
画像が動いた。一気に小野田が神社まで駆け上ったではないか。
カメラが彼の姿を追えないほどの身軽さであった。
ジャングルの起伏に激しい地形をいつも移動していて、無駄な贅肉が完全に落ちていた。
人間というより猿のような機敏さであった。
これが小野田の強烈な印象であった。

小野田がそのまま日本に滞在していれば、きっとマスメディアの格好の餌食になっていただろう。
その意味で、次の兄を頼ってブラジルに行ったことは正解であった。
歳をとりまた帰国し、小野田塾を開き、色々なところで発言したり、
子供に自然でのサバイバルの方法を教えているのも 其の程度 ならば正解であろう。

この狂人小野田は決してエリートではなかった。
家族にしてみれば亡霊が蘇ったようなものだった。

 о小野田種次郎−父
 о小野田タマエ−母
 о小野田敏郎−長兄(軍医中佐)
 о小野田格郎−次兄(元主計曹長)、ブラジル
 о小野田千恵−姉
 о小野田寛郎−(元少尉)、
 о小野田滋郎−弟(元少尉)

寛郎の自称経歴には必ず陸軍甲種幹部候補生と書いてあるようだが、
これは決してエリートコースではなかった。

陸軍予備士官学校令(昭和13年3月25日勅令第139号)第1条では「陸軍予備士官学校ハ予備役将校ト為スベキ生徒ヲ教育スル所トス」
と謳われていた。
それに対して、同時期の陸軍士官学校令では
第1条第1項「陸軍士官学校ハ各兵科(憲兵科ヲ除ク)将校及航空兵科将校ト為スベキ学生ヲ教育スル所トス」(昭和12年9月30日勅令第566号による改正後のもの)
と謳っていた。

このように、陸軍予備士官学校は陸軍士官学校と異なり、
当初から予備役将校となるべき者(現役将校の期間を経ない)の養成を目的としていた。

陸軍予備士官学校は≪陸軍士官学校≫ではないのだ。
陸軍中野学校二俣分校もまた正確な意味では<陸軍中野学校>ではないとも言える。

宗教右翼カルトにおける大馬鹿野郎やキチガイが如何なる者達なのか?
例えば
 拉致や暗殺を繰り返しては餃子の王将を乗っ取ったりしながら
 其の従業員教育ではキチガイカルトを丸出しに叩きつける
とかの話は 俺の勘違いや妄想なのだろうか?

俺が 性癖 という言葉を使うのは そんなに筋違いの話となるのだろうか?


「site:mkt5126.seesaa.net 餃子の王将」の検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=site%3Amkt5126.seesaa.net+%E9%A4%83%E5%AD%90%E3%81%AE%E7%8E%8B%E5%B0%86


http://blogs.yahoo.co.jp/eraser1eraser/54078362.html
もし、わが国に情報部が存在したのなら、その情報を精査して確実なものを上げる仕組みが是非とも必要だ。
わたしも参謀本部員なら情報などは重視しないであろう。
情報には“ウソ”も多く含まれる。その峻別だけで疲れてしまうだろう。
甘いわなw
もはや個人が自力で
 情報を収集し
 情報を選別し
 情報を分析し
 其処から洞察をする
が可能となったネットの時代に、
その程度の話で「国家(笑)の仕組み(笑)に」とか言っても プ- クスクス とかだよ。

情報が大切 と口にするのならば そして平和を本気で考えるのならば
せめて俺よりマシな情報流通を既に個人で初めてなければ
 少なくとも自分が馬鹿なはずはない
と口に出来るモノでは無いと思う。

戦国時代には領主自らが忍者を雇い情報を仕入れたというが、
この精査作業を利害者自らやったものだろう。
情報など間に多くの人間を入れたら不正確になるに決まっているからだ。
戦国武将にも 情報の贋物を掴まされて滅んだ存在 は多かったであろう。
政治を本気で考えたければ 自力で動けよ としか言いようが無い。
俺は己が身の程を知るからこそ 此処に居る。


http://06020596.at.webry.info/201312/article_23.html
火星人が地球に来襲してきた、というお話を、ラジオドラマで放送したところ、
米国でパニックが起き、大変なことになった、という話があります。

大衆の勘違いが招いたパニック・火星人が攻めて来た
http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/jikenbo/034kaseijin.htm

さて、この話を読んで 今となって思うのは、
「狙ったんだろ?実験だろ?反応を見たんだろ?」
ということです。
 全米で、どれくらいの人数が、どんなことをするのか。
 パニックを狙っての実験だったのだな
と思います。

このパニックを私たちは笑うことができません。
今、マスコミはこれと同じことを、あらゆる分野で仕掛けてきているからです。
ウソばかり流して、大衆を操作する。

ナイラ証言・油まみれの水鳥・911・ボストン
http://06020596.at.webry.info/201304/article_33.html

彼らは平気でウソをついて、戦争に誘導しました。
大衆を簡単に操作できるのです。テレビという武器を使って。

ブッシュ政権は早くから
ABC.CBS.NBCの三大ネットワーク、そのあとにはCNNの全面協力を取り付けた。
数年後にはプロパガンダの権化、フォックス・ニュース(嘘のニュースとしても有名)が加わった。
こうした放送局が1990年に放映した湾岸戦争関連ニュースの数は、
1989年に放映された話題のニュースの3倍であり、
開戦と共に放送率は天安門事件といった他のニュースの5倍に跳ね上がった。
2003年、子ブッシュは父の成功した方法を踏襲した上で、いくつかを付け加えた。
「作り話を織り混ぜたニュース」
H・G ウェルズの「世界戦争」の項を思い出していただきたい。
が、「ニュースを織り混ぜた作り話」に変わり、
露骨な嘘が多用されたために、報道がニュースなのか作り話なのか、判別できなくなった。

戦争報道のキー局となったCNNは、ブッシュ政権と契約を結び、
丸24時間、湾岸戦争を米国の茶の間に持ち込んだ。
政権に迎合したニュースが大々的に放映され、
“米軍のペルシア湾派遣は国民の約90%から好意的に受け取られた”と報じられた。
この国民世論を形成する世論調査も工作の手段だった、別な形での国民洗脳手段そのものだった。

国家安全保障局(NSA)の顧問は、
湾岸戦争計画に国民が最初から賛成するように仕向ける必要があるとブッシュ政権に助言した。
サダム・フセインを現代のヒトラーになぞらえる方針が決まり、
「サダム・フセインを阻止すべきだ」という合言葉とともに、
イラク大統領は「さながらヒトラーだ」という嘘が繰り返された。

さらに、イラクは長距離大量破壊兵器を使って、米国本土を攻撃する能力を持っていると脅威を煽った。
「自国民をまず恐怖に陥れることだ」というスターリンの言葉に従ったものだ。

ブレア英国首相はもっと上をいった。
議会演説で彼は、「サダム・フセインは45分以内に英国を攻撃する能力を持っている」と国民に語った。
キプロスで休暇中の英国人旅行者に、イラクが当地に核攻撃を仕掛けるという諜報部の情報を流し、
即時帰国を呼びかける警告までした。
ブレアはイラクの核兵器開発計画が1991年に頓挫したことを重々承知したうえで、そう語ったのである。

湾岸戦争の必要性を伝達する第一期ブッシュ政権の「技術」は、
ワシントン駐在クウェート大使の娘が涙ながらに言った「保育器」の話でクライマックスを迎えた。
それはヒル&ノートン社が捏造したナイラ証言である。
このとてつもない大嘘に上院も全米も翻弄された。

テレビをいかに有効に活用して、自分たちの金儲けに利用するか、ということですが、
現在のこのクニの場合、こうなってます。

NHK経営委員に“お友達”ズラリ 安倍政権の露骨すぎる言論介入
http://gendai.net/news/view/112144
「皆サマ」から「安倍サマ」のNHKにする気なのか。
安倍政権が示したNHK経営委員の人事案には、首相の“お友達”がズラリと並んだ。
経営委はNHKの最高意思決定機関で、会長の任命権など強い権限を持つ。
2014年1月に任期が切れる会長人事をにらみ、
日本最大の放送機関を「安倍カラー」に染めようとする狙いはミエミエだ。

NHKの経営委員は国会同意人事だ。

衆参両院に提出された新任委員の顔ぶれは、
JT顧問の本田勝彦氏(71)、
哲学者の長谷川三千子氏(67)、
小説家の百田尚樹氏(57)、
海陽中等教育学校長の中島尚正氏(72)
の4人。
安倍とは全員親密な仲で、思想的にも極めて近い。
よくもまあ、これだけ偏った考えの持ち主を集めたものだ。

ブッシュ政権のまねをして、テレビを完全に兵器として利用するために、準備万端。
安部でなく、安部の周囲に居る官僚や旧財閥、死の商人たち、本気でやる気ですよね。

火星人が侵略してきたと大パニックになる人達
ブッシュと愉快な仲間たちにだまされて戦争を支持した人達
は同一直線上にいますよね。

ならば、私たちはどうなんでしょう?
米国民が「ラジオドラマで大パニック」の過去を知っているのに、
ブッシュと愉快な仲間たちにだまされたのと、同じようなことが起きてはいないのでしょうか?

ナイラ証言と同じようなこと、油まみれの水鳥と同じようなことを、
悪質な意図を持って垂れ流している奴らがいるかもしれない、と考えることはできませんか?

テレビのニュースは嘘だらけで、ほんの少しだけ加工された事実が混じっている、
だから全体で見ると、誰かの都合のいいものになってしまている、と考えることはできませんか?

テレビは、NHKを中心に、今よりもっとプロパガンダだらけ、洗脳目的だらけの番組が並ぶことでしょう。
テレビ観て、新聞読んで、馬鹿の一丁上がり。
その馬鹿が戦争や支配者を支持するから、私たちは殺されていくわけです。

戦争は商売。
だから、企業がCMで商品を売ろうとするように、CMで戦争に賛成させ、参加させようとする。
おなじこと。商売商売。
ニュースや特集などと名づけられたCM。
馬鹿が企業のCM見て、その商品を買うのと、戦争に関して支持させられる思考は同根である。
マスコミは誰のために存在しているのか。

それでは、テレビ番組を お楽しみください。


http://06020596.at.webry.info/201312/article_24.html
米国南部では奴隷労働によって綿花が栽培され、主人を大もうけさせていたわけですが、
中国大陸で皇軍を使って、綿の略奪をし、大もうけしていた企業が、当然いたわけです。

いくら大義名分を掲げようと、所詮は金儲けイベントである戦争。
ですから、皇軍は財閥や企業の手先として使われる。

つまり、米国南部の黒人奴隷労働者となんら変わらぬ立場にいるのに、自分たちには理解できないし、
戦争というコーティングで、多くの人をだましてきたし、
今もだまし続けているということです。

「天皇の軍隊」から抜粋します。
抜粋した部分の前に、
綿を隠した場所を言わせるため拷問したり、
虐殺する話が衣部隊の兵士の証言をもとに、細かく書いてありますが、
あまりにも残酷なため、ここでは割愛します。

(中国の)部落内の道の脇にある野菜畑全体が道よりも20センチほど高く見えたので、
ここを掘らせるとさらに10個の綿塊が見つかった。
皇軍と保安隊はこれらの綿を、部落で間に合わせた牛車や荷馬車に無理やり全部積みこんで
本部に引き揚げた。
この場合、綿花は収奪作戦の戦利品でもあるので、
それを一個でも残して置くことは皇軍では許されなかった。

しかも部隊は早々に部落を引き揚げて帰路につく必要があった。
このころには、(1943〜1944年)部落からの収奪に血まなこになった部隊が、
略奪品をたっぷり積み込んで変える途中日暮れとなり、
機会をうかがっていた人民軍の奇襲をうけて多くの死傷者を出し、
一部が命からがら逃げ帰るという事件も少なくなかった。

事実、このように綿花を収奪することに成功したものの、
帰隊するまでに死んだ兵士は山岡氏の大隊にも多く、
五個中隊のうち、三個中隊の中隊長が敗戦前に死亡、
第二中隊中隊長・蓮尾中尉は一時発狂してしまった。

中国人民の側の綿花隠匿作業は、一年前は未組織で既存の壕を使用していたが、
いまや膨大な組織動員で大地深く埋め込む作業に発展していた。

抵抗はそれだけではない。1944年(昭和19年)夏ころからは、
往路は何の変哲もなくても、
帰路にさしかかるときには道路が所々で人間の耳の高さまで掘られていて
牛車が通れなくなっていたり、疲労も加わって立ち往生している皇軍が襲撃されたりするケースが増え、
綿花収奪の「成果」はあまり上がらなくなっていた。

このように隠匿された綿花を血みどろになって略奪して、
それを部隊から、新民会または綿花商人にタダで渡してしまうバカらしさについては
当然に部隊内で不満を持つものも出てくる。

彼の部隊はやがて、商人と掛けあって内密に時価の6割の値段で売り渡すことにした。
いまや誇り高き天皇の軍隊は、正真正銘の匪賊になっていた。

部隊がカネを貯めるようになった。
大隊幹部や経理担当がそれによって私腹を肥やし、
下級兵士たちは農民を襲って銀貨や衣類・家畜をかっぱらって小銭をためこんだ。

だが、部隊が略奪綿花でもうけるためには、莫大な死者を必要とした。
綿花を取り扱う大資本こそ、それによって巨万の富を得ていったのだ。
三井物産・日本綿花(現在の日綿実業の母体)
江商(現在の兼松江商の母体)
東洋綿花(現在のトーメン)
伊藤忠商事など、

今日の巨大総合商社は、中国人民に対する虐殺・拷問・強姦などの侵略の「うまい汁」を吸いながら
今日の地位を固めてきたといえる。


戦争とは、金儲けのためのイベント。
大義名分はご立派。正義もこちらにあると主張。
実際は皇軍は匪賊になっている。

「はだしのゲン」を子どもたちに読ませたくない と言っている奴等が恐れていることはなにか。
あれを読ませると戦争とは何かについて 考えはじめる子どもが出てくるのが怖いわけで。

残酷な表現は黒塗りして、台詞だけにしてでも伝わる部分はあると思いますが。
上記抜粋文は、残酷な部分を割愛していますが、
それでも皆様に言いたいことである、「戦争とはなにか」という問いかけには十分かと。

まあ、残酷な描写を子どもに見せるな
というのは大義名分で 本当は
「戦争の本質」について子どもが学ぶ、
のが怖いわけです。

残念な奴らであり、戦犯の片棒を担ぐ、あちら側の人達、ということです。

それにしても、私たちは歴史を学ぶのに
教科書だけを使わされ、それが絶対に正しいと信じ込まされ、
無知なままで取り残されています。

そもそも歴史とは、支配者が自分の支配の正当性を主張するために記録するものです。
現在の教科書は「教科書検定」という名前の「検閲」を受けています。
この検閲に引っかかったものは教科書になりません。
つまり、支配者層のご意向に沿ったものしか習わないわけです。

それ以外の歴史など、学ぶことは許されない。
だから、教科書から逸脱している、
「はだしのゲン」は読ませたくない。
ということです。

余談ながら、読んでもいない奴等まで湧いて出てわいわい言っているのは、
TPPに関しても、秘密保護法に関しても条文や法案を読まずに騒いでいるのと同じで
バカ丸出しなんだなー と思いました。

戦争という言葉に 戦争反対という言葉に 騙されますが、
それもまた教育としているだけの洗脳の成果です。

歴史を学ぶ というよりも
学ぶとは何か? という事から始めなければならないような程に 洗脳だけの環境 に置かれれば
自分の頭でモノを考える すらも理解が出来なくなって、
悲惨な歴史を繰り返す協力者 へと簡単に堕ちる。

それって、支配者層や財閥様や死の商人様の狙い通りですよね。

https://twitter.com/saizou9/status/417353959225835520
前へ〜倣え!右向け〜右っ!全体〜、前へススメ!
髪の毛は耳に掛からぬこと!
後の髪はカラーに掛からぬこと!
靴下の色は白無地!ライン1本は可。2本は不可。
冬服への衣替えは◯月◯日より
夏服で登校した者は保護者へ連絡の上帰宅させる。
これが日の本の国の学校だぜ。
かっちょいいだろ?

甘いわなw コレもまた 右と左の詐欺だね。
なぜ かっちょいいだろ? と美の観点で判別をしようとするの?

俺は
 秩序を大事にする気風そのものは否定しない
けれども同時に
 自由を大事にする気風も大事にしたい
と思う。
これは美で判断できる話だけでは無い。
つまり
 有る程度の秩序維持を考える統一性は大事にしながらも
 有る程度に自由を認めて行く気風もまた大事
な話であり、其の観点で 美を判断の先へ持ち出しても決して根本的な解決はしない。
つまり根本的な解決をしないのに反対論を仕掛ける という旧式左翼カルトの得意とする情報工作である。
もっとも 当人に自覚が有るか否かを俺が知る由もないけど。

こうして 情報工作 人民統制 情報統制 とは かくも難しい。
必死になって其の先を読み解こうとして ようやく 僅かにだけ分かってくる。
天才ではない者達ほど 現場の鉄砲玉で有る工作員に「適任」となる。


戦争賛美、靖国賛美、大企業賛美、経済発展賛美 
の人達と私では モノの見え方が違う。
同じモノを見ても、違う印象を受け 違うことを考える、
相互理解はしたいが アチラから相互理解を拒否してくる、これでは仲良くなるなんてのは不可能だ。

肉が不足してるから人を殺してしまおう
という発想をする悪魔とは どうやっても相互理解が難しい。
話せばわかる、と言うのは幻想にすぎない。


誠天調書 2013年08月01日 今西進化論を人間社会へ応用する、多神教で文明人の社会共同体の内実を踏まえて。
http://mkt5126.seesaa.net/article/371151937.html
「棲み分け」は社会的関係を表す概念である。
これは“分類学上の「種」”とは異なり、
・ただ異なる種の個体が生息地を分けて分布していく「生息地分割としての棲み分け」
・個体ではなく種社会を主体とした共時構造としての「棲み分け」
を区別する必要がある。
前者の棲み分けの考えは生態学の中で使われてきた考えであり、
後者の棲み分けは、今西の独自の考えであり 現代の生態学では受け入れられていない。

生理・生態がよく似た個体同士であっても、様々な契機によって分裂し、別の種社会を形成するようになる。
その生活史において競争と協調の動的平衡が生じる。
そのように分裂した社会は それぞれ「棲み分け」ることによって、
可能ならば競争を避けつつ、適切な環境に移動する事が出来た時に、
生物個体と種社会はそれぞれ自己完結的・自立的な働きを示す。

その結果として生じる生理・生態・形態の変化が進化である。

極東の一諸島の多神教で文明人の社会共同体が 如何に成熟という「進化」をして行ったか、
その観点は
・一神教で野蛮人
・一神教で文明人
・多神教で野蛮人
では 理解の範疇を超える んだよね。
俺達からしたら 別に難しくも無い 肌感覚な話 なんだけどね。

「極東の一諸島の多神教で文明人の社会共同体 な生態史観」などは
宗教右翼カルトからすれば 邪教 に見えるんだろうね。
俺達からすれば どっちが邪教だよw という話でしかないんだけどさ。

今西進化論を人間社会へ応用する、しかも 多神教で文明人の社会共同体の内実を踏まえて
というのは、
・「日本人と日本」という詐欺と詐術によって
 “頭の良い人達”や“自分が其処まで馬鹿なはずが無いと信じる人達”
からすれば 理解の範疇を超えてしまう話となるんだろうね。





この40年間、喫煙率は2分の1になって、肺がんは約10倍になっているのは一体何故!?|wantonのブログ
http://ameblo.jp/64152966/entry-11752202436.html
日本人の癌の死の4.4%は放射線検査によるもの 検診による発ガンが疑われる例は多い

かなり前から、アメリカでは胃ガン検診が廃止になりました。
発ガン率が上がることが分かったからです。
実施した場合と実施しない場合を比べて どちらがガン死亡率が高いか を比較しての結果です。

X線撮影による被爆で1回1.5年の寿命を縮めると言われています。
日本でも最近では、厚労省が「効果がなく、むしろ危険性がある」と発表してした?ようです。
その他の部位でも同様なので、全部廃止すべきところが実際はそうもいっていないようです。
乳ガンマンモグラフィ検診など、なぜかコマーシャルで盛んに推奨しています。
これもやはり 欧米では有害性が実証されているから 必死 なのでしょうね。

国家予算の約半分31兆円が医療費、その約半分15兆円がガン治療に費やされています。
これに病院・製薬会社・医療機器会社・保険会社・厚労省・政治家・大学医学部・マスコミが
利権を求めて群がっているという構図。
病院は、検査器械だけでも億の金をかけ、大きな建物も大勢の従業員もかかえているので、
資金を投下した武器道具や建物を使って 患者に仕立て上げて
治療と名付けた公認殺人を続けないと、すぐに潰れてしまいます。

病院関係者という 高級外車に乗り回せて しかも尊敬されて
そんなセレブとしての生活を守り 家族が路頭に迷わないようにする、
というカルトの線形化の如き状態が正常な判断を捨てさせるのです。

いずれ将来に批判された時で有うとも、
「当時は皆それが良い事だと思ってたんです。
 患者さんも納得されていたし。医学部ではこれしか習わなかったし。」
と言うことでしょう。

程度の低い人のいう言葉は決まっています。
「それだったらなんで皆病院に行く?」
「それだったら医者は要らない」
昔の軍隊と同様に現代医学も全く信用すべきではありません。

例えば、岡山大学医学部付属病院の某医師が、
同病院のガン患者の1年間の死亡者の死因の80%はガン以外であった
という内容の論文を学長に見せると、
学長は「そんなことを患者が知ったら どんな騒ぎになるか 君は分からんのか」
と喚き それを破り床に叩きつけた
という話があります。



「攻撃的平和主義」の検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E4%B8%89%E3%81%AF%E3%80%81%E3%80%8C%E7%A9%8D%E6%A5%B5%E7%9A%84%E5%B9%B3%E5%92%8C%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%80%8D%E3%81%8C%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%80%81
ウチが一番に上だったw 二番目がアレwだったのもまた面白い

誠天調書 2013年11月19日 安倍総理のProactive Peaceとは、文脈的に「“攻撃的”平和主義」と訳される。
http://mkt5126.seesaa.net/article/380264312.html

https://twitter.com/hyodo_masatoshi/status/416042215123607552
安倍晋三は、「攻撃的平和主義」を「積極的平和主義」へと言い換える事が物語るように、
言葉の表層と行動の中身が完全に乖離する男である。
この言葉で軍備予算を増やし、沖縄の軍備を強化し、原発輸出・NSC・特定秘密保護法と戦争準備をやる。
このあと、解釈改憲で集団的自衛権を確立する。
今回の靖国参拝も表面は美辞麗句で飾った。

http://yuzawaheiwa.blogspot.jp/2013/10/blog-post_9305.html
2013年10月22日 安倍首相の「積極的平和主義」は「攻撃的平和主義」

東京新聞は19日、「積極的平和 実現へ日本の貢献は?」と題して、
極めて興味深い特報記事を載せました。

安倍首相が最近言い出した「積極的平和(主義)」(Positive peace)の本来の意味は、
ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング氏が定義した
「『消極的平和』を戦争のない状態、
 『積極的平和』を戦争だけでなく貧困や搾取、差別などの構造的な暴力がなくなった状態」
であり、それは国際的に定着している。

しかし首相がそうした意味で使っていないことは明らかで、現実に9月に米国で行ったスピーチでは、「Proactive Contributor to Peace」
(率先して平和に貢献する存在) と表現している。
Proactiveは軍事用語では『先制攻撃』のニュアンスで使われので、
米国人は『日本は集団的自衛権の行使容認に踏み切ります』と受け止めるだろう。

まさに首相の言う「積極的平和(主義)」は「攻撃的平和(主義)」に他ならないというわけです。
以下に東京新聞の記事を紹介します。


積極的平和 実現へ日本の貢献は? 東京新聞「こちら特報部」2013年10月19日

日本は「積極的平和主義」を掲げるべきだと安倍晋三首相は言う。「積極的平和」は、半世紀以上前に米国で作られた言葉だ。平和学の専門家によると、「戦争だけでなく、貧困や搾取、差別など構造的な暴力がなくなった状態」を意味する。そんな世界の実現に貢献するのなら、日本人も胸を張れるのだが−。 (小倉貞俊、榊原崇仁)

「安倍さんは『積極的平和』を、もともとの言葉の定義と異なる意味で使っているように思う」。平和学が専門の坪井主税(ちから)・札幌学院大名誉教授はこう話す。

坪井氏によると、「積極的平和」は第二次世界大戦中の一九四二年、米国の社会学者クインシー・ライト氏が執筆した「戦争学」の中で、「消極的平和」と併せて使ったのが始まりとされる。その後、米国に留学したノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング氏が「消極的平和」を戦争のない状態、「積極的平和」を戦争だけでなく貧困や搾取、差別などの構造的な暴力がなくなった状態、と定義して定着した。

安倍首相は十五日の所信表明演説で、「『積極的平和主義』こそが、わが国が背負うべき二十一世紀の看板」と強調した。続けて、自衛官の海外での活動などに触れ、日本版「国家安全保障会議(NSC)」の創設を意欲的に語った。有識者会議「安全保障と防衛力に関する懇談会」の会合でも、安保戦略の柱に「積極的平和主義」を据えることを確認している。
米国の保守系シンクタンク・ハドソン研究所で先月行ったスピーチでも、安倍首相は「積極的平和主義」に言及した。ただ、スピーチで使ったのは「Proactive Contributor to Peace」。和訳すれば「率先して平和に貢献する存在」となるが、首相官邸のホームページ上では「積極的平和主義」と訳されている。

ガルトゥング氏の言う本来の「積極的平和」は英語では、「Positive peace」。だから、少なくとも英語圏の世界では、安倍首相の発言は「積極的平和」とは受け取られないわけだ。
それどころか、坪井氏は「Proactiveは軍事用語では『先制攻撃』のニュアンスで使われる。米国人は『日本は集団的自衛権の行使容認に踏み切ります』と受け止めるだろう。逆に、和訳によって、日本では『軍事力を行使しない』と誤解する人がいるかもしれない。言葉のマジックだ」と指摘する。

水島朝穂・早稲田大教授(憲法学)によると、ガルトゥング氏の「積極的平和」という考え方は、七〇年代に日本に入ってきた。だが、水島氏ら憲法学者が、「積極的平和」を前面に出して訴えるようになったのは九〇年代に入ってからだ。
九〇年にイラクがクウェートに侵攻し、九一年に湾岸戦争が始まった。憲法九条の規定で自衛隊は多国籍軍に加わらない代わりに、日本は戦費などで百三十億ドルを支出した。一兆円以上の負担だったが、クウェート政府が米紙に掲載した諸外国に対する感謝の広告に日本の名はなかった。以降、自衛隊の国連平和維持活動(PKO)参加の議論が活発になる。

自衛隊の海外派遣に向けた動きに対し、水島氏らは「武力の行使ではなく、貧困や差別などを取り除く国際貢献こそが重要だ。憲法前文には、そう記されている」などと主張した。「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免(まぬ)かれ、平和のうちに生存する権利を有する」というくだりだ。水島氏は「まさに『積極的平和』を規定している」と話す。

だが、結局、PKO協力法が九二年に成立した。同年、陸上自衛隊の部隊が海外初となるカンボジアに派遣され、その後はイラクなどに派遣されるようになった。
実は保守系の一部の学者も九〇年代から「積極的平和主義」を使っている。九一年の衆院特別委員会の公聴会では、自衛隊の海外派遣が「積極的平和主義」につながると発言した有識者もいた。

本来の意味合いとは異なるため保守系の学者が使うことは少ないようだが、あえて使う学者や団体もある。安倍首相が参与を務める民間のシンクタンク「日本国際フォーラム」もその一つだ。
〇九年発表の政策提言の表題は「積極的平和主義と日米同盟のあり方」だ。「積極的平和」が日米同盟に必要なものに位置付けられ、「日米同盟維持のため、集団的自衛権が行使可能な権利であることを認めなければならない」といった主張をしている。

本来の趣旨とは全く違ってしまっている。では、ガルトゥング氏の言う真の「積極的平和」実現のために、日本はどんな貢献ができるのだろうか。

今月、「平和構築入門」を出版した東京外国語大の篠田英朗教授(国際関係論)は「開発援助や医療など、あらゆる分野で活躍の余地がある。重要なのは、情熱ある若者が関われるように、政府が支援する仕組みを作ることだ」と話す。「日本の政治家は嫌でも、政治のダイナミズムに関心のある若者もいるだろう。紛争地の調停活動に参加し、力を発揮してもらえばよい。就職難の若手弁護士に国際法を教え、国連など国際組織での活躍を後押しする方法もある」と政治や法律の分野でも貢献が可能だ。
また、人道援助の分野で活動する日本の非政府組織(NGO)は少なくないが、メンバーが団体内や業界内で固定化する傾向にあるという。「政府がNGOのリーダーらを国連に推薦したり、外務省で雇用したりすれば、人材育成にもつながる」と提案する。

アジア平和貢献センター理事長で元早稲田大総長の西原春夫氏は「日本がかつて戦争を起こした反省に立てば、真の平和のために米国や中国などの軍事大国を戒め、各地の紛争を仲裁する世界の調整役になるべきだ」と語る。ガルトゥング氏の祖国ノルウェーがパレスチナ紛争で調整役を務め、九三年のオスロ合意を実現させた実例を挙げ、「日本も同じ役割を担える。貧困国支援などの実績などを日本は世界で評価されており、調整役として受け入れられるはずだ」と語る。
紛争地域の復興に、若者を派遣することも提案する。「文化財の補修などに携わり、戦争の傷痕を直しつつ、戦争がもたらす惨状、平和の意義を現地で学べる。新たな平和の担い手を育てることにもなる」

加藤哲郎・一橋大名誉教授(政治学)が説く積極的平和は「核なき世界の実現」だ。「全ての国が核兵器を捨てない限り、真の平和は訪れない。核兵器につながる原発ゼロを含め、核に頼らない日本の将来像を考え、世界に働き掛けるべきだ」と強調した。

<デスクメモ> 湾岸戦争でバグダッドが空爆される様子をテレビで見たことをよく覚えている。映画のようで、どこか感覚がまひしていくように感じた。一九九〇年代には、旧ユーゴスラビア紛争も起きた。八四年のサラエボ冬季五輪が大成功だったのに。戦争がなくならない。まず、目指すべきは「消極的平和」か。 (文)


その問いは 一神教で野蛮人 か 一神教で文明人 か 多神教で野蛮人 の間でのみ成立する。
多神教で文明人へは その問いが成立できない。
だって 言うまでも無い だから。

争う事そのものを忌避するが普通で自然で当然 と肌感覚で何も考えずにしているだけなので
其れが平和か否かを問う意味すら理解できないだろう。

そういう状態を「馬鹿かw」と嘲笑したりするのは簡単だが それこそ愚者の浅慮である。

多神教で文明人の叡智とは如何なるモノなのか?
人間社会の圧倒的大多数を構成する馬鹿で豚に過ぎない一般民衆であろうとも発揮できる叡智
とは如何なるモノなのか?
自分の頭が悪いはずはない とか何の根拠も無く無知蒙昧に信じて疑わない愚者ほど
目の前に存在する凄みの本質 という見たくも無い現実が見えない。




https://twitter.com/namarakowakatta/status/425652988049227778
自分が正しい、または見識があると言いたいだけの人がいる。気に入らないこととにかく目の前から消えろと言う人がいる。みんながそう言ってるならそうなんだろうと思考停止する人がいる。彼らは議論には応じない。

http://blog.livedoor.jp/willreplica/archives/1814680.html
俺が求めるのは人材で有って 信者 では無いからね。

宗教右翼カルトの信者にして下僕のネトウヨは
分かった気になって 安直にテロリストと化す。
其処に薬漬けまで合法的に用意できてしまえば 合法的にテロが可能となる。
笑いが止まらないんだろうなぁ。
もっとも当人達は 聖戦を命懸けで戦っている精神状態なんだろうけどね。

俺達からしたら キチガイ沙汰 の一言で返答しちゃうしか無いんだけどさ。

世の中は分からない事ばっかりで 上手くいかない事ばっかりで
色々な事を学び 色々な事を知り
其の身を以て酸いも甘いも味わって ようやく僅かにだけ“分かる”となる。

色々と学んでから 人生も機微を知ってから 政治の先を見る第一歩も また見えてくる、と思う


「宗教右翼カルト」って言葉。というか思想兵器。
この言葉はチートコードそのものだし
それで 序盤でズルしてヒノカグツチ作ってヒャッハーする のは一緒だと思います。

地球温暖化のように1割の嘘で言いくるめては付け込む というのが詐欺師なんだし。

分かった気になるか否かは そう単純な話だけでは無いかもしれない。
難しく考えても 簡単に考えても 所詮は 人がする事 だからね。


「ドラえもん」予習復習ブログ コミックス第8巻「くろうみそ」
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/135767/121235/8309911
のび太のパパは けっこう熱血漢である。
今回も、机に座ってダラダラと時間をつぶすばかりで勉強をしないのび太へ対し、熱い説教をする。
このパパの説教シーンは「ドラえもん」名場面の一つに挙げられる。

まず、
これから長い説教が始まることを覚悟するのび太は
おそるおそる
「あの…。なるべく短くすませましょう。
 お説教なんておもしろいもんじゃないからね。
 長ながやると、このマンガの人気がおちる。」
するとパパは ハッキリと切り返す。
「いいや二ページほどやる!!」
自分達がマンガの中の住人であることを意識させた 遊びのセリフ で笑いを誘う。

そして、その後のパパの説教シーン。
コマ割りを均等にして、1ページを12分割した大きさで統一。
1コマずつ背景の色を互い違いにしながら、
パパの上半身とセリフだけで長々した説教シーンを描く。
「ドラえもん」の他のエピソードには見られない とても印象が深い演出である。



http://livedoor.blogimg.jp/robosoku/imgs/f/f/ffe0a68d.jpg

マンガ的には「二ページほど」の このお説教、時間的には どれくらいだったのだろうか?
さっと読んでいる分には十数秒だけど、
もしかしたらマンガに描かれているのはダイジェスト版で、
実際は もっといろんな話をしていたのかも知れないと思うのである。

というのは、説教シーンでパパは2回「シュボ」とタバコに火を点けているが、
よく見ると、説教を始める前は空だった灰皿が、説教が終わった後はタバコが山盛りで、
しかも2本ほど、のり切らなくて床にこぼれているのだ。
相当に長い時間だったに違いない。
もっとも、パパが説教に夢中になるあまり、
無意識に1本ずつタバコを吸っては消し吸っては消ししていたので、時間的には大したことはない、
という可能性も考えられるけれど。

そして 色々と苦労をしながら
のび太は頑張って「くじけないぞ!!」と歯を食いしばるが、
すかさず次のコマでは「くじけるぞ。」と挫折(笑)。

とは言いつつ なんとか家に帰り着き、無事に おやつ へ ありついた のであった。
「くろうしてたべるおやつは、一だんとおいしい」
ことに異論はないものの、
のび太は
「しかし……、ぼくはぎもんを感じるな。
 たかがおやつをたべるために、こんなにくろうするなんて、わりがあわないや。」
と、パパの説教を無効にしてしまう。

そうなのだ。パパが紹介した先人たちの名言は、
おやつを食べるのに苦労したい とか そんなレベルの話をしているのではない

いちいちやることなすこと こんなに手間がかかっていては、
人生に対してドンとぶつかる前に、めんどくささのあまり体力がなくなる。

とはいえ のび太の感想はパパをがっかりさせる。
それでもドラえもんの道具の「くろうみそ」の効能の無意味さを のび太は的確に言い当てている。

だが、のび太の発言にあきれたパパは、自ら「くろうみそ」を大量に食し、
其の結果は 苦労のスケールをのび太と同じところまで落としてしまう をしてしまう。

直後に ライターに火がつかなくなりタバコが吸えなくなってしまう のだが、
「男が、一ど思いたったことをあきらめられるか!!」
と、原始人のように木をこすりあわせて火を起こそうとする。
もはや意地以外の何ものでもない。

そんなパパを横で見つめるのび太とドラえもん「人生はきびしいなあ。」と呟いている
が表情は淡々としており、
今回のパパの行動が 人生にドンとぶつかっていくこと と何の関係もないことを その場で感じている。

「くろうみそ」の効能にふりまわされるのび太とパパに焦点を当てた物語なので、
序盤の感動はバッサリ斬られ、最後は教訓も説教くささもない。
そんなドラえもんというマンガらしい
見事に 面白エピソードのひとつ としてだけで この話は終わるのであった。


人生が 教訓や説教だけで面白い訳が無いw
人の道は星の数よりも多く 人の幸せもまた無限大に多様だ。
如何なる経験が 其の人にとっての価値となるか は 其の人が決めて行くしかない。
大体そんな感じ としか言いようが無いけど、


『はじめの一歩』第42巻
努力した者が全て報われるとは限らん。
しかし、成功した者は皆すべからく努力しておる。
ここにおる者達の全てがキサマの努力を目撃し確認しておる。
自信を持ってリングに上がれ。
最後は、キサマの積み上げたものが、拳に宿る。

世界一になれ とは言わないからさw
それなりにボチボチに色々と頑張って経験して行く事が 其の人の中に宿る とは思うよ。




posted by 誠 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | (゚∀゚) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック